清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

仙台妙護寺 団参 ② 被災地ご回向

2015年07月27日 | 東日本大震災

妙護寺さんのお会式がおわり、すぐに被災地へ向かいました。

ご回向の場所は、仙台市若林区荒浜。県道・塩釜亘理線が南北に走っています。

荒浜地区の殉難者は180名ほどとありました。

また、荒浜にあがったご遺体は200~300にものぼったとのことです。

写真は、県道そばの荒浜小学校の建物です。

【以下、新聞の記事より】

荒浜小学校の屋上に避難した住民ら300人以上が助かったことから、市は「震災の被害を体感するうえで貴重な場となる」として保存を検討。

市は住民の意見を聞くため、2月からアンケートを実施。626世帯を対象に行い、239世帯から回答を得た。

「賛成」が71・5%と最多で、「意見なし」が21・3%、「反対」が7・1%だった結果を受け、保存することを正式に決めた。


 

荒浜でのご回向。妙護寺さんで全部ご用意下さいました。

準備が大変だったと思います。おかげさまで、こういうご奉公をさせていただけました。

ありがとうございました。

(近藤お導師をおかこみ申し上げ集合写真)

ご回向の風景。お焼香がわりに、お線香をお供えさせていただきました。

常住寺の団参者。

近藤お導師から、当時の様子をお聞きしています。

近藤お導師は、震災以降は毎月11日(震災は3月11日)に、各地をまわってご回向されていらっしゃるそうです。


 

閖上大橋から太平洋をのぞむ。こんなに穏やかなのに、当時はこちらから、津波が押し寄せたんですね。

妙護寺のみんさまと別れて、帰路につきました。名取インターに入るまえに閖上地区へ。

閖上中学校。

閖上中学校の校門を入ってすぐの、校歌が刻まれた石碑。今回は、右側の石碑うしろに、お塔婆を建立しました。

石碑と石碑の間にある小さなお塔婆は、平成23年にボクが建立したお塔婆です。

文字が消えてましたが、しっかり地面に刺さって残っていましたので、筆ペンで上書きしてきました。

校舎は震災直後のまま時が止まっています。

来る度に、散乱したガラス破片が片付けられていたりと、整理されてるのが分かりますが、

やはり、震災直後と様子は同じです。備品は一ヶ所にまとめられて積み上げられている。そんな様子です。

校舎内は現在、立ち入り禁止になっています。

中学生14名の犠牲者。そして、公民館から中学まで移動中に津波にさらわれた数百名の近隣住民。

日和山・ひよりやま。

公民館があったあたり。すっかり更地になってます。


 

帰りはゆっくり帰りました。阿武隈。那須高原。佐野。各サービスエリアで休憩しました。

南部道路から東北道へ。

次回はいつ行けるかなぁ。郷愁にかられる旅でした。


仙台妙護寺 団参 ①

2015年07月27日 | 東日本大震災

7月26日。

仙台・妙護寺さんの開導聖人・御正当会式(開導会)にお参りさせていただきました。

ご教歌「末の世の 衆生助くる のりとては  妙法下種の 外なかりけり」

妙護寺さんにお参りさせていただくのは2回目です。

前回は先住のお葬儀でした。震災のときは行ってないんです。

妙護寺のお導師さまは仰いました。

「ここは自分たちのお寺だから、自分たちで復興させる。」

「だから、お前らは来ないでいい。」「どこか、他所に、手伝いに行ってやれ!」

なんという力強いお言葉。当時は、ただただ感動するばかりでした。

ですから、震災の支援は一切してないんです。

妙護寺さんは、小高い丘の上にあります。

坂を登って山門につきますと教要師はじめご信者方々が大勢、出迎えてくれました。

すごい立派なお寺です。山門についたとたん、感動のあらしでした。

日晨上人の御筆。「不毀・ふき」。

こわさず。そこなわず。きずつけず。そしらず。

築・数十年の建物。重厚な建物は、建立当時のみなさまの厚い志を伺えるようです。

お部屋。廊下。戒壇。踊り場。もちろん本堂も。どこをとっても重厚な雰囲気です。

良い素材を使っているのはもちろんでしょうが、なんというか「お掃除や手入れが行き届いている」

そういう重厚さで、「古き伝統と格式のある日本建築」と表現したらいいと思います。

よく見ると、震災の爪痕もありました。当時は部屋のカベが全部崩れ落ちたとお聞きしましたから、

直して、かつ、この素晴らしい風格を出すに至るまで、相当の労力だったに違いありません。

瞬時に、そういう風に想像できました。山門をくぐったときからの感動は、それらを含めたところです。


 

