清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

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一期一会

2016年06月12日 | 生活圏 関東 東京都 北区

先日、神谷・東十条健康プラザにおいて、「お坊さんのお話し会」をさせていただきました。

テーマは「さとり」。
ほとけさまの覚りはどんなものだろう?などという難しい内容ではなく、
日常の生活で、元気よく歩んで行くためのヒントみたいな内容でした。

「いま、日常のなにげない場面のひとつだが、これがどれだけ幸せか?」
「それを理解している。」

こうなると、もう立派な「さとり」と言えると思います。
ただしボクは、「仏さまのお覚り」と区別するため、あえて、漢字で「覚り」と書かないようにしています。


そんなワケで、みなさんが人生の中で体験した場面、
「うれしかった場面」「忘れられない出来事」「感動した出来事」などを、
それぞれ、語っていただきました。

まずはボクの体験談。
先般。王子本町から板橋仲宿へ続く道をクルマで走っていました。
下の写真。この風景が見える位置で信号待ちをしていました。
ここは、(右側が高く、左側が低い)傾斜のついた交差点です。


 

この日は晴れで、ぽかぽかとあたたかく、そよ風がふいており、実に気持ちのよい日でした。
時間は午後3時ころ。
右側からお母さんと小学4年生くらいの男の子が2人乗りした自転車が横断歩道を渡ってきました。


 

男の子は、おそらくダウン症を患っているようにみえました。
右前方には養護学校があります。
お母さんがわが子をお迎えにいった帰りなのでしょう。

お母さんは、右側の、緩やかに高い方から一気に、自転車を「ビューン」と走らせました。
男の子はその瞬間、すこし後方に仰け反りながらも体勢をととのえ、
ジェットコースターと比べるとあまりにゆっくりでしょうが、
それでも、それと同じように、両手を広げて高くあげて、
「わー」という歓声をあげるかのような顔つきで、喜んでおりました。

(写真はイメージです)

 ぽかぽかと暖かい日の午後、学校がおわって、大好きなお母さんが迎えにきてくれた。
お母さんの後ろにのって、男の子にとっては大きな背中に甘えながら安心しきっている。
天気はいいし、そよ風に吹かれて心地いい。
いつもの通学路。これからお母さんといっしょにおウチに帰るところ。
いつもの、緩やかな下り坂にさしかかった。スピードがでるのは知っている。
それでも、疾患があるので反応がやや遅れて仰け反るが、それがかえって楽しかったりする。
おもわず大きな口をあけて、「わー!」と歓声がでる。たのしい。安心だ。しあわせ。

(写真はイメージです)


 と、まぁ、そんな瞬間を信号待ちの運転席からみてしまった。
しかし我ながら、想像力たくましく作文したものだと思います。
ここに書いたことは、この少年が歓声をあげた瞬間を、たまたま見たボクが、想像で書いている事柄であり、
事実を確認したワケではないのです。しかし、想像は遠からずハズレではないと思うのです。

こんな他愛もない信号待ちの場面ですが、ボクはこのシーンを一生忘れることができないと思います。
あんなに嬉しそうにしていた少年。優しそうなお母さん。日常の中に「至福のひととき」がありました。
そして、彼もきっと、あの時のあの場面の楽しさを忘れないんじゃないかと思うのです。

ボクと少年は信号ですれ違っただけのご縁です。
当然、しゃべったことなんか一度もありません。
どこのだれかも分からないし、彼はボクの存在すら知らないのです。
だのに、ボクらは同じ場面を、一生忘れられないシーンとして共有している。
もし、そうだとしたら、おもしろいものだと思うのです。

「袖触れ合うも他生の縁」
こんなコトバがアタマに浮かびました。
道ですれ違うだけでも、ものすごく深いご縁があるもの同士なんだと。
こころから、そう思えてなりません。
況んや、夫婦・親子・兄妹。同僚・親友・ご近所さん。
これらの人間関係はどれほど深いご縁で結ばれたのか、想像がつかないほどです。


