清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

うしろ姿

2014年06月30日 | 学び ・ すすめ

一昨晩、大本寺・乗泉寺にて、宗会の議案についての勉強会が行われました。

終了後、本堂へごあいさつに上がりますと、一番前で二人ばかり、熱心にお看経されてる人がいました。現在、出家得度させていただくために見習いとして入寺した二人です。

ちょっとごあさつのつもりが、一緒にお看経させていただきたくなり、おそらく8時の閉門時間には終わるだろうと読めば40分ほどです。時間は大丈夫ですから、させていただくことにしました。

彼らは一番前。ボクは一番後ろに座ってましたので、その距離は数十メートル。イス席で一千人を収容でる広さです。この大伽藍でおこなわれていた「夜の大合唱」に加わり、ありがたさで一杯になりました。

彼らの後ろ姿からは、真剣さが伝わってきました。背筋が伸びてご本尊を一心にみつめておりました。

秋には得度のお許しがいただけることでしょう。彼らはそれまで、この乗泉寺の敷地から、一歩も出ることができません。限られた空間で、逃げ場なく修行に励む日々を過ごしているはずです。

頬がやせこけ、やけに大きくみえてしまう彼らの「まなこ」は、遠く未来をみつめて、広く世界をみつめているかのようでした。力強く、慈しみのある「まなざし」でした。

大事なご奉公のあとに、見習いさんのお看経をあげている姿が、初心をおしえてくれました。

初心忘るべからず。

時々の初心忘るべからず。

老後の初心忘るべからず。


東京中央布教区 弘通促進大会

2014年06月25日 | 第5支庁 と 東京中央布教区

6月22日(日)大塚・遠妙寺さんに於いて、本年度の「東京中央布教区・弘通促進大会」が開催されました。

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例年、第一部がお看経。第二部が講演という流れでしたが、今回は弘通部参与の発案により、「法灯相続」をテーマとして、4ヶ寺・4名のご信者から、相続のご奉公をされた体験談をお話しいただきました。

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第二部は、蓑田先生のごあいさつから始まりました。あいかわらず、和やかな語り口の中にも理路整然としており、笑いも交えながら聞く人を魅了させるスピーチは、さすがの一言です。

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体験談の、話しの内容は、みなさん概ね、ご信心に対する敬いや情熱、求める心、そして伝え弘める心を述べて下さいました。また、結婚や子どもの誕生の時期から今日に至るまでの歩みをお話し下さいました。

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どうやって子どもに伝えていったのか。どんな苦労があったか。長年に亘る様子をお話し下さるのですから、どうやって一緒に歩んできたのか。臨場感あふれるお話しは、会場のみなさんを釘付けにしてくれました。

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相続を受けたお子さんたちも登場して、コメントしてくれました。制服をまとったご長女やお揃いのお洋服で可愛らしかった幼い姉妹がマイクを持つと、微笑ましい雰囲気に会場がつつまれました。

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各寺院におみやげとして、エンディングノートを配布しました。遺書ではありませんが、自分が亡くなった後、どのようにご信心してほしいか?家族に書き残す書式です。モニターを使って、このノートについての解説も行われました。

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シメは、宗務総長・木村日覚上人より総評をいただき、今回の大会について、お褒めのお言葉も頂戴しました。

当日は、梅雨空のもと開催されましたが、宗務総長の御徳を頂戴して途中から好天となり、みなさんの帰り道は清々しく足取りも軽やかだったことと思います。

最後に。

今回の大会は、布教区弘通部・長谷川師と中野師の企画によって始まりました。準備・進行とすべてご奉公いただきました。素晴らしい発想と、それを形にしていく力には、ただただ脱帽です。1年間の構想と実務ご奉公ありがとうございました。


空 気

2014年06月25日 | 学び ・ すすめ

昨日、赤羽の銀行にいきました。渋い青が基調の、看板が目印です。

コンクリに囲まれた駐車場から地上にあがると、じゅうたんが敷きつめられた、いつも見ている景色・銀行のフロアに直結です。

あと数段のぼれば一階というタイミングで、女性銀行員3人の、楽しげではずんだ会話が聞こえてきました。どうやら、熟練の先輩が新人を指導している場面のようでした。

お堅いイメージの銀行ですが、そういう雰囲気ではなく、でも悪ふざけをしていて、周囲が見えていないという風ではありませんでした。

なごやかで、穏やかで、とても打ち解けていて楽しげ。それでいて、気配りができている。一階に到着する寸前から、瞬時に、そんな雰囲気に気づきました。そしてこちらまで、つられて楽しい気持ちになってしまいました。これは一瞬にして、そうなりました。

