昨日は会津の歴史に詳しいお二人の方に誘われて旧越後街道束ね松峠を歩って来ました
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6月の晴れた日、同行者3人の一人にシャターを切ってもらいました。三脚を持っていかなかったのでセルは使えませんでした。失敗でした。
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出発点は会津つくし吟社の句碑のあるところでした。句碑の表題は「塩の道一里壇束松を詠う」とあって「一里壇青嶺越え行く塩の道 桜木町草生」の第一句に32名の方の句が刻まれていました。
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塩の道とありますけども、案内してくださった方のお話によると、この峠は1611年の慶長の大地震で古い峠の勝負沢峠が地滑りで崩落して通れなくなってから明治の初めまで約300年の間会津と越後を結ぶ街道の大事な峠路として物資の交流はもちろん、越後の新発田藩や村上藩の江戸への参勤の道でもあり、幕末若い吉田松陰も東北歴訪の旅の折りこの峠を通ったであろうし、明治時代の初め英国の女性旅行者イザベルバードも通った歴史の道であると言うことでした。
束ね松峠の由来は峠の入口のこの場所と頂上近くに草箒を逆さまにしたような松の古木の束松があったことによるといわれております。
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写真はネットで「天屋の束ね松」からお借りしました
残念なことにいまはその束松は枯れて切り株だけが残っていますけど平成16年(2004)の「束松峠明治新道・束松洞門」という記録にはまだ枯れ残る哀れな束松の写真が残っていました。
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写真はネットで「束松峠明治新道・束松洞門」からお借りしました。
束松峠の越後路旧道の入口です。旧道というのは明治初年束松峠近くの宿場の人々が力を合わせて独力で馬車が通ることの出来る新道を開鑿されたことによります。あとで束ね松洞門のところでもう少し詳しく説明したいと思います。
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峠路は深い緑の中の静かな道でした。
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道の傍らに2つの句碑がありました。
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この句碑には「配達夫峠の雪を語りけり 松山」とありました。明治の頃は峠路を越えた軽沢の集落まで片門(かたかど)郵便局から配達夫によって郵便物が配達されていたんですね。もと配達夫をなさっていた古老の方から聞いた積雪の厳しい峠路の配達の苦労話を思い出しながら詠んだ句なんでしょうね。心にしみ入ります。
峠路を登っていくとやがて道が途切れて陥没した場所がありました。大正14年(1923)大きな地滑りが起きて道が崩落してしまい谷のようになっているんです。注意して見ると先の坂を登っていかれるお二人の姿が小さく見えました。
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崩落して出来た谷間から急な坂道を登りました。
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急な坂道を上がると高圧送電線の鉄塔のある場所に一里塚(江戸時代主要な街道に一里ごとに作られていた塚)が残っていました。古い峠道なので壊されることがなく完全な姿で残っていて貴重なんでしょうね。左が男壇、右が女壇と呼ばれております。
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女壇の前のお二人です
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お若い方は元気です。男壇の上に登って会津平らが見えて綺麗だといっていました。
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一里塚を過ぎてしばらくいくと束松洞門への道に出会います。この道は古い越後街道の道ではなくて明治初年に馬車が通れるように束松峠近くの宿駅の方たちが独力で新道を作りその先に130間(230m)の洞門を開鑿したのです。洞門の入口は現在は崩落してこんなになっています。
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写真は昨年10月に訪れた時に撮りました。
2014年(平成16年)の「束松峠明治新道・束松洞門」というレポートがあってネットで検索して見ました。詳しいレポートでしたが洞門内部のこんな写真が掲載されていました。
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束松洞門開鑿の経緯は掲示板に詳しく書かれています。
