清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

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怨親平等( おんしん びょうどう )

2018年05月24日 | 第5支庁 と 東京中央布教区

第5支庁報に書いた原稿です。

本日、支庁報が配布されましたので、ここにも記載します。



怨親平等とは、

仏教用語。怨敵と親しい者とを平等にみるという意味。

仏教の根本精神は大慈悲であるから、にくい敵であるからといって憎むべきではないし

また親しい者であるからといって特に執着すべきではなく、

平等にいつくしみ憐れむべきことをいう。

日本では戦いの終ったあと、敵味方区別なく戦死者の供養塔を建立したという例があるが、

これはこの精神の現れとみられる。(ブリタニカ国際大百科事典より)



怨親平等の精神のように、私たち仏立宗門人は菩薩としての生き方を教わります。

菩薩とは、「お題目を弘めて、一切衆生を救おうとする人」です。

すなわち、みほとけの深くて大きなお慈悲を真似ようとする人であり、

慈悲深い心の持ち主だからこそ、菩薩行ができるのであります。

「人々がお題目によって救われていくことを喜ぶ」そういう人ですから、

何とかして唱えさせようと工夫します。

仏立宗門人は須くそういう信心前でありたいものです。

本年・平成三十年は、教化法灯相続つづれ織り運動の初年度です。

皆さん、外に向かってはお教化を、そして、家族にもご信心を伝えようと

一生懸命ご奉公されています。

ぼさつの心で、自分の手の届くところにご利益を伝えようとしています。



「ご信心は一人では成り立たない。」

私は、こんな言葉をよく発しています。

人々を敬って慈しんで歩んでいくのが菩薩だからです。

誰彼の区別なくすべてが等しく救われることを願えるようになって行動してこそ、

ご信心が完成するのだと伝えています。

なので、好き嫌いの区別をしたら菩薩行はできないと思います。

冒頭の怨親平等という言葉は、

この、菩薩の心意気を語るときに、よく引用しています。

「大事な家族も、馬が合わない人も、等しく救われてほしいと願ってこそ、佛立ぼさつでしょ」と、

こんな具合です。

実際、愛娘は目に入れても痛くないほど可愛い存在です。

ご信者さんから「娘さん、可愛くて仕方がないでしょ」と

親しみを込めてお言葉をかけていただくことが間々あります。

ありがたいことです。

しかし、そんな時「ボクは菩薩でありたい」という思いを同時に持つことにしています。

「誰彼の区別なく。全てが救われますように。皆、等しくご利益の恵みがありますように。」

これが菩薩の心意気だと思うのです。

娘だけが可愛いでは、菩薩にしては貧しい感情だといえるでしょう。



近親憎悪という言葉があります。

辞書には

「血縁的距離が極めて近い関係にある者どうし、また、性格の似通った者どうしが憎み合うこと。」と

記載されています。

心理学的には、人はみな自分自身のマイナス面を心の奥底にしまって触れずにいる。

その心の暗部と類似した事物を見聞きすると普段以上に強い憤りを覚えるのだと書かれていました。

ご信心ではこういう様を罪障と呼ぶはずです。

ご奉公させていただいている者同士、同じ心の交わりで協力してご弘通に気張ります。

そんな中、ちょっとしたボタンの掛け違いや、場合によっては我慢のこころが沸き起こって

それがきっかけですれ違いを起こしてしまったとしたら、これは残念な事です。

本来、忌み嫌うところは謗法ですから宗門外にあると言えるでしょう。

しかし、敬いや慈しみがぼやけて、大事な人たちが誰なのか、

守るべき人は誰なのかが分からなくなると大変です。



ご法さまの深い深い慈しみの中で、ボクらは救われてゆきます。

菩薩はそういう大慈悲心を真似るのです。

ですから、全ての人を大事にしてご奉公させていただくべきで、

みんなが、不安なく、安心を得て、夢と希望をも得られて進んでいけるとしたならば、

きっと、もっともっと、ご弘通は伸びゆくことでしょう。

人を蔑ろにしたり憎んだりしてしまったら、本当につまらない事です。

人はかけがえのない宝です。

特に、ご弘通を志す人は全て、そういう存在です。

そう銘記して、全てが救われることを心から祈って、

高祖日蓮大士ご降誕八百年慶賛

教化法灯相続つづれ織り運動の5カ年間、

ご弘通ご奉公にきばって参る所存です。

 


