清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

ご教歌 世の中を 助くる心 なき人は  ものしりにても 無益なりけり

2015年01月17日 | ご法門

ご教歌 世の中を 助くる心 なき人は  ものしりにても 無益なりけり


 

大 意 (日晨上人「ご法門のかなめ」より)

世の人のために役に立とう、幸せになるために努めようという思いがなくて、知識があってもお金ができても、その活用はできない。信心でも菩薩心がないと本当の功徳は積めない。


人を助ける。奉仕することに、自分の力が大いに役立つ。(そうすれば功徳倍増なのに)功徳が増すことを知らぬ。従って喜び方も小さい。

菩薩とは、「人を助けることが自分をみがき、功徳を増すことを悟った方」ですから、化他即自行と心得て、人を助けることに力を入れる。

私どもは無力だが、妙法経力で人を助けられるから、教化折伏に力がいれられ、ご利益がいただける。


 

本日1月17日は、阪神淡路大震災がおきた日です。

平成7年の1月17日・早朝5時46分。マグニチュード7,3の大地震が、神戸・阪神・淡路地区を襲いました。

・死者 : 6,434名  

・行方不明者 : 3名  

・負傷者 : 43,792名

  重傷者 : 県内10,494名 (98.2%)、県外189名 (1.8%)

  軽傷者 : 県内29,598名 (89.4%)、県外3,511名 (10.6%)

常住寺では震災で亡くなった方々のお塔場婆を建立して、ご回向をさせていただきました。

【阪神淡路大震災 殉難犠牲者の諸精霊 追善菩提】

殉難=国家・宗教や公共の利益のために一身を犠牲にすること。

凡夫はお題目を唱えかさねていくと、菩薩の心持ちになれる。

みんながよくなりますように。地域がよくなりますように。苦しみから逃れられますように。。。


ご教歌 みなながら あらましかばと 思ふらん  物はなかばに たることをしれ

2015年01月12日 | ご法門

ご教歌 みなながら あらましかばと 思ふらん  物はなかばに たることをしれ


大 意 (日晨上人「ご法門のかなめ」より)

思っていることが全部思う通りになってほしいと、誰しもが考える所だが、

私ども凡夫の欲は貪欲の傾向が強いので、この辺でよしとすることを忘れ、己を滅ぼす方へ走りたがる。

欲ばかりかいていたら口唱(お看経)の時間も惜しくなる。

半分成功したら有難いと思い、そこで大事なものを置き去りにしてはおらぬかを、反省することが大事。


 

みな‐ながら【皆×乍ら】[副]

 ことごとく。すべて。 「―脱ぎおき給へる御ふすまなどやうのもの」〈源・蜻蛉〉



あら-・まし 【有らまし】〔連語〕 

 あろう。 …であろうに。 …であればよいのに。

 鏡に色・形あらましかば、うつらざらまし。
 <鏡に色や形があったとしたら、何も映らないであろうに>(『徒然草』)


らん(覧) らむ。に、同じ

 現在起こっている事象から、その原因・理由や背景などを推量する意を表す。

 ㋐原因・理由が示されている場合。…だから…なのだろう。…というわけで…なのだろう。
 「思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを」〈古今・恋二〉

 ㋑(多く「など」「いかに」という疑問語を伴って)原因・理由が示されていない場合。どうして…なのだろうか。なぜ…なのだろうか。
 「やどりせし花橘(たちばな)も枯れなくになどほととぎす声絶えぬらむ」〈古今・夏〉


ご教歌 のりのため 心つくすと おもひしは  みなおのが身の ことにぞありける

2015年01月11日 | ご法門

ご教歌  のりのため 心つくすと おもひしは  みなおのが身の ことにぞありける


大 意 (日晨上人「ご法門のかなめ」より)

妙法は衆生を救う慈悲のかたまり。

従って御法の「み心」にしたがってご奉公すれば、それは自分を助ける道を進むことになる。


 

他のために骨折るだけで自分は損したというような心を起こすな。

化他即自行、教えるは学びの半ば。


 