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洞門への分かれ道からしばらく登ると峠頂上の茶屋あとが見えてきます。左側にある大きな木は私の古里只見では香の木と呼んで葉を摘んで乾燥させ石臼でひいて抹香にし仏前に焚いていました。私には古くからあった茶屋の生活を偲ばせるものがあるように思われ懐かしくなりました。
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峠の頂きから見た会津平野の眺望です。残念なことに少しもやっていて遠望ははっきりとしませんでした。前にある石碑と掲示板は会津戊辰の戦いの初めから終わりまで藩の中心になって関わってきた秋月梯次郎の漢文で書かれている「北越潜行の詩」の原文が彫られた石碑と、その読み下し文と解説が書かれた掲示板です。
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案内してくださった方が会津平野を望みながら思いをこめて朗々と詩を吟じられました。「行くに輿なく帰るに家なし・・」私の心にしみいる吟詠でした。
北越潜行の詩の読み下し文と解説の掲示板の写真は興味のお有りの方もいらっしゃると思いますの詠みやすいようにで大きくしてコメント欄にURLで示して置きました。ご覧頂ければ嬉しいです。
峠の茶屋跡の説明掲示板です。
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茶屋跡のあずまやで昼食をとって茶屋のお墓の跡を訪ねました。緑の林の中の道でした
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途中「熊の糞」も見つけました。熊や貂などの動物は自分のテリトリーを主張するために目立つ所に糞をすると古里でまたぎをしていた友人に聞いたことがあります。
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お墓の跡は笹や柴の藪の中にありました。お墓ははるか昔に移転されていましたけど嘉永と刻まれた石碑が一基落ち葉の土に半ば埋もれていました。
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お墓の跡から少し行った所に会津平が一望出来る眺めのよいところがありました。蛇行して見える道路は磐越道です。
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帰りは軽沢への道をゆっくりと降りました。
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そして州走りの温泉でゆっくり疲れを癒やしました。
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昨日は本当に意義深く楽しい一日でした。地域の歴史に深い知識と興味をお持ちのお二人に車2台を使って天屋の集落から軽沢の集落まで束松峠を縦走するという貴重な経験をさせて頂きました。お二人の方に深く感謝申しあげたいと思います。有り難うございました。そしてここまで投稿させて頂いたつたない私の文章をお読みくださった方に感謝とお礼を申しあげます。有り難うございました
エリーをご存じの方、そして新潟でいらっしゃって長岡ご出身
私の息子がむか~し長岡にしばらく住んでいました。その頃孫たちがまだ小さかったのでよく遊びに行きました。それに戊辰の役の時長岡藩家老川井継之助の終焉の地塩沢は私の古里そんなことですごく懐かしい気がいたします。
ホントは?・・そんなことでなくってすごく懐かしい気がするんです。
11年ほど昔私塩川までぶうこちゃんという可愛いわんこちゃんを迎えにいったことがあるんですよ。その時のつまさん?・・じゃないのかななどと?・・・遠い昔でそれに90歳近い爺いでボケが進行してもおり記憶が少々曖昧になっているんですけどそんなことを考えているんです。
間違ったらご免なさい。でもこんな写真があるんですよ。
http://art53.photozou.jp/bin/photo/224265239/org.bin?size=1024
お写真を拝見しながら、私も歴史をしのび、しばし思いをはせることができました。
越後長岡出身なもので、戊辰戦争で、越後から会津へ遁走しようとして命尽きた河井継之助の八十里越えを思い出しました。
先日、久しぶりに五色沼へうかがいました。途中、お近くを車で通り、エリーちゃんを懐かしく思いました。
おっしゃるように、案内してくださった方の説明などお聞きしながら先人たちの思いを偲びながら一日を楽しみました。
60歳台の方と70歳台の方に90歳近い爺いが必死になってついて歩きました。がんばりました。
意義深い一日だったのでしょうね?
それにしても、先人のご苦労は 想像もできません。
この時代の方々の苦労を土台に今の時代が在ると
心しなければいけませんね。
私も、生まれ故郷の風景を思い出しました。
祖先を偲ぶ良い画像でした。ありがとうございます。
ところで、この画像の中に さんたろうさんのお姿 ありますよね?(^-^)