2009年に広島で開催された宣教シンポジウム資料として書いたものです。
311以後にもう一度読みたいと思いました。
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日本バプテスト連盟中長期計画に向けての提言
ホームレス支援特別委員会
委員長(当時) 大谷心基(日本バプテスト京都教会牧師)
1) はじめに
現代の世界システムとなったグローバリゼーションの只中にある教会は、キリストに従うゆえにどういう存在としていかなる行為をすべきなのか、が、今回のシンポジウムの大きなテーマと理解する。そしてそれが日本バプテスト連盟中長期計画の中で具体化されるものと期待する。
当委員会は、一貫して掲げる委員会理念をグローバリゼーションの世界の只中で噛み砕くかたちで今回の提言をしたい。
そこではじめに、連盟定期総会資料に常に記している当委員会理念を確認したく願う。
<理念>
* マタイ25章31節~46節の御言葉に立つ。「主の兄弟である最も小さい者のひとり」としてのホームレスに関わることは、信仰の、そして福音宣教の課題であると考える。
* マタイ4章4節の御言葉に立つ。「ホームレス問題」は、「ホーム」ということばで表現される「関係性」「帰るべきところ」「いのちの基盤」「家族など愛し支えあう者たちのいるところ」の喪失がその本質であると考える。ホームレス問題は単なる「ハウスレス」問題ではない。「ハウス」(家)に代表される「衣・食・住」という物質的な必要を満たすとともに、教会、家族、地域、学校、職場における関係、そしてそれらの土台である神との関係を回復することこそが、課題である。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。ホームレスのひとりひとりを含め、わたしたちのすべてが、神の口からひとりひとりに対して与えられる赦しと愛の宣言のもとで兄弟姉妹であり、家族であると理解する。
2) グローバリゼーション(余剰、搾取、格差、貧困、戦争)
グローバリゼーションはホームレスを産み出す。システム上これは必然である。
現代の多くの思想家が言うように、グローバリゼーションの正体は余剰分の確保を競うことである。企業は世界市場の競争で勝つため資本を増加せねばならない。したがって企業は資本を拡大することに躍起になる。すると利益は資本にまわされ、労働者確保にはまわされない。また合併や買収により資本を増やす。そこでは労働者が多数解雇される。
資本は社会に還元されない端的な余剰分である。今世界には余剰がある。しかしその余剰を大きくしなければ経済競争に敗れるシステムとなぜかなってしまった。そして資本という余剰金がさらに増え、市場にまわる金が減る。
さらに余剰分増加のための搾取が起こる。余りのないところがさらに搾取される。ここで大きな格差が生まれ、貧困が拡大する。
そしてホームレスが産み出される。
実際に日本においても、このシステムを導入した小泉構造改革以降、急激にホームレスが増加した。
したがって当委員会にとって、グローバリゼーションは緊急に克服すべき世界システムである。
敬虔なカトリック信者の思想家であるジャン・リュック・ナンシーは、このようなシステムはすでに経済ではなく、あえて呼ぶなら「超」経済であり、それは経済が経済を超えて正体不明のものになったということであると分析する。この論は後の提言にも結びつくので紹介する。
さらにグローバリゼーションは戦争を生み、人を殺す。貧困を受ける者は貧困からの解放のため戦争ですべてが変わることを望み、また資本増大を目指す者は搾取の手段として戦争を歓迎する。
よって「殺すな」という戒めに立つキリスト教会にとって、またその戒めを「平和に関する信仰的宣言」として告白する当連盟諸教会・伝道所にとって、戦争を必然的に生むグローバリゼーションの克服は緊急課題である。
3) 格差、貧困と個々人
貧困層が起こり、格差社会となった現代社会は、極論ではなく勝ち組と負け組みとで構成されるようになった。そこでは勝つための競争が起こる。さらには勝ち組となるための教育も始まった(京都市では高校の授業でマクドナルドの経営戦略を学ぶ)。