ご信心の上では、よく、「させていただく」という言い方をします。

「これ、やってちょうだいね」「させていただきます。」

こんな会話です。

「やってあげる」のではなく、「させていただく」

それは、骨を折っても、他が得するのではなく、自分も功徳を積むことができます。

ご法さまの「みこころ(教え)」に、随喜して、道を求め、教えどおりに行うのです。

イヤイヤやって、雑だし愚痴りながら渋々っていうようなのじゃありません。

口には出さないけど、動きは消極的なんていうのも違います。

忙しいけど、一生懸命にこころを尽くして、工夫して、時間をつくって、やりくりして、

「お参詣させていただきます。」「他を利益する菩薩行を、させていただきます。」

こんな心持ちです。 


ご教歌 よの人のさがなしごとをまた人に つたへてわれに 罪なつくりそ

2015年01月10日 | ご法門

ご教歌 

よの人の さがなしごとを また人に  つたへてわれに 罪なつくりそ


大意 (日晨上人「ご法門のかなめ」より)

世間のよくないことを見たり伝聞して、それをまた他に伝えてなんとも思わぬ人がいるが、

余りに他の迷惑を考えぬ無思慮で無情な心である。

そういう他の不詳を軽率にしゃべる信者になってはならぬ。

悪いことは自分で止め、善きことは他に伝える、そういう心が大事。


 

ご指南

人ヲカロシメテ功徳ヲ得ル事ナシ却テ罪業ノ因トナラン

(人を 軽しめて 功徳を 得ること なし かえって ざいごう の 因と ならん)


さがない( 形 )  さがな・し

①(多く「口さがない」の形で)他人が気を悪くしたり迷惑がるようなことを平気で言うさま。 「口-・い世間のうわさ」

②性質が悪い。 「 - ・きえびす心/伊勢 15」

③いたずらだ。手に負えない。 「 - ・きわらはべどもの仕りける/徒然 236」


 

( 副 )   形容詞「なし」の語幹から派生した語という。

動詞の連用形(カ変・サ変は未然形)の上に付いて,その動詞の表す動作を禁止する意を表す。

特に,動詞の下にさらに「そ」「そね」を伴い,「な…そ」「な…そね」の形をとる場合が多い。


 

(終助) サ変・カ変動詞の未然形、その他の動詞の連用形に付く。中世には、サ変動詞の連用形にも付く。

1 副詞「な」と呼応して、禁止・制止の意を表す。…てくれるな。…なよ。
「な恨み給ひ―」〈徒然・六九〉

2 副詞「な」は用いないで、禁止・制止の意を表す。…てくれるな。…なよ。
「かく濫(みだり)がはしくておはし―」〈今昔・一九・三〉

[補説]上代は「な」だけで「そ」を伴わない例もあり、

禁止の意は「な」のほうにあって「そ」は軽く指示するにすぎなかったといわれるが、

院政期ごろから中世にかけて2の用法も現れた。


 

