清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

ご教歌 福をとる手には欲をばはなせとよ わが思ひとはうらうへにして

2016年11月08日 | ご法門
【 金八先生の名言 】





(1)
生きるというのは人に何かをもらうこと。
生きていくというのはそれをかえしていくこと。

(2)
立派な人にならなくてもいいの。
どうか、感じの良い人になって下さい。

(3)
正しいという字は「一つ」「止まる」と書きます。
どうか一つ止まって判断できる人になって下さい。

(4)
何でも謝ってすむことではないけれど、謝れない人間は最低だ。

(5)
他人を責める前に自分を大きくしなさい! 
他人をうらやましいと思う前に、自分を育てなさい。

(6)
貴方が言葉を覚えたのは、悲しみ語るためですか。 
どうか何度も泣いてください、うれし涙に出会うまでは。

(7)
相手の身になって考えられる人間になってください。 
決して損得だけで物事を考える人間になるな! 
それらのことが君たちの人生を築いていくひとつひとつの礎になっていくんです。

(8)
努力をせずに欲望を満たそうとする。
そんな人間にはどうかならないでください。
いや、そういう人間をどうか憎んでください。
努力する人間を心からどうか、愛しいと思ってください。
そして不正を許すな。
苦しむことをどうか愛してください。

(9)
棚からぼたもち、楽して生きる。
そんな人生は、世の中に転がっていません。
頭も使って耳も使って、目も使って、口も使って、手も足も全部使って、人間は毎日毎日生きていくんです。

(10)
幸せになろうと思わないで下さい。 
幸せをつかみに行って幸せをつかんだ人は1人もいません。
幸せは感じるものです。





金八先生の名言を拾いましたので、あつかましく転載します。
こころに響く言葉の数々。ありがたく思います。
 
「幸せをつかみに行って幸せをつかんだ人は1人もいません。」
 
これなんかは、もう、仏教の教えです。

ご教歌 

福をとる 手には欲をば はなせとよ  わが思ひとは うらうへにして
 
幸せをつかむためには、欲を、手から離して、善根功徳を積むべし。
お寺で、(からだをつかって)(時間を費やし)(喜んでお供えをする)の功徳を積むのです。
損して得とれ。他によくすること。

うら‐うえ〔‐うへ〕【裏表】

裏と表が入れ替わること。あべこべ。反対。
裏と表。
前後・左右・上下など相対する物事の両方。あちらこちら。

よしやろう。そうだ。なんて思ってても、身近なところで、生活の1場面1場面で、実際に「欲を手放す」というのは結構むつかしいことかもしれませんね。強欲なワケじゃない。ごくごく普通に生きてる。でも、マイナスのご因縁が付いちゃってて、それを払拭しなくちゃならない。その方法は、意識して、確実に、功徳になることを行っていくのが大事です。お参詣して、時間も手間もお金もかかる。だけど、功徳を積もうと励むのです。

こうなりたい。ああしたい。という願いが強くて、周りが見えないのではつまらない。しかも、本人はそんな風だなんて自覚はなかったりする。人って、そんなもんじゃないでしょうか?だから、ごく普通に生きてる中でも、実はマイナスの方向に、ご縁が結ばれちゃってるって思ってるくらいでちょうどかも知れませんね(笑)。だったら1つ、その罪科を消滅する方に動いてみようと考える。そして、その方法は、ほとけさまが教えて下さったように、お題目を唱え重ねていくんです。そして、さまざまな場面で、損して得とれというような心持ちで歩んで行くんでしょう。


ご教歌 御初穂は第六天に奉り 仏に上げる己が残物

2016年05月13日 | ご法門

ご教歌 御初穂は第六天に奉り 仏に上げる己が残物

ふり仮名→(おはつほ  は  だいろくてん  に  たてまつり   ほとけに  あげる  おのが  ざんぶつ)


大 意
まずは「ご宝前(ほとけさま)にお供えさせていただく。」ということを心がけるように。
欲にまかせて、結果、残り物を供えるようなことをしては功徳にならない。


ご信心の中では、ゴハンが炊けたら最初に、お仏飯をお供えさせていただくことを教わります。自分たちが食べたあとに、「そうだ。仏さんにお供えしなくちゃ」なんていう動きになったらカッコ悪い。これは、信仰を持たない人がその場面を想像しても、きっと「志がないなぁ」と感じるんじゃないかと思います。