競争は同時に分断を生む。ある個人が勝ち組となることは同時に他の個人を負け組とすることである。
現代における貧困は、分断された個々人の貧困である。貧困に苦しむ者は、同時に分断され孤立していることに苦しむ。競争において分断され貧困となった時、人はその苦しみを共有する関係にある他者をも失っている。つまり「共に苦しむ」仲間がいない。さらには貧困となった原因を自分に見出し自己否定することで(自己責任論)、自分との関係をも失っていく。したがって当委員会は、ホームレスを「ホーム(関係性)」の「レス(喪失)」と認識する。貧困の大きなテーマのひとつは、孤立からの解放であり、関係性の回復、ホームの形成である。そして分断とのたたかいであり、人間の恢復である。
勝ち組は苦しむことがないかと問うならば、私は勝ち組こそ決定的な苦しみを内包していると言わざるを得ない。まずは勝ち抜いた人も孤立している。「共に喜ぶ」仲間がいない(勝つことが喜びであるとは本来言うことができないが)。また競争を勝ち抜いたということは、他者を踏みつけ、他者から搾取したことであるが、それを自覚しないよう調整しつつ生きることは苦しみではなかろうか。仮にそれが無意識であったとしても。人はこういう場面でさばかれるのを待っている。そしてさばかれるゆえに存在を赦され、次こそは他者を踏みつけるのでも搾取するのでもなく、別の道を歩むことを希む。しかしそれでも同じ道を繰り返すときにはもう一度さばかれる。これが信仰である。
勝ち組、負け組という枠組みとは関係なく、現代の格差・貧困社会の中での大きな課題は「個人」である。分断された個人とは他者と出会うことのない個人である。そこで個人はおのずと自らを世界の大きさまで肥大化することになる。先ほどナンシーの、現在の経済は「超」経済という正体不明のものとなった、という論を紹介したが、個人もまた「超」個人となり、いまや正体不明のものとなった。あるいは「超」人間と言えるかもしれない。すなわち、今われわれは人間であることを止めて、人間を超えようとしている。これこそ、自分自身の、あるいは個人の偶像化、つまり人間の神化ではなかろうか。そしてそれは個人が世界になるはずのないところで、世界となろうとする不思議な挑戦である。しかしその挑戦に生きる者は自身が世界全体となる幻想を抱く。そこではアイデンティティが肥大化する。その現象は、個人主義と信じつつ国家やなんらかの力と自身を一体化させるかたちで現われる。平たく言うと長いものに巻かれることが個人主義を信じるゆえに起こる。個は他者との出会いからのみ起こされるが、他者との分断からは起こされ得ない。他者と共に生きる中で個人は個人とされるが、分断される中では個人は「超」人間という肥大化した幻想体となる。そしてその幻想体はそれぞれの時代地域の中で最も大きな力と必ず結びつく。つまりそれにより自身が最も肥大化できるからだ。そしてこの個人という名の「超」人間が「超」経済というグローバリゼーションを産み出した。
4) 今日キリスト教会とは何者か
日本バプテスト連盟は教会教育において「生の全領域」という範囲を大切にしてきた。この徹底が今後さらに必要と考える。教会と私生活、福音と社会、信仰と行為、精神と身体というような二元論は、生の全領域が語られる場では居場所を持たない。我々は二元論から解放される。
その中で個人と全体という二元論は克服されねばならないことを前述した。個人は容易に全体となり、全体は同じく個人となる。つまりこのふたつは異なるどころか同質である。ならば我々は今何を問うべきか。それは個人だろうと全体だろうと、他者と共にあるか、他者と分断されているか、である。
個のアイデンティティが確立して初めて他者と出会うことができるというのは嘘である。我々は他者と出会うことで個が確立する。乳児は親や兄弟と出会うことから個を確立する。キリスト者は他者なるキリストと出会うことから個を確立する。
しかし個のアイデンティティ確立を最初の作業と信じるケースは多い。しかしそこから解放されねばならない。繰り返すが他者と出会うことのない個のアイデンティティは永遠に肥大化する。これは究極の偶像礼拝である。さらにその個人は余剰分を確保することで肥大化する。キリスト者がその状態になるときには次の現象が起こる。それは自身の時間的余剰ができて初めて礼拝出席と奉仕をなし、金銭的余剰ができて初めて献金をするということである。ここで一番目に余剰分、二番目にキリストという順序が起こる。すると第一の他者であるキリストとの出会いが余剰分で行われるゆえに、同時代に生きる他者との出会いも余剰分で行う。隣人愛は余剰分があるときのみのテーマとなる。これが偶像礼拝の引き起こす現象である。