(ホテルからお寺に向かう途中の道のり。お寺がある太白区に入ったところ。)

(ホテルの部屋から仙台駅ビルをのぞむ。)

宿泊は駅前のホテルでした。ふかふかのベッド。朝食がおいしかったです。

夕食は牛タンの有名店。ものすごくおいしかったです。

じつに、もったいない限りのおもてなしをいただきました。


 

那須高原サービスエリアにて、ゆかとツーショット。

被災地ご回向はつぎの記事にてご紹介します。


3 11

2014年03月11日 | 東日本大震災

東日本大震災から3年。

現在、現地への支援は、なにもしていません。でも、片時も忘れたことはありません。ご回向は、欠かさず毎日させていただいております。そしてこれからも、精一杯のお看経で、亡き魂のご回向をさせていただく所存です。

昨日・10日から、常住寺の本堂にお塔婆を建立しました。一周忌が終わった時点で、お塔婆の建立は途切れてしまいましたが、これからしばらく毎日、建立させていただくことにしました。

Ca3j0046

昨晩のお看経は、無始已来をはじめたら、家族がパラパラと集まってきました。

裕香はご宝前のお給仕を楽しみにしており、「お灰」をならして、おみがきをして、お花を下げて、お明かりを消して、お御簾を下げるまでしてくれます。

家族が帰山して、ご宝前に集まる。全員集合するのは当たり前のことですが、それでも「あること難し」と、ありがたくなってしまいます。

一夜明けまして、早朝は男子全員で本堂のお給仕です。寒くて眠いけど、みんなでさせていただけることが、本当にありがたいと、みんなが感じています。

ささやかな幸せが、実はとても大きな幸せなんだという事に気づいてほしくて、常々そのことを、みんなに話してます。そして、ありがたい身の上と感じている中で、それと逆に、大変な思いをしている人や、辛く切ない思いをしている人のことが気がかりです。

今日で、震災からまる3年。

復興にはほど遠い現状をニュースなどで見聞きすると、なにかお役に立つことはないだろうかと、かつて度々赴いた彼の地へ、思いを馳せてしまいます。

Ca3j0029

先般、3月4日~7日まで、宗会に出席するために、京都の本山・宗務本庁へ上がりました。

留守中のご宝前お給仕は、学徒2名にご奉公を命じました。ご宝前のお給仕を始めてから、わずか4年半のキャリアです。ですが、私の留守中にキチンとできるように、事前に何度もお給仕の仕方を覚えさせました。そして、彼らが朝出仕をする時間に合わせて、私は本山のご宝前でお看経をさせていただくことにしました。

毎日あたりまえのようにさせていただくご奉公も、できて当たり前ですが、無事に終わったら、やはり、ありがたいと思うべきですね。

なんでもないことが、ありがたい。ですから、タンタンとお給仕させていただいてて、実は命がけなんですね。そう実感します。そして、毎日、ありがたいんだと。

Ca3j0026

晨朝・5時30分。本山の本堂に入りますと、本山寄宿の学生師が、大勢でお給仕をされてました。本山お教務方もいらっしゃいます。キビキビしたお給仕の姿をみて、ありがたい気持ちになると共に、同時刻に常住寺にてご奉公させていただいている当山の学徒たちの姿を想像しました。願わくば、本山の学生師の如く、ご奉公していてほしい。いやできているだろうと。。。

小一時間経ち、終了の報告を受けました。無事にできましたとのことでした。ちょっと誇らしげな口調に、「生意気な!」と思いつつ、報告を受けただけで安堵いたしました。報告って大事ですね。もうこれは、大事なお仕えの一つだと言えます。

