昭和20年8月10日。B29など150機が飛来し、地元・北区を空爆した。死者152名。重傷者144名。
空爆によって死亡した100体を超える遺体は常住寺に集められ、ひとまず境内に土葬され、後に神谷公園にて荼毘に付されたという。
その時、常住寺第二世権大僧正・日泰上人は、無数のご遺体の安置・埋葬に追われた。考えてもみてほしい。近隣が爆撃を受けた。境内には、ついさっきまで井戸端会議をしていたご近所の方々ばかりが、見るも無惨なお姿で息絶え、横たわっているのである。なんと辛く悲しい事か、想像に難くない。そして日泰上人とお弟子方々は、いつまた空襲されるかも知れない状況の中にあっても、有志で、遺体の安置埋葬と死者の回向を勤め続けたと聞く。
下記の文章は、地元・北区が空爆された時の戦災殉難者の記録である。本日8月6日。広島に原爆が投下された日に、8月10日に常住寺で奉修される「戦災殉難者・慰霊言上式」に先駆けて、北区の史実を調べて一部を選び記事をアップした。
【北区における戦災の状況 (総務省・HPより)】
北区域に対する最初の大規模な空襲は、昭和20(1945)年2月19日午後2時40分からのもので、王子区豊島地区にかなりの被害を受けた。
『新修北区史』は全壊60戸、半壊66戸、焼失戸数99戸、死者29人、罹災者は1128戸としている。さらに2月25日午後2時すぎにも空襲を受け、滝野川区で死者1人を出した。3月4日の空襲でも、滝野川区で死者14人の被害を受けた。3月10日の東京大空襲でも、余波を受け、30人が罹災し、14戸が焼失したほか、荒川区等からの罹災者を寺などで保護した。
4月12日にも空襲があったが、翌13日夜から14日未明にかけての空襲は、北区域最大規模のもので、王子・滝野川両区の広い範囲にわたって甚大な被害が出た。200人以上の死者、800人以上の負傷者を出した。王子区では、区役所や陸軍兵器補給廠等の官公署、王子製紙や日本フェルト等の民間工場が焼失した。滝野川区では、低地部で大きな被害を受けた。
この空襲の状況を「下十条国民学校建物焼失顛末書」で見ると、下十条国民学校の被災の状況は以下のようであった。
4月13日午後10時40分の警戒警報に続き、空襲警報が発令され、間もなく王子区の低地南方から荒川筋へ焼夷弾が投下された。校長以下の特設防護団員が詔書を背負い、重要書類を持ち出して防空壕の中に埋め、校内を点検した。すでに堀船、王子、東十条方面は燃え上がっており、14日午前0時30分には通学区域内の岸町に数百発の焼夷弾が投下された。その後、午前1時をまわって、学校内にも焼夷弾が投下され、そのうち消火が間に合わなかった理科室から燃え上がって、ついに校舎は全焼した。周辺は火の海であり、校庭には、周辺から避難してきた人々が続々と押し寄せた。(下記の絵画は、堀船国民学校が空襲で全焼する様子の描写。)
5月25日夜の空襲では、「じゅうたん爆撃」を受け、王子区では883戸が焼失、死者10人を出し、滝野川区では23戸が焼失した。さらに、敗戦まであと5日という、8月10日には、朝からの空襲警報のなか、B29など150機が飛来し、北区域は死者152人、重傷者144人を出した。
さて、私が子供の頃の昭和40年代前半。線路のむこう側にある十条仲原地区には、戦時下を連想させるかの如き風景が未だ残っていた。あかつち山とドングリ山の間には、旧・国鉄の職員舎跡が廃墟となって残存しており、山の手の麓には防空壕の跡らしき横穴が数カ所空いていたのを思い出す。現在この土地は、「清水坂公園」という公園になった。地の利を活かした、高台からの見晴らしが良く、水と緑に囲まれた、素晴らしい場所に生まれ変わっている。
軍都と呼ばれていた北区は、終戦から半世紀をかけて力強く復興を果たし、そして更に大きく変貌を遂げた。旧・岩槻街道に沿って西側に集中していた軍用地は、公団住宅や野球場、全世界からオリンピック選手が集まってスポーツを科学する施設や国立競技場、学校や公園図書館などが立ち並び、都心の中でも緑が多く暮らしやすい住環境が整っている地域と言えるであろう。
豊かな国日本。愛する北区。
8月は終戦記念日の月である。この暑い季節を迎えて常住寺は宣言する。
平和と発展を祈念する意味に於いても、日々戦災殉難者等の追善回向を志し、愛する地元の御弘通教化のご奉公を以て地域を利益せしめ、地域に貢献する活動を貫いていく所存である。