「な」と「そ」は禁止、制止の意味。

罪なつくりそ → 悪いことをいいふらして「罪をつくるな」


日晨上人「ご法門のかなめ」より 水遠き。。。

2015年01月09日 | ご法門

ご教歌

水遠き 岡辺のつちに ほる井戸も ちかづきぬれば ひじを見る也


法師品(法華経の第10章)にあるご指南。

高原で井戸を掘るのに、なかなか水に達せぬが辛抱が大事。

やっている内に湿った土に掘り当たるもの。辛抱が大事。


岡辺(おか・べ)=丘のほとり。丘のあたり。

ひじ=泥。どろ。

→ご教歌では、ほり進むと、やがて水が湧く前兆として、しめった泥土に行き着くという意味。


人にはそれぞれ、目に見えない色々なご因縁があります。

お題目を唱え重ねれば、やがて罪障消滅できて、うんが開けてあいります。必ず、よいご縁が訪れるのです。

それを信じて、「水がでない」といってあきらめず、コツコツと功徳をつむことをお教え下さいました。


日晨上人 「ご法門のかなめ」 より

2015年01月09日 | ご法門

1月6日から、本年度の寒参詣が始まりました。お参詣の皆勤賞をめざしてがんばりましょう。

寒参詣は、全国の佛立寺院300ヶ寺・全寺院で同時に行われています。

全宗門人が、年の初めの寒修行に精進されています。そう思うと、ボクらも頑張っていこうと、励みになります。

今日は、日晨上人の「ご法門のかなめ」という本から、ご教歌と大意を記載しました。

しばらくはランダムに日晨上人がお書き遊ばされたご法門大意を記載していきます。

なお、寒参詣のご法門は、お寺で聴聞して下さい。


 

ご教歌

つとむれば やがて其身の さいはひと なるをたのしみ をこたるなゆめ


 

大意

勤めているうちはつらいことが多いが、前途に希望をもってやりなさい。

種を蒔けば必ず報いのあるもの。故に教えに従って気張れば幸いのこぬはずはない。

「信」とはそういうことをいう。

そして、仏の教えに従えば幸せがくると信ずる、それが「信」だ。


「らしく」なる 

2014年12月16日 | ご法門

ご信心させていただくお互いは、仏さまの教えを学びます。

これはいいかえますと、仏さまのお心を習うということですから、所謂ちまたで聞くようなセリフですが、「あの人は仏さまのような人だ」などと呼ばれるような「人がら」を身につけることが、僧侶と信徒にとっての一つの目標であったりします。

生活の中でのご信心の場面。ですから、お寺にお参りしたり、お題目をお唱えするお看経の場面においても、ただ唱えるんじゃなくて、学びがたくさんあります。お寺参りの時の態度や、あいさつの仕方、お題目をお唱えする中では他の人と調和がとれているかとか、拍子木の打ち方、御法門を聴く姿勢など、よいお手本となるように勤めるのは大事なことです。同じ、仏さまの教えを学ぶのでも、凡夫まる出しな雰囲気でやっていましたら、周囲からもあまりありがたく思われないことでしょうし、自分自身も功徳を積ませていただいたと実感できないんじゃないでしょうか。人と人とが同じ場所で同じ時間に共に過ごすのですから当然、良い影響もわるい影響も受けるハズ。そんな中、「自分はよい姿勢でよい影響を与えられるように勤めるんだ」という心でやっていけるのが素晴らしい事です。

今日の記事は、先師上人の御法門を拝見しながら作文しました。その御法門の譬喩の一文を次下に記載させていただきます。

古語に「人うまれながらにして聖なるはなし。習い修して聖となるなり。」と言われていますが、小さな子は習い修してなど、とてもできるものではありません。子どもを取りまく周囲の環境がその子に、習うと云う事の心を、育てて行くのです。(入学時に泣いていた子が)幼稚園も2年目になりますと門前で泣いて居る子は居りません。習うと云う事、見て真似ると云う事が、はぐくみ育てられて、泣いて居た子が園児らしくなったのです。

 「あいつも坊さんらしくなったなぁ。」このように云ってもらえるとしたならば、恩師より賜ったご薫陶のおかげ。周囲のみなさま方のおかげです。らしくなった、なれてきたのは学んだことで、環境や周囲の人がよいからよく学べますし、もしわるい環境ならばそのように体感してしまいます。氏より育ちなんて申します。

多くの人とともに生きる社会ですから、互いに影響しあって生きています。ましてや、お寺でご信心を学ぶものは、仏さまの教えという基幹があります。そして、そこに近づこうと日々精進しています。ですから宗門人は、よいものをひろげていく存在となっていこうという意識を持たねばならない。

そう云いながら、ボクは凡夫まる出しですが。。。


 ご教歌 人の世は人らしきことしてくらせ みのりにあへる人は猶さら

 


日晨上人・ご法門のかなめ より

2014年12月05日 | ご法門

ご教歌  旅人の 日なたをあゆむ かげ見れば まへにうしろに はなれざりけり


 (日晨上人 ご法門のかなめ より)

