清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

真似て ならう

2018年05月08日 | 学び ・ すすめ

先日・5月6日(日)

ウチの別院(常住寺には、埼玉・上尾に別院があります)でお会式を奉修させていただきました。


ご法門は、こころの中の「ほとけ心」や「闇のこころ」について、お話しさせていただきました。

自分の中に、色々な自分がいます。

目線や立ち位置で、思考が大きく変化する。

置かれた環境で、モノの考え方が変わります。

よい信心前の人に囲まれれば、功徳を積もうとする良き信心前が芽生えます。

果たして、自分は、いま、どこを向いているか。

そして、他人に、どんな影響を与えているのでしょうか?


自分の言動が、人に影響を与えるなら、ご法門も、伝え方で大きくかわります。

上尾別院のお会式では、勇ましく説こうと思いました。だけど、優しく。

義は強く、こと柔らかに・・・です。


乗泉寺に、ボクの尊敬するご信者さんがいます。九州ご出身の女性です。

今回は、このお方のしゃべり方をイメージして説きました。

ようするに「ものまね」です。

但し、ふざけるのではなく、雰囲気やトーンをまねてみました。

すると、なんだか、慈しみの心が深まったような感覚に包まれました。

不思議ですね。


真似るって、こういう効果があるんだなぁ。。。

そう感じました。

やはり、「ならう」「まねる」というコトが、

ものすごく大事なんだって思えた瞬間です。


よいお手本を真似る。恩師のご信心前をそっくり真似る。

そうやって、良い坊さんになるんでしょうね。

ふざけて不良の格好をしたら、そういう気持ちになっちゃう。

清浄な出で立ちに整えたら、気持ちもそっちを向きます。


おふざけでも

「きらいだー」「ばかやろー」「あっち行けー」なんて言ってたら、

本当に仲が悪くなっちゃうかも知れませんね。

コトバって大事です。

ほんと、思いやりや、感謝、慈しみのこころを、コトバにして伝えたいものです。


人を恐れず、勧め励ます人

2016年11月04日 | 学び ・ すすめ
先般、「第五支庁報・平成28年 秋号」の巻頭言を書かせていただいたので、それをそのまま、記載しました。この文章のタイトルは「人を恐れず、勧め励ます人」です。読んでいただければ分かりますが、ボクが大学一年生(18歳の夏)時の体験談です。ですが、この文章の主人公はお師匠さまです。そう思って読んでいただければ、本稿の意図を感じ取っていただけるんじゃないかと思います。しみじみ書きましたが、実は強烈なメッセージが込められています。どこに向けて?(笑)





昭和61年。夏休み限定であったが毎日、ご信者宅にて詰め助行をさせていただく事になった。得度5年目、初めての受持を賜った年の事である。

助行先は高齢なご婦人のひとり暮らし。ご自宅は古い木造平屋、床は抜け落ちそうで、窓は隙間があり、扇風機もない室内はもの凄い湿気と暑さで、ここに住んでいては体力を失ってしまうのではないかと心配するほどであった。ご宝前のすぐ脇には、ご法様の方に頭を向けて、久しく万年床となっているであろう煎餅布団が敷かれていた。

このご信者は、婦人会常任として連合婦人会を先導していた。恰幅がよく、声が大きく、凜とした雰囲気と優しいまなこが印象的であった。そのお姿を、まだ子どもだった頃の小僧は、高く見あげて頼もしく拝見していた。大変かわいがって頂いた。お寺の顔であり菩薩のご奉公者であった。それが、その頃のお姿が想像できないくらい別人のようにやせ衰えていたのに大きなショックを受けた。そして、連日のお助行が始まった。

こういうご奉公は、当たり前だが、気がつかなければ行われることはない。また、「他人さんの家の事情だから、余り立ち入らない方がよい」とか、「お年だからそっとしておいてあげよう」とか、尤もらしい事を言い合って結局何もナシという結果になってしまう事も充分に考えられる。クレバーな信心の典型と言えよう。そこを、ご奉公できるようにとお師匠様がご指示下さる。躊躇している教務部・役中を叱咤激励して、一人のご信者がご利益をいただけるようにと、「お勧めする側のご奉公者」をご指導下さって、事が進んで行ったのである。こういうご教導の連続で、常住寺は御弘通を伸ばしたのであり、また、世間を舐めたような学生であった小僧にさえ、功徳を積む機会を与えて下さったのである。

以降は毎日、夕方になると厨房のおばちゃんがおにぎりを握って、お新香と教務部の夕食と同じおかずを少々添えたお弁当を作って下さった。それをお供水さんと一緒に持参し、お線香一本のお助行をさせていただき、お看経が終わってから、一緒におにぎりをいただいた。前述の通り、部屋は蒸し暑い。小僧はネクタイをしめて上着も着ている。毎日汗だくであった。おにぎりがのどを通らない。しかし、一緒に食べてこないと帰山してから報告に上がった時にお叱りをいただく。仕方がないから毎日、無理矢理おにぎりを頬張った記憶がある。お導師は、食事がのどを通らないご信者さんが、少しでもお仏飯とお供水を口にできるようにと願って、「一緒に食べてこい」とご命令下さったのであった。そしてご自身もこまめに、昼間の内に巡回をされた。

お助行は夏休み一杯続いた。学校が始まっても続けてさせていただくようにとご命をいただいたが、学校が遠いという理由で断ることができた。非道い話しである。ただ抑も、その頃このご信者は、既に自宅でひとり暮らしできる状態ではなかった。お導師が親戚に連絡をされ入院することになった。そして一年一月経った日に訃報が届いた。悲しかった。もうお年だったので寿命だと言われた。その通りであろう。しかし、止めどもなく涙が流れた。

当時、思いを込めてご奉公に当たろうなどと考えもしなかった木偶の坊が、お導師の厳しいご教導の元で何とか、ご奉公らしい事をすることができた。真似をすると身体が覚える。それでも屁理屈が先行していたが、ご薫陶をいただき、お側にいるだけで心や所作を習っていたと思う。だから、お側でお仕えできるのはとてもありがたい事だったのだと、今頃になって思い返している。

いま、そんな愚かなモノが住職のお役を頂いている。やがて次の世代のお講師ができるであろう。そんな時に、「あそこは、師匠にも師匠が必要だな」などと揶揄されないよう信心を磨かねばならないと、ご薫陶を思い出しては、常々懺悔改良の日々を送っている。

東京都北区の 【 神谷・東十条プラザ 】 にて

2016年10月12日 | 学び ・ すすめ

現在、隔月で、北区行事から【お坊さんのお話し】の場をいただいています。

会場は神谷・東十条プラザです。

本日(平成28年10月12日)で3回目のお話し会です。

今回のテーマは、子どもの貧困、です。

以下、今回の資料を記載いたします。


① 全世界の ( 地球全体の ) 子どもの貧困


【 問題のカテゴリー 】
保健  HIV/エイズ  水と衛生  栄養
教育  子どもの保護  緊急支援
武力紛争と子どもたち  難民・避難民  子どもの兵士
児童労働  女の子・女性  児童婚  子ども買春・ポルノ
子どもの権利  子どもの参加  コミュニティ  乳幼児ケア

■全世界で5人に1人、つまり12億人もの男性・女性・子どもが現在、極度の貧困状態におかれ、1日1ドル未満で生活することを余儀なくされています。また、世界では約半数の人々が1日2ドルという貧困レベル以下で生活しています。
 