空気がうつる。よくあることです。

年配の、指導員らしき女性銀行員は、お局様的な感じではなく、とても気さくな、顔から優しさがにじみ出ているように思えました。

世話をするのが好き。面倒見が良い。明るい。人がいい。

こういうのは、勉強したらそうなれるのではなく、生まれ持った気質でしょうし、育った環境もそうですし、育ててくれた人からの、空気の教育によるものが大きくものをいうのでしょうね。そして、みなさん、馬が合った人が配置されてたということでしょうか?

いずれにせよ、見事でした。ちょっとしたことですが、とても感動しました。

見習いたいと思った次第です。


えんやこら

2014年06月24日 | ご法門

この流行語を知っていますか?

「お父ちゃんのためなら、えんやこら。」

古い記憶をたどると、我が家のテレビは小学校2年くらいまで、白黒でした。トイレは和式。家は、風呂なし10畳一間だけの平屋で、縁側がありました。ご宝前に頭を向けて、家族四人が川の字になって寝ていました。せまかったけど、楽しかったことしか思い出せません。

そんな時代に流行ったコトバで、出典は、昭和41年にリリースされた美輪明宏さんの楽曲「ヨイトマケの歌」の一節です。

お寺の中で婦人会がご奉公に汗をながしながら、「ご法様のためなら、えんやこーら。」と、笑いながら楽しそうに口ずさんでいたのを、いまでも鮮明に覚えています。

このパターンですから、いくらでも応用がきくわけで、「お導師のためなら~」「ご奉公のためなら~」と口ずさんでは、みなさん本当に楽しそうでした。

ただ、当時まだ4~5歳だった私は、この言葉がどこからきたものなのか、考えることすらなかったワケです。そして流行語ですから、やがてだれも口にしなくなっていくのですが、それでも、小学校低学年くらいまでは、だれかが口ずさんでいたかと記憶しています。「古いんだよ」とツッコまれながら……。

2年くらい前でしょうか?テレビで美輪さんのドキュメント番組を見ました。ここで初めて、「おとうちゃんのためならエンヤコラ」の出典と意味を知りました。これを口ずさむのが当たり前の景色だったころから数えて、40年の月日が過ぎていました。