まず最初にお供えをする。そして、ゴハンを食べるときには、みんな揃って、いっしょに、手を合わせて「いただきます」と言ってからいただく。家庭でもそうですが、イメージしやすいのは、部活の合宿などでの食事では、このようにすると思います。手を合わせて、感謝のおもいを表してから、みんないっしょに食べると思います。もし、みんなバラバラだったらどうでしょう?合宿でそんなことはしないと思いますが、もしそんなチームがあったとしたら、恐らく強いチームではないと思います。みんなそろって、いっしょに「いただきます」をする。最後も一緒に「ごちそうさまでした」をして、それぞれが自分で片づける。これは、ごくごく普通の光景でしょう。


だれかの年回などで親族が集まったとき、お寺にお参りして、お墓に行って、それからお清めで食事をしたりします。こういうときは、みなさん、どこに座るか考えてしまうことだと思います。やはり、順序を考えるからです。お坊さんや喪主(弔主)が上座にすわり、その近辺に故人のお写真があったりします。そしたらまず、故人の写真に陰膳を供える。かげ膳がなくても、お酒やビールをついで、まずはお供えをすることと思います。やはり、順序があるのです。


「娘に100両。仏には一文。」というコトバがある。それほど人の心には、ほとけさまを粗末にするようなこころが存在しているようですが、それをあらためて、まずはお供えをさせていただく習慣を身につける。これは、ちょっと気をつけていればできることだと思います。そして、「まずはほとけさまにお供えをしよう」と心がけている人は、「娘に100両。仏には一文」などという残念なやり方にはならないハズです。ですから、「お金をいくら使えばいいのか?」というよりも、まず一番最初に「ほとけさまにお供えをさせていただこう」という心を養うのがスタートというところでしょう。


普段は信仰をもたない人でも、年回のお清めの席では、かげ膳をお供えすることに目が行く。そういう「場面」や「人の目」が、人の心や行いをかえていく。またはひと言、「おい、やろうぜ!と伝える」ことが、人をかえていくんですね。ご信者さんは、この「お初」ということろからご信心をスタートさせる。またご信者さんでも信仰をもたない方でも、こういう場面をつくっていくことで、周りがよい方向へ、おおきく変化していくことでしょう。


そういう空気をつくっていくのは、お坊さんの役割だと思っています。そして、お寺にはそういう空気があります。お供えする対象である、正法たる妙法お題目のほとけさまがいらっしゃり、いつもお初の精神で、お敬いして、お仕え申し上げています。ですから、お寺にくると、部活の合宿で鍛えられるような清々しい雰囲気を持ち帰ることができます。その影響は広くに及んでいくことでしょう


お初を家訓と定めるのもいいのではないでしょうか。みんなで揃える。こころも揃う。敬うこころが芽生え、申し訳ない、もったいない、などという心を育みます。だから、だれかがひとこと言いましょう「お初の精神を心得よ」と。その核を、お寺にきて、持って帰っていただけたら幸甚です。


ご教歌  きよがきの やや見事なり このごろは 心こめてや 手を習ふらし

2016年05月10日 | ご法門

ご教歌 きよがきの やや見事なり このごろは 心こめてや 手を習ふらし


大 意

『 清書を見ると段々と見事になってきた。この頃はきっと、心を込めて一生懸命、稽古に励んでいるのであろう。(これからも励んで行けよ。)』と、仰せであると拝します。(すなわち)ご信心ご奉公は、心を込めてさせていただくこと。日々つづけること。これが大事とお示しのご教歌です。


辞書を引きますと「手習い」は、お習字であり、お稽古、学問と記載されていました。すなわち、日々筆を持ち、心を込めてお稽古してこそ、やがて上達していくのです。それと同じようにご信心も日々の行(ぎょう)が大事で、想いを込めてさせていただく中で道が開けてまいります。

このご教歌は、自分自身のご信心をどのように高めていけるかをお諭し下さっていますから、みなさん、日々の朝参詣や朝夕のお看経、ご宝前のお給仕、お初をお供え申し上げるなど、心をこめてお敬いの心を以てさせていただきましょう。おなじお掃除をするのでも、「物ぐさそう」にするのではなく、「思いをこめて、やらせていただく」という気持ちで行う。毎日これの連続。ここが肝心とのお諭しです。


 

また、ほとけさまのお心(お経文に記される教え)を真似るのが信じる心=信心ですから、菩薩行を志さなければ、まことの信心に行き着きません。ですから、菩薩行という「人の為になるような働きかけ」が正しくできるように稽古をしたいのです。まことのぼさつ行とは、いかなるものかと。