■約8億2,400万人が飢餓状態にあるか、もしくは不安定な食料供給に依存しています。そのうち5億人は、慢性的な栄養失調に苦しんでいます。
 
■全世界には、栄養失調に苦しむ子どもが1億7,000万人。学校教育を全く受けることができない子どもが1億人以上。中等教育を受けられない子どもが2億3,000万人います。そして約2億5,000万人の子どもが、自分が生きていくために、そして家族の最低限の生活を支えるために働いています。
 
■ 世界では、およそ7億9,500万人(9人に1人)が、健康で活動的な生活を送るために必要かつ十分な食糧を得られていません。
 
■ もし、女性の農業従事者に対し、男性の農業従事者と同程度の資源を提供することができれば、世界の飢餓人口は最大で1億5,000万人減らすことができます。
 
■ 飢餓に苦しむ人々のほとんどは開発途上国に住んでいます。途上国では人口の12.9% が栄養不良です。
 
■ 地域別の飢餓人口の人数は、アジアが最大(全世界の3分の2)です。近年、南アジアでは、飢餓人口が減少していますか、西アジアではわずかに増えています。
 
■ 地域別で最も飢餓人口の割合が高いのは、サハラ砂漠以南のアフリカです。この地域では、4人に1人が栄養不良です。
 
■ 5歳になる前に命を落とす子どもの半数近く(45%)は栄養不良が原因です。その数は毎年、310万人にのぼります。
 
■ 開発途上国の子どもの6人に1人(約1億人)は低体重です。 
 
■ 世界の子どもの4人に1人は、発育阻害(※)の状況にあります。開発途上国では、この割合が3人に1人にまで達します。※ 発育阻害:年齢の割に背が低いということで、慢性的栄養不良の代表的な症状。
 
■ 開発途上国全体で6,600万人の小学生が空腹のまま学校に通っています。そのような子どもはアフリカだけで2,300万人もいます。
 
■ 全世界で学校に通えない子どもの数は、5,800万人を超えます。戦争や貧困、女性であるというだけで、教育が受けられません。
 
■ 読み書きができない成人の数は8億4,000万以上(全世代で6人に1人)にも達しますが、そのうち65%は女性です。
 
■ 世界で16億人が飲料用の水を利用できずにいます。
 
■ 8億人は保健医療サービスを利用できません。
 
■ 世界に49ヵ国ある最貧国のうち33ヵ国が集中しているアフリカでは、2,810万人がHIV/エイズに感染しています。今後10年間に、アフリカでは4,000万人の子どもがエイズで親を失うと見られます。
 
■ 先進国には人口350人につき1人の割合で医師がいます。しかし、途上国には人口6,000人当たり1人の医師しかいません。
 
■ 全世界の消費支出の86%は先進国に住む20%の人々によって消費されています。これに対し、世界で最も貧しい20%の人々は、全体のわずか1.3%しか消費していません。
 
◎ 先進国には、500万人以上のホームレス、3,700万人の失業者が存在します。そして所得貧困ライン以下の生活を強いられている人々は1億人以上にのぼります。日本国の現状はというと、ひとつには、子どもの貧困、親から子どもへの、貧困の連鎖が大きな社会問題になっています。
 

② 日本国における、子どもの貧困。親から子どもへの、貧困の連鎖。
 
貧しさに苛まれる子どもたち
日本では、6~7人に1人の子どもたちが貧しい家庭で暮らしています。
NGO団体が2010 年 7 月から 2011 年 2 月にかけて行った調査で寄せられた声を紹介します。

「塾行きたくても行けない。勉強したくても出来ない。」(小 6・11 歳・女子)
 
「ほっときゃ治るやろってめっちゃ言われた。胃腸が悪くて、病院行くときもなんか治るみたいな、そんなん行かんでいい、お母さんかって我慢してんねんから、みたいな。」(17歳・女子)
 
「あたしの友だちが、修学旅行とかになんか、お金がないから行かれへんって子がおった。」(高 3・女子)

「お母さんとお父さんとか、仕事行ってるとして、お金ないからずっと働いてるやん。朝とかに帰ってきたりして。ずっと家の中でもひとりぼっちとか。学校でもひとりぼっちやし、家でもひとりぼっちやし。」(中 1・女子)
 
「正直なんか良い学校に行こうと思ったら学校の勉強だけじゃ足らない部分って絶対あると思うし、塾に行こうと思っても行けれへんかったら、良い学校行けれへん、就職も出来ひん みたいな。極端かもしらへんけど。」(中 3・15 歳・女子)

国民生活基礎調査で、平均的な所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子供の割合を示す「子供の貧困率」が、2012年に16.3%と過去最悪を更新したことが分かりました。1クラス40人とすると、うち6~7人が貧困であるということです。世帯単位に換算してみると、親と子1人ずつの一人親世帯(2人世帯)で年額173万円、
月額約14万円、親子4人世帯で年額244万円、月額20万円余りの収入。子どもの教育には、どうしてもお金がかかります。義務教育であっても、たとえば教科書は無償配布ですが、副教材は実費だったりします。ひとり親で月額14万円となると、苦しい生活になることが想像できます。

データから見る:子どもの教育にかかる費用

小学校の学校教育にかかる費用の例として、文部科学省の子どもの学習費調査(2012)による、以下のようなデータがあります。
授業料:0円 修学旅行・遠足・見学費:6019円 学校納付金等:9154円 その他:3326円 
教科外活動費:1763円 図書・学用品・実習材料費等:1万7957円  通学関係費:1万6978円

また、学校だけでなく学外での活動もあります。
学校外活動での費用については以下のようになっています。
家庭内学習費:1万3752円 家庭教師:1万4998円 学習塾費:5万7176円 その他:1492円
体験・地域活動:5023円    芸術文化活動:3万5167円
スポーツレクリエーション活動:5万3109円   教養・その他:2万7853円
 
■これらの年間およそ25万円以上の費用を、貧困世帯では負担することができるでしょうか。もし、捻出できないとなると、子どもたちは、周りの友達と同じような子ども時代を送るのは難しいのかもしれません。


貧困の連鎖とは|貧困は子ども時代だけでは終わらない

こういった子どもたちは、貧しい子ども時代を過ごします。小学校では友達の話についていけない。中学では修学旅行に行けない。高校では進学塾に通えない。中学を卒業したら働きに出る。そうやって子ども時代を過ごし、彼らはやがて大人になります。十分な教育を受けられなかったり、人間関係を築く練習ができなかった子どもたちは、どのような大人になるでしょうか?貧しくても勉学に励み、大人になってから大成した人というのも、きっといるでしょう。しかし、そういった人たちは一部でしかありません。また、貧困層でなかった人と比べると、並々ならぬ努力をしていると想像できます。住み込みで新聞配達をしながら学校に通う人と、私立の学校に通う人を比べたら、やはり環境による影響は何かしらあると思うのが自然です。


「貧困の連鎖」の定義
 
「親が貧困だとその子どもも貧困になる」ことを、「貧困の連鎖」と言います。重要なのは、単に子ども時代に貧困であるだけではなく、「大人になっても貧困のまま」であることです。貧困によるさまざまな”不利”は、大人になってからも一生付きまといます。要するに、親の所得や職業が、やがて子どもの所得や職業を決定してしまうのです。今の日本は、子どもの将来が、生まれ育った環境によって左右されてしまう社会であると言えます。