ご教歌

うれしさをつゝむ恋路にあらざれば みのりのために人にかたらむ

大意
ご法様からいただいた喜びは、心に秘めずに表現する。姿形に表すことがご弘通になるのです。すなわち、人に伝える随喜転教の大事なことをお教えの御教歌です。

先述の通り、「そんなこと分かっているだろう?」では、数十年もの間、「実は知らなかった」ということが、あるものだということです。

しっかりと伝える。分かっているだろう?ではなく、確実に教え伝えようと、親切心をおこしていく。

「そんなことも知らないのか?」は禁句です。

御指南
聴門する所は自が斗の喜び也。

之を転々して人に教え聞かしむるは人を喜ばしむる也。

我が喜びは智眼を開き人を喜ばすは慈悲也。

ましてや、喜びを伝えていくご奉公は、絶え間なく続けることが大事となりましょう。一緒の時間を過ごし、喜びや悲しみ、苦楽を共に分かち合いたいものです。

ご信心のしかた。心の持ちよう。

これらを、「知っているだろう?」で済まさないように。。。


唱える。人に勧める。ご供養する。

2014年06月21日 | ご法門

【 開導聖人ご指南 】

尋ねて曰く、その寂光は、いかなるものぞや。貴殿はいかなる所と思召すぞや。

答えて曰く、くはしきこと何もしらず。

只結構な処にして釈尊・上行・諸仏・諸菩薩まします処にして、

苦はなく楽な処と承るのみ。

行きて見ぬさきより考へた所がわかりさうな事もなし。

只御題目を便りとして行く所と思ふより外に考へは、

手間つひやしの思案の仕損じと申すものなり。

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【 開導聖人ご指南 】

此の娑婆に息ある間に御法門を聴聞して疑をはらひ信をさだめ、

御講をつとめて人にきかしめ、

御供養申して我が心の貪欲をなだめ、

南無妙法蓮華経と唱へて罪障を滅し、

法界の回向をもし、

愚かなる凡夫のいつ死ぬかわからぬ一生の間にすこしにても御法の御弘りの御手伝、

御奉公もなるだけは心に如才なくつとめ励むが

寂光浄土へ参詣する路用金の如きものと、楽しみに日をおくりて、

今日もこれ程唱へたり、

けふも一人二人にすすめたり、

けふもすこしの御供養をしたり、

皆これ我身づきの功徳なりと悦ぶより外に仔細はなきことなり。

(中略)只死しての後のたのみになるものは、上にいふ信心修行のみなり。


同じ場所で。同じ時間に。

2014年06月20日 | ご法門

【ご教歌】(御題・人の唱題するを聴て)

わがつみのきゆるよすがと唱ふるや 妙のみ法のこゑぞたのしき

【大意】

お看経は、唯一ぜったいの、罪障消滅の道。そう信じることができれば、お看経が楽しくなり、勇ましく進みます。

そして、そのように一心にお看経されてる人のお題目を聴いて、ありがたいなぁと思えるということ。そんな心持ち(信心前)でありたいなぁとお示しのご教歌です。

よすが

「寄す処(か)」の意。古くは「よすか」。
身や心のよりどころとすること。頼りとすること。また、身寄り。血縁者。よるべ。「知人を―に上京する」「身を寄せる―もない」
手がかり。手だて。方法。「今ではもう昔を知る―はない」

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自分自身が「お看経を拠り所としている。たのみにしている。」という感覚(信心前)であれば、人のお看経を聴いて、「おっ。やってるな!」と共感するでしょう。
そして、人の幸せをねがうという、仏さまのような心であるならば、人のお看経を聴いて、「あの人も罪障消滅してるな。ありがたいなぁ。」と、嬉しい気持ちになることでしょう。
そういう心。いわゆるですね、信心(ぼさつ心)を起こしたら素晴らしいと、ご教導下さっているのです。

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人ばかりじゃない。生きものすべてが、お題目によって救われていく。

いまは亡き故人にだって、お看経の功徳が届いて、たましいが救われていく。

目には見えないけど、そう信じて。そういう感覚で。。。

そしたら、もっとお看経がはかどって、もっともっと功徳になる。

だから、一人じゃなくて、みんなでお看経するのって、とても大事です。

同じ時間に。同じ場所で。

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人がお看経をあげてるのを、喜べるこころがあるのはいいですね。

いつも、みんなの幸せをねがってる。

いつも、故人のご冥福を祈ってる。

その、たのみとさせて頂くのが、上行所伝のお題目です。


ご本尊 と 天蓋

2014年06月19日 | 常住寺 行事 できごと 家族

6月18日。

本堂内陣、ご本尊さまの「金箔のお塗りなおし」をさせていただくことになり、仏匠・福井さんにお供していただきました。

また、御乗台の人天蓋が、東日本大震災の折に傾いてしまい、応急処置のままでしたので、これも吊り直し作業をしていただきました。朝9時から一日がかりの作業でした。

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15日に、御乗台とお教務さんの経机など、内陣のお道具すべてを外陣に下ろし、作業スペースを作りました。

天蓋は2本のワイヤーを天上のフックにかけて、4点で支えていました。50年ものですのでこれを新しいモノに取り替えて、1本あたり200㎏まで支えられるワイヤーを4本使い、8点で支えるようになりました。200㎏まで支えられると聞きますと、さぞかしごついロープかと想像するかもしれませんが、見た目は華奢で、ほんまかいな?と思ってしまうほどですが、これが丈夫なんだそうです。日本人の技術は、本当に凄いんだと思うばかりです。