 ここのところ多くの本を読みました。多くの人の家庭問題を見聞きすることが重なったので、
求められた時によき助言ができるようにと考え、まずは知識を得ようと思ったのです。
その内の2冊「家族という病」というタイトルの本は大ヒットし、続編のパート2も出版されました。

出版社は本の帯に「待望の処方箋」と書いていました。
しかし、実際には作者の自叙伝的なところがあり、作者の主観が述べられているに過ぎません。
ですから、「待望の処方箋」という見出しは結局、本を売るための「コピー」ということでしょう。

読む方はその気になって本を買います。売る側は、実に無責任だと思いました。
まぁ、書籍の多くはそういう風に売られているのかもしれません。

「個」を大事にして「家庭」の犠牲になるな。と宣った2冊。
筆者には子どもがいません。
実の父親との関係は思春期に崩壊して父親が亡くなるまで修福できませんでした。
そのように本文中で謳っています。

ですから、個人の生き方を尊重して云々、という物の考え方がベースにあるのでしょう。
もし、子どもを産んで育てていたら、父親と仲睦まじい関係だったら、こういう内容の本を書いたかは疑問です。

すなわち、「家族という名の病」は、筆者の家庭内の問題に他ならず、
自叙伝を出版して、広くにそれを促すべきではなかったのです。

繰り返しますが、出版される書籍は所詮、そんなもんだといたしましょう。
ただ、願わくば、諸問題をかかえているみなさま、世間の影響をうけて、
わざわざ崩壊させるような道のりを進まないでほしいと願います。

世の中に落ちているヒントなんて所詮は無責任なもの。
親身になって考えてくれる人のコトバ、信用できる人のコトバが大事なのでしょう。

ボクとダウン症の男の子とのご縁は、すれ違っただけの関係です。
相手はボクの存在など知りもしません。
でも、生涯忘れられないくらいの場面を共有しました。
(ほんとにそうか分かりませんが・・・。)
これほど、ご縁というものは深遠なのです。

ましてや、夫婦・家族、大事な存在は深い深い絆のもとで結ばれています。
どうか、わざわざ壊さないで下さい。
そして、マイナスのご縁を排除できるように努力しましょう。
その智慧がお寺にある。かならずあります。

一期一会。
二度と巡ってこないかもしれないご縁は山ほどある。
その瞬間を大事にしたいと思います。そう思えるのも「さとり」なのでしょう。



 


両手を伸ばして届く範囲

2016年06月10日 | 生活圏 関東 東京都 北区

「神谷・東十条健康プラザ」ではヨガや写経などの教室が開かれ、地元の人々が集っています。
毎日なにかの教室が行われているようで、みなさん実に活発に活動されています。


 

今回は臨時でその1枠をいただき、お坊さんのお話し会をさせていただきました。
参加者は12名。同級生のお母さまもご参加されていらっしゃいました。

このプラザは、フクシ調剤薬局が入っているビルの2階にあります。
フクシ調剤薬局の経営者が有志で自社ビルを開放。北区に提供されていらっしゃるのです。

東京都北区の社会福祉協議会では、地域ささえあい活動と題して、活動する団体を支援しているようです。
以下、北区社会福祉協議会のホームページの文章をコピーしました。


 

北区社会福祉協議会は、平成10年度より地域ささえあい活動を進める団体に、活動を軌道に乗せるための助成事業を始めました。
これまで、次のような活動を行う団体に助成を行ってきました。
食事、レクリエーション等のサービス提供活動

  1. 健康づくり、生きがいづくりを行う活動
  2. 地域づくり、ネットワークづくりを行う活動
  3. 相談、情報提供を行う活動
  4. 学習プログラム提供を行う活動
  5. その他、地域でのささえあい活動として必要と認められる活動