「貧困の連鎖」の現状
 
厚生労働省の調査による生活保護世帯に属する子供の大学等進学率のデータあります。
このデータによると、2014年4月1日現在、生活保護を受給する世帯の子どものうち大学等へ進学するのは31.7%%です。一方で、文部科学省、平成25年8月報道発表による2014年の高校卒業者全体の大学進学率は、70.2%です。生活保護受給世帯の子どもと、子ども全体との間に40ポイント近くの差が生まれているのが現状です。貧しい家庭の子どもは資金的・知識的な援助が不足し、なかなか親と同じような所得・階級から脱することができないというのは、想像にたやすいことのように感じますが、実際にどれだけの割合で、貧困は連鎖しているのでしょうか?生活保護を受給している母子世帯の約40%が子ども時代に生活保護を受給しているという事実です。
・父の所得が低層(下位25%)で子の所得が低層(下位25%)になる割合は31%
・父の所得が高層(上位25%)で子の所得が高層(上位25%)になる割合は38%
・父の所得が低層(下位25%)で子の所得が高層(上位25%)になる割合は20%
・父の所得が高層(上位25%)で子の所得が低層(下位25%)になる割合は16%
 
貧困の連鎖が起こる原因|カギとなる「教育」
 
貧困の連鎖についての様々な研究から、親の貧困が子どもに継承される要因は複数あると考えられています。中でも、最も強い要因として挙げられるのが「教育」です。学歴とも言えますが、すなわち子どもへの教育投資の格差の影響が大きいようです。この点については、政府も重視して対策を考えているようです。
 
次に重要なのが、「職業」だといわれています。
たとえば農家や不動産を営む家庭は子どもへとそれを継承することが多いですよね。企業の経営者も、子どもに跡を継がせたり一定の地位を用意することがあります。また、医者の子どもも将来医者になることが多いと思います。そこまで極端な例でなくても、子は親の背中を見て育つというように、親の職業や働き方が子どもの将来に影響するというのはうなずける話かと思います。

社会全体の1人当たり所得の中央値
 
2012年:244万円
2013年:人口全体の16.1%の人々の所得が、2012年の半分の数字、【122万円】という貧困基準を下回っていました。
 
1986年にこの調査が始まってから、最悪の数字です。18歳未満の子どもで、貧困基準以下の世帯に暮らす割合は16.3%。これも過去最悪。16%というのは、約6人に1人、40人のクラスなら6.5人です。親が貧困だとその子どもも貧困になる」ことを、「貧困の連鎖」と言います。重要なのは、単に子ども時代に貧困であるだけではなく、「大人になっても貧困のまま」であることです。貧困によるさまざまな”不利”は、大人になってからも一生付きまといます。要するに、親の所得や職業が、やがて子どもの所得や職業を決定してしまうのです。今の日本は、子どもの将来が、生まれ育った環境によって左右されてしまう社会であると言えます。

【 大阪府が実施したアンケート調査 】
経済的な理由で、この1年間に子供を医療機関に受診させることができなかった経験のある大阪府内の世帯が1・8%あることが11日、府が公表した子供の生活に関する実態調査の集計(概要)で分かった。習い事や学習塾に通わすことができなかった世帯も1割を超えることが判明。

保護者への質問(複数回答可)
経済的な理由で食費を切り詰める。新しい服や靴を買い控えたりした経験のある世帯が約4割。5割近くが、趣味やレジャーの出費を減らした経験があると答えた。
 
子供への質問
 
放課後を誰と過ごすかという問いに
「ひとりでいる」と回答したのは小学生で16・6%、中学生は17・1%。
どこで過ごすか(複数回答可)
スーパーやショッピングモール(5・0%) コンビニエンスストア(2・7%) ゲームセンター(1・8%)
 
夕食の頻度
 「毎日またはほとんど毎日」が99・1% 「週に4〜5回」にとどまるが0・5%いた。
学校以外で1日に勉強する時間について
 「まったくしない」と回答したのは、小学生で3・1%、中学生で9・7%に上った。
 


③ 仏 教 か ら の ア プ ロ ー チ
 
布施について
与えること、施し、喜捨、恵むこと。金品や財物を与えることばかりでなく親切な行いも布施である。
3種類の布施 ①財物を施す財施 ②仏法を説いて会得(えとく)させる法施 ③人々の恐れを取り除いて安らぎを与える無畏施。
 
む‐い〔‐ヰ〕【無畏】
仏語。おそれるところのないこと。
特に、仏が法を説くときの何ものをもおそれない態度。4種あると説き、四無畏という。
 
むいせ【無畏施】三施の一。人におそれの念を起こさせないこと。恐怖心を取り除くこと。

怨親平等(おんしんびょうどう)
仏教用語。怨敵と親しい者とを平等にみるという意味。仏教の根本精神は大慈悲であるから,にくい敵であるからといって憎むべきではないし,また親しい者であるからといって特に執着すべきではなく,平等にいつくしみ憐れむべきことをいう。
 
【五常】
儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道をまっとうすることを説いている(但し“弱者の保護”は説かれていない)。
仁は、人を思いやること。人を愛すること。私心(利己的)を克服して礼を重んじること。
 
義は、利欲にとらわれず、なすべきことをすること。正義。中国思想においては、常に「利」と対比される概念である。
 
礼は、「仁」を具体的な行動として表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに上下関係で守るべきことを意味するようになった。
 
智は、道理をよく知り得ている人。知識豊富な人。
 
信は、友情に厚く、言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、前漢の董仲舒は五行説にもとづいて「信」を加えた。

ストレス

2016年07月16日 | 学び ・ すすめ

ストレス【stress】 (goo辞書より引用)
生体にひずみの生じた状態の意。寒冷・外傷・精神的ショックなどによって起こる精神的緊張や生体内の非特異的な防衛反応。また、その要因となる刺激や状況。


ストレスとは何か。現代の心理学や医学の世界には「ストレスはこういうもの」という明確な定義がない。なぜかと言うと、ストレスを完全に解決する方法がいまだに見つかってないからです。お医者さんはいろいろな検査をしますが、脳にも内臓にも異常は見つかりません。そこでどうしようもありませんから、とりあえず身体に現れている症状を抑えるために何らかの薬を出すのです。


どのようなときにストレスがかかるか? 一般的には、人間関係がうまくいかなかったり、過度に忙しかったり、嫌なことがあったとき、と考えられています。しかしそれだけではありません。楽しいことをしているときにもストレスがかかる。「今日一日遊び過ぎた、やらなければならないことがあったのに」。有給休暇をとって温泉や海外旅行に出かけた。そのときも心のどこかで「こんなにのんびりしていてもいいのだろうか、みんな一生懸命仕事をしているのに」と不安になり、あるいは逆に、休暇の最終日が近づいてくると「あー、休みが終わってしまう。明日からまた会社に行かなくては。もう二、三日休みがほしい」と、こうやってストレスを溜める。それから、寝ればストレスは解消されると思っている人も多いでしょうが、寝てもストレスは解消されません。逆に「寝すぎてしまった」と自己嫌悪に陥るのです。何かに没頭して夢中になっているときにもストレスはかかりますし、退屈で何もすることがなくても、ストレスはかかります。退屈だと心が暗くなって元気がなくなり、落ち込んでしまうのです。

したがって専門家のあいだでは、ストレスは生きている限りずっとあるもので、ストレスのない人はいないと考えられています。もし嫌なことをやっているとストレスがかかり、楽しいことをやっているとストレスがかからないというのなら、ストレスを定義することができますし、それを解決することもできます。嫌なことをやめて楽しいことをすればいいのだから。しかしストレスは厄介なもので、そう簡単には解決できません。好きなことをしていても、寝ていても、何をしていても、ついてくるものなのです。

(以上、根本仏教講座・本文)


ストレスは三毒

仏教講座のコラムでは、「ストレスは三毒である」と説かれていました。三毒、すなわち「貪欲」「瞋恚」「愚痴」がストレスだと言うのです。上記の文章のように、「楽しくてもストレス」というのは、まさに、獲られても更に欲しくなる貪欲な様子をうかがうことができます。どっちに転んでも最終的には愚痴がでます。ですから、三毒が盛んで強い状態から、ストレスがおこるというワケです。


