清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

- 本山 -

2011年04月25日 | 本山 宥清寺

第5支庁の当番参詣で、本山宥清寺にお参りさせていただきました。

常住寺からは35名。ウチの家族も一緒です。

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本山西門の向かい側にあった、昭和を連想させる商店街がなくなっていました。地震の影響もあるのでしょうか?ちょっぴりさみしい感じです。

空き地の奥に精養軒があります。バラックのようなお店ですが、味は天下一品!紅梅麺と白梅麺が売りです。餃子とチ ャーハンもめちゃうま。ここは無くならないでほしいなぁ。

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本山の旧・学生寮。

思い出がつまってます。

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今出川通り。

西陣警察署が「上京警察署」に名変してました。

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とようけ。

とうふ料理で有名です。

今出川通り店は混んでいるので、七本松通りにある本店まで来ました。


- 仙台・妙法寺 -

2011年04月21日 | 東日本大震災

妙法寺へ行ってきました。

外壁修理。トイレ壁面の修理。瓦れきの撤去。その他の作業で二泊三日の行程でした。

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衣食住は自分でする。ボランティアの鉄則を守ることはできず、妙法寺さんに寝食のお世話になってしまいました。美味しい食事をありがとうございました。

岡山師の奥さんには、とても良くして頂きました。「どうぞどうぞ、お召し上がり下さい。」「おかわりいかがですか?」「寒くないですか?」「ありがとうございます」「よろしくお願いいたします」「お気を付けてどうぞ」

こんな具合に、【ありがとう。おかげさまで。】と【ほどこし。慈しみ。】のかたまりのような方でした。

Pap_0011 食事の時。箸置きが半紙で折って作ってありました。無ければナシでよいものを、物の無い中でまごころを頂きました。ありがたい。ホント、ありがたかったです。

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チームワークもよかった。みんな一生懸命、喜んでご奉公させていただけました。それもありがたい。また、みんな元気で帰ってこれました。これもありがたい。

Pap_0018 北区王子にお住まいの、八十田さん。筒井さん。ボランティアの方々から沢山の物資を集めてきて下さり、ありがとうございました。物資を下さった方々、お手紙まで添えて下さり、現地の方々がとても感動しておりました。

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何度も何度もお礼を言われて。ボクが用意した物資じゃありませんと伝えても、何度も何度も御礼を言われて、申し訳ない気持ちになりました。

みなさん。支援のご奉公に行かせて頂けたコトに、篤く御礼申し上げます。ホント。ありがとうございました。

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- 支援物資のお礼 -

2011年04月18日 | 東日本大震災

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王子のつついさんが物資を届けて下さいました。

福祉関係のボランティアをされているとのコトで、各所を回って品物を調達して下さいました。愛娘・あずさちゃんが風邪ぎみで大変だったのに、ホントありがたいです。

夜が明けたら東北に向けて出発します。物資は、仙台・妙法寺さん経由で、各所にお届けいたします。確かにお預かりしました。おこころざしを深く随喜申し上げます。

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- 被災地へ -

2011年04月15日 | 東日本大震災

地震発生から3週間が過ぎた4月3日、御会式出座のため、飛行機でサッポロ信廣寺へ向かった。

飛行機に搭乗するときはいつも、飛行経路を調べて、機窓からどんな景色がみえるかを予想している。

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P4030034 たとえば大阪伊丹に行く場合、海岸沿いを飛ぶ場合は進行方向右側の席が当たりである。フライト間もなく湘南のビーチが見え、鎌倉・顕証寺も、その全景をみることができる。そして、愛知県の知多半島も、地図で見るのと同じくその形をクッキリと確認することができる。実に楽しい瞬間だ。

山間部を飛ぶ時は左側の機窓から、ボクの未踏の地である「富士山頂」をナマで見れる。裾野まで含めたその景色は、実に雄大でとてもキレイだ。冬は雪化粧となり、これがまた実に素晴らしい。飛行機搭乗時の大きな楽しみである。

しかしどちらの航路かは、その時にならないと分からないハズなので、大抵は海岸線の航路とふんで、右側の席を予約することが多い。

そんな要領で、今回は被災地を上空から見れればと期待した。海岸線を飛ぶならば左側の機窓・A席を予約するべきである。念のため、往復ともにA席を予約した。行きがダメなら帰りにと思ったのである。

はたして結果は。往路は残念ながら山間部の中通りを飛んだ。復路は、機窓から海岸線が見えた。しかし、左側の席に座っているので、三陸の太平洋沿岸のハズがない。予想を大きく外して、日本海側の沿岸を飛んだのである。まあ、わざわざ原発の上空を飛ぶワケないとは思っていた。

