清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

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- のこされたひと -

2010年12月15日 | 学び ・ すすめ
先日、お寺に帰ったら家族が大河ドラマ【竜馬伝】の最終回をみていたので、いっしょにみることにしました。
テレビをのぞいたら、ちょうど最後のシーンでした。時は慶応三年11月15日・竜馬32歳の誕生日。舞台は京都河原町の近江屋です。
記録ではその日、夕刻6時ころに中岡慎太郎が近江屋を訪ねます。次いで岡本健三郎が訪れ、さらに文人・板倉槐堂が来訪し、自筆の掛け軸を竜馬に贈呈して帰ります。峰吉が軍鶏を買いにお使いに出るタイミングで岡本健三郎も帰宅しました。午後8時ころ、竜馬と中岡、下男の藤吉がおり、そこに刺客がやってきます。
一瞬にして襲われ、致命傷を負いながらも必死に応戦する、壮絶な最後となった情景が描かれており、本などの記録でしか知るハズのないこの場面ですが、襲われてから2日ほど生き延びたという中岡慎太郎の証言・事実に基づいて、よく演出しているなぁなどと感心して観ておりました。
ところで、竜馬の死後、妻のおりょうはどうしたのか御存知でしょうか?
おりょうは、竜馬の死を下関で聞かされました。京都に急行したおりょうは、竜馬の襲われた近江屋で三ヶ月ほど泣き暮らしたといいます。その後、三吉慎蔵がよく世話をしたそうですが、海援隊で協議して、おりょうを土佐の才谷家へ送り届けます。竜馬にとってはかわいい妻であったおりょうも他の人たちからは、身勝手で周りへの配慮ができぬなど悪評が多く、坂本家との折り合いも悪くなり、一年ほどで土佐を去ることになります。その後、京都で暮らすがお金に困窮し、東京で西郷隆盛を頼ろうとするも西郷は政界を去って薩摩へ帰った後であり、放浪の末に横須賀に流れ、人の妾になったりし、明治39年66歳の寂しい生涯を終えたと言います。
ところで、残された人といえば、武市半平太の妻・とみ女がいます。
武市半平太は土佐藩・白札郷士で勤王党の主宰。尊皇攘夷論者。当時の土佐藩家老・吉田東洋を暗殺して、藩論を公武合体から尊皇攘夷に変えることに成功し、京都と江戸での国事斡旋によって一時は藩論を主導しますが、八月十八日の政変によって政局が一変すると前藩主山内容堂によって投獄されます。そして、1年8ヶ月20日の獄中闘争を経て、吉田東洋暗殺の黒幕という罪状によって切腹を命じられ、37歳の生涯を閉じました。
のこされた富さんは、武市瑞山の処刑後、土佐藩より家禄と屋敷を没収され困窮した生活を送ります。裏長屋を転々としながら、賃縫い仕事やマッチの箱貼りや袋貼りなどで、やっとの暮らしを続けていきます。
しかし、明治10年には武市らの名誉が回復され、朝廷のだれかが「あの武市半平太の女房はどうしている?」と思い出してくれて、これを期に、武市半平太の家禄が復活することになります。しかも、富女が61歳になった明治24年、朝廷は故・武市半平太に【正四位】の位を贈ります。(坂本竜馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎も同時に受位) この時、上京した富さんを囲む祝賀会が開かれ、三条実美・岩倉具視・後藤象二郎・板垣退助ら、そうそうたる面々が参列しました。そして、当時の後藤は逓信大臣で伯爵、板垣は自由党総理で伯爵という身分と立場でしたが、祝賀会の中で富女に対して、「あの時武市瑞山・半平太を死に至らしめたのは、我々のあやまちでした」と、その場で富さんに詫びたといいます。
その後とみさんは20歳の養子を迎え、養子は武市半太と改名します。半太は医者となり、妻を迎えます。妻は半平太の甥の長女であり、よく富女に仕えたといいます。富は晩年になってやっと、穏やかな幸せを得て、大正6年87歳の生涯を静かに閉じました。
「おりょう」と「富」、対照的な晩年を過ごします。これはどういうご因縁なのでしょうか?
富さんは恐らく、家禄の他にも政府の要人から庇護されていたことでしょうし、それは生き様が大きく原因しているのではないでしょうか?
富は武市半平太の妻として、凛とした生き方をしたと思います。辛く悲しくとも、一人きりで寂しくとも耐えて武市家を守りました。投獄されていた夫の様子を聞き知った時には、夫と同じ苦しみを耐えるのだと言って、土間に布団ナシで寝ていました。周囲がカラダを壊すからやめろと言っても聞かず、夫への給仕を貫き通したのです。また、武市が投獄されていた1年8ヵ月間、毎日欠かさず一日三食を牢に差し入れ、書籍や自身で作った押絵なども差し入れて、夫を慰め励ましました。
富は、夫の志しを助けんと内助の功を尽くす人生を全うしました。夫が不在であろうとも、死別しようとも、貧しくあろうとも、武市瑞山の家内としての、誇りを持って生きていた女性像が浮かんできます。
明治維新は、多くの犠牲者の上に時代の変遷を遂げましたが、富女らの如く、多くの遺族もまた、辛い思いを抱えて生涯を過ごしたハズです。
尊皇攘夷や公武合体。それぞれ立場は違いましたが、幕末の武士の大義は憂国にありました。自身の損得で動いたのではありません。
ボクら佛立教務は、一天四海皆帰妙法の大願のもと、全宗門人が一つになって弘通という戦場に立って不惜身命の御奉公に励み、我が身を顧みない布教生活を送ります。いや、送らねばならない。当然、家内や家族もまた然り。仏天の御加護を祈ります。

- 青山 神宮外苑 -

2010年12月04日 | 生活圏 関東 東京都 北区
本寺・乗泉寺の帰り道。いちょうの落葉がきれいだったので、神宮外苑の並木道の落葉を見ようと思い立ち、寄り道しちゃいました。
↓ 外苑西通りとの交差点近辺。

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↓ 青山通り
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↓ 絵画館前の並木道。ドラマのロケ現場として有名ですね。

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↓ こっちが東側。ドラマで撮影に使うのはこっちが多いハズです。

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↓ 車道に出て、絵画館を撮影。

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↓ 絵画館前に近づき、青山通り方面に振り返って撮影。

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めちゃくちゃキレイな景色でした。 ぎんなんくさかったけど…。