神谷・東十条健康プラザは、調剤薬局の経営者、地元の民生委員、特養老人ホームのマネージャーさま、社会福祉協議会の役員でNPO団体の代表さま、以上の方々の連携で運営されているようです。今後は育児放棄されたような児童に対するケアなどを活動に盛り込むことを考えていらっしゃるとお聞きしました。みなさん実に情熱的です。

常住寺も地域に貢献したいと常々考えております。実際には、非常災害時の対策の一部を、王子警察と連携して備えております。自治体に協力して、諸行事にご協力をさせていただいております。今後は、ここの神谷・東十条健康プラザの活動も、お仲間に入れていただけるようなら、積極的にお手伝いさせていただきたいと思います。


広くて使いやすいお部屋が2つ。
こちらの部屋はヨガ教室やカラオケ教室に使われているようです。

こちらは今回お邪魔させていただいたお部屋です。
テーブルもイスも、デザインがよくて、かるくて、使いやすい。すばらしいです。

これだけの施設を私財を投じてご用意されたおこころざしに随喜の思いがおこります。
内装を工事されるのだって大変なことです。
もう、ただただ、素晴らしいと申し上げるよりほかありません。


 

お坊さんのお話し会は、「さとり」をテーマにして、「無常」「一期一会」などのお話しを申し上げました。

悟りをどのように捉えるか?
「ピンときた!」 これが「さとり」(人間目線での)に一番近い表現じゃないかと思うんです。
お寺だと、「お参りすべきだというコトに気がついた。そこがピンときた。」という具合です。

一通りお話ししたあと、参加者みなさんの体験談「あのときは感動した」とか「こんな風に嬉しかった」とか、
そういうお話しを聞かせていただきました。

一期一会です。
時間はもどりませんから、いまを元気に生きるのに、感動を伝え合うのがよろしいかと思ったのです。
ボクも話しました。他愛もない場面について話しました。でも、近年では深く感動した場面です。
内容は次回、ご紹介します。

みなさんからいろいろなお話しを聞かせていただきました。
人生の先輩ばかりです。ずいぶんと勉強になりました。
貴重なお話しをありがとうございました。

「両手を伸ばして届く範囲」すなわち、ご近所のコトです。
地球上には80億もの人が生きています。その中ですぐ近くに住んでいるというご縁。
これはもう、浅からぬご因縁です。
同じ職場。同じ学校。向こう三軒両隣。友だち。親戚。そして、家族。
ボクらは過去世からの深遠なるご因縁で、人と出会い、共に暮らしています。
どうか、わるいご縁がなくなりますように。よいご縁がはかどりますように。
心から、そう、ねがいます。

ボクは一生、地域に根づいて暮らしていきます。
だから、地域のお役に立てて、地域に貢献できて、お坊さんとしての使命を果たせたらと考えます。

今回は地域の方々と交流できて、本当に嬉しく思いました。
今後も機会がありましたら、どうぞよろしくご指導下さいますようお願い申し上げます。


※ このブログ内の記事ですが、リンクをはっておきます。
  よろしかったら併せてご覧ください。

東京都北区における戦災の記録


夏のお会式

2016年06月07日 | 常住寺のご信者さんへ

6月5日(日)常住寺の開導会が奉修されました。
(本堂・右側のお逗子に、開導聖人ご真筆のご本尊をお祀り申し上げました。)

お箱の脇に、権大僧正日泰上人のお書き入れです。

「蓋の表書き」と「うら蓋」には15世講有日晨上人のお書き入れを賜っています。


 

お参詣は、満座200名の本堂でご奉公者もふくめて1回転半といったくらいでしょうか。

来年4月の開導聖人ご生誕200年法要。本山団参の説明も行われました。


 

乗泉寺巡教・高祖会にて恩師上人の御年回が営まれます。

記念誌にのせる写真撮影。ご奉公者の集合写真です。

局長室のご信者方

寺族・千鳥会


春に続き、当山の恩師上人と大奥様のお写真も展示されました。

展示は秋のお会式まで続けます。また、記念誌も発行されます。
ご信者方へは、各ご家庭に一冊づつご配布させていただきます。
夏のお会式が終われば、もうすぐ夏期参詣期間に入ります。
みなさん、はりきっていきましょう。