一生懸命にさせていただき、功徳を積むことができるご奉公となったのならば、願わくば、この功徳が亡き魂に回り向かいますようにと願います。大きな悲しみ、切ないできごとを見聞きする度に、ボクらは、そういう思いでご奉公させていただこうと心に誓うんです。

3年目の311。亡くなった魂は、消滅したのではなく、その先がある。次の一生へと旅だつと教わります。ならば、目には見えなくても、命がけでご回向させていただかなくてはならないと、思いを定めてかかりたいものです。。。


550プレ大会 と 震災一周忌

2012年02月03日 | 東日本大震災

3月11日(日)

門祖日隆聖人550回御遠諱プレ大会と東日本大震災一周忌が、

大本寺・乗泉寺に於いて、併せて営まれる。

20090409k3200018

お参詣者1千数百名規模で奉修される予定で、

主催は第5支庁と災害対策本部で御奉公させていただく。

常住寺の参詣ワクは40名。

当日お参詣されないご信者も、門祖聖人の報恩お塔婆と

震災殉難者のご回向のため、お塔婆を建立させていただくよう

お勧めをしている。

報告・奉納の〆切は、それぞれ2月8日。(常住寺内での〆切日)

Pa290037

Dsc_0129_2

Dsc_0113

(※)写真1枚目は仙台・名取の閖上中学。

2枚目3枚目は、昨年8月15日に営まれた 「 震災・盂蘭盆ご回向 」で、それぞれ撮影。


ブログ再開

2011年08月15日 | 東日本大震災

新年度より、ブログ再開いたします。

今年一年を振り返り

未曾有の大災害をよそ事とせず

被災地の早期復興を祈念し

及ばずながら、復興の一助となれるよう

活動して参りたいと思っております。

Pa290037

Pa290041

Pa290044

Pa290049

平成23年10月28日29日

仙台・名取市 閖上中学校と公民館の間を中心に、

近隣を転々と移動しながら、

震災被災者の慰霊ご回向をさせていただきました。


- 仙台・妙法寺 -

2011年04月21日 | 東日本大震災

妙法寺へ行ってきました。

外壁修理。トイレ壁面の修理。瓦れきの撤去。その他の作業で二泊三日の行程でした。

Pap_0028

衣食住は自分でする。ボランティアの鉄則を守ることはできず、妙法寺さんに寝食のお世話になってしまいました。美味しい食事をありがとうございました。

岡山師の奥さんには、とても良くして頂きました。「どうぞどうぞ、お召し上がり下さい。」「おかわりいかがですか?」「寒くないですか?」「ありがとうございます」「よろしくお願いいたします」「お気を付けてどうぞ」

こんな具合に、【ありがとう。おかげさまで。】と【ほどこし。慈しみ。】のかたまりのような方でした。

Pap_0011 食事の時。箸置きが半紙で折って作ってありました。無ければナシでよいものを、物の無い中でまごころを頂きました。ありがたい。ホント、ありがたかったです。

P4200085_2 

チームワークもよかった。みんな一生懸命、喜んでご奉公させていただけました。それもありがたい。また、みんな元気で帰ってこれました。これもありがたい。

Pap_0018 北区王子にお住まいの、八十田さん。筒井さん。ボランティアの方々から沢山の物資を集めてきて下さり、ありがとうございました。物資を下さった方々、お手紙まで添えて下さり、現地の方々がとても感動しておりました。

