清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

恩知る 人の人なり

2014年03月27日 | 学び ・ すすめ

3月25日。

次男の卒業式が挙行されました。4月2日から、中学生になります。

当日はお総講がありましたので、終了後に後片付けを済ませてから、

歩いて稲田小学校に向かいました。

小学校の正門近くで信号待ちをしていますと、

校庭で行われている式典のアナウンスが聞こえてきました。

その放送を聞いているだけで、

あたたかな雰囲気の式典であることが想像できました。

正門の方に目をやると、どこかの男の子が、1人で歩いてくるのが見えました。

制服を着ています。近くの中学生だなと思いました。

この男の子が、ゆっくりゆっくり歩きながら、

校庭での卒業式典の様子をながめておりました。

微笑ましいような感じで、校内の様子をみているようでした。

信号が青になりましたので、横断歩道を渡りました。

ほどなく、その男の子とすれ違うことになるのですが、

近づくとダウン症の疾患を持つ子だと気づきました。

ダウン症候群。

染色体の異常による、先天性の疾患で、様々な発育障害がおこるようです。

ソバに近づくと、この男の子が、なにやら歌を歌っているのがわかりました。

なんと、仰げば尊しを歌っておりました。

「仰げば尊しぃ~ わが師の恩~。教えの庭にもぉ~ はやぁ~ 幾年ぇ~。」

こんな感じで、大きくもなく、小さくもない声量で、

きれいな歌声で歌っていました。

人は、見聞きした物事に対して、直感的に湧いてくる感情を、

無意識に何かの形で表現するのでしょうが、

この男の子は下校途中に一人で、

通学路にある小学校が、たまたま卒業式をしていて、

その様子をみて、何を思ったのでしょうか?

仰げば尊しを歌ったのは、卒業式に対するイメージからきたものなのでしょうか?

それとも、歌詞の意味を知っていて歌ったのでしょうか?

卒業式といえば仰げば尊しでしょう!と、イメージでとらえていたとしても、

見聞きしていた私に、大きな感銘を与えたのは間違えありません。

校庭に着くと、大勢の仲間と共に過ごす、幸せそうなわが子の姿を見つけました。

すでに、お世話になった先生方や職員のみなさんとのごあいさつは、

一通り済んだようでした。

お礼を申し上げるとき、

頭を下げずに挨拶だけするなどどいう姿は想像したくありません。

果たして、きちんとご挨拶ができたでしょうか?

彼はまもなく、中学生になります。

恩を知り、礼儀をわきまえ、慈しみを具えた人となってほしいものです。


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2014年03月11日 | 東日本大震災

東日本大震災から3年。

現在、現地への支援は、なにもしていません。でも、片時も忘れたことはありません。ご回向は、欠かさず毎日させていただいております。そしてこれからも、精一杯のお看経で、亡き魂のご回向をさせていただく所存です。

昨日・10日から、常住寺の本堂にお塔婆を建立しました。一周忌が終わった時点で、お塔婆の建立は途切れてしまいましたが、これからしばらく毎日、建立させていただくことにしました。

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昨晩のお看経は、無始已来をはじめたら、家族がパラパラと集まってきました。

裕香はご宝前のお給仕を楽しみにしており、「お灰」をならして、おみがきをして、お花を下げて、お明かりを消して、お御簾を下げるまでしてくれます。

家族が帰山して、ご宝前に集まる。全員集合するのは当たり前のことですが、それでも「あること難し」と、ありがたくなってしまいます。

一夜明けまして、早朝は男子全員で本堂のお給仕です。寒くて眠いけど、みんなでさせていただけることが、本当にありがたいと、みんなが感じています。

ささやかな幸せが、実はとても大きな幸せなんだという事に気づいてほしくて、常々そのことを、みんなに話してます。そして、ありがたい身の上と感じている中で、それと逆に、大変な思いをしている人や、辛く切ない思いをしている人のことが気がかりです。

今日で、震災からまる3年。

復興にはほど遠い現状をニュースなどで見聞きすると、なにかお役に立つことはないだろうかと、かつて度々赴いた彼の地へ、思いを馳せてしまいます。

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先般、3月4日~7日まで、宗会に出席するために、京都の本山・宗務本庁へ上がりました。

留守中のご宝前お給仕は、学徒2名にご奉公を命じました。ご宝前のお給仕を始めてから、わずか4年半のキャリアです。ですが、私の留守中にキチンとできるように、事前に何度もお給仕の仕方を覚えさせました。そして、彼らが朝出仕をする時間に合わせて、私は本山のご宝前でお看経をさせていただくことにしました。

毎日あたりまえのようにさせていただくご奉公も、できて当たり前ですが、無事に終わったら、やはり、ありがたいと思うべきですね。

なんでもないことが、ありがたい。ですから、タンタンとお給仕させていただいてて、実は命がけなんですね。そう実感します。そして、毎日、ありがたいんだと。

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晨朝・5時30分。本山の本堂に入りますと、本山寄宿の学生師が、大勢でお給仕をされてました。本山お教務方もいらっしゃいます。キビキビしたお給仕の姿をみて、ありがたい気持ちになると共に、同時刻に常住寺にてご奉公させていただいている当山の学徒たちの姿を想像しました。願わくば、本山の学生師の如く、ご奉公していてほしい。いやできているだろうと。。。

小一時間経ち、終了の報告を受けました。無事にできましたとのことでした。ちょっと誇らしげな口調に、「生意気な!」と思いつつ、報告を受けただけで安堵いたしました。報告って大事ですね。もうこれは、大事なお仕えの一つだと言えます。

一生懸命にさせていただき、功徳を積むことができるご奉公となったのならば、願わくば、この功徳が亡き魂に回り向かいますようにと願います。大きな悲しみ、切ないできごとを見聞きする度に、ボクらは、そういう思いでご奉公させていただこうと心に誓うんです。

3年目の311。亡くなった魂は、消滅したのではなく、その先がある。次の一生へと旅だつと教わります。ならば、目には見えなくても、命がけでご回向させていただかなくてはならないと、思いを定めてかかりたいものです。。。