外を歩く人の影、曇ったときは分からぬがお天気のときはよく分かる。影は形から離れぬもの。ごとくにその人の果報は善悪ともについて回る。信心の鏡でその影を見て、よき種まきをせよ。

徳・不徳というものは、その人々についてまわっているもの。形に影のそうように、それがわかる時とわからぬ時がある。日なたを通ればはっきりわかるが、曇天では影は見えない。しかし、ないのではない。信心はこの体から離れぬ体の徳をつかむものだと心得、しっかり種まきの御奉公をすべし。


聞くことに力を入れる

2014年09月09日 | ご法門

テニスの全米オープン。錦織選手すごかったです。決勝でマリン・チリッチに惜しくも敗れ、グランドスラム制覇はなりませんでした。でも、グランドスラム決勝進出は、日本人では初めてのこと。敗れても快挙です。

ここしばらく、テニスのニュースをこまめにチェックするのが習慣になっていました。とても楽しい日々でした。今後も、錦織選手が活躍されることを楽しみにしております。

さて、錦織選手は、昨年から1989年の全仏オープン覇者のマイケル・チャンをコーチに迎えました。チャンの指導を受けて、今年に入ってから以前にも増して、飛躍的に活躍しています。

錦織選手はトップレベルのプロですが、それで良しとせず、グランドスラムの優勝経験者に教えを請いました。自身の弱点を克服することはもちろんだったでしょうが、世界最高レベルの勝ち方、覇者の思考、目線なんかも、ソバにいて自然と習ったことでしょう。

◆◆◆◆◆◆◆◆

開導聖人・ご教歌(百座法門(四)12-240)

師について学ぶは早し案内者 なしに名所をめぐる馬鹿もの

御題・学問は師匠を撰めといふこと。

大意(日晨上人ご法門のかなめ。より)

その道の専門家に聞けば、早く道を覚える。それを一人であれこれ苦労するのは、むだな時間をとるだけのこと。名所を巡る、観光をするときは案内者につくことが、早分かりができて利口なやり方。特に信心は悟る努力よりも、よく聞くことに力を入れよ

◆◆◆◆◆◆◆◆

聞くことは、素直なこころに通じます。

世界トップレベルのプロでさえ、なお学ぼうとしています。

聞いて、肌で感じて、空気で学ぶ。。。

「この人は、本当にありがたいご信者さんだなぁ」と思える人がいます。

そういう人となれるのは、マイケルチャンがそばにいたからなのでしょう。えらいなぁと思える教務さん・ご信者さんは、良きお師匠、良き教化親がそばにいてくれたからこそ、凡夫ながらに、素晴らしいご奉公ができるように育っていったハズです。

錦織選手のように、まっすぐに学ぶ心を持っていこう。

マイケルチャンのように、他を利益できるようなご奉公者とならん。。。


えんやこら

2014年06月24日 | ご法門

この流行語を知っていますか?

「お父ちゃんのためなら、えんやこら。」

古い記憶をたどると、我が家のテレビは小学校2年くらいまで、白黒でした。トイレは和式。家は、風呂なし10畳一間だけの平屋で、縁側がありました。ご宝前に頭を向けて、家族四人が川の字になって寝ていました。せまかったけど、楽しかったことしか思い出せません。

そんな時代に流行ったコトバで、出典は、昭和41年にリリースされた美輪明宏さんの楽曲「ヨイトマケの歌」の一節です。

お寺の中で婦人会がご奉公に汗をながしながら、「ご法様のためなら、えんやこーら。」と、笑いながら楽しそうに口ずさんでいたのを、いまでも鮮明に覚えています。

このパターンですから、いくらでも応用がきくわけで、「お導師のためなら~」「ご奉公のためなら~」と口ずさんでは、みなさん本当に楽しそうでした。

ただ、当時まだ4~5歳だった私は、この言葉がどこからきたものなのか、考えることすらなかったワケです。そして流行語ですから、やがてだれも口にしなくなっていくのですが、それでも、小学校低学年くらいまでは、だれかが口ずさんでいたかと記憶しています。「古いんだよ」とツッコまれながら……。