(上記コラムの筆者が、)ある方から「会社に行けなくなった、どうすればいいでしょうか」と相談を受けたことがあります。話を聞いてみると、その人は大変な怒りを抱えていて、上司が嫌だ、同僚が嫌だ、嫌な仕事が山積みになっていると、不平不満を並び立てるのです。私はその人に何のアドバイスもできませんでした。なぜならその人は私に「別の怒りを作ってほしい」と考えていたことが分かったからです。つまり「あなたは悪くありませんよ、嫌な人間関係に負けないで頑張りなさい」というふうに。この類のアドバイスは世の中の心理カウンセラーたちが一時的な対処法としてやっていることであって、仏教では、怒りを正当化して人のやる気を起こさせるようなことはやりません。仏教は「完治する方法」を教えています。ストレスを完治させるためには、心を客観的に観察しなければなりません。ですから、彼にアドバイスできることは「心を客観的に観てください。怒っているのはあなたではないですか。悪いのは、いかなる場合でも怒った人です」ということ。でも残念ながら誰も「自分が悪い」ということは認めたがらないのです。(以上、根本仏教講座・本文)


他人や世間を厳しくジャッジしている状態。「いまの政治はなっていない。」「こんなのは常識外れでふざけている。」「そんなことは許されるモンじゃないぞー。」などと、叱る側に立つことを無意識にも望んでいる人には、常にストレスがついてまわっているのかも知れません。むさぼり、怒って、求めても得られない苦しみの連鎖があるようです。

こんなときにはお題目をお唱えするに限ります。コンコンと唱え続けるのです。上行所伝のお題目は、人のこころの中の三毒をよい方向へと変えて下さいます。いかりまくっている人も、そのいかりを蒙っている人も、どうかお題目を唱えるためにお参りしてほしいとねがいます。


 

 

 


業(ごう)と因縁(いんねん)

2016年07月14日 | 学び ・ すすめ
業の深い人生とか言います。業は行いです。因縁は行いや思考を原因として善し悪しの結果を受けることです。因縁を、悪い方向から良い方向へと修正していただけるのがお題目です。その、業と因縁について、根本仏教講座で解説していただいてたので、本文を拝借して、(抜粋して)次の通り記載しました。

業と因縁
(1)全てのことに理由がある     A・スマナサーラ長老
 
■日本でいう「業と因縁」とは?■
「業と因縁」と言えば日本ではごく普通に使われている言葉。
 よく開くのは「業が悪い」という言い方。また「因縁」という言葉もよく出て来ますが、たとえば、人に会った時に「ご縁があったんですね」というふうに言う。「これも何かの縁ではないか」とかね。何かよくわからない場合に、私達はそういう言葉を使うようです。
 
なぜこうなったか分からない、或いは偶然人に会って、何かものごとが非常にうまくいったような場合。まあ、それも何か縁ではないかと思うんですね。このように私が知る限りでは日本で縁というのは「何か分からないもの」について言うものではないかと思います。
 
例えば人が来るという約束があって会った場合、或いはこちらから会いたいと、アポイントを取って会った場合は「これは何かの縁ですよ」とは言わないんです。
 
「業」の場合も同じです。自分の希望どおりではなくて何かちょっと自分の希望と違ったことが起きた場合、特に悪いこと、不幸なこと、あってほしくないことが自分に起こったならば「業が悪い」と考えたりすると思います。
 
これらの言葉は仏教から出て来た言葉なんですね。そうすると皆様がたが因縁とは何か、業とは何かを知りたいと思うのは、ごく普通のことだと思います。では、お釈迦様は、業と因縁という2つの言葉についてどういうふうにおっしゃっているかというと、業については、そんなことは放っておきなさい、普通の人間の頭で分かることじゃない、とてもとても難しい、深いことなのだと話しておられます。人間には考えても考え切れないことなので、考えない方がいいとおっしゃいます。考えたら頭が狂ってしまうという四つの事がありまして、その一つが業なんですね。
 
ですが因縁のことは、考えるなとは言っておられません。因縁については、みんなが因縁をわかっていないから、そのためにあらゆる苦しみを味わっているんだとおっしゃっています。
 
人間の人生というのは、糸があっちこっち、無茶苦茶に絡まってしまったような状態なんですね。たとえば猫に糸でもあげて、自由に遊ばせてやるとどうなるかというと、ぐちゃぐちゃになりますよね。そしてもう元に.は戻らない。そういう風に我々の頭も人生も全部ぐちゃぐちゃになっているのは、この因縁がわかっていないからだとおっしゃっているのです。ですから因縁はもしかすると理解出来るものかも知れません。しかし業は放っておいた方がいい。同じものでもないし、テーマとしてもなかなか合うものでもないのです。
 
■全てのことに理由がある■
話を戻しますと、日本では分からないことに「何か縁があったのではないか」と言います。
 いい人に会ったとき、これも何か縁だからなどと言いますが、「縁」という言葉を使うポイントは「理由が分からない」という点にあるようですね。ところが仏教で因縁というのは、まったく逆で、いわばとても科学的な、合理的な話なんです。物事、出来事の理由、なぜこうなったのか、それを知っていることを「因縁」というわけなのです。
 
例えば、「このごろ大分寒いですね、それも何か縁ですね」というと、日本の感覚ではおかしいんです。でも仏教でいう因縁というのは、そういうものなのです。何か因縁があって今日は寒い。なぜ今日は寒いかということを皆様ご存じでしょう。季節はもう冬ですし、ちょうど寒波が来ている、だから寒い。つまり因縁とは「理由」「訳」のことなんですね。それは知ろうとすればいくらでもわかることなのです。寒さについても、更に因縁を捜せばもっと詳しくわかります。(中略)きちんとした理由、訳を捜すということ。つまり物事には、全部、きちんとした理由があるということなのです。
 
■因縁の話ほどつまらない話はない■
(中略)例えばある人が来て、私の人生は、毎日不幸なことばかり起こりますが、どうすれば明るくなりますかと聞いたとすると「あなたには何か死者の霊、怨念が付いていますね。大変です。今すぐ除霊してあげます。そうすればあなたは幸福になれます」と言えばすごく興味津々のってくるわけです。しかしもし「あなたの性格が悪い。あなたの喋り方は良くないし、人に親切でない。仕事のやり方もまずい。だから不幸になるのは当たり前だ。しっかりしなさい。良い言葉を喋りなさい。やることはちゃんとやりなさい」と言ったとすると、それは因縁の話で、あまり人気がないんです。それよりは「えいっ」と言って言葉でもかけて清めてもらった方が気持ちが良いんですね。
 
因縁の話はとても合理的で科学的で、おもしろい話ではありません。しかし人間というのは理由、訳を知りたがるものです。物事の理由、なぜそうなったかを知りたがります。それは、知った方が良いのです。知ろうと思って、変なところに行くのがおかしいのであって、きちんと、とことん追いかけて、追って、追って正しい原因を見つけるべきなのです。

だんなさん

2016年06月05日 | 学び ・ すすめ
【 旦 那 ( 語源由来辞典より )
 