そして私たちは今日の教会にこの要素が程度は異なれへばり付くことを否定できない。教会が個人の余剰分あっての教会となっている部分は大きい。しかしそれはキリスト教会ではなくグローバリゼーションに生きることであり、同時にキリストではなく余剰分に従うことであり、さらには搾取と格差、貧困と戦争に協力することとなる。
我々は今覚悟を決めてキリストへ従う方向へ向き直さねばならない。それは各個の確立ではなく、第一の他者であるキリストと出会うゆえの、同時代の具体的他者との出会いによる双方の確立という方向である。
それをキリスト教会は「共に生きる」という言葉で大切にしている。この徹底も欠かせない。共に生きることは単純なイメージではなく具体的な行為である。当委員会が理念とするマタイ25章から学ぶならば、それは、飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる、という具体的な行為である。
我々諸教会・伝道所は具体的な宣教施策として以上の事柄を持つだろうか。また持たなくともそのような者があらわれたときに我々はどうするか。教会には余剰分がないためにかかわることができないという論を正当化するだろうか。もしそうならば教会は変えられねばならない。そのような他者との出会いからこそ教会は教会となるという事実を生きねばならない。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの言葉は事実である。この件に関してはこの提言の最後に具体的な提案をしたく願う。
このようなかかわりが「共に生きる」ということである。そしてここから各個が確立する。
しかしかかわるから各個が確立するということでもない。かかわるなかで我々が知ることになり、知らされるしかない事柄があるから各個が確立する。それは主イエス・キリストの十字架である。十字架はどこに立ち、キリストはどこで釘打たれているのか。それは他者とかかわりつつも、限界ゆえに他者とかかわりきれない自分自身を見せ付けられ、それにより他者との裂け目を知るに至るところではないか。そこで神は他者を愛しきれない我々をさばく。そのさばきは十字架のキリストにおいてなされている。我々は自らにおこるさばきを十字架のキリストの傷と死により知るに至る。その十字架が、我々の限界と、私と他者との裂け目の只中に立ち、なお我々を他者へと向かわせる。なお我々を愛することへと向かわせる。
我々は他者との出会いの中でキリストの十字架の前に立ち、そこでさばきと赦しの奇跡を受けて、初めて我々自身となる。各個はそこではじめて各個となり、教会はそこではじめて教会となる。
今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架の前に立つ群れのことである。十字架を知るゆえに神にさばかれることを知る群れである。十字架により存在が赦され、真の恢復を頂き、そういう者たちとして他者と出会い続け、他者を愛し続ける群れである。
今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架を放り投げる群れではない。さばきを認識しない群れではない。さばきのない赦しだけを受ける群れではない。十字架のない恵みに生きる群れではない。十字架の在り処に出会うことがない群れではない。すなわち、他者と出会うことを拒否する群れではない。引きこもる群れではない。余剰分があってはじめて教会を考える群れではない。
