【気仙沼仮設診療所体験記】
宮坂 政紀:都立墨東病院 救急シニアレジデント
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JMM [Japan Mail Media] より転載しました。
【発行】 有限会社 村上龍事務所
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このコラムを引用して、被災地に行けと煽っているのではない。むしろ現時点では被爆が心配され、行くなと声をかけたいくらいの想いがある。ただ、部分的な情報だけで「行ってもしょうがない」的な空気をまき散らすのだけは勘弁してほしい。ボランティアレベルでは、現地に何度も行っていても、東北全体の状況を正確に把握している人は、少ないのではないだろうか?ましてや、被災地に赴いたことのない人は尚更であろう。
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3月24日(木)の昼の上司との会話。
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私「先生、僕も気仙沼行きたいんですけど。」
上司「ああ、行ってきなよ。1000年に一度なんだから。こっちは任せて。」
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いつも粋な返答をしてくれるナイス上司のおかげで、私は同僚清水と同日23時40分にバスに乗りこむことができた。東京駅発、仙台行きの夜行バスだ。
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都立墨東病院はDMATへスタッフを送り込んでいるが、なぜかシニアレジデントはDMATに参加できない。他の都立病院のシニアレジデントはDMATとして現地に行っているのにもかかわらず。
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血の気の多い?墨東レジデントはこの未曾有の事態に参加できないことにやきもきしている。「東北では今や絶対的な人手不足なはずなのに、なんで私たちは現地に行けないのだ」と。
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同僚の清水もなんとかして現地で役に立つことができないか模索していた。そこで元墨東病院の看護師が気仙沼で医療チームを立ち上げていることを聞きつけたのだ。彼はその医療チームに参加する計画を立て、人づてに連絡先を聞いてその看護師さんに連絡をとった。私もその計画に乗っかることにした。
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医療チームを立ち上げたのは、気仙沼出身の菅原千賀子さん。地元を救いたい一心から、独自の医療チームを作ってしまった。すごい行動力だ。医師と看護師から構成される4~6人の小さなチーム。菅原さんは現地で指揮をとり、そこに2~3人の医師と看護師が数日ごとに入れ替わるというシステムだ。私たちは3月25日に現地入りして、26日から28日まで診療業務に携わった。
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私たちは気仙沼市役所の避難所に併設された仮設診療所で診療を行った。避難所には100人程度の被災者がいて、高齢者が多い。
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私は外来診療、清水は避難所の回診を担当した。外来に来る患者さんは風邪か、高血圧などの慢性疾患をかかえる方ばかりで、感冒薬か常用薬の継続処方が多かった。
避難所でインフルエンザ感染が広がることを恐れ、発熱患者は特に注意深く診療した。
インフルエンザ感染と診断した場合には、感染者だけでなく濃厚接触者にも抗インフルエンザ薬を処方した。外来では1日30人程度の診察をしたが、重症患者はおらず、意外にも(よくよく考えれば当たり前だが)外傷患者は一人のみだった。被災から2週間も経過すると外傷患者は少なくなっていたようだ。
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私たちは市役所の職員(60人程度)の健康診断も行った。職員は膨大な業務に追われて疲弊しきっていたのだが、みんな我慢強く黙っている。こちらから話しかけないと何を抱えているのか全く分からず、健診をやって初めて発熱者と抑うつ状態の職員を発見した。
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また、市役所職員は避難所への供給物資を分配するのだが、避難所で何が不足し、何が充足しているのかを把握するなど、とても無理だ。そんな余裕はない。被災者の食事を優先させるため、いつも自分たちはカップ麺(カップ麺やごはんは余っている)ばかり食べていた。彼ら自身も被災者であり、彼らの健康状態が気仙沼の復興を左右してしまうにもかかわらずだ。
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私と清水は被災した方々と一緒に避難所生活をした。ボランティアが最低限守るべきこととして「現地の食糧に手をつけてはいけない。安全な寝場所は避難者のものだ」というフレーズを聞いたことがあったから、私たちは寝袋と食糧を持ち込んだ。自分のためにカロリーメイトと水、タンパク不足の被災者のために高蛋白質の食糧を大量に買いこんで行った。