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P4030043_2 おもえば飛行機に乗る時はいつも、妄想モードに突入している。雲しかみえない時には、恩師が15歳で志願して入隊した予科練生になったつもりになる。敵機来襲に備えながらの飛行はどんな気分かと、かつて師匠が体験された感覚をバーチャルだが体感したいのである。そして、ご覧になった景色はこんな感じだったか?と、思いを馳せつつ妄想をしている。

地震発生後、気持ちはずっと被災地に飛んでいた。何かしたい。4月18日にはいよいよ、念願の被災地入りするコトが、搭乗時には決まっていた。サッポロ行きの飛行機なのに、まるでこれから東北へ赴くのと錯覚したような感じがあった。

早く行きたい。現地の人々はどんな苦しみの中で生活しているのだろう?ボクは現地で、何ができるだろう?今回はそんな妄想をしつつサッポロ千歳に到着して、頭を現実に切り替えたなぁと思い返した。


「行きたい奴が行く」のだ!

2011年04月13日 | 東日本大震災

【気仙沼仮設診療所体験記】

宮坂 政紀:都立墨東病院 救急シニアレジデント

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JMM [Japan Mail Media] より転載しました。
【発行】  有限会社 村上龍事務所 


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このコラムを引用して、被災地に行けと煽っているのではない。むしろ現時点では被爆が心配され、行くなと声をかけたいくらいの想いがある。ただ、部分的な情報だけで「行ってもしょうがない」的な空気をまき散らすのだけは勘弁してほしい。ボランティアレベルでは、現地に何度も行っていても、東北全体の状況を正確に把握している人は、少ないのではないだろうか?ましてや、被災地に赴いたことのない人は尚更であろう。

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3月24日(木)の昼の上司との会話。

私「先生、僕も気仙沼行きたいんですけど。」
上司「ああ、行ってきなよ。1000年に一度なんだから。こっちは任せて。」

いつも粋な返答をしてくれるナイス上司のおかげで、私は同僚清水と同日23時40分にバスに乗りこむことができた。東京駅発、仙台行きの夜行バスだ。

都立墨東病院はDMATへスタッフを送り込んでいるが、なぜかシニアレジデントはDMATに参加できない。他の都立病院のシニアレジデントはDMATとして現地に行っているのにもかかわらず。

血の気の多い?墨東レジデントはこの未曾有の事態に参加できないことにやきもきしている。「東北では今や絶対的な人手不足なはずなのに、なんで私たちは現地に行けないのだ」と。

同僚の清水もなんとかして現地で役に立つことができないか模索していた。そこで元墨東病院の看護師が気仙沼で医療チームを立ち上げていることを聞きつけたのだ。彼はその医療チームに参加する計画を立て、人づてに連絡先を聞いてその看護師さんに連絡をとった。私もその計画に乗っかることにした。

医療チームを立ち上げたのは、気仙沼出身の菅原千賀子さん。地元を救いたい一心から、独自の医療チームを作ってしまった。すごい行動力だ。医師と看護師から構成される4~6人の小さなチーム。菅原さんは現地で指揮をとり、そこに2~3人の医師と看護師が数日ごとに入れ替わるというシステムだ。私たちは3月25日に現地入りして、26日から28日まで診療業務に携わった。

私たちは気仙沼市役所の避難所に併設された仮設診療所で診療を行った。避難所には100人程度の被災者がいて、高齢者が多い。

私は外来診療、清水は避難所の回診を担当した。外来に来る患者さんは風邪か、高血圧などの慢性疾患をかかえる方ばかりで、感冒薬か常用薬の継続処方が多かった。
避難所でインフルエンザ感染が広がることを恐れ、発熱患者は特に注意深く診療した。
インフルエンザ感染と診断した場合には、感染者だけでなく濃厚接触者にも抗インフルエンザ薬を処方した。外来では1日30人程度の診察をしたが、重症患者はおらず、意外にも(よくよく考えれば当たり前だが)外傷患者は一人のみだった。被災から2週間も経過すると外傷患者は少なくなっていたようだ。

私たちは市役所の職員(60人程度)の健康診断も行った。職員は膨大な業務に追われて疲弊しきっていたのだが、みんな我慢強く黙っている。こちらから話しかけないと何を抱えているのか全く分からず、健診をやって初めて発熱者と抑うつ状態の職員を発見した。

