蕨駅そばにお住まいのご信者宅。お戒壇は大正末期のものと聞きました。
ピカピカに磨かれています。ものすごく古いけど、とてもキレイです。
止め金に仏丸。ステキです。全体を見れば余計、随所に施された細工が映えてみえます。
当時の宮大工の感性。当時の素材や工法。どれも、今とは違うんですね。時代を感じます。
元・事務局長のお宅。局長を看取った後、奥さんはご晩年、だいぶ視力が低下してました。
ですのでご令嬢は、お母さまが手探りでも生活できるように、あまり片付けをしませんでした。
お見送りをされて、四十九日忌のころには随分と片付いているのが分かりました。
一周忌を過ぎたころにはリフォームもされて、ご両親、兄と4人で暮らした長年の生活品を整理されました。
いまは、当時とは、見違えるほどキレイなお宅です。
こういう移り変わりを目の当たりにすると、ご家族の、ご両親への愛情を感じます。
そして、じつに賢いお方だなぁと敬意を表するものです。
志茂にあるご信者宅のまえから、かつて、おばの家族が住んでいた辺りを眺めます。
おばと長さんは、日泰上人ご法宅のお給仕をされていました。
毎朝ご法宅に上がり、掃除機と拭き掃除、朝食のお手伝い、恩師ご夫婦の所用などを、
常住寺の職員としてご奉公されていました。お二人ともお年を召されましたがご健在です。
「日本のお母さん」
ボクがお二人のお人柄を表現するのに用いるコトバです。
恩師によくお仕えになり、そして、ボクら子どもたちを、本当にかわいがってくださいました。
南教区は、千葉県の流山あたりから松戸、柏、船橋までの範囲です。
この写真は、おわたはずしの時の一枚です。手賀沼のそばにあるご信者宅。
常住寺の発祥の地。王子の堀船です。
このすぐわきにご信者宅があり、帰りに撮影しました。
写真は都電の栄町駅です。王子駅前から、栄町、梶原(堀船)と続きます。
さらに、荒川車庫前、あらかわ遊園前、小台、と続き、この辺りは本華寺さんのエリアです。
本当のおとなりさん。となりの町会です。
むかし、北区の南側’(田端、駒込あたり)に乗泉寺の本華組があり、これが発展して本船組へと編成し、常住寺の前身となるのです。
本華寺は本山末で清雄寺の縁故。同じ地域に別々の門末組織があり、それぞれ同じ組織名を冠するのは地域に因んだ名称なのかと考えます。
名称の由来を知りたいのですがわかりません。どなたかヒントになるようなことをご存じの方は教えていただけたら幸甚です。
王子のとなり町、豊島です。ここも様変わりしました。
豊島教区は、豊島と足立の新田あたりの教区です。この辺りもご信者宅がかたまっています。
新田は、荒川放水路が完成して隅田川と荒川に挟まれ、中州になった地域です。
荒川と江戸川。2つの河川は、実は人口の川なんですね。信じられません。。。
荒川は明治40年ころから掘り始めて、昭和5年に完成し、正式に荒川となりました。
詳しくは知りませんが、上流は自然の荒川。おそらく、埼玉の秋ヶ瀬あたりから東京湾までは人工の河川です。
北区の赤羽。岩淵に水門があり、そこから荒川と隅田川に分かれます。
仲原教区所属で赤羽にお住まいのご信者宅。左の短冊は小僧がしたためました。
先日ご奉安させていただいた御宝前。館林市にお住まいです。
北連合(川口市。旧・浦和市。旧・鳩ヶ谷市。)連合長のご令嬢が結婚され奉安となりました。
お道具を求める時もいっしょに参りました。
やがて、常信寺さんに日参してくれるようになったらいいなぁ。
最後は、河井氏がぬってくださった大塔婆のふくろ。
三祖ですから、3基分です。
日暮里の生地問屋までいって生地を購入。
お寺で仕上げて、客殿にてお披露目。みなさん喜んでくださいました。
ご奉公ありがとうございます。
ちなみに、7月なかばの支庁会議はここでさせていただきます。