天蓋のお掃除はスタッフにしていただき、内々陣のお清めは、ボクがさせていただきました。

ご本尊は、恩師・日泰上人のご染筆ご本尊を奉安させていただきました。昭和56年・高祖日蓮大菩薩700回ご遠諱の年にご染筆されたご本尊で、当山別院・本堂にお祀り申し上げた金製ご本尊の原盤です。お軸のお曼荼羅が掛かっていると、なんだか不思議な感じを受けますが、とてもご荘厳で、身の引き締まるおもいになります。

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作業が進むにつれ、足場を組んで下さった職人の方々とも親しくお話しできるようになり、緊張感の中にも、和やかに、安全に、作業が終わりました。

この一週間はいろいろなことがありました。夜中までご信者さんと向き合う日が二日もあり、その他、喜怒哀楽が交差する日々でした。体力はバテバテでしたが、その分、頑張らなくちゃと強く思えるご奉公課題がいくつもできたのが、励みになります。

昨日の修復ご奉公完了を以て、気分新たに一つひとつ、取り組んでまいりたいと思います。


シンパシー

2014年06月18日 | 常住寺 行事 できごと 家族

となりの部屋から、チビがはなうたを歌うのが聞こえてきました。

チビはいつでも、笑ってるか、なにか口ずさんでいます。

あまりにも可笑しかったので、おちょくり半分で、メロディーをまねて、ボクもはなうたを口ずさんでみました。

すると、なにやら、となりの部屋から視線を感じるようになりました。

見ると、チビが笑いながらこっちをみています。

「なかなかやるじゃん。」とでも言いたげな雰囲気です。

完全にやられました。

こっちを見ながら、楽しそうに。まるでセッションでもするかのように、ボクが刻むリズムにあわせて、はなうたのメロディーを奏でてきます。

まぁ。はなうたを通して、共感し合えた瞬間だったのかと思います。

ただ、ボクがシンパサイザーになったという感じにさせられちゃいました。

やられた。。。


六道輪廻

2014年06月17日 | 学び ・ すすめ

生きとし生けるものすべて、六道輪廻するといわれます。

六道とは、下から順に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界のことをいいます。

人間界の上に、天界があり、人として善行を積んだ人が行ける場所だそうで、ここは、なんの煩いも苦痛もない、快適な世界だといわれています。そして、この天界は、人間界から比べると、遙かに永い永い寿命を得て、ボクらからみると、まるで永遠ではないかと思われるくらい気の遠くなるような永い時間を、快適に過ごすことになるのだといいます。

しかし、その天界での生活も永遠ではないと言います。この、永い楽園生活の終焉を迎える様子が説かれており、これを「天人五衰」といいます。(以下、姫路の寺谷お導師のブログ記事を引用させていただきます。)

天人五衰

「天界」とは、過去の善根功徳により行ける世界です。

天界は快適で、そこに住む天人は苦しみというものがなく、快楽ばかりの中で楽しく優雅に暮らすことができます。うらやましいかぎりです。

ところが、果報が尽きると、5つの衰えがあらわれ、7日めに天界から真っ逆さまに落ちていくのです。その苦しみは、恐ろしい恐ろしい地獄の苦しみの16倍といいます。

私たちは、快適で楽しい暮らしを望みますが、それを得たとしても、長くは続きません。また、得たモノを失うときは、とてもとても苦しいものです。

不足があれば工夫し。

汗をかいて苦労をし。

頭を下げて教えてもらい。

気をつかって協力をしてもらう。

実は、そんな時が一番充実し、幸せなのかも知れません。

(以上、寺谷お導師のブログより)

ご信心でまことの功徳を積んでいけば、天界の更なる上、寂光に向かわせていただくことができます。そして、寂光はどんなところかといえば、天界のように、快楽を得ることを強調して表現される世界とは、ちょっとちがう感がします。

しかも、せっかく良いところに行き着いたのに、わざわざ自分から進んで、また苦楽の世界へ降り立とうとするといいます。そして、この娑婆世界において御法を弘め、苦悩に悩む人々を救うご奉公に邁進するといいます。

この、上の段階の輪廻こそ、まことの安らぎであって、他を慈しむ「みほとけ」の境地であって、一番おおきな功徳を積める貴い歩みといえることになります。

いま、ボクらにできること。それは、お看経とお教化。それは、時として苦労を伴いますが、自他共にすべてがよくなっていける、唯一のあゆみです。


無明(むみょう)

2014年06月16日 | 学び ・ すすめ

暗闇に光を当てると明るくなる。

闇はどこへいったのか?無くなってしまったのか?