だんなさん

2016年06月05日 | 学び ・ すすめ
【 旦 那 ( 語源由来辞典より )
 
(意味)旦那とは、妻が夫を、商家の奉公人が主人を、商人や役者・芸人がひいきしてくれる客を呼ぶときに用いる敬称。
 
(語源・由来)
旦那は、サンスクリット語の「ダーナ」の音写で元・仏教語。
「ダーナ」は「与える」「贈る」の意味で、「布施。ほどこし。」などと訳され「檀那」とも書く。
中国や日本では、旦那は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として、主に僧侶が用いる言葉であった。やがて、一般にも「旦那」の語は広まり「パトロン」のように生活の面倒を見る人の意味で用いられるようになった。さらに「面倒を見る人」「お金を出してくれる人」といった意味から派生し、奉公人が主人を、商人がお客を、妻が夫をよぶときの敬称として用いられるようになり、現代では主に、妻が夫を呼ぶ敬称として用いられる。
 

ほどこすという意味があったんですね。つまり、夫は家庭にお金を入れる。
自分が働いてきて得たお金を奥さんに渡して、家族を養う。これはやっぱり愛情です。
家族の生活をしっかりとみる役割なので旦那と呼ばれるようになったというのは納得です。
ただ、現代は共働きが多いから夫婦ともに旦那の役割を担ってることにりますね(笑)。
 

 仏教では、「ほどこし」「布施の行」を田んぼにたとえます。

一年かけて、やっと「お米が収穫できた。」
あまり多く実らなかったけれども、嬉しい。
 
昔なんかは食べ物が豊富じゃなかったでしょうから、現代と比べると、ずっと、そういう思いが強かったんじゃないでしょうか。
そして一年間、収穫できたお米で食いつながなくてはなりませんから、お米をとても大事にしたことと思います。
だけど、全部食べたいけれど、収穫されたお米の中から来年に向けての「種籾(たねもみ)」をとっておく。
その年の収穫がうんと少なかったとしても、これを取っておかなかったら、次からお米を育めません。
 

「布施」・「ほどこし」は、それと同じだと言います。
他に対してほどこす。身銭を切って、ほどこすのです。
特には、功徳になるようなことに「ほどこす」のです。
「これは田植えと同じだ」と、いうのです。
そういう「心がまえ」や「おこない」は、
種籾(たねもみ)が、秋には多くの稲穂を実らせるのと同じように、
やがて、あとになって自分に返ってくる。そう、教わります。
それは「自分の欲を離す」という修行でもあります。
「もったいないから食べちゃった」では、どうやら、そこで終わりみたいです。
 

ほどこしたら自分にかえってくる。でも、打算的にほどこしたらつまらないですね。
「人によくしてあげたい」
そんな気持ちの人だからこそ、功徳が積めて、そして、いつしか自分も他から恩恵を受けるのでしょう。
 

果たして、それがどれくらいのスパンで巡ってくるのでしょうか?
稲穂の収穫みたいに一年でしょうか?
それは分かりませんが、信じて善行の功徳を積みたいものです。
 
だんなさん。奥さんに優しくしてあげてくださいね。
やがて奥さんも家族も、本当に旦那を大事にしてくれますよ(笑)。
なーんて。ウチもそうしなくちゃと心得ます(笑)。
 

仏教は、そういう功徳の積み方を具体的に説き示してくれています。
それを世の人に伝えるのが、お坊さんの仕事の内容です。
お葬式だけしてるのは、本当のお坊さんじゃありません(笑)。
とにかく、「ほどこす」という「徳の積み方」を、自分から発信して行きたいものです。
「人によくしてあげる」「慈しむ」という優しい心持ちで歩んでいきたいと思います。