清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

プロの作品

2015年03月28日 | 日記

本堂に司会用の台が置かれました。

常住寺の前・局長、斉藤勝男氏が一から作って下さいました。

もう、日曜大工の域を超えています。

ウチには一級建築士のご信者がいますが、その方が「プロの仕事だ!」と讃える腕前です。

完成は、3月22日の門祖会・春季彼岸会総回向に間に合わせてこしらえて下さいました。

いまは、4月29日に奉修の、別院三祖お会式にむけて、別院用をもう一台つくっていただいているところです。

その他、ご法門台の表面の仕上げ、法鼓の台、ご教歌のカンバンの製作、60インチモニターの台、

20インチモニターの台など、たくさんの作品が、本堂に置かれています。

これら斉藤さんの作品は長年に亘って、お寺の顔として、ご奉公のお役に立つことでしょう。

お寺の什物として、すべて、だいじに使わせていただきます。

その斉藤さんは、毎朝お参詣されています。

いつも変わらず、同じ時間に、同じ場所にすわって、リズムよくお看経されています。

ボクは、斉藤さんがお参りされる時間帯を心待ちにしています。

いっしょにお看経をあげるのが楽しみであり、日常の景色であり、その音声がたのみでもあります。

正確で優しい音声は、導師座のご奉公の助けとなっているのです。

これからもすっと、ごいっしょにお看経させていただき、同じ時を重ねて参りたいと思います。

 


耳で聴く

2015年03月25日 | 日記

先日、玉川信行寺さんにお参りしました。お導師に6月のお会式をお勤めいただくので、お願いのご挨拶にあがったのです。

寺務所の前まで来ましたら、二階の本堂からお看経の声がきこえてきました。どなたでしょうか、女性の声で、素晴らしくよいお看経の声です。

本堂に上がりました。声の主は、一番前で、姿勢正しく一生懸命に、お看経をあげていました。

ボクもいっしょにお看経をあげたのですが、その方のおじゃまにならないようにと思い、声のトーンや速度などを合わせてお唱えしました。

いっしょにお唱えし始めて一回目の息つぎの時、お題目がずれました。すかさず合わせたのですが、二回目の息つぎからは、向こうが意識して合わせてくれました。

ちゃんと、他人の(ボクの)お看経の声を聴いて、お看経されているのが分かった瞬間です。

知らないモノ同士が、同じ空間でいっしょにお看経をあげる。当然、二人ともご宝前に向かってますから、同じ本堂にいましても目を合わせるワケでもありません。

でも、耳で聴いて、ちゃんと呼吸を合わせて、声を合わせてお看経をあげて下さいました。

ボクは僧侶です。ですから、そういうことはいつも意識してお唱えしています。音程も、音痴にならないように、(女性の音程)ソプラノでお唱えしました。

その事を、向こうは気づいたようでした。そして、早さやタイミングを、向こうも合わせてきてくれたのでした。

些細なことですが、すごく大事なことです。たいしたものだ。素晴らしいと思いました。おかげさまで、とても良いお看経があがりました。

二人以上であげるお看経は、「セッション」です。息継ぎの時に、声がずれたら、他の人と合わせてお唱えすることができません。

でも、ずれる人は結構多くいます。しかも自身で気づいていない。こうなると、もう、誰かと一緒にお唱えすることはできなくなる。お題目がガチャガチャです。

ガチャガチャのまま、通そうとする人もいます。気づかない人もいる。原因が自分だと気づかず、息つぎのたびに、本堂のお看経がバラバラになってしまうワケです。

そういう時は、気づいた人が合わせてあげれば良いのですが、なぜか、それができない人がいる。これは残念なことです。

信行寺さんのご信者さんは、実にみごとでした。本堂でいっしょになって、顔も目も合わせないウチから、お互いに合わせてお看経をしようと意識して下さいました。

そして、とても良いお看経、熱烈なお看経があがりました。

この方は先にお帰りになりましたが、お帰りの歳、ごあいさつ下さいました。信行寺さんには、とても素晴らしいご信者さんがいらっしゃいます。


御教歌 いきてゐる つもりのなか中の けふにても しぬにうらみの なきつもりせよ

2015年03月21日 | 常住寺のご信者さんへ

3月22日。常住寺の門祖会&春季彼岸会総回向のご法門です。当日配布する「ご法門のしおり」と若干ことば使いがちがいます。一つ前のコラム・日晨上人のある角度からとあわせて、お会式・彼岸会ご法門となります。


 

ご教歌 いきてゐる つもりのなか中の けふにても しぬにうらみの なきつもりせよ


「み教え」に耳をかたむけて、まずは、「この世が無常であること」を感じとってほしいのです。

 