したがって私は、前回の宣教会議で提案された「全被造物と共なる礼拝」という標語を軸に展開された新たな連盟宣教理念は、大切なテーマを見出しつつも最も重要な事柄、つまり全被造物と出会うことがゆるされる根源である主イエス・キリストの十字架の出来事が中心からはずれていることを指摘せねばならない。それは、十字架のキリストが中心とならない新たな理念もまた、グローバリゼーションに加担し、戦争に協力する理念となる恐れがあることの指摘でもある。また「異なる者が異なるままで」というフレーズも同様である。異なる者が異なるままである根源であるキリストの十字架による異質な者同志の出会いを、具体的な計画として立てることが今日の教会に求められている。無論深く読み込めば前回の理念にそこまでのことが述べられていることは承知しつつ、しかし十字架が中心に来る述べ方に変えることの意味は計り知れない。
最後に当委員会から具体的提案をしたい
当委員会は、各個教会・伝道所がキリストの出来事に突き動かされて、ホームレス生活者の支援を行うことを目的としている。それは教会の交わりが、例えばマタイ25章のみ言葉に後押しされて、本当にホームレス生活者と出会い、彼(女)らが今の状態から救済されるよう行為することである。
その際、教会は救済に必要な知識を持つ必要がある。生活保護法などの法律や、行政や民間等のさまざまな社会的資源の存在とそれらとの協力方法などを教会が知ることは、これからますます広がる貧困社会の中で、欠かせないことである。まずはそのような研修を当委員会単独ではなく、連盟全体として開催する必要性を訴える。
さらに連盟諸教会・伝道所は各都道府県にまたがるため、教会・伝道所が各地域の貧困社会における救済センターを目指すことを提案したい。その際、連盟に加盟する教会の中には、教会が、あるいは教会から生まれた民間団体がすでに優れた救済プログラムを有しているところもあるため、ネットワークを結び、相談と対応ができるシステムづくりを提案したい。
さらには、ホームレス生活者や、貧困生活者とかかわるときに発生する金銭面を支援するシステムも、連盟全体として整備することを提案する。
つまり、ここでも二元論を克服し、単に精神面でかかわるのではなく、物理面も含めて他者とかかわることのできる宣教体制づくりが必要であると考える。
ここが現代のグローバリゼーションと戦争に加担するか、キリストに加担するかの別れ道であるため、しつこく繰り返すが、余剰でつくるのではなく、キリストのために、他者のために、献げてつくることを提案する。
以上
311以後にもう一度読みたいと思いました。
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日本バプテスト連盟中長期計画に向けての提言
ホームレス支援特別委員会
委員長(当時) 大谷心基(日本バプテスト京都教会牧師)
1) はじめに
現代の世界システムとなったグローバリゼーションの只中にある教会は、キリストに従うゆえにどういう存在としていかなる行為をすべきなのか、が、今回のシンポジウムの大きなテーマと理解する。そしてそれが日本バプテスト連盟中長期計画の中で具体化されるものと期待する。
当委員会は、一貫して掲げる委員会理念をグローバリゼーションの世界の只中で噛み砕くかたちで今回の提言をしたい。
そこではじめに、連盟定期総会資料に常に記している当委員会理念を確認したく願う。
<理念>
* マタイ25章31節~46節の御言葉に立つ。「主の兄弟である最も小さい者のひとり」としてのホームレスに関わることは、信仰の、そして福音宣教の課題であると考える。
* マタイ4章4節の御言葉に立つ。「ホームレス問題」は、「ホーム」ということばで表現される「関係性」「帰るべきところ」「いのちの基盤」「家族など愛し支えあう者たちのいるところ」の喪失がその本質であると考える。ホームレス問題は単なる「ハウスレス」問題ではない。「ハウス」(家)に代表される「衣・食・住」という物質的な必要を満たすとともに、教会、家族、地域、学校、職場における関係、そしてそれらの土台である神との関係を回復することこそが、課題である。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。ホームレスのひとりひとりを含め、わたしたちのすべてが、神の口からひとりひとりに対して与えられる赦しと愛の宣言のもとで兄弟姉妹であり、家族であると理解する。
2) グローバリゼーション(余剰、搾取、格差、貧困、戦争)
グローバリゼーションはホームレスを産み出す。システム上これは必然である。