菩薩行を志す者が、その道を成就するためには「凡夫のこころ丸出し」では叶うはずもなく、「み仏のお心を真似ようと志し」「すべてを慈しみ」「他の人にアプローチ」して行きたいのです。ですから人に対して「指導」や「命令」をするのではなく。「いっしょに学ぼうとする」「ともにお参りさせていただこうとする」。こういう姿勢を、行動で姿形にあらわして他人に示すのが、「お教務さん」や「ご信者の代表となる、事務局員。連合長。教区長。部長。」の、とるべき姿勢です。新入信徒へのアプローチを「育成」というコトバで表現しますが、ボクはこれが適当なコトバなのかと考えてしまうことがあります。「教えてやらなきゃ」と、指導者になろうとした時点で、ご信心をしている値打ちが底に落ちてしまうことでしょう。「させていただく」「手本となるように自身の姿勢を正す」のが、ご信心で言うところの「育成」のあり方です。


 

そんな姿勢が解決のヒントとなるような話題があります。本日は、ちょうど母の日ですので、それに因んで話題を出しました。

ちょっと、ゾッとするお話しですが、インターネットで「夫」と検索すると、続いて出てくるコトバが、「しね」であると聞きました。試しに検索してみると本当に出てきました。そして先の画像でご覧いただいたように「しね」「きらい」「大好き」「呼び方」とつづいています。なんだかあまりいい心地ではありません。

4月の末に本屋へ行きましたら、次の書籍が目にとまり、すぐ手にとって購入しました。タイトルは『 夫に死んでほしい妻たち 』です。こちらもゾッとしてしまうタイトルの本ですが、この手の書籍が多く発刊されていることを思えば、これらはいまの社会問題であり、知ってかねばとおもいます。

世の中の奥さん方は、夫の世話をして当たり前。家事をこなして当たり前。怒鳴られて、命令されて、使い走りをさせられて、という感情が積もっていく。子育てが済んでやがて定年を迎えて自由な時間ができた。もう、そのころには、いっしょに生活する理由がなくなるというところでしょうか。離婚は様々な問題があって自分にとってもマイナスになる要素が多い。だから、早く死んでもらった方が、お金も家も自由になるし、裁判などの煩わしさもない。周りの人々が同情してくれる。だから「いいことずくめ」だというのです。本当にさみしい話しですが、こういう風に思っている人が少なからず存在するという事実があります。世の男性は、これをどう捉えていくべきか。こんな話しを振りました。

深い不満を抱える女性の問題です。男性諸君は女性にこびへつらってご機嫌を取って生きていこう、などと申すつもりはありません。ただ、表面上だけでご信心をしているような場面で起こる摩擦とこの問題に、共通したところがあるように思えてならないのです。


人には煩悩があります。煩悩(ぼんのう)とは、

心身にまといつき心をかきみだす、一切の妄念・欲望であり、その中心は3つあり、貪欲(むさぼり)。瞋恚(いかり)。愚痴(物の道理がわからない
)です。仏教では、欲があると慈悲(人をいつくしむ心)がなく、慈悲のある人は欲がない、などと教わります。わるい心をよい心にかえていただき、結果として先々の運命がよい方向に開けていくのがご信心のありがたいところです。それを表面でとらえて面目だけ整えようとするのはカッコいいとは申せません。

もし、言いしれぬ不安を感じている方があったならば、思い切って、いまよりもお参詣の回数や時間を長くする、あるいは優先順位を先頭にもってくるなど力を入れてみてほしいと思うのです。自宅のご宝前にお初をお供えしていますか?おそうじ・お給仕をまごころ込めてさせていただいているでしょうか?やったりやらなかったりということはないか?

夫婦の縁は、深遠なご縁で結ばれたものです。愛し合うのもご縁。憎しみあうのもご縁です。できれば、いやなご因縁はなくしたい。別れたり背を向けるのではなく、わるいご縁を排除できればいいですね。「相手を理解できる」「いつくしむ心」「尊敬しあえる関係」。きれい事をならべているようですが、母の日に感謝のコトバを伝えるに当たって、表面上でありがとうというのではなく、まごころとは何だと考え直すのも良いかもしれません。そんなことを考えた母の日でした。


 

最後に、本に載っていた「愛の三原則」をご紹介します。

愛の三原則

・「ありがとう」をためらわずに言おう。
・「ごめんなさい」を恐れずに言おう。
・「愛してる」と照れずに言おう。

非勝利三原則

・勝たない。・勝てない。・勝ちたくない。(負けるが勝ち、なんですね。)


 

語句の解説

きよがき=清書(せいしょ)。やや=だいぶ。いくらか。だんだんと。やがて。

手を習ふ=手習い(てならい)=① 文字を書くことを習うこと。習字。② けいこ。学問。「60(歳。高齢。)の手習い」

=①~だろうか?(問いかけ)。②~せよ(呼びかけ)。


水のながれ と 人のゆくすえ

2016年05月05日 | ご法門

ご教歌
しれてある ことのやう(よう)にて しられぬは 水のながれと 人のゆくすゑ(え)