そうではありません。

そもそも、光が欠如している状態が「闇」であり、

「闇」というものが存在しているわけではありません。

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仏教には「無明」という言葉があります。

人には知識があります。でも、仏さまのような知恵はありません。

知識とは、暗闇で手さぐりしている状態。これが無明です。

無明とは、もともとは、愚痴と同じ意味の煩悩です。

ところが次第に、煩悩の根本を意味するようになりました。

欲の心や邪見などによって、真理がわからない。

やはりボクらには、仏さまのような知恵がないのです。

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元品の無明といいますが、元品とは、根本という意味です。

元品の無明を切る大利剣とはお題目のことです。

悟らずとも、仏さまのお知恵をそのままいただくことができる。

苦しみも、悲しみも、どうしてと、叫びたくなるくらいツラい出来事も、

お題目のお力をいただいて、闇を照らしていただくことができます。

闇というものは実態がありません。照らせば消えるのです。

消えるというより、存在していないということに気づく。

お題目をお唱えすると苦しみが別のモノにかわる。

本当にありがたいのです。


人魂不死

2014年06月15日 | ご法門

【ご教歌】

一まく(ひとまく)の中でむすめが婆々となる しぬもいきるもほんまではなし

ご教歌の御題は「寿量品云 無有生死」とお示しです。またそして、ご教歌のお書き添えには、「何べんもきかねばわからぬ。これはさとりの御法門なり」と仰せです。

法華経の寿量品に「生死有ることなし」と説かれています。これは、仏様のお悟りの御法門だから一度くらい聞いたからって、理解ができない。なぜか。それは、生死は有ると思う。現実に、生き物はすべて、生まれたからには100%、いつかは死ぬワケで、それを、身の回りの人々は見ていますから、生死なしとはどういう意味かと考えてしまうことでしょう。

【ご指南】

ほんまとおもふが凡夫なり。ただ役がかはるなり。

生まれてきて、やがて死ぬ。そして一生がおわる。こう思っています。でも、一生とは?一つの生涯ということです。ですから、ほかの生涯が、またどこかにあるという言葉に他なりません。

このご教歌では、「ただ、役がかわるだけ」なのだとお教え下さっています。お芝居のような、一幕ごとに、若かったり、年をとったり、いい人だったり、悪人だったり、その場面で役がかわります。そして、芝居が終わればまた、次の舞台の役を演じます。そのとき、役者は、生まれもしなければ死にもしません。当たり前ですが。。。それと同様、私たちの生死も、「生死あることなし」だと仰せなのです。

芝居で言えば、この一生は、一幕の舞台です。そして、この一幕で演じた行いの善し悪しで、次の舞台の役が変わります。良い原因にはよい結果が、悪い原因には悪い結果がついてまわる。「善因善果・悪因悪果」というワケです。

【ご指南】

すこいことするが上手ならば、餓鬼に役がかわる。

おろかにて物の道理がわからぬ人は、畜生に役がかわる。

人に法を説いて妙法を持たしむる菩薩が得て物なれば、仏になる。

人をくるしめ、思いやりのなき、悪性ものは、その人をころし、くるしめたる報いをうけ、人を助くる真実教の妙法五字を嫌ひそしるものは、一切の罪の中の、主師親等を殺したるよりも、菩薩・仏を殺したるよりも、極重罪の無間に入る也。

魂は死なない。そして、過去・現在・未来の、三世の因果を背負っていくのです。悪い因縁を持ち合わせると、やはり重く苦しい歩みになる。だけど、お題目でご回向すれば、かならず、功徳が魂に届いて良い方向へと縁を結べるといいます。なので、人が死んでも、そこで終わりじゃないんだ。そう信じて、勇ましく、魂の援護となるお題目口唱に励んでいきたいものです。

【ご教歌】(関連のご教歌を拝見します)

たましひは露(つゆ)にあらねば消もせず けふの日暮はあすのはじまり

火の消る様にはあらじ神ひ(たましい)の やどがへするを死ぬと云也

(「佛立信心ここが有難い」を、拝見しながら作文しました。)