2年くらい前でしょうか?テレビで美輪さんのドキュメント番組を見ました。ここで初めて、「おとうちゃんのためならエンヤコラ」の出典と意味を知りました。これを口ずさむのが当たり前の景色だったころから数えて、40年の月日が過ぎていました。

ご教歌

うれしさをつゝむ恋路にあらざれば みのりのために人にかたらむ

大意
ご法様からいただいた喜びは、心に秘めずに表現する。姿形に表すことがご弘通になるのです。すなわち、人に伝える随喜転教の大事なことをお教えの御教歌です。

先述の通り、「そんなこと分かっているだろう?」では、数十年もの間、「実は知らなかった」ということが、あるものだということです。

しっかりと伝える。分かっているだろう?ではなく、確実に教え伝えようと、親切心をおこしていく。

「そんなことも知らないのか?」は禁句です。

御指南
聴門する所は自が斗の喜び也。

之を転々して人に教え聞かしむるは人を喜ばしむる也。

我が喜びは智眼を開き人を喜ばすは慈悲也。

ましてや、喜びを伝えていくご奉公は、絶え間なく続けることが大事となりましょう。一緒の時間を過ごし、喜びや悲しみ、苦楽を共に分かち合いたいものです。

ご信心のしかた。心の持ちよう。

これらを、「知っているだろう?」で済まさないように。。。


唱える。人に勧める。ご供養する。

2014年06月21日 | ご法門

【 開導聖人ご指南 】

尋ねて曰く、その寂光は、いかなるものぞや。貴殿はいかなる所と思召すぞや。

答えて曰く、くはしきこと何もしらず。

只結構な処にして釈尊・上行・諸仏・諸菩薩まします処にして、

苦はなく楽な処と承るのみ。

行きて見ぬさきより考へた所がわかりさうな事もなし。

只御題目を便りとして行く所と思ふより外に考へは、

手間つひやしの思案の仕損じと申すものなり。

Illust3786

【 開導聖人ご指南 】

此の娑婆に息ある間に御法門を聴聞して疑をはらひ信をさだめ、

御講をつとめて人にきかしめ、

御供養申して我が心の貪欲をなだめ、

南無妙法蓮華経と唱へて罪障を滅し、

法界の回向をもし、

愚かなる凡夫のいつ死ぬかわからぬ一生の間にすこしにても御法の御弘りの御手伝、

御奉公もなるだけは心に如才なくつとめ励むが

寂光浄土へ参詣する路用金の如きものと、楽しみに日をおくりて、

今日もこれ程唱へたり、

けふも一人二人にすすめたり、

けふもすこしの御供養をしたり、

皆これ我身づきの功徳なりと悦ぶより外に仔細はなきことなり。

(中略)只死しての後のたのみになるものは、上にいふ信心修行のみなり。


同じ場所で。同じ時間に。

2014年06月20日 | ご法門

【ご教歌】(御題・人の唱題するを聴て)

わがつみのきゆるよすがと唱ふるや 妙のみ法のこゑぞたのしき

【大意】

お看経は、唯一ぜったいの、罪障消滅の道。そう信じることができれば、お看経が楽しくなり、勇ましく進みます。

そして、そのように一心にお看経されてる人のお題目を聴いて、ありがたいなぁと思えるということ。そんな心持ち(信心前)でありたいなぁとお示しのご教歌です。

よすが

「寄す処(か)」の意。古くは「よすか」。
身や心のよりどころとすること。頼りとすること。また、身寄り。血縁者。よるべ。「知人を―に上京する」「身を寄せる―もない」
手がかり。手だて。方法。「今ではもう昔を知る―はない」

Illust3779

自分自身が「お看経を拠り所としている。たのみにしている。」という感覚(信心前)であれば、人のお看経を聴いて、「おっ。やってるな!」と共感するでしょう。
そして、人の幸せをねがうという、仏さまのような心であるならば、人のお看経を聴いて、「あの人も罪障消滅してるな。ありがたいなぁ。」と、嬉しい気持ちになることでしょう。
そういう心。いわゆるですね、信心(ぼさつ心)を起こしたら素晴らしいと、ご教導下さっているのです。

