ストレス【stress】 (goo辞書より引用)
生体にひずみの生じた状態の意。寒冷・外傷・精神的ショックなどによって起こる精神的緊張や生体内の非特異的な防衛反応。また、その要因となる刺激や状況。
ストレスとは何か。現代の心理学や医学の世界には「ストレスはこういうもの」という明確な定義がない。なぜかと言うと、ストレスを完全に解決する方法がいまだに見つかってないからです。お医者さんはいろいろな検査をしますが、脳にも内臓にも異常は見つかりません。そこでどうしようもありませんから、とりあえず身体に現れている症状を抑えるために何らかの薬を出すのです。
どのようなときにストレスがかかるか? 一般的には、人間関係がうまくいかなかったり、過度に忙しかったり、嫌なことがあったとき、と考えられています。しかしそれだけではありません。楽しいことをしているときにもストレスがかかる。「今日一日遊び過ぎた、やらなければならないことがあったのに」。有給休暇をとって温泉や海外旅行に出かけた。そのときも心のどこかで「こんなにのんびりしていてもいいのだろうか、みんな一生懸命仕事をしているのに」と不安になり、あるいは逆に、休暇の最終日が近づいてくると「あー、休みが終わってしまう。明日からまた会社に行かなくては。もう二、三日休みがほしい」と、こうやってストレスを溜める。それから、寝ればストレスは解消されると思っている人も多いでしょうが、寝てもストレスは解消されません。逆に「寝すぎてしまった」と自己嫌悪に陥るのです。何かに没頭して夢中になっているときにもストレスはかかりますし、退屈で何もすることがなくても、ストレスはかかります。退屈だと心が暗くなって元気がなくなり、落ち込んでしまうのです。
したがって専門家のあいだでは、ストレスは生きている限りずっとあるもので、ストレスのない人はいないと考えられています。もし嫌なことをやっているとストレスがかかり、楽しいことをやっているとストレスがかからないというのなら、ストレスを定義することができますし、それを解決することもできます。嫌なことをやめて楽しいことをすればいいのだから。しかしストレスは厄介なもので、そう簡単には解決できません。好きなことをしていても、寝ていても、何をしていても、ついてくるものなのです。
(以上、根本仏教講座・本文)
ストレスは三毒
仏教講座のコラムでは、「ストレスは三毒である」と説かれていました。三毒、すなわち「貪欲」「瞋恚」「愚痴」がストレスだと言うのです。上記の文章のように、「楽しくてもストレス」というのは、まさに、獲られても更に欲しくなる貪欲な様子をうかがうことができます。どっちに転んでも最終的には愚痴がでます。ですから、三毒が盛んで強い状態から、ストレスがおこるというワケです。
(上記コラムの筆者が、)ある方から「会社に行けなくなった、どうすればいいでしょうか」と相談を受けたことがあります。話を聞いてみると、その人は大変な怒りを抱えていて、上司が嫌だ、同僚が嫌だ、嫌な仕事が山積みになっていると、不平不満を並び立てるのです。私はその人に何のアドバイスもできませんでした。なぜならその人は私に「別の怒りを作ってほしい」と考えていたことが分かったからです。つまり「あなたは悪くありませんよ、嫌な人間関係に負けないで頑張りなさい」というふうに。この類のアドバイスは世の中の心理カウンセラーたちが一時的な対処法としてやっていることであって、仏教では、怒りを正当化して人のやる気を起こさせるようなことはやりません。仏教は「完治する方法」を教えています。ストレスを完治させるためには、心を客観的に観察しなければなりません。ですから、彼にアドバイスできることは「心を客観的に観てください。怒っているのはあなたではないですか。悪いのは、いかなる場合でも怒った人です」ということ。でも残念ながら誰も「自分が悪い」ということは認めたがらないのです。(以上、根本仏教講座・本文)
他人や世間を厳しくジャッジしている状態。「いまの政治はなっていない。」「こんなのは常識外れでふざけている。」「そんなことは許されるモンじゃないぞー。」などと、叱る側に立つことを無意識にも望んでいる人には、常にストレスがついてまわっているのかも知れません。むさぼり、怒って、求めても得られない苦しみの連鎖があるようです。
こんなときにはお題目をお唱えするに限ります。コンコンと唱え続けるのです。上行所伝のお題目は、人のこころの中の三毒をよい方向へと変えて下さいます。いかりまくっている人も、そのいかりを蒙っている人も、どうかお題目を唱えるためにお参りしてほしいとねがいます。