 

大 意
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にはあらず。(方丈記・1)
と、詠われるように、川の水は流れていて、留まることはない。
同じ景色に見えても、さっきまでみていた水は遙か下流に流れている。
つまり、ほんの一瞬でも同じ状態であることがない。
それと同じで、健康そうにみえても、人の命は、いつどうなるか誰にも分からない。

「そんなことは当たり前、分かっている。」と言うが、実は、その覚悟がないという。
常々、無常を意識して、できる時(いま)しっかり、功徳を積むことが大事とお諭し下さるご教歌です。


 


豊かな社会で、無常を意識して生きるのは簡単ではないかも知れません。
よく「出かける前にはケンカをするもんじゃない。」といいます。
出がけにバタバタしてたら忘れ物をしたり、いやな気分を引きずって仕事に差し支えたりします。
それに、いったん外出したら、必ず帰ってこれるという保証は100%ではありません。
なにかがあるかも知れない。縁起でもない。そう思うでしょうが、一歩家をでるのはそういうことだという。
ですから、文字通り見送る。にこやかに見送る。そして無事に帰ってくることを祈るのです。
見送る側は、「元気出してはりきって行こう」と、伝えたいものですね。
そうやって意識して、やっているとしたら、それは覚悟しているという心持ちじゃないでしょうか。

ご教歌では、世の中は無常だから、功徳を積むことを優先していくべきと諭されます。
日々つづいてゆく、お参り、自宅でのお看経。ここが肝です。


ご教歌 さきのよの果報はうけぬ今生の 修福は後の手まはしにして

2016年04月27日 | ご法門

ご教歌 さきのよの果報はうけぬ今生の 修福は後の手まはしにして


大 意 コツコツと、功徳をつむ毎日を送ること。それが、いまと未来にむけて、ご利益をいただくもと。運命に左右されず、淡々と進むこと。


いま、嬉しいことがある。あるいは悲しいことがある。人生の中で喜怒哀楽はつきものです。そしてそれら、自分の身におこる出来事すべては、過去世において、自分自身がまいてきた種による結果だと教わります。「よいことをしたから、その報いをうけた。」「わるいことをしたから、バチが当たった。」など、一つのアクションだけでなく、無数の行いが重なって、先々の運命がつくられていくようです。

いま、幸せですか?それは、過去によい行いを積み重ねてきた結果です。しかし、「なんで、こんな苦しい思いをしなければならないんだろう。」というご縁も、決して少なくありません。そんなとき、過去世のご因縁だから仕方がないで済ますことはできません。なんとか解決の糸口をみつけようとすることでしょう。

そんな時、どうぞ、みみを澄ませて聞いてください。
「お寺にお参りして、お題目をお唱えする。」すると、「自分にそなわった、マイナスのご縁」=罪障(ざい・しょう)というものが消えていくと教わります。罪障が消えると、ご縁がひらけます。今日から先の生活で、いままでだったらこんなスムーズに行かなかったのに?ということがスムーズにいくようになり、こんなに苦しかったのにということが、苦しみから解放されたり、いままで憎しみ合ってたのが、いたわり合う関係にかわったり、不思議なご縁が訪れるというのです。

ご信心には、そういう、ありがたい効果がある。だから、お参りをしてみよう。きっといいことがあります。そして、このご教歌では、いままでの運命をどうこう云うのではなく、いま、毎日を、コツコツと功徳を積むことが大事である。そうすることによって、未来に道が開けるとお示しです。よい時でもご信心をわすれず、大変な時でもご信心を忘れずに歩んで行くこと。つらい人などは、くよくよせず、ご信心を軸にして、いまをしっかり歩んでいくことが大切なんだとお諭しいただくのです。


ご指南

ご利益を蒙るに顕冥の二つあり、かげより守り給ふを冥の御利益と申す。其冥とは、やどがえした後に火事になり、賊のさりたる後に其山道を通り、舟にのりたしと思へど、のりおくれて滞留して、延日を心になげけども、其日出でたる舟は、われて、のりおくれたるが仕合せとなり、病ありし故に宿善の薫じて、此大法にあひ、未来永き悪道におつるをのがるるなど、これをふしぎの御守り冥益とは申すなり。