Illust3779_2

人ばかりじゃない。生きものすべてが、お題目によって救われていく。

いまは亡き故人にだって、お看経の功徳が届いて、たましいが救われていく。

目には見えないけど、そう信じて。そういう感覚で。。。

そしたら、もっとお看経がはかどって、もっともっと功徳になる。

だから、一人じゃなくて、みんなでお看経するのって、とても大事です。

同じ時間に。同じ場所で。

Illust3779_3

人がお看経をあげてるのを、喜べるこころがあるのはいいですね。

いつも、みんなの幸せをねがってる。

いつも、故人のご冥福を祈ってる。

その、たのみとさせて頂くのが、上行所伝のお題目です。


人魂不死

2014年06月15日 | ご法門

【ご教歌】

一まく(ひとまく)の中でむすめが婆々となる しぬもいきるもほんまではなし

ご教歌の御題は「寿量品云 無有生死」とお示しです。またそして、ご教歌のお書き添えには、「何べんもきかねばわからぬ。これはさとりの御法門なり」と仰せです。

法華経の寿量品に「生死有ることなし」と説かれています。これは、仏様のお悟りの御法門だから一度くらい聞いたからって、理解ができない。なぜか。それは、生死は有ると思う。現実に、生き物はすべて、生まれたからには100%、いつかは死ぬワケで、それを、身の回りの人々は見ていますから、生死なしとはどういう意味かと考えてしまうことでしょう。

【ご指南】

ほんまとおもふが凡夫なり。ただ役がかはるなり。

生まれてきて、やがて死ぬ。そして一生がおわる。こう思っています。でも、一生とは?一つの生涯ということです。ですから、ほかの生涯が、またどこかにあるという言葉に他なりません。

このご教歌では、「ただ、役がかわるだけ」なのだとお教え下さっています。お芝居のような、一幕ごとに、若かったり、年をとったり、いい人だったり、悪人だったり、その場面で役がかわります。そして、芝居が終わればまた、次の舞台の役を演じます。そのとき、役者は、生まれもしなければ死にもしません。当たり前ですが。。。それと同様、私たちの生死も、「生死あることなし」だと仰せなのです。

芝居で言えば、この一生は、一幕の舞台です。そして、この一幕で演じた行いの善し悪しで、次の舞台の役が変わります。良い原因にはよい結果が、悪い原因には悪い結果がついてまわる。「善因善果・悪因悪果」というワケです。

【ご指南】

すこいことするが上手ならば、餓鬼に役がかわる。

おろかにて物の道理がわからぬ人は、畜生に役がかわる。

人に法を説いて妙法を持たしむる菩薩が得て物なれば、仏になる。

人をくるしめ、思いやりのなき、悪性ものは、その人をころし、くるしめたる報いをうけ、人を助くる真実教の妙法五字を嫌ひそしるものは、一切の罪の中の、主師親等を殺したるよりも、菩薩・仏を殺したるよりも、極重罪の無間に入る也。

魂は死なない。そして、過去・現在・未来の、三世の因果を背負っていくのです。悪い因縁を持ち合わせると、やはり重く苦しい歩みになる。だけど、お題目でご回向すれば、かならず、功徳が魂に届いて良い方向へと縁を結べるといいます。なので、人が死んでも、そこで終わりじゃないんだ。そう信じて、勇ましく、魂の援護となるお題目口唱に励んでいきたいものです。

【ご教歌】(関連のご教歌を拝見します)

たましひは露(つゆ)にあらねば消もせず けふの日暮はあすのはじまり

火の消る様にはあらじ神ひ(たましい)の やどがへするを死ぬと云也

(「佛立信心ここが有難い」を、拝見しながら作文しました。)