(意味)旦那とは、妻が夫を、商家の奉公人が主人を、商人や役者・芸人がひいきしてくれる客を呼ぶときに用いる敬称。
 
(語源・由来)
旦那は、サンスクリット語の「ダーナ」の音写で元・仏教語。
「ダーナ」は「与える」「贈る」の意味で、「布施。ほどこし。」などと訳され「檀那」とも書く。
中国や日本では、旦那は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として、主に僧侶が用いる言葉であった。やがて、一般にも「旦那」の語は広まり「パトロン」のように生活の面倒を見る人の意味で用いられるようになった。さらに「面倒を見る人」「お金を出してくれる人」といった意味から派生し、奉公人が主人を、商人がお客を、妻が夫をよぶときの敬称として用いられるようになり、現代では主に、妻が夫を呼ぶ敬称として用いられる。
 

ほどこすという意味があったんですね。つまり、夫は家庭にお金を入れる。
自分が働いてきて得たお金を奥さんに渡して、家族を養う。これはやっぱり愛情です。
家族の生活をしっかりとみる役割なので旦那と呼ばれるようになったというのは納得です。
ただ、現代は共働きが多いから夫婦ともに旦那の役割を担ってることにりますね(笑)。
 

 仏教では、「ほどこし」「布施の行」を田んぼにたとえます。

一年かけて、やっと「お米が収穫できた。」
あまり多く実らなかったけれども、嬉しい。
 
昔なんかは食べ物が豊富じゃなかったでしょうから、現代と比べると、ずっと、そういう思いが強かったんじゃないでしょうか。
そして一年間、収穫できたお米で食いつながなくてはなりませんから、お米をとても大事にしたことと思います。
だけど、全部食べたいけれど、収穫されたお米の中から来年に向けての「種籾(たねもみ)」をとっておく。
その年の収穫がうんと少なかったとしても、これを取っておかなかったら、次からお米を育めません。
 

「布施」・「ほどこし」は、それと同じだと言います。
他に対してほどこす。身銭を切って、ほどこすのです。
特には、功徳になるようなことに「ほどこす」のです。
「これは田植えと同じだ」と、いうのです。
そういう「心がまえ」や「おこない」は、
種籾(たねもみ)が、秋には多くの稲穂を実らせるのと同じように、
やがて、あとになって自分に返ってくる。そう、教わります。
それは「自分の欲を離す」という修行でもあります。
「もったいないから食べちゃった」では、どうやら、そこで終わりみたいです。
 

ほどこしたら自分にかえってくる。でも、打算的にほどこしたらつまらないですね。
「人によくしてあげたい」
そんな気持ちの人だからこそ、功徳が積めて、そして、いつしか自分も他から恩恵を受けるのでしょう。
 

果たして、それがどれくらいのスパンで巡ってくるのでしょうか?
稲穂の収穫みたいに一年でしょうか?
それは分かりませんが、信じて善行の功徳を積みたいものです。
 
だんなさん。奥さんに優しくしてあげてくださいね。
やがて奥さんも家族も、本当に旦那を大事にしてくれますよ(笑)。
なーんて。ウチもそうしなくちゃと心得ます(笑)。
 

仏教は、そういう功徳の積み方を具体的に説き示してくれています。
それを世の人に伝えるのが、お坊さんの仕事の内容です。
お葬式だけしてるのは、本当のお坊さんじゃありません(笑)。
とにかく、「ほどこす」という「徳の積み方」を、自分から発信して行きたいものです。
「人によくしてあげる」「慈しむ」という優しい心持ちで歩んでいきたいと思います。

おなじ心の友

2016年05月27日 | 学び ・ すすめ
子曰、学而時習之、不亦説乎。
 有朋自遠方来、不亦楽乎。
 人不知而不慍、不亦君子乎。

 
子曰く
学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。
ともあり遠方より来る、亦楽しからずや。
人知らずしていきどおらず、亦君子ならずや。

 
教えを学びそれを実践する、それが喜び。同じ教えを学ぶ人(同じ志しの人)が、遠方にもかかわらず、やって来る。それは実に楽しいことである。
他人が、自分のことを理解し正しく評価してくれなくても、それを不満に思ったり、また、怒ったりしない境地。それでこそ君子である。
孔子にとっては、学ぶことが喜びであって、教えを理解できない人々の評価などは取るに足らず、気にすることはないのである。


「人の苦悩を理解するため」に知識を持とう

2016年05月11日 | 学び ・ すすめ

『超高齢・多死時代の医療と宗教の役割分担』

( ↑↑↑ タイトルをクリックで、リンク元にジャンプします。)

家庭問題で検索していたら、大阪大学の教授が講演された内容が全文アップされているのをみつけました。
テーマは上の通りで、ここのところ気がかりなテーマである「離婚などの家庭問題」にもふれていましたので、次の通り本文を引用させていただきました。
(以下、本文のコピー) 


▼熟年離婚されないために

直近の『週刊現代』にこんな凄い記事が出ました。『夫に早く死んでほしい妻たち─あなたの存在自体がストレスなのよ!─』という記事です。何故こんなに「夫に早く死んでほしい妻たち」が増えたのでしょうか? 

「何も死んでもらわなくたって熟年離婚でいいじゃないか」と皆さん思われるかもしれません。しかし、熟年離婚の場合、女性にとって3つ嫌なことがあります。1つ目は、別れる時に裁判をして争う必要がある。2つ目は、たとえ裁判に勝っても夫と財産は半分分けである。3つ目は、自分が選んだ男が駄目だったということを世間に公表するようなものだ。この3つがどうも癪(しゃく)に障る。しかし、旦那が65歳ぐらいでコロッと逝ってくれると、裁判で争う必要はなく、財産は全部自分のものになり、世間は皆、気の毒がってくれる。良いことずくめです。ですから、「密かに夫の死を望んでいる奥様たちが増えている」という、あくまでも噂の話です。でも、何人か後ろのほうで頷いておられるご婦人がおられましたから…(会場笑い)。

この話の中でひとつご紹介しますと、57歳の男性が、奥様とお2人で夕食の時に「子供たちも独立した。これまで私は家庭も顧みずに働いてきたが、退職後はお前の好きな温泉旅行や社交ダンスに一緒に参加しよう。これからは君と一緒にいる時間を大切にする。定年後は君の幸せを優先して考えたい」と、しみじみと語られた。この場に居られる男性の方々にしてみれば「何も問題はないじゃないか。なかなか良い旦那じゃないか」と思われるかもしれません。ところが、奥さんの反応は全然違った。妻の怒りが爆発し、「私の人生はあなたのせいで無茶苦茶よ。本当に私の幸せを思うならば、今すぐ死んで!」と言われたそうです

何故こんなことになったんでしょう? 宗教関係の偉い方々は日常的に説教をされますので、皆様もちょっと気を付けていただきたいんですけれども、男性はつい「お前の幸せは俺が考えてやる」と、上から目線になってしまうんですね。しかし、人間ずっと上から目線で話されますと、この男性のケースのように奥さんの怒りが爆発してしまうんです。対等な目線というものが大切になってくるんですが、どうしても男というものは上から目線になってしまう。という訳で、熟年離婚がどんどん増えている。一瞬離婚が減った時がありますが、これはバブル期です。バブル期は男性はお金を持っていますから、女性は付いてきてくれるんですが、バブルがはじけた途端、また離婚が増えました。

そして、平成15年には、ついに年間離婚件数が30万件を突破しようという勢いでしたが、ここで減ってきました。2つ理由があると言われています。ひとつは、老齢年金の夫婦分割制度が国会で可決され、平成19年から実際に施行されました。それでも妻はまだ半分も持って行けません。しかし最近の噂では、強制的に半分持って行っても良いという制度になるそうです。それを待っている人がいた。

それから、平成15年というのは、まだ団塊の世代が現役です。旦那が五十代後半になって奥さんが離婚したいと思った場合、そういう方は、旦那が60歳になるのを待たれるんです。何故なら60歳になれば定年で、退職金のまとまったお金が入ります。離婚したい奥様にしてみますと、「この退職金をふんだくらないことには死んでも死にきれないわ」という訳で、退職金をもらった途端に離婚というのが最近の風潮です。もし、皆様の中に「うちの嫁さん、ひょっとしたら危ないかも……」という方が居られましたら、退職金を一気にもらってはいけません。必ず分割してもらってください。そうすると奥さんが出て行くリスクが減ります。宗教関係の方々は定年退職がないので大丈夫だと思いますから、あまり関係ないと思いますが。


▼夫源病とは何か?