現代の多くの思想家が言うように、グローバリゼーションの正体は余剰分の確保を競うことである。企業は世界市場の競争で勝つため資本を増加せねばならない。したがって企業は資本を拡大することに躍起になる。すると利益は資本にまわされ、労働者確保にはまわされない。また合併や買収により資本を増やす。そこでは労働者が多数解雇される。
資本は社会に還元されない端的な余剰分である。今世界には余剰がある。しかしその余剰を大きくしなければ経済競争に敗れるシステムとなぜかなってしまった。そして資本という余剰金がさらに増え、市場にまわる金が減る。
さらに余剰分増加のための搾取が起こる。余りのないところがさらに搾取される。ここで大きな格差が生まれ、貧困が拡大する。
そしてホームレスが産み出される。
実際に日本においても、このシステムを導入した小泉構造改革以降、急激にホームレスが増加した。
したがって当委員会にとって、グローバリゼーションは緊急に克服すべき世界システムである。
敬虔なカトリック信者の思想家であるジャン・リュック・ナンシーは、このようなシステムはすでに経済ではなく、あえて呼ぶなら「超」経済であり、それは経済が経済を超えて正体不明のものになったということであると分析する。この論は後の提言にも結びつくので紹介する。
さらにグローバリゼーションは戦争を生み、人を殺す。貧困を受ける者は貧困からの解放のため戦争ですべてが変わることを望み、また資本増大を目指す者は搾取の手段として戦争を歓迎する。
よって「殺すな」という戒めに立つキリスト教会にとって、またその戒めを「平和に関する信仰的宣言」として告白する当連盟諸教会・伝道所にとって、戦争を必然的に生むグローバリゼーションの克服は緊急課題である。
3) 格差、貧困と個々人
貧困層が起こり、格差社会となった現代社会は、極論ではなく勝ち組と負け組みとで構成されるようになった。そこでは勝つための競争が起こる。さらには勝ち組となるための教育も始まった(京都市では高校の授業でマクドナルドの経営戦略を学ぶ)。
競争は同時に分断を生む。ある個人が勝ち組となることは同時に他の個人を負け組とすることである。
現代における貧困は、分断された個々人の貧困である。貧困に苦しむ者は、同時に分断され孤立していることに苦しむ。競争において分断され貧困となった時、人はその苦しみを共有する関係にある他者をも失っている。つまり「共に苦しむ」仲間がいない。さらには貧困となった原因を自分に見出し自己否定することで(自己責任論)、自分との関係をも失っていく。したがって当委員会は、ホームレスを「ホーム(関係性)」の「レス(喪失)」と認識する。貧困の大きなテーマのひとつは、孤立からの解放であり、関係性の回復、ホームの形成である。そして分断とのたたかいであり、人間の恢復である。
勝ち組は苦しむことがないかと問うならば、私は勝ち組こそ決定的な苦しみを内包していると言わざるを得ない。まずは勝ち抜いた人も孤立している。「共に喜ぶ」仲間がいない(勝つことが喜びであるとは本来言うことができないが)。また競争を勝ち抜いたということは、他者を踏みつけ、他者から搾取したことであるが、それを自覚しないよう調整しつつ生きることは苦しみではなかろうか。仮にそれが無意識であったとしても。人はこういう場面でさばかれるのを待っている。そしてさばかれるゆえに存在を赦され、次こそは他者を踏みつけるのでも搾取するのでもなく、別の道を歩むことを希む。しかしそれでも同じ道を繰り返すときにはもう一度さばかれる。これが信仰である。
勝ち組、負け組という枠組みとは関係なく、現代の格差・貧困社会の中での大きな課題は「個人」である。分断された個人とは他者と出会うことのない個人である。そこで個人はおのずと自らを世界の大きさまで肥大化することになる。先ほどナンシーの、現在の経済は「超」経済という正体不明のものとなった、という論を紹介したが、個人もまた「超」個人となり、いまや正体不明のものとなった。あるいは「超」人間と言えるかもしれない。すなわち、今われわれは人間であることを止めて、人間を超えようとしている。これこそ、自分自身の、あるいは個人の偶像化、つまり人間の神化ではなかろうか。