一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う

2014年06月11日 | ご法門

一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う

一匹の犬が吠えると、他の犬もみんなつられて吠えはじめることから、一人が嘘を言うと、多くの人がそれを真実と思って伝えてしまうということ。

三毒強盛という仏教用語があります。

貪欲=必要以上に欲しがる心。「おしい」「むさぼる」

瞋恚=いかり。「にくい」

愚痴=真理に対して、無知な心。「おろか」

三毒は、人間の諸悪・苦しみの根源であると言われています。そして、三毒は、愚痴=人間の、根源的なおろかさから発しているのだと言われています。また、三毒がふくれて、十悪に発展します。

十悪(事典・ことてん。より引用。)

【身で行う罪障】
殺生(生命を奪うこと。また人の命を縮めたり、間接的に殺すこと)

偸盗(盗むこと。また贅沢をすれば余分に物をとり、人に不自由をかけるから一種の盗となる)

邪婬(自分の色欲を満たすため他人に迷惑をかけること)

【口でなす罪障】
妄語(嘘をつくこと)

綺語(きご)(無意味に飾り立てた不誠実な語言)

両舌(りようぜつ)(人の仲を隔てる二枚舌)

悪口(あっく)(人の悪いことを吹聴すること)

【こころの中で起す罪障】
貪欲(とんよく)(貧るという迷妄の心)

瞋恚(しんに)(怒る心、わがままな心)

愚癡または邪見(よこしまな見解)

お祖師さま日蓮聖人のご妙判『法蓮鈔』

「八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり」(定九三七頁)

仏教の、こんな戒めは、決して他人事ではありません。

自分のいいようにもっていくために、人はウソをつきます。ウソというか、都合の良いように話すというところでしょうか。

それを真実だと思い込んだ人々は、怒りまでも共に写されてしまい、一緒になって大声でほえるんですね。正しいまなこがなければ、もう、イチコロですよ。そして関わった人々みんなが、地獄のような苦しい思いをする。「なんでこうなるの」と。。。

そんな連鎖を起こさないよう、日々、罪障消滅のお看経に励みたいものです。


- いわれあり -

2010年06月03日 | ご法門

ここのところ、朝の開門参詣者が増えてきました。

さいとう局長。うめづ事務長は毎日お参詣ですが、週末は開門。レギュラーは、あまのさん。平柳さん。

うつのさん夫婦。すずきさん。もできさん。よしむらさん。たかなしさん。さいとう(三)さん。にへいさん。

そして、先代奥様、のりえ。  時折お参詣されるのが、やこうさん。自子さん。かしはらさんご夫婦。

うつのさんご家族2人。まーとよしも、なるべく参ってます。

毎朝はじめの言上で、ご信者方々のご祈願をさせていただいております。

病気平癒のご祈願が7人。健康回復が6人。心願成就が3人。高齢者の健康増進が1人。

のりくんのご祈願は、長期に亘るでしょうから、「無事養育成長・智惠明瞭・ご弘通のお役に立つ

法證相続のお願い」と併せて、健康回復のご祈願をさせていただいております。

この中でさいとう(三)さんは、ここ数日で開門参詣されるようになりました。

ご主人が入院されて体力的には大変だと思うのですが、「是非とも開門しましょう!」との声がかかったままに、

開門参詣を始めました。これはホントにありがたいです。

ご祈願は「ご主人の病気平癒のご祈願」と、自分からご主人への、ご信心のススメが叶いますようにとのご祈願。

即ち、「口唱・折伏ご奉公成就のご祈願」です。「私がご祈願してあげたからね…。」ではダメで、本人がさせて

頂くように働きかける。ここのトコロを互いに確認してから、開門参詣・そしてお助行等でのご祈願に入りました。

【御教歌】 ご利益を うけねばならぬ いはれあり  唱へて見やれ それは妙法

大辞泉には、「 いわれ 」 = 「 物事が起こったわけ。理由。」 と載っています。

みんな過去世からの罪障(悪因縁)をもって生まれてきているワケです。そして多くの人は「ねがい」を持っています。

お寺の朝参詣は功徳が深い。 とくに朝一番の開門で参ってみて下さい。 必ずよいご縁が待っています。

以上。たのしい「開門参詣のススメ」でした。  最後に。さいとうさん!はりきっていきましょう!  

合掌。