真似て ならう

2018年05月08日 | 学び ・ すすめ

先日・5月6日(日)

ウチの別院(常住寺には、埼玉・上尾に別院があります)でお会式を奉修させていただきました。


ご法門は、こころの中の「ほとけ心」や「闇のこころ」について、お話しさせていただきました。

自分の中に、色々な自分がいます。

目線や立ち位置で、思考が大きく変化する。

置かれた環境で、モノの考え方が変わります。

よい信心前の人に囲まれれば、功徳を積もうとする良き信心前が芽生えます。

果たして、自分は、いま、どこを向いているか。

そして、他人に、どんな影響を与えているのでしょうか?


自分の言動が、人に影響を与えるなら、ご法門も、伝え方で大きくかわります。

上尾別院のお会式では、勇ましく説こうと思いました。だけど、優しく。

義は強く、こと柔らかに・・・です。


乗泉寺に、ボクの尊敬するご信者さんがいます。九州ご出身の女性です。

今回は、このお方のしゃべり方をイメージして説きました。

ようするに「ものまね」です。

但し、ふざけるのではなく、雰囲気やトーンをまねてみました。

すると、なんだか、慈しみの心が深まったような感覚に包まれました。

不思議ですね。


真似るって、こういう効果があるんだなぁ。。。

そう感じました。

やはり、「ならう」「まねる」というコトが、

ものすごく大事なんだって思えた瞬間です。


よいお手本を真似る。恩師のご信心前をそっくり真似る。

そうやって、良い坊さんになるんでしょうね。

ふざけて不良の格好をしたら、そういう気持ちになっちゃう。

清浄な出で立ちに整えたら、気持ちもそっちを向きます。


おふざけでも

「きらいだー」「ばかやろー」「あっち行けー」なんて言ってたら、

本当に仲が悪くなっちゃうかも知れませんね。

コトバって大事です。

ほんと、思いやりや、感謝、慈しみのこころを、コトバにして伝えたいものです。


Bodhisattva(ぼさつ) 思いやりが伝わった日

2018年05月03日 | 第5支庁 と 東京中央布教区

4月30日
第5回「東京中央布教区・子どもお会式」が奉修されました。
会場寺院は、常住寺(じょうじゅうじ。ウチのお寺)です。



当日は快晴。
約200名の、大人、青少年、そして子どもたちが集いました。

お会式の当日、式典中に、涙が溢れてきて止まりませんでした。
多くの人たちが、ぼさつでした。
みんなが思いやりを表して、積極的で、喜びながら、ありがたく、恭しく、
この行事に臨んでいたからです。
 
 
そして何より、そういう大人たちの空気を、気持ちを、
子どもたちは自然に真似ていました。
 
そういう雰囲気をかんじて、ありがたくて、ありがたくて。
 
 
子どもたちはみんな元気で、朗らかで、楽しげでした。
そして「互いに思い遣っていること」を、「喜んでいるよう」に見えました。
 
 
お寺は大勢の人が集まります。
それは、大勢の人の善意が集まったってことです。
そのパワーたるや、すごいものです。
 
本当に、なごやかでした。
そういう集いを執行することができました。
 
 
当日のご法門は次の通りのご教歌を拝読しました。

ご教歌
末法は無智なる故に心にて 出来ぬを所作でするが信心

ご指南
まず つとめて まねを ならえ

当日、子どもたちは、ご教歌の教えのとおり、大人がよろこんでいるのを、自然に真似てました。
いや、子どもたちが喜んでいるのを見て、大人が随喜したのかも知れません。
なので、「子どもから教わる」っていうのは、そういうことなんですね。

そもそも、よい方向とは逆に流されやすいのが凡夫です。
だけど、ぼさつ心を持った人が大勢集まったると、
功徳を積めるような言動が連鎖していきます。
今日も、まさに、そのような空気でした。

「人を思い遣ることができている自分を嬉しく思う」
「こういう心を持った人が、目の前に大勢いることを喜ぶ」

そういう、たがいに、たがいを敬う雰囲気で満ち満ちていました。
それを、子どもたちは肌で感じて、持って帰ってくれたと思います。

この日のイベントは大成功でした。
みんな、慈しみ深い「ぼさつ」です。

このあたたかな思いが、広くに、多くに、
そして、次の時代にも伝わっていきますように・・・。合掌。