開導会

2014年06月13日 | 常住寺 行事 できごと 家族

去る6月8日

顕証寺御高職・信清お導師ご唱導にて、当山の開導会が奉修されました。

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昨年度までは、ご巡教以外では寺内奉修が多かったのですが、本年度からは、あまり多くのご出座をいただくワケではありませんが、他寺院より御導師方々におでましいただき、奉修させていただくことといたしました。

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( 奉修御導師の御法門 )

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信清お導師とは、学生時代からのおつきあいで、ボクの兄貴分です。30年近くご一緒させていただいており、鎌倉のお寺では様々なドラマが生まれました。ボクらが世帯をもつまでの不安定で微妙な時期には、必ず鎌倉のお寺が舞台として登場します。10歳代20歳代の時には、みんなが思い出を深く刻んだ場所なのです。

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(鎌倉プリンスから七里ヶ浜をのぞむ)

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(顕証寺さんを出てすぐ、江ノ島方面の写真)

これからも大事な兄貴であり、なかよくご一緒にご奉公させていただきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。


一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う

2014年06月11日 | ご法門

一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う

一匹の犬が吠えると、他の犬もみんなつられて吠えはじめることから、一人が嘘を言うと、多くの人がそれを真実と思って伝えてしまうということ。

三毒強盛という仏教用語があります。

貪欲=必要以上に欲しがる心。「おしい」「むさぼる」

瞋恚=いかり。「にくい」

愚痴=真理に対して、無知な心。「おろか」

三毒は、人間の諸悪・苦しみの根源であると言われています。そして、三毒は、愚痴=人間の、根源的なおろかさから発しているのだと言われています。また、三毒がふくれて、十悪に発展します。

十悪(事典・ことてん。より引用。)

【身で行う罪障】
殺生(生命を奪うこと。また人の命を縮めたり、間接的に殺すこと)

偸盗(盗むこと。また贅沢をすれば余分に物をとり、人に不自由をかけるから一種の盗となる)

邪婬(自分の色欲を満たすため他人に迷惑をかけること)

【口でなす罪障】
妄語(嘘をつくこと)

綺語(きご)(無意味に飾り立てた不誠実な語言)

両舌(りようぜつ)(人の仲を隔てる二枚舌)

悪口(あっく)(人の悪いことを吹聴すること)

【こころの中で起す罪障】
貪欲(とんよく)(貧るという迷妄の心)

瞋恚(しんに)(怒る心、わがままな心)

愚癡または邪見(よこしまな見解)

お祖師さま日蓮聖人のご妙判『法蓮鈔』

「八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり」(定九三七頁)

仏教の、こんな戒めは、決して他人事ではありません。

自分のいいようにもっていくために、人はウソをつきます。ウソというか、都合の良いように話すというところでしょうか。

それを真実だと思い込んだ人々は、怒りまでも共に写されてしまい、一緒になって大声でほえるんですね。正しいまなこがなければ、もう、イチコロですよ。そして関わった人々みんなが、地獄のような苦しい思いをする。「なんでこうなるの」と。。。

そんな連鎖を起こさないよう、日々、罪障消滅のお看経に励みたいものです。


その人がすべきこと

2014年06月10日 | 学び ・ すすめ

一樹の陰一河の流れも他生の縁

たまたま、同じ木陰に身を寄せて雨宿りをする。また、たまたま、同じ流れの川の水を汲むというような、たったそれだけのことも、みな前世からの因縁によるものであるということ。

では、夫婦となる。親子。兄弟。朋友。これらは、どれだけ深い縁があるのだろう。

苦楽がある。楽は少なく、苦は多い。誰でも、かならず、山坂や雨降りがある。そんなとき、助け合えるのはすばらしいことです。

誰かのせい。被害を被った。でも、それは、自身の、過去の因縁によるものでしょ。恩を忘れないこと。たとえば、親が子を育てるのを、子が当たり前だと思っていたら、罰当たりなことです。困った人がいたら、ぐだぐだ言わずに、黙って助ければいいじゃんか。損したと思うなかれ。たすければ、却って自分に徳となって帰ってくるもんです。