さて、旦那が「わしも族」になったらどうなるかと申しますと、妻が「亭主在宅症候群」になります。私はこれを「夫源病(ふげんびょう)」と呼んでいますが、どんな病気かと言いますと、ずっと旦那が家に居るものだから奥さんの体調が崩れるんです。「旦那の顔を見ると吐き気がする」、「旦那の声を聞いたら耳鳴りがガンガンする」、「旦那の足音を聞くだけで動悸が酷くなってくる」といった症状が挙げられます。熟年離婚の表向きの理由として、よく「愛情が冷めたから」と言われます。しかし、60歳ぐらいまで連れ添ってきて、結婚当時と変わらぬ愛情を持っている夫婦を私は未だ一組も見たことがありません。うちも30年ぐらい夫婦をやっていますが、惰性です(会場笑い)。しかし、惰性というのは悪いことではないんです。プラスでもマイナスでもない。そのままいったら良いんです。けれども「この人と居たら私の体がもたない」というのが、熟年離婚の一番の理由なのです。

宗教家の方には定年がありませんから皆さんに尋ねても無駄ですが、「定年後は何をしたいですか?」とサラリーマンの男性に聞きますと、「旅行」、「ゴルフ」、「釣り」の3つが出てきます。中でも断トツに多いのが「奥さんと旅行」です。しかし、JTBの調査によると、旦那さんの7割から8割は「妻と行きたい」というのに対し、奥さんの半数以上は「友達と行きたい」(会場笑い)。ここに問題が出てくる訳です。けれども、優しい奥さんは定年後2年ぐらいは旅行にも付き合ってくれるんです。61歳から62歳ぐらいの間は国内外いろんな所へ旅行に行きますが、奥さんは一緒に旅行してもしんどいので、だんだん飽きてきます。そして2年ぐらい経つと、男性は奥さんから「1人で行ってきたら?」と言われるようになるのですが、旦那さんは1人では行かない。そうすると、男性が思い浮かべていた定年後の生活がフワーッと無くなってくる。そこから起こるのが定年後の鬱(うつ)ですが、これが今一番問題になっています。「毎日何をしたいですか?」と聞いても、特に何もない。一方、家事には定年がない訳ですから奥さん方に「定年後何がしたい」という発想がそもそもありません。

夫と暮らすと妻の死亡率が2倍になるというデータがあります。愛媛県のある先生が60歳以上の男女約3,000人を3年間経過観察したところ、女性は夫が居るほうが死亡率が2倍。男性は妻が居るほうが死亡率が半分。逆に言うと、奥さんを先に亡くすと男性の死亡率が倍になります。奥さんを亡くした男性…。しんどそうにしてるなあと思っていると、翌年息子さんから「母の後を追うように父が亡くなりました」と喪中ハガキが届く。一方、旦那さんを亡くした奥さん…。一応、49日頃までは元気なさそうですが、半年後ぐらいしてから会うとむちゃくちゃ元気になっている(会場笑い)。そんな例はいっぱいあります。

何故かというと、夫が妻に依存し過ぎていて自立していないからです。自立には2通りあります。ひとつは経済的な自立。もうひとつは身の回りのことができる自立。今一番問題なのは、女性は経済的な自立ができていない。男性は身の回りの自立ができていない。ですから、女性も働き、男性も身の回りのことをできる時代が、一番リスクが少ないと言えます。

そういう訳で、高齢者の心中・殺人事件がすごく増えています。夫は「妻は絶対病気はしない」、「妻は俺より先に死なない」という妄想を持って信じ込んでいます。そうでも思っておかないと、実際に現実化したらえらいことになりますから…。しかし、実際はそういう訳にはいきません。奥さんが倒れると、介護殺人心中の加害者の76パーセントが男性なんです。介護とは、だいたい男性が倒れて女性が看取ることのほうが多いんです。何故こんなことになるのかと言いますと、夫が自立していないから奥さんが倒れるとパニックになる。それでも頑張る。そして男性は他人に救いを求めない傾向があります。いろんな所へ行けば手伝ってもらえるのですが、そういう手だてを取らない。そして思い余って最後に、寝たきりの妻の首を絞めにかかって自分も死ぬ。こんな悲惨な最期を迎える介護殺人心中を減らすことがこれからの大きな課題なんです。一方、妻は「夫は定年後すぐに死ぬんじゃないか」と思っていますが、実際はなかなかしぶとい。だから熟年離婚や別居が増えているんですね。男性側、女性側それぞれにこういう妄想があります。


 

以上、長々と引用させていただきました。今後も、本を読んだり、話しを聞かせてもらったりして、もう少しこの家庭問題についての知識を深めたいと思っております。きっと、現場にはそれぞれの事情があることでしょう。ボクは坊さんとして、役割が果たせるように努めたいと思います。

昨日、お寺に帰るまえに本屋にいってきました。「 捨てるという生き方 」という特集・テーマが目をひきました。しばらくはお寺の行事などと交互に、家庭問題にふれていきたいと思いますが、捨てるということについても、また、ここの記事にしたいと思います。
 




果報もの。

2016年05月03日 | 学び ・ すすめ

ご妙判

餓鬼は恒河を火とみる。人は水と見る。天人は甘露と見る。水は一つなれど、果報に随って別々なり。


いのちは六道を輪廻する定めらしいですが、功徳を積んで行けば、果報を得ると教わります。「おまえは果報者だなぁ。」などと申します。六道は下から順に、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上。以上の6つの世界です。功徳をつめばよい方に進み、マイナスの縁をつくれば、苦しい方に進んでしまうと云います。よくないご縁が表れるときなどには、「因果なことだ。」とか、「果報がないっていのは、こういうコトをいうのだなぁ。」とか、申します。

人は水がなければ生きていけません。いわば、いのちの泉です。そのありがたい水が、餓鬼道に落ちたら自分の身体を焼く炎になっておそいかかり、天上界という苦しみがない世界にいけば、不老長寿の甘露になって潤いをもたらすと云うのです。知らず知らずのうちに自分に身についたご縁によって、過去の業によって、違いがでてくる。ですから、善根功徳を積むようにと教わります。功徳をつむと果報が身につく。いわゆる「果報者」になるようです。一生を終えて次にどんな道のりが待っているか、いや、そのまえに、六道は人の心の中にもあると説かれています。いまをよりよく生きようとする。だから、いつくしむという「ご縁」を発信して行きたいと思います。


 

大辞林 第三版の解説
かほう【果報】( 名 ・形動 )
①運のよいこと。また,幸せなさま。 
②〘仏〙 前世のおこないによって生じる報い。 ↔ 業(ごう)


 

大辞林 第三版の解説
くどく【功徳】〘仏〙
① よい果報を得られるような善行。普通,供養(くよう)・布施(ふせ)の類をいう。 「 -を施す」
② 以前によいことをしたために,実現したよい報い。神仏が与えるよい報い。