また、市役所職員は避難所への供給物資を分配するのだが、避難所で何が不足し、何が充足しているのかを把握するなど、とても無理だ。そんな余裕はない。被災者の食事を優先させるため、いつも自分たちはカップ麺(カップ麺やごはんは余っている)ばかり食べていた。彼ら自身も被災者であり、彼らの健康状態が気仙沼の復興を左右してしまうにもかかわらずだ。

私と清水は被災した方々と一緒に避難所生活をした。ボランティアが最低限守るべきこととして「現地の食糧に手をつけてはいけない。安全な寝場所は避難者のものだ」というフレーズを聞いたことがあったから、私たちは寝袋と食糧を持ち込んだ。自分のためにカロリーメイトと水、タンパク不足の被災者のために高蛋白質の食糧を大量に買いこんで行った。

しかし、「現地の食糧には手をつけない」という私たちの信念は初日の夜から崩された。私たちが避難所に着くやいなや、おばちゃんたちが食事を用意し、挨拶をかわしている数分間で私たちの食卓が用意されてしまった。私が「僕らは食べに来たんじゃありません。十分食べ物は持ってきました」と主張するも虚しく、避難所のおじちゃん、おばちゃん達の前では全く無力だった。

さらに食事をしている間に暖かい寝床が用意されていた。癒しに来たつもりが、いきなりこちらが癒されてしまった。私たちの部屋では私と清水が最年少であり、気づくとおばちゃんたちのアイドルになっていた。

「こんなに太ったまま痩せないの。私たちこれでも避難民。はっはっは」とゲラゲラ笑うおばちゃん。おばちゃん達は明るい。たくましい。しかし、私たちを気遣い、明るく振舞っている彼女たちの家は流され、親族は行方不明で、仕事で使う船も流されている。今後、仮設住宅に移り住めたとして、漁業という中心的な産業がまるごと破壊された状態でどうやって生計をたてていったらよいのだろう。誰が助けてくれるのか。

実は、彼女たちは毎晩睡眠薬を使用しており、夜はあまり眠れていないようだ。ある早朝に震度5弱の余震が来ると、私と清水は布団の中でのんきにごろごろしていたのだが、避難所の人々は速く揺れを察知して、驚くほど速く逃げるために身構えた。未来は不安だらけで現状はこんなだ。安心なんてないし熟睡もありえない。

仮設診療所で診療中。患者さんが持参した薬の薬効を私が分からずに診療がもたついたことがあった。私が、「すみません。時間がかかってしまって。」と謝ると、「いえいえ、とんでもありません。東京から来てくれたんですよね。ほんと…ほんとうに助かります。ありがとうございます。ありがとうございます。」と声を震わせて俯いてしまった。

東京のERで昼間から夜通し働いても、こんなに感謝されることはめったにない。
東北では人手が足りていないのだ。東北に派遣されたスタッフから「人手は十分にいた」と聞くことがあるけど、それは嘘。人員配置を間違えているだけだ。限界を超えて自己犠牲を払っている人、辛くても口に出せない人が少なくとも気仙沼にはいた。

私たちは被災から15日が経過した時点で現地入りしたのだが、すでに被災直後とは必要とされる物資が変化していた。「カップ麺や白米は余っているが、蛋白質が足りていない」、「医薬品は充足している」、「重症患者の搬送は終了した」、「避難所の栄養状況が悪く、慢性疾患が悪くなってきている」、「精神科の医師の診察が必要となってきている」などである。被災地の状況は常に変化しているのに、今日と明日では必要なものが異なるのに、その全体像を把握できている人は誰もいなかった。

私たちが会った市役所の職員は疲弊していた。そもそも情報の収集と整理に必要な人手が足りていないのだ。復興までの何年間もこのような人手不足が続くかと思うと気が遠くなる。

復興には何年もかかり、支援も長期にわたって必要となる。医者でも医者じゃなくても、体が動けば役に立てる。友人たちも個人的に支援機関にオファーして、現地に行っている。適切な機関を通じて行けばいいのだ。不安と無力感に消耗しているくらいなら、思い切って行ってしまえばいい。人手は足りてないのだから。


- 余  震 -

2011年04月11日 | 東日本大震災

今日もまた地震が2回続けておこりました。それぞれ、震度6弱と5弱。

被災地の方々は、さぞ不安な思いをされていることだと思います。

東京も結構ゆれました。連日の地震で、建物の状態が心配になり、

屋上など、普段チェックしない場所まで、ちょこちょこ点検に行ってます。

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本来なら、サクラ咲くのどかな季節ですが、大勢の方々が不安な

日々を送っていると思います。

一日も早い、大震災の終息を、ご祈願申し上げます。