そしてそれは個人が世界になるはずのないところで、世界となろうとする不思議な挑戦である。しかしその挑戦に生きる者は自身が世界全体となる幻想を抱く。そこではアイデンティティが肥大化する。その現象は、個人主義と信じつつ国家やなんらかの力と自身を一体化させるかたちで現われる。平たく言うと長いものに巻かれることが個人主義を信じるゆえに起こる。個は他者との出会いからのみ起こされるが、他者との分断からは起こされ得ない。他者と共に生きる中で個人は個人とされるが、分断される中では個人は「超」人間という肥大化した幻想体となる。そしてその幻想体はそれぞれの時代地域の中で最も大きな力と必ず結びつく。つまりそれにより自身が最も肥大化できるからだ。そしてこの個人という名の「超」人間が「超」経済というグローバリゼーションを産み出した。
4) 今日キリスト教会とは何者か
日本バプテスト連盟は教会教育において「生の全領域」という範囲を大切にしてきた。この徹底が今後さらに必要と考える。教会と私生活、福音と社会、信仰と行為、精神と身体というような二元論は、生の全領域が語られる場では居場所を持たない。我々は二元論から解放される。
その中で個人と全体という二元論は克服されねばならないことを前述した。個人は容易に全体となり、全体は同じく個人となる。つまりこのふたつは異なるどころか同質である。ならば我々は今何を問うべきか。それは個人だろうと全体だろうと、他者と共にあるか、他者と分断されているか、である。
個のアイデンティティが確立して初めて他者と出会うことができるというのは嘘である。我々は他者と出会うことで個が確立する。乳児は親や兄弟と出会うことから個を確立する。キリスト者は他者なるキリストと出会うことから個を確立する。
しかし個のアイデンティティ確立を最初の作業と信じるケースは多い。しかしそこから解放されねばならない。繰り返すが他者と出会うことのない個のアイデンティティは永遠に肥大化する。これは究極の偶像礼拝である。さらにその個人は余剰分を確保することで肥大化する。キリスト者がその状態になるときには次の現象が起こる。それは自身の時間的余剰ができて初めて礼拝出席と奉仕をなし、金銭的余剰ができて初めて献金をするということである。ここで一番目に余剰分、二番目にキリストという順序が起こる。すると第一の他者であるキリストとの出会いが余剰分で行われるゆえに、同時代に生きる他者との出会いも余剰分で行う。隣人愛は余剰分があるときのみのテーマとなる。これが偶像礼拝の引き起こす現象である。
そして私たちは今日の教会にこの要素が程度は異なれへばり付くことを否定できない。教会が個人の余剰分あっての教会となっている部分は大きい。しかしそれはキリスト教会ではなくグローバリゼーションに生きることであり、同時にキリストではなく余剰分に従うことであり、さらには搾取と格差、貧困と戦争に協力することとなる。
我々は今覚悟を決めてキリストへ従う方向へ向き直さねばならない。それは各個の確立ではなく、第一の他者であるキリストと出会うゆえの、同時代の具体的他者との出会いによる双方の確立という方向である。
それをキリスト教会は「共に生きる」という言葉で大切にしている。この徹底も欠かせない。共に生きることは単純なイメージではなく具体的な行為である。当委員会が理念とするマタイ25章から学ぶならば、それは、飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる、という具体的な行為である。
我々諸教会・伝道所は具体的な宣教施策として以上の事柄を持つだろうか。また持たなくともそのような者があらわれたときに我々はどうするか。教会には余剰分がないためにかかわることができないという論を正当化するだろうか。もしそうならば教会は変えられねばならない。そのような他者との出会いからこそ教会は教会となるという事実を生きねばならない。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの言葉は事実である。この件に関してはこの提言の最後に具体的な提案をしたく願う。
このようなかかわりが「共に生きる」ということである。そしてここから各個が確立する。