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しかし、「現地の食糧には手をつけない」という私たちの信念は初日の夜から崩された。私たちが避難所に着くやいなや、おばちゃんたちが食事を用意し、挨拶をかわしている数分間で私たちの食卓が用意されてしまった。私が「僕らは食べに来たんじゃありません。十分食べ物は持ってきました」と主張するも虚しく、避難所のおじちゃん、おばちゃん達の前では全く無力だった。
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さらに食事をしている間に暖かい寝床が用意されていた。癒しに来たつもりが、いきなりこちらが癒されてしまった。私たちの部屋では私と清水が最年少であり、気づくとおばちゃんたちのアイドルになっていた。
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「こんなに太ったまま痩せないの。私たちこれでも避難民。はっはっは」とゲラゲラ笑うおばちゃん。おばちゃん達は明るい。たくましい。しかし、私たちを気遣い、明るく振舞っている彼女たちの家は流され、親族は行方不明で、仕事で使う船も流されている。今後、仮設住宅に移り住めたとして、漁業という中心的な産業がまるごと破壊された状態でどうやって生計をたてていったらよいのだろう。誰が助けてくれるのか。
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実は、彼女たちは毎晩睡眠薬を使用しており、夜はあまり眠れていないようだ。ある早朝に震度5弱の余震が来ると、私と清水は布団の中でのんきにごろごろしていたのだが、避難所の人々は速く揺れを察知して、驚くほど速く逃げるために身構えた。未来は不安だらけで現状はこんなだ。安心なんてないし熟睡もありえない。
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仮設診療所で診療中。患者さんが持参した薬の薬効を私が分からずに診療がもたついたことがあった。私が、「すみません。時間がかかってしまって。」と謝ると、「いえいえ、とんでもありません。東京から来てくれたんですよね。ほんと…ほんとうに助かります。ありがとうございます。ありがとうございます。」と声を震わせて俯いてしまった。
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東京のERで昼間から夜通し働いても、こんなに感謝されることはめったにない。
東北では人手が足りていないのだ。東北に派遣されたスタッフから「人手は十分にいた」と聞くことがあるけど、それは嘘。人員配置を間違えているだけだ。限界を超えて自己犠牲を払っている人、辛くても口に出せない人が少なくとも気仙沼にはいた。
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私たちは被災から15日が経過した時点で現地入りしたのだが、すでに被災直後とは必要とされる物資が変化していた。「カップ麺や白米は余っているが、蛋白質が足りていない」、「医薬品は充足している」、「重症患者の搬送は終了した」、「避難所の栄養状況が悪く、慢性疾患が悪くなってきている」、「精神科の医師の診察が必要となってきている」などである。被災地の状況は常に変化しているのに、今日と明日では必要なものが異なるのに、その全体像を把握できている人は誰もいなかった。
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私たちが会った市役所の職員は疲弊していた。そもそも情報の収集と整理に必要な人手が足りていないのだ。復興までの何年間もこのような人手不足が続くかと思うと気が遠くなる。
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復興には何年もかかり、支援も長期にわたって必要となる。医者でも医者じゃなくても、体が動けば役に立てる。友人たちも個人的に支援機関にオファーして、現地に行っている。適切な機関を通じて行けばいいのだ。不安と無力感に消耗しているくらいなら、思い切って行ってしまえばいい。人手は足りてないのだから。
3,11の東北地震がおきてから、早くも二週間が過ぎた。
3月13日から現地入りする者もあり、昨日出発した救援班は2チーム。明日まで仙台に滞在する。
「行こうぜ!」「何かしようぜ!」の一言が、他の人々を同じ思いにさせる。「対岸のなんとやら」という感覚がそこで弾けて、自分にできる支援はなにか?いま現地は何が必要か?どうすれば調達できるか?いくらかかるか?どうやって運ぶか?などと、具体的に考え始めるのである。
地震発生から間もない時に現地の人と会話すると次のような言葉が返ってきた。
「いま来てもらっても、受入られない。」「ガソリンがほしい。次に現金。」「一般人が来ても、手に負える状態ではないから…。」
しかし、毎日毎日、あちこちに連絡を取り、耳を澄まして聞いてみると、「いつ来てくれるんだ?」「○○を持ってきてほしい」という要望が聞こえてくる。
「いま行ってもしようがないじゃん」と言ってた者たちの考え方は、昨日までは通用しても、今朝の時点ではのろまと評されることになる。
ドアが開いたら、みんな勇ましく飛び出して行った。そして、飛び出して行った者たちはみな、自分でドアを開けようとする意思を持った者から、ドアを開けるコトができたのであったと感じる。
現地へ行けと言っているのではない。ただ、前へ出よう。そんなコトを、てるりき師から教わった。