【英軍将兵422名の命を救った帝国海軍中佐 いまも英米で称賛】というタイトルの記事を読みました。
戦争中に、海で溺れて死にかけていた「敵国(イギリス)の軍人」を救助し、手厚く保護したという内容です。
海の男の精神、人命を第1とする行動に頭が下がりました。
心に感じ入ったのは、
「帝国海軍水兵たちは嫌がるそぶりを全く見せずむしろ暖かくケアしてくれた」
というところです。
422名もの敵兵を、わずか120名で救助しました。
しかも、艦長のみならず120名の海兵全員が、敵兵を進んで救助し、そして、手厚く保護しました。
戦争は、したくてやっているのではない。
私心を持たず、公に生きる軍人の凛とした姿を想像しました。
以下、本文を掲載します。
元・英国海軍大尉で戦後外交官として活躍したサムエル・フォール卿(当時89歳)は
埼玉県川口市、薬林寺境内にある工藤俊作海軍中佐の墓前に車椅子で参拝し、
66年9か月ぶりに積年の再会を果たした。
フォール卿は大戦中、自分や戦友の命を救ってくれた工藤中佐にお礼を述べたく、
戦後、その消息を探し続けて来たが、関係者の支援の結果
ようやく墓所を探しあてたのである。
フォール卿はこの直後、記者会見で、
工藤中佐指揮する駆逐艦「雷(いかづち)」に救助され厚遇された思い出を
「豪華客船でクルージングしているようであった」と語った。
これを実現させたのは、何としても存命中に墓参したいという本人の強い意志と、
ご家族の支援があったからである。
「我々家族は、工藤中佐が示した武士道を何度も聞かされ
それが家族の文化(Family Culture)を形成している(家訓・家風)」とさえ語った。
また護衛艦「いかづち」(4代目)艦長以下乗員多数が参列した。
まさに敗戦で生じた歴史の断層が修復される瞬間であった。
第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において
日本海軍艦隊と英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。
その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。
加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。
中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。
日本海軍駆逐艦「雷」は単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。
「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、
独断で、「一番砲だけ残し、総員、敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。
「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けて、いよいよ最期を迎える」
と覚悟したという。
ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ救助艇が降ろされた。
そして乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているかと思い、
何度も自分の手をつねった」という。
120名しか乗務していない駆逐艦が敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。
勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。
フォール卿の回想では、
「帝国海軍水兵たちは嫌がるそぶりを全く見せず、むしろ暖かくケアしてくれた」という。
しばらく休憩した後、艦長は英国海軍士官全員に対し前甲板に集合を命じた。
彼らに端正な敬礼をした後、英語で次のスピーチを始めたのだ。
さらに士官室の使用を許可したのである。
その際、舷門で直立して見送る工藤艦長にフォール卿は挙手の敬礼を行い、
工藤は答礼しながら温かな視線を送ったと言う。
平成10年(1998年)4月29日、フォール卿は本件を「英タイムズ紙」に投稿し、
「友軍以上の丁重な処遇を受けた」と強調した。
我が国に賠償を求める動きがあった。
またこの年の5月には今上天皇皇后両陛下が訪英される予定であった。
そこで元捕虜たちは訪英に反対していたのだ。
天皇の謝罪を求める投稿文もフォール卿の投稿文と同時に掲載された。
ところがフォール卿の投稿文によって、これらは悉(ことごと)く生彩を欠いたのである。
米海軍は昭和62年(1987年)、
機関誌「プロシーディングス」新年号にフォール卿が「武士道(Chivalry)」と題して
工藤艦長を讃えた投稿文を7ページにわたって特集したのである。
これは対共産圏輸出統制委員会(ココム)が輸出禁止にしていたスクリュー製造用精密機械を、
東芝の子会社がソ連へ不正輸出し、ソ連原子力潜水艦の海中における静粛性を飛躍的に向上させた事件である。
このような情勢下で米国の対日貿易赤字は拡大しており、
米国民は『安保ただ乗り』と批判し全米で日本製品不買運動が起きていた。
「同盟軍中、最も高いポテンシャルをもつ組織である」(アーレイ・バーク大将)とまで強調したのである。
米国内の対日バッシングはこの結果沈静化した。工藤艦長らの遺産が寄与したものと思われる。
「ニュースポストセブン」が「SAPIO2018年7・8月号」に載った記事を、ネット上で紹介したものを、ここに転載した。