顕益といふは、あらわれていかにも御利益と思ひしらるるを顕益といふ。それは願のままに忽ち成就することなり。


ご教歌 孝行の子は子をもたぬ程よりも おやの恩しる人の人なり

2016年04月24日 | ご法門

【ご教歌】 
孝行の子は子をもたぬ程よりも おやの恩しる人の人なり


【大 意】 
俗に「子を持ってしる親の恩」あるいは「子を育てて知る親の恩」 と申します。子供をもつ親になってみて初めて、いままで親から受けた恩をしるというのです。しかしこのご教歌では、本当の孝行の子というのは、自分が親の立場になって慈悲を垂れるようになる以前に、親から受ける恩というものを知っていて、恩に報いる人を言うと仰せです。すなわち、人の立場にたってものを考えることができる。ご宝前のご恩、親のご恩をしって、報恩のまことを尽くす人となれとお示しのご教歌です。


 

【ポイント】
恩をしる。→ 相手の立場を感じ取れる。ご法様からの恩恵も感じ取れる。→ 信心の大事をしっている。

・親孝行を教える。
・恩に報いるということを教える。
・人の立場にたって、物事を捉えることができる。だから、ご法様からの恩恵を感じることができて、報恩ご奉公に励むことができる。
・孝行の子となるのはなぜか?生まれつき、そいうい感性をもって生まれたか? 親がそういう風に育てたか? 或いは、多くの人の考え方や行動、そういう空気など「育った環境」が、恩を知る人間を作り上げたのか?

【自分自身の改良点】
・ご法さまへの畏敬の念をふかめ、お敬いのこころでお給仕申し上げる。
・孝行の人となる。
・親切で思いやりのある人となる。
・五常を知って、姿勢正しく生きる。五常は信でつつむ。

【他人へお勧めする角度】
・よき人が育つ「環境」づくり。 
積極的にお参詣。お看経。ご指南を定木としてぶれない信心前。笑顔。自分から挨拶。思いやり。これらを毎日続けること。
・育て方。
親が見本を示す。やって、みせて、聞かせて、いっしょにやる。


 

【ご妙判】(お祖師さま・日蓮聖人のおことば)
父母に孝あれとは、たとい親はものに覚えずとも、悪さまなる事を云うとも、聊か(いささか)も腹をたてず、誤る顔を見せず。
親の云う事に一分も違えず、親によき物を与えんと思いて、せめてする事なくば一日に二・三度笑みて向かえとなり。


小松川のお導師さま

2015年10月09日 | ご法門

ご教歌(開導日扇聖人・教え歌)

法華経をいきていますと思えねば そのうやまひ(い)の 先(まず)真似をせよ


平成24年11月3日。常住寺の高祖会。第1座:小松川清秀寺・岡本日苑上人のご唱導。

(第2座は乗泉寺巡教として、乗泉寺のお導師におつとめいただきました。)

第1座のご法門を、このとき発行した記念誌より記載させていただきます。


 「その気、その思い」を本心に持つことができなくてもハタ目から見てそれと判るスガタ・カタチに現してさせていただくのが、末法ただいま私どもの信心修行の基本とお示しのご教歌。

心と行動が一致している事が理想的ですが日常の生活で改めて考えてみますと、そうでない事の方が多いのに気づきます。それほど心遣いしなくても確固とした心を持たなくても行動は取れるもので、大半は何時となく身についた習慣で身体は動く。あるいは心中でイヤでしかたなくても必要との欲にかられれば身体は別方向に動く事になります。「心と行動」の関係はその程度に他愛なくいい加減なものですから心行一致は凡夫にはむしろ至難の業といえましょう。


「みほとけ」の、大慈大悲の「み教え」、真実法華経を生身のほとけと思うことは中々できません。そのところをご教歌は、「まずは真似をせよ」と、つまり本真からそうとは思えなくても、姿・行動で真似をせよと仰せ。逆に、心で「有り難い仏さま」と思っているとしても「菜摘み・水くみ」のお給仕がなければお敬いにはなりません。

(中略)


開導聖人・ご指南

「高祖曰く。たとひ心にをしや(惜しい)と思ふとも、棄捨したるは欲に勝たる也。つらくくるしと思ふとも、勤むれば忠なり。孝なりと。(乃至)故に当世の信者の面々は、がまんにても善き事には我慢も入用と思し召すべし。御法の為にも。」


やってるうちに身につく。やらないと、きっと、なにも見えないんですね。

 