いつ死がおとずれても後悔のないように「功徳を積むこと」を日々お教えいただくのですから、今日もまたお参詣と菩薩行に励むことを心がけましょう。

そうやって歩んでいくと、いま生きている瞬間を、ご利益で、苦難を乗り切れるご利益をいただけるようになるのです。


 

 

諸行無常
諸行とは、(生命も含めて)作られたものすべてをいいます。

無常とは、この世のモノはすべて、つねに変わりゆくものであり、一瞬といえども同じ状態を保つことができないこと。

人々が「常」であると見るのを、「そうではない。(無常)である」と諭し、

逆に、常に変わらないのは、仏さまや仏さまの教え、そして、その御徳は不変であると教わります。

これを「常住」と言い、そういう功徳の世界を「常楽我浄」と申します。


『方丈記』(鴨長明)「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
形あるモノはいつかは壊れ、桜はまたたく間に散り、流れる川の水は変わらぬように見えても同じ水ではない。


いろはにほへどちりぬるを  諸行無常
わがよたれぞつねならむ   是生滅法
うゐのおくやまけふこえて  生滅滅已
あさきゆめみじゑひもせず  寂滅為楽


つもり【積(も)り】
1 前もってもっている考え。意図。心ぐみ。「成功する―でいる」「怒らす―ではなかった」
2 実際はそうでないのに、そうなったと仮定した気持ち。「死んだ―で働きます」
3 予想して計算すること。見積もり。「―がはずれる」
4 酒宴で、その酌で終わりにすること。おつもり。「これで今晩は―にしよう」
5 積もること。重なること。「人の心をのみ動かし、恨みを負ふ―にやありけむ」〈源・桐壺〉
6 限度。かぎり。「銀(かね)も使ふ―あるものぞかし」〈浮・俗つれづれ・二〉
[補説]1~3は「心算」とも当てて書く。[類語]意図。心組み(心づもり)。思惑。


人はいつかは必ず死にます。ただ、いつなのかは分からないのです。

無事なら無事。死ねば死にます。生きるか死ぬか。うまくいくかダメか。

ダメなときは一瞬でくる。その場面までだれも分からないし、その場面までは、いつもの景色です。

ご信心は目には見えないマイナスのご縁を、よい方向へと変えていただけるのです。

だから、「いそがしいから後で」とか「体調がよくなってから」という思いを横に置いて、

「いまでしょ!」という風に思いを定めてやってみる。お看経をあげる。お参りさせていただくのがいいんです。

そして、その「いまでしょ!」が連続していって、いつもやってて、それでお守りいただけるんです。

「つもり」は、心づもりであって、予想して計算すること。死ぬなんてことは考えない。当然でしょ。明日も生きてるつもりです。

でも、一瞬さきだって分からないのが本当です。だから覚悟はもってて、功徳を積みつつ進んでいきたいのです。


壁にぶつかって(日晨上人 ある角度より)

2015年03月21日 | 常住寺のご信者さんへ

【本文拝見】(3月22日 常住寺の門祖会・春季彼岸会総回向の中でも拝見しました。)

「生死の二法は一心の妙用」という言葉があります。生死とは何か、一心とは、妙用とは何かと一つ一つ深く詮索すると人生の一大事を説いたものなので解明がちょっとむずかしくなりますから、ここでは一般向きに説明しますと、万事、生かすも殺すも、人聞の心の働かせ方いかんによるということです。少々こみいった問題になると、すぐ悲観的な見方をして、駄目だというだけで、何んとかその中から妙案は生まれぬものかと努めないで、投げだすことしかいわぬ人がよくあります。

ところが、物事は窮すれば通ずる活路が必ずあるもので、あきらめずにその活路を見出す手段をこうずれば、不可能に見えたことも可能に変わるから、希望的な考え方を放棄してはならぬと教えた言葉です。
しかし、実際問題になると、どうにもならぬことはたくさんあります。また甲にはできても乙には出来ないこともあります。独力では駄目でも、他の協力でできることもあるし、短時間では出来ないが時間をかければ可能なこともあります。ですから、自分のカの限界を忘れて、何んでも可能というのは、あやまりだと思いますが、だから駄目というのもあやまりで、協力者如何によっては、可能と考えるのが人生観として大事だと思います。