あいさつ えしゃく

2015年09月29日 | 学び ・ すすめ
会釈(えしゃく)とは、軽く挨拶や礼をすること。

 
仏教用語の「和会通釈(わえつうしゃく)」の略語。会通(えつう)ともいう。
 
仏典の二律背反(相互に自己矛盾する教説)を照合し、矛盾のない解釈を導き出すこと。
 
転じて、他者相互の矛盾を解消する意となり、さらに教説を離れて人間相互の融和から「挨拶」の意へと変遷した。

 
日本や中国では主に頭を軽く下げ、一時的に相手の目線を見つめる事なく(こちら側からの敵意の抹消行為)した後、自分側の顔を緩やかに上げるというスタイルがベーシックな形である。これには頭を下げた時点で「こんにちは」といった時候の挨拶を組み込むスタイルも含む。
 
アメリカでは「Hi」「Yo」等の言葉と共に、体を大きく反らすオーバー・アクションな姿が見受けられる。
 
会釈は、目下の者がする敬礼に対して、これを受ける目上の者から応答のために行なわれる。(出典:ウィキペディア)
 

以前、家内の出身校を尋ねた事があった。高校の校門から校舎に至るまでに多くの生徒とすれ違った。この時どの生徒もみんな、大きな声で「こんにちは」とあいさつをしてくれた。これには大変恐れ入った。学校の方針なのか、実に素晴らしい学校だと感じたものである。
 
当時、まさよしが小学4年、よしあきが3年、ゆかが2歳であった。子どもたちを、母親が生まれ育った熊本に連れて行きたかったのと、赤ちゃんポスト(ご存じだろうか?)を実際に見てみたかったので、福岡で青少年の一座が行われた時に、お休みを頂いて熊本まで足を伸ばしたのである。
 
 
正純と純明は熊本の産婦人科で生まれたので、まずはここを尋ねた。自分が生を受けた場所である。そして、母親が通った小学校から大学まで、実際に校舎の中まで入って見学をした。子どもたちが生まれる前の、母親が学生時代に過ごした学舎。母のルーツに初めて触れた。これらの場所で佇み、きっと何か感じたことであろう。そして最後は「赤ちゃんポスト」のある慈恵病院を尋ねた。病院の正門をくぐって右奥に進むとコウノトリと赤ちゃんのイラストが描かれたトビラがあり、開けると赤ちゃん用のベットがある。ここに様々な事情を抱えた人が、人知れず、赤ちゃんを預けにくる。赤ちゃんは病院が熊本市と連携して保護をしてくれるのである。
 
突然の訪問でも婦長さんが直々に施設をご案内下さった。また運良く理事長先生ともご面会できた。帰りに裕香が寝てしまい、抱っこをしながら庭を歩いていたら、病院関係者とすれ違うたびにガン見をされた。「勘違いをしないでくれ。」そう思って苦笑いした。(※預けようとする人は、そのルートを歩いていれば人目に付くことはない。)子どもたちはと言うと、自分の知らない母親の世界にふれて感慨深く景色を眺め、世の中には切ない因縁がある中で自分は恵まれているということを、少しは感じてくれてたようであった。
 
高野家には家訓がある。「ウソをつかない」と「ズルいことをしない」この二つである。これを所帯をかまえる時に定め、子どもたちがそれぞれ、ものごころついた時から伝えてきた。熊本の旅行にはテーマがあった。ルーツを尋ねる中で、自分が蒙っている恩恵に感謝し、恩に報いることを知ってもらうことであった。そして、報恩のはじめの一歩は、礼をとることである。
 
キチンとあいさつができるようでありたい。「先にあいさつした方が下」みたいな感覚で、礼に欠ける所作では困る。家訓も、キチンとあいさつができていれば、きっと守ることができるであろう。残念ながら、坊さんの中にも挨拶ができない輩が少なくない。こんなのは全く相手にしないのだが、何とも切なくなる。あいさつをするということは、多方面に気を配り、相手の心を推しはかって対応することと同義である。だから、あいさつができる人は弘通を志す人と言っても過言ではないだろう。教えを受けてそれを行う者は、あいさつができなければならないということを銘記して修行すべきである。
 
キチンと礼をとる。(時として、会釈でもいいのである。)
その中で、いま見失っているものが必ずみえてくるものであると信じたい。


ウソはつかない。そう。心に決めて。

2015年09月27日 | 学び ・ すすめ
ご教歌
心だに まことにくらす ものなれば 世にこわいこと 有ことはなし


やましい事があればコソコソしている。
正しいと確信できれば堂々としている。
 
信念をもっていると心が安定している.
迷っていると不安が募る.
 
先の事はだれにも分からない。
歴史を学ぶ、前例を、人の意見をきくか。
思慮が深く、これだと決めてかかれるだけの信念があるか。
ウソはないかと、これは正しいと確信できるか。
 
迷う事はたくさんある。どんな偉人でも。
ほとけさまの教えは、安心できる定木となってくれる。
清らかな目線をを学ぶ。正しきものはなにかを学ぶことができる。
 
せめて、うそはつくな。
いや、人は、それが難しいのかも知れない。
ウソがないようにと、くりかえし、くりかえし、心を洗っていこう。
ご信心の道はそれを学んで、おこおなっていくことができる。
 

不軽菩薩(ふきょう・ぼさつ)

2015年08月17日 | 学び ・ すすめ

先日、鎌倉顕証寺の行事に参加させていただいたとき、80代のご信者さんとお話しする機会を得ました。

知性からくる明るさがあり、とてもハイカラな印象の女性でした。

ある分野で大成され、現在も第一線で活躍されている有名人。ヨコハマ生まれのヨコハマ育ち。

なんだかカッコいい響きです。

この方をふくめて、11名で二次会。

顕証寺さんの霊園寺務所は全面ガラスばりで江ノ島と七里ヶ浜、江ノ電が走る景色が一望できるロケーションです。

ここでお日さまがある時間から日が暮れるまでの風景に囲まれながら、ステキな時間を過ごしました。

ステキだったのは、80代の女性信徒かも知れません。

とにかく人をほめます。

「あなた。〇〇が素晴らしいわね。」「あら、あなた。随分と丁寧な言葉遣いでステキじゃない。」

こんな調子です。

こんな言葉が、深い内容の経験談を聞かせていただくまにまに、テンポ良く飛び出してくる。

大笑いと興味深さ、そして心地よさに包まれた時間でした。


最近よく、人のよいところをみつけたり褒めるのは、不軽菩薩の修行に通じるものがあるとおもうのです。

「不軽菩薩」とは、法華経・常不軽菩薩品第二十に示される菩薩です。

不軽菩薩はあるとき町に出て、人々に近づいてはこう言いました。

原文読み下し:「我れ深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以はいかん。汝等皆菩薩の道を行じて当に作仏することを得べし。」(妙法蓮華経開結・四八九頁)

現代語訳:「私は、あなたがたを軽んじません。それは、どんな理由によってか。あなたがたは、すべて、菩薩行を行えば、成仏する素質を備えているからです。」

この言葉を多くの人々、一人ひとりに伝え、そして心から合掌礼拝をして回ったというのです。

果たして、人々の反応はと申しますと、ほめられて喜ぶのではなく、却ってバカにするなと怒りだし、不軽菩薩を追い払おうと棒を持って追い回したり、石を投げつけて迫害しました。それでも不軽菩薩は礼拝することを止めようとはせず、遠くに逃げてはまたそこから人々を拝み、来る日も来る日も、この礼拝の行を続けました。そしてついには、ほとけになられたと言います。