開導聖人・ご指南

2015年05月04日 | ご法門

開導聖人ご指南

されば、敬うにも御本尊を第一と敬い

我が身をかざらんと思はばまず御宝前を第一とかざり

我が身、無病息災とならんと思はば、おのが信心に謗法の病いのなきよう

わが住処をかざらんとせば、仏殿をかざり

わが、うまきをくらわんと思はば、まず御法味を大事にそなえ

我が身、家業大事と思はば御弘通を大事と思いつつ、

何ごとにもあひがたき大法にあひしうれしさを、おもひおもひてわすれざれば、

大なる功徳を日夜につむものから、皆この功徳、信心の中よりして、

万事都合よく御はからいにあひ奉り、南無妙法蓮華経・仏祖の大恩なりとしらるるべきものなり。


御教歌  たらちねの ふところといふ こともしらず  乳をのみつゝぞ やしなはれける

2015年01月28日 | ご法門

御妙判(日蓮聖人の御指南。御抄名=上野殿御消息)

三世の諸仏の世に出させ給ても、皆皆四恩を報ぜよと説き、三皇・五帝・孔子・老子・顔回等の古の賢人は四徳を修せよと也。

四徳と者、一には父母に孝あるべし。二には主に忠あるべし。三には友に合て礼あるべし。四には劣れるに逢て慈悲あれと也。

一に父母に孝あれとは、たとひ親はものに覚えずとも、悪さまなる事を云とも、聊かも腹も立ず、誤る顔を見せず、

親の云事に一分も違へず、親によき物を与へんと思て、せめてする事なくば一日に二・三度えみ(笑)て向へと也。

(中略)

仏教の四恩者(とは)、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ。

一に父母の恩を報ぜよとは、父母の赤白二体和合して我身となる。母の胎内に宿る事二百七十日九月の間、三十七度死るほどの苦みあり。

生落す時、たへがたしと思ひ念ずる息、頂より出る煙り梵天に至る。さて生落されて乳をのむ事一百八十余石。

三年が間は父母の膝に遊び、人となりて仏教を信ずれば、先づ此父と母との恩を報ずべし。

父の恩の高き事須弥山猶ひくし。母の恩の深き事大海還て浅し。相構て父母の恩を報ずべし。


先住・日豊上人が、よくご法門でお説き下さった日蓮聖人のお言葉です。親の恩に報いるということ。

一日のうちに、2度でも3度でも、笑顔で接するだけで、お慶びいただけると。。。

もう。本当に、その通りです。母うえ様。いつもありがとうございます。

m(_ _)m


御教歌  たらちねの  ふところといふ  こともしらず  乳をのみつゝぞ  やしなはれける


 仏さまは、一切衆生の親であり、全てに大きな慈悲の心をもって、「本門の大法・上行所伝のお題目」をお伝え残し下さいました。

ボクらは、そんなことはなにも知らなくても、教義、因縁に疎くても、

だたお唱えするだけで、赤ちゃんがミルクで養われるように、罪障が消滅して功徳を積めると教わりました。

そして、ミルクをのむように「無心で」「一心に」唱えかさねることが、親に笑顔をたむけるが如く、仏祖への大恩報謝になるというのです。

 


ご教歌  をしなべて 一味の雨(いちみ・の・あめ)は そゝげども 沾ふかたは おのがさまざま

2015年01月24日 | ご法門

ご教歌  をしなべて 一味の雨(いちみ・の・あめ)は そゝげども   沾ふかたは おのがさまざま


 大 意  

ご法さまは、一切衆生(生きとし生けるもの。たましい。)に対して、平等に慈悲の心を注いで下さいます。

私たちは、もっている因縁によって、多く恩恵をうけたり、またその逆だったりします。

信力をおこして、「みほとけの大慈悲」を、しっかりといただくことができるように、思いをおこし信行に気張ることが肝心です。


大きな樹木は沢山の雨水を吸収します。

草花はその大きさによって、雨の恩恵を受けます。

目には見えないけど、大小さまざまな、ご因縁があります。

過去世からの因縁。

そして、いま、どういう心持ちで、どんな行いをしているか。。。

慈悲のあふれる菩薩の境地は、「大きな樹木」で、多くのご守護をいただくことになる。

仏さまのお心をまねて、すなわち、信じて、そして敬って。

慈悲の雨の恩恵が、たくさん降ってきますように。。。

 


ご教歌  わがつみの きゆるよすがと 唱ふるや 妙のみ法の こゑぞ たのしき

2015年01月24日 | ご法門

ご教歌 わがつみの きゆるよすがと 唱ふるや 妙のみ法の こゑぞ たのしき


 【御題】 人の唱題するを聴て


【大意】( 日晨上人「御法門のかなめ」より )