Pap_0020

何度も何度もお礼を言われて。ボクが用意した物資じゃありませんと伝えても、何度も何度も御礼を言われて、申し訳ない気持ちになりました。

みなさん。支援のご奉公に行かせて頂けたコトに、篤く御礼申し上げます。ホント。ありがとうございました。

P4200073


- 支援物資のお礼 -

2011年04月18日 | 東日本大震災

110417_153201_2

110417_153102_4

王子のつついさんが物資を届けて下さいました。

福祉関係のボランティアをされているとのコトで、各所を回って品物を調達して下さいました。愛娘・あずさちゃんが風邪ぎみで大変だったのに、ホントありがたいです。

夜が明けたら東北に向けて出発します。物資は、仙台・妙法寺さん経由で、各所にお届けいたします。確かにお預かりしました。おこころざしを深く随喜申し上げます。

110417_153202_2


- 被災地へ -

2011年04月15日 | 東日本大震災

地震発生から3週間が過ぎた4月3日、御会式出座のため、飛行機でサッポロ信廣寺へ向かった。

飛行機に搭乗するときはいつも、飛行経路を調べて、機窓からどんな景色がみえるかを予想している。

P4030033

P4030034 たとえば大阪伊丹に行く場合、海岸沿いを飛ぶ場合は進行方向右側の席が当たりである。フライト間もなく湘南のビーチが見え、鎌倉・顕証寺も、その全景をみることができる。そして、愛知県の知多半島も、地図で見るのと同じくその形をクッキリと確認することができる。実に楽しい瞬間だ。

山間部を飛ぶ時は左側の機窓から、ボクの未踏の地である「富士山頂」をナマで見れる。裾野まで含めたその景色は、実に雄大でとてもキレイだ。冬は雪化粧となり、これがまた実に素晴らしい。飛行機搭乗時の大きな楽しみである。

しかしどちらの航路かは、その時にならないと分からないハズなので、大抵は海岸線の航路とふんで、右側の席を予約することが多い。

そんな要領で、今回は被災地を上空から見れればと期待した。海岸線を飛ぶならば左側の機窓・A席を予約するべきである。念のため、往復ともにA席を予約した。行きがダメなら帰りにと思ったのである。

はたして結果は。往路は残念ながら山間部の中通りを飛んだ。復路は、機窓から海岸線が見えた。しかし、左側の席に座っているので、三陸の太平洋沿岸のハズがない。予想を大きく外して、日本海側の沿岸を飛んだのである。まあ、わざわざ原発の上空を飛ぶワケないとは思っていた。

P4030036

P4030043_2 おもえば飛行機に乗る時はいつも、妄想モードに突入している。雲しかみえない時には、恩師が15歳で志願して入隊した予科練生になったつもりになる。敵機来襲に備えながらの飛行はどんな気分かと、かつて師匠が体験された感覚をバーチャルだが体感したいのである。そして、ご覧になった景色はこんな感じだったか?と、思いを馳せつつ妄想をしている。

地震発生後、気持ちはずっと被災地に飛んでいた。何かしたい。4月18日にはいよいよ、念願の被災地入りするコトが、搭乗時には決まっていた。サッポロ行きの飛行機なのに、まるでこれから東北へ赴くのと錯覚したような感じがあった。

早く行きたい。現地の人々はどんな苦しみの中で生活しているのだろう?ボクは現地で、何ができるだろう?今回はそんな妄想をしつつサッポロ千歳に到着して、頭を現実に切り替えたなぁと思い返した。


「行きたい奴が行く」のだ!

2011年04月13日 | 東日本大震災

【気仙沼仮設診療所体験記】

宮坂 政紀:都立墨東病院 救急シニアレジデント

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

JMM [Japan Mail Media] より転載しました。
【発行】  有限会社 村上龍事務所 


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

このコラムを引用して、被災地に行けと煽っているのではない。むしろ現時点では被爆が心配され、行くなと声をかけたいくらいの想いがある。ただ、部分的な情報だけで「行ってもしょうがない」的な空気をまき散らすのだけは勘弁してほしい。ボランティアレベルでは、現地に何度も行っていても、東北全体の状況を正確に把握している人は、少ないのではないだろうか?ましてや、被災地に赴いたことのない人は尚更であろう。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

3月24日(木)の昼の上司との会話。

私「先生、僕も気仙沼行きたいんですけど。」
上司「ああ、行ってきなよ。1000年に一度なんだから。こっちは任せて。」

いつも粋な返答をしてくれるナイス上司のおかげで、私は同僚清水と同日23時40分にバスに乗りこむことができた。東京駅発、仙台行きの夜行バスだ。

都立墨東病院はDMATへスタッフを送り込んでいるが、なぜかシニアレジデントはDMATに参加できない。他の都立病院のシニアレジデントはDMATとして現地に行っているのにもかかわらず。

