先日、神谷・東十条健康プラザにおいて、「お坊さんのお話し会」をさせていただきました。
テーマは「さとり」。
ほとけさまの覚りはどんなものだろう?などという難しい内容ではなく、
日常の生活で、元気よく歩んで行くためのヒントみたいな内容でした。
「いま、日常のなにげない場面のひとつだが、これがどれだけ幸せか?」
「それを理解している。」
こうなると、もう立派な「さとり」と言えると思います。
ただしボクは、「仏さまのお覚り」と区別するため、あえて、漢字で「覚り」と書かないようにしています。
そんなワケで、みなさんが人生の中で体験した場面、
「うれしかった場面」「忘れられない出来事」「感動した出来事」などを、
それぞれ、語っていただきました。
まずはボクの体験談。
先般。王子本町から板橋仲宿へ続く道をクルマで走っていました。
下の写真。この風景が見える位置で信号待ちをしていました。
ここは、(右側が高く、左側が低い)傾斜のついた交差点です。
この日は晴れで、ぽかぽかとあたたかく、そよ風がふいており、実に気持ちのよい日でした。
時間は午後3時ころ。
右側からお母さんと小学4年生くらいの男の子が2人乗りした自転車が横断歩道を渡ってきました。
男の子は、おそらくダウン症を患っているようにみえました。
右前方には養護学校があります。
お母さんがわが子をお迎えにいった帰りなのでしょう。
お母さんは、右側の、緩やかに高い方から一気に、自転車を「ビューン」と走らせました。
男の子はその瞬間、すこし後方に仰け反りながらも体勢をととのえ、
ジェットコースターと比べるとあまりにゆっくりでしょうが、
それでも、それと同じように、両手を広げて高くあげて、
「わー」という歓声をあげるかのような顔つきで、喜んでおりました。
(写真はイメージです)
ぽかぽかと暖かい日の午後、学校がおわって、大好きなお母さんが迎えにきてくれた。
お母さんの後ろにのって、男の子にとっては大きな背中に甘えながら安心しきっている。
天気はいいし、そよ風に吹かれて心地いい。
いつもの通学路。これからお母さんといっしょにおウチに帰るところ。
いつもの、緩やかな下り坂にさしかかった。スピードがでるのは知っている。
それでも、疾患があるので反応がやや遅れて仰け反るが、それがかえって楽しかったりする。
おもわず大きな口をあけて、「わー!」と歓声がでる。たのしい。安心だ。しあわせ。
(写真はイメージです)
と、まぁ、そんな瞬間を信号待ちの運転席からみてしまった。
しかし我ながら、想像力たくましく作文したものだと思います。
ここに書いたことは、この少年が歓声をあげた瞬間を、たまたま見たボクが、想像で書いている事柄であり、
事実を確認したワケではないのです。しかし、想像は遠からずハズレではないと思うのです。
こんな他愛もない信号待ちの場面ですが、ボクはこのシーンを一生忘れることができないと思います。
あんなに嬉しそうにしていた少年。優しそうなお母さん。日常の中に「至福のひととき」がありました。
そして、彼もきっと、あの時のあの場面の楽しさを忘れないんじゃないかと思うのです。
ボクと少年は信号ですれ違っただけのご縁です。
当然、しゃべったことなんか一度もありません。
どこのだれかも分からないし、彼はボクの存在すら知らないのです。
だのに、ボクらは同じ場面を、一生忘れられないシーンとして共有している。
もし、そうだとしたら、おもしろいものだと思うのです。
「袖触れ合うも他生の縁」
こんなコトバがアタマに浮かびました。
道ですれ違うだけでも、ものすごく深いご縁があるもの同士なんだと。
こころから、そう思えてなりません。
況んや、夫婦・親子・兄妹。同僚・親友・ご近所さん。
これらの人間関係はどれほど深いご縁で結ばれたのか、想像がつかないほどです。
ここのところ多くの本を読みました。多くの人の家庭問題を見聞きすることが重なったので、
求められた時によき助言ができるようにと考え、まずは知識を得ようと思ったのです。
その内の2冊「家族という病」というタイトルの本は大ヒットし、続編のパート2も出版されました。
出版社は本の帯に「待望の処方箋」と書いていました。
しかし、実際には作者の自叙伝的なところがあり、作者の主観が述べられているに過ぎません。
ですから、「待望の処方箋」という見出しは結局、本を売るための「コピー」ということでしょう。
読む方はその気になって本を買います。売る側は、実に無責任だと思いました。
まぁ、書籍の多くはそういう風に売られているのかもしれません。
「個」を大事にして「家庭」の犠牲になるな。と宣った2冊。
筆者には子どもがいません。
実の父親との関係は思春期に崩壊して父親が亡くなるまで修福できませんでした。
そのように本文中で謳っています。
ですから、個人の生き方を尊重して云々、という物の考え方がベースにあるのでしょう。
もし、子どもを産んで育てていたら、父親と仲睦まじい関係だったら、こういう内容の本を書いたかは疑問です。
すなわち、「家族という名の病」は、筆者の家庭内の問題に他ならず、
自叙伝を出版して、広くにそれを促すべきではなかったのです。
繰り返しますが、出版される書籍は所詮、そんなもんだといたしましょう。
ただ、願わくば、諸問題をかかえているみなさま、世間の影響をうけて、
わざわざ崩壊させるような道のりを進まないでほしいと願います。
世の中に落ちているヒントなんて所詮は無責任なもの。
親身になって考えてくれる人のコトバ、信用できる人のコトバが大事なのでしょう。
ボクとダウン症の男の子とのご縁は、すれ違っただけの関係です。
相手はボクの存在など知りもしません。
でも、生涯忘れられないくらいの場面を共有しました。
(ほんとにそうか分かりませんが・・・。)
これほど、ご縁というものは深遠なのです。
ましてや、夫婦・家族、大事な存在は深い深い絆のもとで結ばれています。
どうか、わざわざ壊さないで下さい。
そして、マイナスのご縁を排除できるように努力しましょう。
その智慧がお寺にある。かならずあります。
一期一会。
二度と巡ってこないかもしれないご縁は山ほどある。
その瞬間を大事にしたいと思います。そう思えるのも「さとり」なのでしょう。