しかしかかわるから各個が確立するということでもない。かかわるなかで我々が知ることになり、知らされるしかない事柄があるから各個が確立する。それは主イエス・キリストの十字架である。十字架はどこに立ち、キリストはどこで釘打たれているのか。それは他者とかかわりつつも、限界ゆえに他者とかかわりきれない自分自身を見せ付けられ、それにより他者との裂け目を知るに至るところではないか。そこで神は他者を愛しきれない我々をさばく。そのさばきは十字架のキリストにおいてなされている。我々は自らにおこるさばきを十字架のキリストの傷と死により知るに至る。その十字架が、我々の限界と、私と他者との裂け目の只中に立ち、なお我々を他者へと向かわせる。なお我々を愛することへと向かわせる。
我々は他者との出会いの中でキリストの十字架の前に立ち、そこでさばきと赦しの奇跡を受けて、初めて我々自身となる。各個はそこではじめて各個となり、教会はそこではじめて教会となる。
今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架の前に立つ群れのことである。十字架を知るゆえに神にさばかれることを知る群れである。十字架により存在が赦され、真の恢復を頂き、そういう者たちとして他者と出会い続け、他者を愛し続ける群れである。
今日キリスト教会とは、主イエス・キリストの十字架を放り投げる群れではない。さばきを認識しない群れではない。さばきのない赦しだけを受ける群れではない。十字架のない恵みに生きる群れではない。十字架の在り処に出会うことがない群れではない。すなわち、他者と出会うことを拒否する群れではない。引きこもる群れではない。余剰分があってはじめて教会を考える群れではない。
したがって私は、前回の宣教会議で提案された「全被造物と共なる礼拝」という標語を軸に展開された新たな連盟宣教理念は、大切なテーマを見出しつつも最も重要な事柄、つまり全被造物と出会うことがゆるされる根源である主イエス・キリストの十字架の出来事が中心からはずれていることを指摘せねばならない。それは、十字架のキリストが中心とならない新たな理念もまた、グローバリゼーションに加担し、戦争に協力する理念となる恐れがあることの指摘でもある。また「異なる者が異なるままで」というフレーズも同様である。異なる者が異なるままである根源であるキリストの十字架による異質な者同志の出会いを、具体的な計画として立てることが今日の教会に求められている。無論深く読み込めば前回の理念にそこまでのことが述べられていることは承知しつつ、しかし十字架が中心に来る述べ方に変えることの意味は計り知れない。
最後に当委員会から具体的提案をしたい
当委員会は、各個教会・伝道所がキリストの出来事に突き動かされて、ホームレス生活者の支援を行うことを目的としている。それは教会の交わりが、例えばマタイ25章のみ言葉に後押しされて、本当にホームレス生活者と出会い、彼(女)らが今の状態から救済されるよう行為することである。
その際、教会は救済に必要な知識を持つ必要がある。生活保護法などの法律や、行政や民間等のさまざまな社会的資源の存在とそれらとの協力方法などを教会が知ることは、これからますます広がる貧困社会の中で、欠かせないことである。まずはそのような研修を当委員会単独ではなく、連盟全体として開催する必要性を訴える。
さらに連盟諸教会・伝道所は各都道府県にまたがるため、教会・伝道所が各地域の貧困社会における救済センターを目指すことを提案したい。その際、連盟に加盟する教会の中には、教会が、あるいは教会から生まれた民間団体がすでに優れた救済プログラムを有しているところもあるため、ネットワークを結び、相談と対応ができるシステムづくりを提案したい。
さらには、ホームレス生活者や、貧困生活者とかかわるときに発生する金銭面を支援するシステムも、連盟全体として整備することを提案する。
つまり、ここでも二元論を克服し、単に精神面でかかわるのではなく、物理面も含めて他者とかかわることのできる宣教体制づくりが必要であると考える。
ここが現代のグローバリゼーションと戦争に加担するか、キリストに加担するかの別れ道であるため、しつこく繰り返すが、余剰でつくるのではなく、キリストのために、他者のために、献げてつくることを提案する。
以上