私どもの罪障の本は、妙法に背いた所から起こりました。

ですからその罪障を断ち切るのには、妙法の信心をささげるより他に、道がないのであります。

唯一絶対の、罪障消滅の道を教わって、妙法口唱に励んでいる身は果報者であります。

そう信じられると口唱が楽しく、勇ましく進みます。

そういう信者の心になるようにとお示しの御教歌です。


 よすが = ①身のより処とすること。 ②手がかり。手だて。方法。 

(類似語)頼り。頼み。


 お看経が楽しく、ありがたい。

おすがり申し上げるという「心」になっている。

そして、人がお唱えするお題目の音声も「ありがたい」と、喜べる心持ち。


 【御指南】口唱に励まざれば罪滅の道なし。罪滅せざれば所願成就せず。故に励むべし。


ご教歌  法の友 同じこころの まじはりは  いつはりがちの ふるまひなせそ

2015年01月23日 | ご法門

ご教歌  法の友 同じこころの まじはりは  いつはりがちの ふるまひなせそ


大 意

佛立宗門人はすべて、仏祖の「みおしえ」の下に集い、ひとつになってご弘通に励むべきもの。

おしえを信じて、それを守るという結束。同じ志を持つもの同士の「和」、すなわち、異体同心です。

それが、凡夫の本能で欲得が優先し、結果として「うそ」や「あざむき」に至ってしまったり、

ご法や人を「軽しめる」「おとしめる」ような結果となる振る舞い(言動)は、決して、してはならない。


 信:しん。(呉音・漢音)まこと。(訓)

信は、「あざむかないこと。いつわらないこと。忠実なこと。まこと。疑わないこと。信頼すること。」

俗に、うそかまことか、などと申します。「うそがない」のが、信。

簡単なのですと、

「おーい。あれ、やったか?」

「いまからやろうと思ってたんじゃないか!わかってるんだよ!うるせーな。」

こんなのは、やはりうそ。まぁ、かわいいもんですが。。。

世の中いろんなうそがある。それを、させない。見逃さない。任せっきりにしない。

特に、宗門人は、同じこころざしの下に集まった仲間です。

「いつわり=凡夫の本能から出てくる悪い心」を戒めていきたいものです。


しん【信】

一、( 名 )

 ① あざむかないこと。いつわらないこと。忠実なこと。まこと。儒教では五常の一つとされる。

 ② 疑わないこと。信頼すること。信用。 「 -を失う」

 ③ 宗教に帰依すること。また,信仰する心。信心。 「 -をおこして,戒を持(たも)ちて/今昔 19」

二、( 接尾 )

 助数詞。序数詞に付いて,特定の発信人から来た通信の着順を表すのに用いる。 「アメリカからの第一-」

 [句]信あれば徳あり ・ 信は荘厳より起こる ・ 信を致す ・ 信を置く ・ 信を問う


◆「がち【勝ち】」=[接尾]名詞や動詞の連用形に付く。

…が多い、…する傾きがある、…に傾きやすいなどの意を表す。           

「後れ―」「病気―」


 ◆「ふる‐まい〔‐まひ〕【振(る)舞(い)】」 

振る舞うこと。挙動。また、態度。「立派な―」「立ち居―」


◆「そ」=古語の終助詞

禁止を示し、連用形・カ変・サ変の未然形に接続する。

「な→そ」の形で用いられる。

「せ」も禁止を示す。禁止がふたつ重なり強調する。「な→せ→そ」

「振る舞い・な・せ・そ」=振る舞いをするな。


 


まだか。無事かと。。。

2015年01月21日 | ご法門

開導聖人のご一代記「清風一代記畧圖」におしたためされたご教歌。

わがはは(母)は  いまかへる(帰る)らしい いたはし(板橋)の  いたのうへ(上)つく つえ(杖)のおと(音)する


天保13年3月4日。

開導聖人のご母堂様・国女(くに。「女」は当時の女性に対する敬称。「さん」に同じ。)が帰寂されます。

行年48歳。

このとき、開導聖人は御年・26歳。まだ出家得度なされる前でした。

ご母堂様をお見送りあそばされたのも、出家を志される大きなきっかけであったとお聞きしたことがあります。

当時は人生50年の時代だったのでしょうが、死別は痛烈なお悲しみであったに違いありません。

そして当時の開導聖人は、お母様亡き後お母様の分まで、お祖母様にいっそうの孝養を尽くされたとのことです。


 

このご教歌は、

そんな折り、お祖母さまが、ご母堂・国女の墓参でお出かけになられた。

もうお帰りになってもよい頃だがお戻りにならない。どうしたのだろう。なにもなければ良いのだが、と、

ご心配あそばされていた時、ちょうど外から、門のまえにかかった「板でできた小橋」を、つえでコツコツとつく音が聞こえてきた。

「あぁ。お祖母さまがお帰りになられたのだな。」と、安堵されたお心をお詠みあそばされたご教歌です。


 