血の気の多い?墨東レジデントはこの未曾有の事態に参加できないことにやきもきしている。「東北では今や絶対的な人手不足なはずなのに、なんで私たちは現地に行けないのだ」と。

同僚の清水もなんとかして現地で役に立つことができないか模索していた。そこで元墨東病院の看護師が気仙沼で医療チームを立ち上げていることを聞きつけたのだ。彼はその医療チームに参加する計画を立て、人づてに連絡先を聞いてその看護師さんに連絡をとった。私もその計画に乗っかることにした。

医療チームを立ち上げたのは、気仙沼出身の菅原千賀子さん。地元を救いたい一心から、独自の医療チームを作ってしまった。すごい行動力だ。医師と看護師から構成される4~6人の小さなチーム。菅原さんは現地で指揮をとり、そこに2~3人の医師と看護師が数日ごとに入れ替わるというシステムだ。私たちは3月25日に現地入りして、26日から28日まで診療業務に携わった。

私たちは気仙沼市役所の避難所に併設された仮設診療所で診療を行った。避難所には100人程度の被災者がいて、高齢者が多い。

私は外来診療、清水は避難所の回診を担当した。外来に来る患者さんは風邪か、高血圧などの慢性疾患をかかえる方ばかりで、感冒薬か常用薬の継続処方が多かった。
避難所でインフルエンザ感染が広がることを恐れ、発熱患者は特に注意深く診療した。
インフルエンザ感染と診断した場合には、感染者だけでなく濃厚接触者にも抗インフルエンザ薬を処方した。外来では1日30人程度の診察をしたが、重症患者はおらず、意外にも(よくよく考えれば当たり前だが)外傷患者は一人のみだった。被災から2週間も経過すると外傷患者は少なくなっていたようだ。

私たちは市役所の職員(60人程度)の健康診断も行った。職員は膨大な業務に追われて疲弊しきっていたのだが、みんな我慢強く黙っている。こちらから話しかけないと何を抱えているのか全く分からず、健診をやって初めて発熱者と抑うつ状態の職員を発見した。

また、市役所職員は避難所への供給物資を分配するのだが、避難所で何が不足し、何が充足しているのかを把握するなど、とても無理だ。そんな余裕はない。被災者の食事を優先させるため、いつも自分たちはカップ麺(カップ麺やごはんは余っている)ばかり食べていた。彼ら自身も被災者であり、彼らの健康状態が気仙沼の復興を左右してしまうにもかかわらずだ。

私と清水は被災した方々と一緒に避難所生活をした。ボランティアが最低限守るべきこととして「現地の食糧に手をつけてはいけない。安全な寝場所は避難者のものだ」というフレーズを聞いたことがあったから、私たちは寝袋と食糧を持ち込んだ。自分のためにカロリーメイトと水、タンパク不足の被災者のために高蛋白質の食糧を大量に買いこんで行った。

しかし、「現地の食糧には手をつけない」という私たちの信念は初日の夜から崩された。私たちが避難所に着くやいなや、おばちゃんたちが食事を用意し、挨拶をかわしている数分間で私たちの食卓が用意されてしまった。私が「僕らは食べに来たんじゃありません。十分食べ物は持ってきました」と主張するも虚しく、避難所のおじちゃん、おばちゃん達の前では全く無力だった。

さらに食事をしている間に暖かい寝床が用意されていた。癒しに来たつもりが、いきなりこちらが癒されてしまった。私たちの部屋では私と清水が最年少であり、気づくとおばちゃんたちのアイドルになっていた。

「こんなに太ったまま痩せないの。私たちこれでも避難民。はっはっは」とゲラゲラ笑うおばちゃん。おばちゃん達は明るい。たくましい。しかし、私たちを気遣い、明るく振舞っている彼女たちの家は流され、親族は行方不明で、仕事で使う船も流されている。今後、仮設住宅に移り住めたとして、漁業という中心的な産業がまるごと破壊された状態でどうやって生計をたてていったらよいのだろう。誰が助けてくれるのか。