法律相談所の仕事をしている先生の話ですが、相談所へ相談に来る前に二年も三年も思い悩んでいたことが 一ぺんに埒があいて有難いという人がときどきあるそうです。つまり、自分では活路が見出せなかったのが、専門家に教えられたら、すぐわかったということで、商売上のことも、病気などについても、そういうことがあるはずですから、悲観的になるのは、どうかと思います。多くの人は教えも乞わず、ちょっと考えて、あるいはやってみて、うまく行かぬと、すぐ、駄目だというのです。生かすも殺すも心の働きによるということを、モッと考えて貰わねばなりません。

中には、凡夫だから、素質がないから、学校を出ていないからと、自分を見くびる考え方ばかりする自虐性に富んだ人もあります。事実、人間の心を深くみつめれば、煩悩充満の荒凡夫であることは間違いはありませんが、また反面には、仏に近い聖い心もあるのです。ですから、宗教上の達人は、みなロをそろえて人間は悪人だと指摘しますが、だから駄目だとはいいません。好い気になって独走するのは、危険だと警告して、善道に心をむけさせようとなさるのです。悪人としての自覚のないものに、人生の活路を説いた教えを善聴するものはないからです。従って各自の知恵とか力量とかが、あるところで限定されていることを知ることはよいことですが、では、それ以上は駄目と考えることは間違っています。けわしい人生行路ではあっても、必ず活路ありという信念を失ってはなりません。

生死の二法の、生は始め、死は終りです。朝起きたときは一日の初めで、夜寝るときは、一日の終り、旅行に出発したときは生で、帰宅したときは死です。仕事にも勉強にも部分的な生死もあれば、総合的な生死もあります。 そして、成功者も不成功者も、若人も老人も臨終で、万事の終りとなります。

仏立開導日扇聖人のご教歌に
「生きているつもりの中のけふにでも しぬにうらみのなきつもりせよ」と仰せられてありますが、生に対する見つもりをたて、いろいろ考える人はいても、万事の終りと思う死に対しては、つもりをたてる人は少ない。それからさきどうなるかわからぬことには手がでないのでしょう。気のきいた人は死後のことをアレコレ心配する人はあっても、自分の死そのもののツモリを考える人はない 。死を生かす術がわからないからでしょう。ところが信心の世界では、その死の生かし方を考えるのです。それを一心の妙用といわれたのです。そういう不可思議な働きが人間の心にはあると教えたのが、妙法の信心です。死は永遠の終りでなく、次の生への出発と観ずるのです。信によって、そういう考え方を養成し確立し、あらうれしやうれしやと唱え死をすべく努力するのが、私どもの信心です。その信心を得たときに、生きているつもりの仕方までがよく転換できることは申すまでもありません。


3月2日 3月3日

2015年03月05日 | 日記

3月3日。まる一日かけて、瓔珞(ようらく)をオーバーホールしていただきました。

つなげている銅線の取り替えと、長さの調節などの作業でした。

福井信生堂さん。ありがとうございました。

瓔珞(ようらく)。写真のなかでは、金色のお道具がようらくです。

ガラスの中のまん丸が連なったもの(下の写真)も、中央に垂れ下がっているのも(上の写真)、

両方とも「瓔珞(ようらく)」という荘厳仏具です。

ほんのちょっとの長さ調節ですが、全体をバラしましたので、作業する福井さん方々は大変だったと思います。

おかげさまで、ご宝前さまがよく拝見できるようになりました。ありがとうございました。

この日は夕方5時から、布教区参与会でした。

ご尊像をご遷座申し上げ、本堂階下の会議場へ。あとは泰信師がして下さいました。本当に感謝です。


 

3月2日は、上尾別院の月初お総講でした。

おとなりにあったロッテリアのドライブスルーがなくなり、あらたにコンビニができるようです。

別院のとなりがコンビニ。。。ありがたいじゃないですか。

というワケで、起工前の更地です。そのとなりはブックオフ系列の中古品売買店ができました。

写真中央のガソリンスタンドの左となりには、広大な面積のアリオもできました。

境界線はこんな感じです。土の部分も、数センチは、常住寺の土地です。

別院からすぐの新しい道。国道17号線の大宮バイパスが本線と合流したところが始点です。

いまは一車線ですが、二車線目も作っている最中みたいです。完成したら、片側3車線でしょうか。

圏央道の桶川インターに接続する、17号の新しいバイパスです。


 

夕方は、終戦70年法要の打ち合わせで、清雄寺さんに参りました。

小山ご講尊猊下のご法宅と第4世講有日教上人ご墓所前から見たスカイツリー。

夜は、清雄寺さんの屋根瓦と漆喰の外壁がスカイツリーの照明で染まり、なんとも幻想的です。

第一教職舎前で、同期のお講師と。

第二教職舎の下で、じばにゃんと撮影。

会議終了後はとん平さん。とんちゃんのお料理は最高です。。。