みんな。家族や仲の良い方々の安穏をねがっていると思います。

自分が手助けできるならいいのですが、四六時中というワケにはまいりません。

「子は三界の足かせ」と申します。子どもが生まれることはこの上ない喜びですが、

その分、ずっと心配がついてまわるワケです。まぁ、心配するのも幸せなのでしょうが。。。


長い間には、いくつも「人生の一大事」をむかえることがあるでしょう。

そんなとき、「周りはこうやって心配しているんだぞ」ということを伝えるときに、

ボクはよく、このご教歌を頂戴しております。


 

わたしは、あなたが元気になってほしいとねがう。

ねがうから祈る。あなたの幸せは、わたしの願い。

だから、ご宝前に、上行所伝のお題目を唱えかさねてご祈願するのです。

そしてあなたも、あなた自身でご祈願もうしあげる気持ちを起こしてほしい。

あなた自身のことだから。

あなたが「信をおこして。」そして「唱えかさねる。」

そうすれば必ず、仏祖のおはからいがいただけて、運命がひらけるから。

気持ちを、いや、信じる心をおこして、道を求めて、唱えかさねてほしい。。。


ご教歌  こぞよりも ことしはひろめ まさらんと  おもへるけふの 初まどひかな

2015年01月20日 | ご法門

ご教歌  こぞよりも ことしはひろめ まさらんと  おもへるけふの 初まどひかな


大 意

去年よりも今年はもっと気張って、お教化・参詣ご奉公に気張り、

「一人でも多くの人達を尊い上行所伝の御題目を伝えていきたい」と

真剣な思いで、初御講にお参詣された人々の心意気を、

開導聖人は大層およろこびあそばされ、お詠みいただいた御教歌です。


 

▽こ ぞ …… 去年

▽まどひ(まどい) ……(団居・円居)

1、人々がまるく居並ぶこと。車座(くるまざ)になること。

2、1か所に集まり会すること。特に親しい者どうしが集まって楽しむこと。 団欒(だんらん)


 

御指南

弘通広宣を祈るは如来の御使也 諸天此人を守護し給ふ

また我身の罪障消滅には一切衆生を御法をもて助くる是第一也


昨日・19日は、別院の吉田さんで甲お講が奉修でした。親子三代のご家族です。

ご主人はすでに帰寂されています。

ご生前はお導師から、「別院ができて、お寺になったら、初代の局長をやってちょうだいね」と

お言葉をいただき、そのつもりでご奉公されていた方でした。

奥さんはお年を召されましたが、昨日は家族がお手伝されて、新春・甲お講の席主をご奉公されました。

お年ですから一日の大半をご自宅で過ごされます。昨日は久しぶりにお会いできて、本当に嬉しく思いました。

お会いすると、佛立信者らしさ、あつい志し、そういう雰囲気が空気で伝わってきます。

言葉をかわす前からもう、「やっぱり、この人はすごい。」そんな風に感じてしまうのです。

畏敬の念をおぼえるとか、威圧感があるというのではありません。

言うなれば、慈しみのかたまりのような雰囲気です。それが、言葉を交わさなくても伝わってくる。すごいことです。

昨日は、ご家族ともいろいろお話しできました。

お参詣者みなさんも、「今年一年、去年よりもがんばっていこう!」と、こんな風に思えたお講席だったと思います。

なぜか涙がでてきました。穏やかな雰囲気のお講席でした。

でも、みんな志気(士気)が上がったんじゃないかと思います。そんな、「初まどい」でした。

 

 

 

 


ご教歌  これでわれ よしと思へば おこたらん  信は忘るゝ まなくすゝめよ

2015年01月19日 | ご法門

ご教歌  これでわれ よしと思へば おこたらん  信は忘るゝ まなくすゝめよ


 大 意 (日晨上人「ご法門のかなめ」より)

世の中が無常、人間も無常。常に動いているので考え方も行動も常に進んでいないと、追いつかなくなって落伍する。

故にもうこれで十分と中途半端な満足感は、怠りの本になる。

信心も同様、30代ならそれに相応するよう、壮年・老年ならそれに合わせて、信心をすすめる。

これでよしと挫折してはならぬ。世法に追われるときでも、信心第一ということを忘れず、ご守護を頂くように。

これだけすればもう充分と考えてはならぬ。それが下り坂のはじめになる。

信心は「憶持不忘」で、たもち奉る信心修行がすすむのであって中絶しては不可。

つかれたら休んでも、また立ち上がるために休むのだと心得よ。昼夜・常精進。