きぼう屋

生きているから生きている

クリスマスを味わう!「生」の変革を受ける救い!

2015年12月24日 | 「生きる」こと
今年もクリスマスが来る。
キリストの降誕を味わうことがゆるされる。

キリストは生まれた。
しかし、その「生」の根拠はない。

マリアは男性と関係を持たぬまま身ごもった。
それは、キリストの「生」には我々の知る根拠がない!ことを意味する。

キリストの誕生において、
まず明らかにされるべきは、
キリストの「生」には我々の知る「生」の根拠が通用しないということだ。

「生」の根拠がない!ということは、「生」は因果関係では語られないということだ。
過去のある二人の関係があったから「生」がある!ことを、クリスマスの恵みは超えており、その因果関係を無意味なもとさえする。

それは、時間軸の出来事を因果や目的手段で理解する我々に永遠が放り込まれるという恵みである。

そこでは「生」が目的や達成感で意味付けされるのではなく、永遠に激突され今ここにある!ことで意味付けされることが起こされる。

キリストの誕生は「生」そのものを変革する。

キリストの「生」により我々の「生」は最底辺からひっくり返される。

「生」は過去、現在、未来を生きるではなく、端的に永遠を生きるものとなる。

「生」はしたがって今ここで端的に異質なものと接触することで、その異質なものにより「生」とされる。
そこでは将来の目標は無意味なものとされる。
ただただ端的に異質なものに激突され、「生」が生まれることに集約される。
キリストの誕生は我々の「生」を異質との接触たる「生」とする。
我々の「生」は、接触した異質なものを受けることでのみ「生」となり、そのことで不安定を獲得し、不安を得、それが解消することなく、次の異質なものとの接触を受け、さらに「生」が「生」とされるなかで「生」となる。

よってキリストの誕生によって我々の「生」は、
将来の目標に向かう時間を歩むのではなく、
流れ来る時間が異質との接触における受難、受苦として端的に忍耐であるところの時間を歩む。

これはどんなにか我々のすべてを超えた救いであろうか!!!

過去が破壊された、破滅した者たちにとって、
将来が見えないどころか、将来さえ破壊されている者たちにとって、

そういう過去、将来が、キリストの誕生による「生」の変革で無意味とされるところから始まる今ここの永遠の「生」=異質が私に入り込むことの繰り返しによる「生」、その異質の中心こそがキリストである「生」、そしてそれこそ、時間が受苦として、キリストの十字架の受苦として私の「生」に入り込むという「生」こそ!!!!!!!!!!!

クリスマスの恵みであり救いなのだ!!

このクリスマスを味わう!ことがゆるされる!