実は、彼女たちは毎晩睡眠薬を使用しており、夜はあまり眠れていないようだ。ある早朝に震度5弱の余震が来ると、私と清水は布団の中でのんきにごろごろしていたのだが、避難所の人々は速く揺れを察知して、驚くほど速く逃げるために身構えた。未来は不安だらけで現状はこんなだ。安心なんてないし熟睡もありえない。

仮設診療所で診療中。患者さんが持参した薬の薬効を私が分からずに診療がもたついたことがあった。私が、「すみません。時間がかかってしまって。」と謝ると、「いえいえ、とんでもありません。東京から来てくれたんですよね。ほんと…ほんとうに助かります。ありがとうございます。ありがとうございます。」と声を震わせて俯いてしまった。

東京のERで昼間から夜通し働いても、こんなに感謝されることはめったにない。
東北では人手が足りていないのだ。東北に派遣されたスタッフから「人手は十分にいた」と聞くことがあるけど、それは嘘。人員配置を間違えているだけだ。限界を超えて自己犠牲を払っている人、辛くても口に出せない人が少なくとも気仙沼にはいた。

私たちは被災から15日が経過した時点で現地入りしたのだが、すでに被災直後とは必要とされる物資が変化していた。「カップ麺や白米は余っているが、蛋白質が足りていない」、「医薬品は充足している」、「重症患者の搬送は終了した」、「避難所の栄養状況が悪く、慢性疾患が悪くなってきている」、「精神科の医師の診察が必要となってきている」などである。被災地の状況は常に変化しているのに、今日と明日では必要なものが異なるのに、その全体像を把握できている人は誰もいなかった。

私たちが会った市役所の職員は疲弊していた。そもそも情報の収集と整理に必要な人手が足りていないのだ。復興までの何年間もこのような人手不足が続くかと思うと気が遠くなる。

復興には何年もかかり、支援も長期にわたって必要となる。医者でも医者じゃなくても、体が動けば役に立てる。友人たちも個人的に支援機関にオファーして、現地に行っている。適切な機関を通じて行けばいいのだ。不安と無力感に消耗しているくらいなら、思い切って行ってしまえばいい。人手は足りてないのだから。


- 余  震 -

2011年04月11日 | 東日本大震災

今日もまた地震が2回続けておこりました。それぞれ、震度6弱と5弱。

被災地の方々は、さぞ不安な思いをされていることだと思います。

東京も結構ゆれました。連日の地震で、建物の状態が心配になり、

屋上など、普段チェックしない場所まで、ちょこちょこ点検に行ってます。

P4100003

P4100004

P4100018

本来なら、サクラ咲くのどかな季節ですが、大勢の方々が不安な

日々を送っていると思います。

一日も早い、大震災の終息を、ご祈願申し上げます。


- ボクは行けなかった -

2011年03月23日 | 東日本大震災

3,11の東北地震がおきてから、早くも二週間が過ぎた。

3月13日から現地入りする者もあり、昨日出発した救援班は2チーム。明日まで仙台に滞在する。

Photo

「行こうぜ!」「何かしようぜ!」の一言が、他の人々を同じ思いにさせる。「対岸のなんとやら」という感覚がそこで弾けて、自分にできる支援はなにか?いま現地は何が必要か?どうすれば調達できるか?いくらかかるか?どうやって運ぶか?などと、具体的に考え始めるのである。

地震発生から間もない時に現地の人と会話すると次のような言葉が返ってきた。

「いま来てもらっても、受入られない。」「ガソリンがほしい。次に現金。」「一般人が来ても、手に負える状態ではないから…。」

しかし、毎日毎日、あちこちに連絡を取り、耳を澄まして聞いてみると、「いつ来てくれるんだ?」「○○を持ってきてほしい」という要望が聞こえてくる。

「いま行ってもしようがないじゃん」と言ってた者たちの考え方は、昨日までは通用しても、今朝の時点ではのろまと評されることになる。

ドアが開いたら、みんな勇ましく飛び出して行った。そして、飛び出して行った者たちはみな、自分でドアを開けようとする意思を持った者から、ドアを開けるコトができたのであったと感じる。

現地へ行けと言っているのではない。ただ、前へ出よう。そんなコトを、てるりき師から教わった。