きぼう屋

生きているから生きている

汝の敵を愛せよ。同質と異質

2011年11月30日 | 「生きる」こと
この間の大きな出来事を通して感じたことを
ツイッターでこんな風につぶやいてみました。

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敵を想定しその敵にやられる!という恐怖と、
そいつのせいで不幸!という感情的原因と、
そいつをやっつける!という感情的目的でまとまることを求めること。
同時にそれは結局自分に対する評価ゆえにまとまるのでなく、
敵の敵は味方ということでまとまるということになっていること。

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すると
ツイッターで平川克美さんも
同じ出来事から同じテーマを覚えたらしく
連続してつぶやかれました。

そのとおりだなあ、と思いました。
ここに残しておきたいと思いました。

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敵対者を発見し、現状の停滞はすべてこの敵対者に原因するというロジックは、
一見わかり易く、それゆえ政治的にしばしば採用される。

このロジックの欠点は、
最初は外敵を打破するという手法で集められた同質集団が、
次にはその集団内部に敵を発見しなくてはならなくなるということです。
そうやって同質集団は縮小していく。
歴史上の同一党派に起きた粛清はそのことを示しています。

このようにして、最期はごく少数の独裁的な権力と多数の面従腹背者しか残らなくなる。
これを避けるためには、最初のロジックを見直す必要がある。
それは、敵対者のなかに、自分との同質性を発見するということ。

政治的成熟とは、
敵対者のなかに、自分と同じものを見出して、
なんだ同じじゃないかというかたちで協同するところに始まります。
そうすることによって、はじめて違いが何であったのかということが冷静に判断することができる。

同じものなど何一つないという方もおられるかもしれませんが、
それこそ幼児的な観念の特徴だろうと思います。
人間は同じところから出発して、成長するに従ってそれぞれ個性的にばらけていく。
成長期とは異質性を発見していくプロセスだからです。

しかし、成熟をむかえ、老いに向かって、
最期は皆同じようになって、誰にでも平等な死に至る。
ばらけていたものが、再び同質性へ向かって移行してゆく。
そのばらける力と、まとまる力が激しく拮抗することをわたしは「移行期的混乱」と呼びました。

人口が減少し、超高齢化して成熟国家となった日本にもとめられているのは、
個々の違いを際立たせる政治ではなく、
同じものを発見しネットワークしてゆくような成熟した政治だろうと思います。
地域共同体こそ、そのネットワークの基盤だとわたしは考えています。

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同質性の発見と違いの発見が同時的に起こるわけです。

ただ私の経験では、
個々の違いが当然のこととして互いに受容されている!
ということが起こっていることが条件でそれが成熟であるという言い方もしたいと思いました。

違いに耐えられない場合に、
違う者を敵とすることと同じくらい、
違いを強調し、同じことを非難するということも起こるので、
この後者も卒業することが条件。だとも思ったのでした。

全く違う者どうしという大前提のなかで
同じっぽいものを見出していく。

このあたりが意識しなくても身体にて行われたらとてもおもしろい。

と思うのでした。