きぼう屋

生きているから生きている

高校野球

2006年08月17日 | 「生きる」こと
空くんは脳みその8割が野球のことで占められているのだが
この季節は時間の8割も野球のことで占められる。
そう
甲子園大会があるからだ。
朝のスポーツニュースからはじまり
甲子園大会をすべて見て
庭で野球をし
ナイターを見る。
さらにインターネットですべての勝敗をチェックし
夜のニュースでスポーツを見る。

でも結構勉強になっていたりする。
完封とか
好投とか
借金とか
勝率とか
読める漢字が増えてきているのだ。

さて
空くんは高校野球が一試合終わるたびにわたしの執務室に電話をくれる。
結果を教えてくれるのだ。

ブーブー
「もしもし」
「パパ」
「うん」
「いま第一試合おわってな」
「うん」
「こまこいこまこまい が勝ったよ!」
「え?」
「こまこいこまこまい が・・・」
「え?なんだって?」
「えーと・・・とまこいこまこまい??」
「もしかして駒大苫小牧のこと?」
「そうそう とまこいこまこだい」

とまあこんな感じなのです。

今晩には、すでに
「こまこい」という独自の略称にて呼び始めております。


それにしても今日の第二試合
帝京と智弁和歌山の一戦
準々決勝が最もおもろいってのは定説でもあるけど
これはすごすぎましたなあ。
ちょうど最後のすんごい場面を見ることが出来ましたよ。
9回表裏の大逆転のあとの大逆転
あんなんあるんやねえ。

8.15発題の応答

2006年08月17日 | 平和のこと
8.15集会を終えて、時間のある仲間たちは交流会をもちました。
そこで面白い応答をいただきましたので、ぜひ紹介したいと思います。

その前に
交流会の会場は彌光庵でした。
お近くにお寄りの際にはぜひ。

死者を「覚える」という表現が新鮮だったという応答を頂きました。
つかさず牧師や神学部出身の人が
「教会用語やねん」
とツッこんでくれました。
さらに
「覚える」ということの意味も丁寧に語ってくれました。

私の出番はなし・・・
こういうのがいいのです。

「覚える」
それはあえてしっかりと「想起」することなのだ・・・

これは
ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「荒野の40年」と呼ばれる有名な演説の中心の言葉でもありました。

死者を「弔う」というときには、どういう内容が含まれているのでしょう。
今後お勉強します。

死者を覚える特権のある人は、生前にそのすべてを受け入れ、愛するという挑戦した者だ!
ということに対して
あるごついお父さんが正直に語ってくれました。
「すべてを受け入れるっていうことはできない!家族でもできない!」
まさに我々の限界なのです。

でも
「できない」
と語ることができるということは
挑戦し続けているということであり
この挑戦即人生であり
それは即「覚える」ことなのでありましょう。

さらにそのお父さん
ごつい身体のみならず
やさしい瞳をもっておられるのですが
わたしが
「愛し愛される」という表現を用いたことに応答してくださいました。

「愛は見返りは求めない。愛されるということは求めない。苦しくしんどい愛するということをひたすら行うのみ」。

深い!!!

でも、愛する者は
愛されもする・・・

愛される者は
愛することができる・・・

ワケなく
そういうことになってはいないかなあと
やはり思うんだよなあ。

こんなわたし
やっぱり
よわい?

わたし
愛されないと
生きていけない・・・


送り火

2006年08月17日 | ホームレス支援のこと
昨晩は送り火
教会からは大文字がよく見える。
だから教会横の鴨川河原にはたくさんの人がやってくる。

そこで
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットは活動費をすこしばかり稼ぐのだ。
フランクフルトにおにぎり、ビールにジュースを教会前で売ってしまうのだ。

昨晩は完売!
炊き出し二回分の利益を得ることが出来た。感謝感謝。


とっても面白いのだ。楽しいのだ。
みんなで「いかがですかー」って叫んで、買ってくれると人と交わるのが。

理由は簡単なのだ。

自分の利益のためではなくて、ホームレスの仲間のためにがんばることができる!
という事実があまりにも嬉しくさせてくれるのだ。

荒神口通の店先ではそれぞれ何かしら売られているけれども
こんなに、よってたかって明るく楽しくできる出店は他にないのだ。

もちろんみんなボランティア。
中学一年生からおばあちゃんまで
とてもいい顔して店先に立ってくれている。
表現できないほどいい顔しているのだ。
生き生きしているし、目が光っているし、通り行く人たちの顔をしっかり見つめているし、声に張りがあるし・・・

なんといっても
あの
他者のために生きる者にあられてくる特有のやわらかく美しくやさしい表情たちが
昨晩もたくさんの人たちを
それこそ
魅了していたのだ。

だから完売なのだ。
みんな何か伝わってきたのだ。
あたたかい気持ちになって寄り添いネットのパンフや新聞記事も持っていってくれたのだ。

そればかりではない。
ホームレスの仲間たちが店先にやってきて、その横に並ぶ縁台に腰掛けて、みんなと交わりを持つことも出来たのだ。
こういうときだから客人も多く、僕ら夫婦があちこち行ってしまうものだから
ウチの赤ん坊を抱っこしてくれていたりするのだ。
みんないい顔だよ。
「ありがとう」っていってもらって
本当にがんばれるようになるのだ。
こちらこそありがとう

寄り添いネットのこういう活動の企画と準備など
全部みんなでよってたかって決めていく。
正直
ボクの出番はないのだ。

これなのだ。
ボランティアというものは。
代表に引っ張られなくていいのだ。
代表の意見を通す必要もないのだ。
みんなでやるのだ。

むしろ代表はここでがんばらなくてもいいのだ。
だから違うところでがんばることができるのだ。

ボランティアの仲間を丁寧に見つめること。ケアすること。
全体を丁寧に見つめること。
おまわりさんとかとうまいこと話をすること。
何かあったら責任を全部担うという心構えをつくること。


これって教会でいうと我がバプテストの精神ではないか・・・
これって実は
他者のために生きるという者が集まると
おのずとこうなるしかないというかたちというだけのことではないか・・・

「バプテスト」について議論するより・・・
今からすぐ他者のために生きれば・・・
おのずとバプテストになるのだよ・・・

本気で思うのだが・・・

「歴史」って、対話がないと見えないのだなあ。
今を生きる他者との対話あって、歴史との対話もあるわけで・・・

まあともかく
とっても嬉しい送り火の日のボランティアなのでした・・・