不軽菩薩は、人々の仏性を拝みました。

ていねいに。心を込めて。がっしょうをして。深く頭を下げました。

仏性とは、人が生まれながらにして持っている「ほとけになる素質」「ほとけのような心、性格」です。

仏性はだれの心の中にもある。でもなにかによってそれが隠れちゃってる。

それを引き出してくれるのは、尊いぼさつのアプローチです。

因縁は原因と結果。「てめー!」と言われて「なんだこの野郎!」となる。

「よろしく」といって「おぅ。よろしく」とかえってくる。

不軽菩薩は「あなたを心から敬います」とアプローチして、人々から「ふざけるな」と責められました。

でも、その人たちは、ながいながい時を経てですが、やがて仏性が花を開いたのだと説かれています。


80代の女性は、100まで現役が目標と仰ってました。

そして100まで、人々を利益せしめるために、妙法の教えのすばらしさを伝えひろめたいと仰ってました。

そこには、欲のかけらもないと思いました。

清らかで、ありがたく、しかも最高のロケーションの中で、こころが洗われた心地で鎌倉を後にしました。


開導聖人・ご指南  (扇全二十六巻百十一頁)

常の菩薩のこころをわするべからず。

菩薩は人をそこなはず。

菩薩はいかりの心なし。

菩薩は同行を破する事なし。

菩薩は弘法をよろこばぬ事なし。

菩薩は我慢偏執なし。

菩薩は法の為に身をおしむ事なし。


お線香・おせんこう

2015年07月29日 | 学び ・ すすめ

当時、お導師ご健在の時代は、朝・5時55分ころ、朝参詣が始まる直前にお線香をお立てしていました。

ボクがお線香をたてると必ずお導師がおこります。

「お線香が曲がってる!」

御前机(おんまえ・づくえ)をはさんで、お導師は御乗台(ご・じょう・だい)にお座りで

まっすぐにお線香と御宝前を拝されていらっしゃる。

ボクは、内陣から御乗台にむかって立ち、お線香をおたてするんです。

 どこが曲がってるんだろう。まっすぐじゃないか。。。

こんな風に、いつも心の中でつぶやきながら、しかたなく、

まっすぐなお線香をわざわざ、斜めになるように立てていたのを思い出します。


お導師がご遷化になられ、やがてボクが御乗台に座らせていただくようになりました。

お線香は自分でお立てしてから、御乗台にすわります。

御乗台に座ってからお線香をながめると、まっすぐ立てたハズのが、曲がっています。

(/・ω・)/


見る角度によって、こんなにも違って見えるもんなんだ~。

そう気づいたのは、お導師をお見送りしたずっとあと。。。

当時のボクは、生意気にも憤然とした態度でお線香を立てていました。

だって、曲がって見えるんですもの。。。


お線香の話しは、仙台のお導師が切り出された話題でした。

ボクの話しを聞かれてコメントされたんじゃありません。

仙台のお導師はそういうことを、よくご承知でした。

「みんなそんなもんなんだよ。」

「御乗台に座って初めて気づくことって多いだろ。」

ご自身も少なからずご経験遊ばされたということか、言い得て妙なお言葉にこころ引かれたものです。


いま、チビどもも理不尽に叱られていると思っていることでしょう。

でも修行です。乗り越えて、立派なお教務さんになってほしいと切に願います。


 仙台のお導師は、ニコニコしながら、お線香をまっすぐ立てる定規を下さいました。

お手製みたいです。

プラスチック製で、T字型の定規です。

香炉に載せて、タテのラインにお線香を合わせる。シンプルですが、まっすぐ立ちます。

わざわざこしらえたのも、新発意(しん・ぼっ・ち。出家したばかりの僧侶を指します。)のころからの、

お師匠に対するお給仕の思いや、継承したあとに、同じようにお寺をしっかりとお護りしなくちゃという思い、

1人で二役するときの寂しさなど、いろんな感情が込められているのだと思ったのです。

強面のお導師ですが、ぐっと距離が近くなったように感じました。


益者三友、損者三友

2015年02月24日 | 学び ・ すすめ

益者三友、損者三友 ( えきしゃさんゆう、そんしゃさんゆう )


 

『論語』にある孔子の言葉。「直きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞を友とするは、益なり。

便辟(べんへき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり」


有益な友とは、素直で正直である人、誠実な人、見聞が広い人であり、

有害な友とは、人に媚びへつらう人、人あたりは良いが誠実でない人、口先ばかりの人を言う。

友人は慎重に選ぶべきだとの意味が込められている。

「益者」とは、自分にとって有益な友人のこと。「損者」とは、自分にとって害のある友人のこと。


大勢の「有益な友」に恵まれました。ありがたいことです。

逆に、自分は他に対してどういう存在であろうか?

見識は広くないが、素直・正直・誠実でなければならないと、振り返った次第です。


ほうき

2015年02月11日 | 学び ・ すすめ

法諱。「ほうき」と読みます。説明は本文の中ほどにて。まずは「諱」について述べます。

「諱」は「いみな」です。

高貴なお方、主君など、偉いお方のお名前を口にするのをはばかる。避けるという意味です。

「天皇陛下」「今上天皇」「将軍様」「上さま」「お殿様」

こんな風にお呼びして、お名前で申し上げない。

「諱」とは、古来、高貴なお方や死者を、名前で呼ばないという習慣から転じて、

「本名」のことを指すようになりました。

「諱」で呼ぶのは、主君や親などにかぎられ、下の者などが用いるのは無礼であったようです。


 

「偏諱」という言葉があります。

貴人などの二字名の中の一方の字を忌(い)み避けること。また、その二字名の一方の字。

「偏諱をたまわる」とは、主君などから自分の名前に一字いただくことをいいます。

例えば、徳川歴代将軍の偏諱は、家康から、3代・家光、4代・家綱、6代・家宣、7代・家継、9代・家重、

10代・家治、11代・家斉、12代・家慶、13代・家定、14代・家茂、と続きました。

将軍や大名が後継者に対して、また功績のあった臣下や元服する者に、自分の名前の一字を与えたのです。

武士の世では、主君のお名前から一字いただくということは、とても名誉なことだったに違いありません。


ここで、表題の「法諱」(ほう・き)という言葉についてふれます。

法諱は、出家得度させていただく者が、恩師より一字たまわって、僧侶の名前をつけていただくことを指します。

弟子は、恩師から出家得度のご許可をたまわり、生まれた時に名付けていただいた名前を転じて、

僧侶としての名前を頂戴し、それを名乗ります。

文字通り出家で、恩師に全てをおたのみ申し上げて仏門に入ります。

ですから、師弟は、絶対の関係です。


お師匠さまとのご縁は絶対ですが、その他、お寺の法類も深遠な縁で結ばれています。

常住寺の創建は昭和19年です。本寺は乗泉寺です。乗泉寺から常住寺が生まれました。

ですから、常住寺にとって、本寺・乗泉寺は絶対の存在です。(もちろん。本山は宗門の頂点です。)

乗泉寺の末寺は、孫末寺や別院を含めると120ヶ寺を数えます。

常住寺から見ると、120のお寺すべてが「同門」(どう・もん)です。

北海道から中部・豊橋までの範囲にお寺が建立されています。

この、法類のお寺とヨコの絆をむすんで、本寺の下で一つになって信行ご奉公をさせていただいています。

恩師にお育ていただいたおかげ。本寺のおかげ。です。


 

お師匠さまが、益々法体ご健勝でありますように。

乗泉寺本末120ヶ寺が、益々ご弘通発展となりますように。

いや、1人でも多くの方がお題目で救われて、結果として宗門が繁栄しますようにと願って日常信行に励みます。

自分のところだけ良ければいいというワケにはまいりません。全体がよくならなければ、なんにもならないのです。

互いに応援しあって、ゆずりあって行きたいと、いつも願っています。