清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

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ストレス

2016年07月16日 | 学び ・ すすめ

ストレス【stress】 (goo辞書より引用)
生体にひずみの生じた状態の意。寒冷・外傷・精神的ショックなどによって起こる精神的緊張や生体内の非特異的な防衛反応。また、その要因となる刺激や状況。


ストレスとは何か。現代の心理学や医学の世界には「ストレスはこういうもの」という明確な定義がない。なぜかと言うと、ストレスを完全に解決する方法がいまだに見つかってないからです。お医者さんはいろいろな検査をしますが、脳にも内臓にも異常は見つかりません。そこでどうしようもありませんから、とりあえず身体に現れている症状を抑えるために何らかの薬を出すのです。


どのようなときにストレスがかかるか? 一般的には、人間関係がうまくいかなかったり、過度に忙しかったり、嫌なことがあったとき、と考えられています。しかしそれだけではありません。楽しいことをしているときにもストレスがかかる。「今日一日遊び過ぎた、やらなければならないことがあったのに」。有給休暇をとって温泉や海外旅行に出かけた。そのときも心のどこかで「こんなにのんびりしていてもいいのだろうか、みんな一生懸命仕事をしているのに」と不安になり、あるいは逆に、休暇の最終日が近づいてくると「あー、休みが終わってしまう。明日からまた会社に行かなくては。もう二、三日休みがほしい」と、こうやってストレスを溜める。それから、寝ればストレスは解消されると思っている人も多いでしょうが、寝てもストレスは解消されません。逆に「寝すぎてしまった」と自己嫌悪に陥るのです。何かに没頭して夢中になっているときにもストレスはかかりますし、退屈で何もすることがなくても、ストレスはかかります。退屈だと心が暗くなって元気がなくなり、落ち込んでしまうのです。

したがって専門家のあいだでは、ストレスは生きている限りずっとあるもので、ストレスのない人はいないと考えられています。もし嫌なことをやっているとストレスがかかり、楽しいことをやっているとストレスがかからないというのなら、ストレスを定義することができますし、それを解決することもできます。嫌なことをやめて楽しいことをすればいいのだから。しかしストレスは厄介なもので、そう簡単には解決できません。好きなことをしていても、寝ていても、何をしていても、ついてくるものなのです。

(以上、根本仏教講座・本文)


ストレスは三毒

仏教講座のコラムでは、「ストレスは三毒である」と説かれていました。三毒、すなわち「貪欲」「瞋恚」「愚痴」がストレスだと言うのです。上記の文章のように、「楽しくてもストレス」というのは、まさに、獲られても更に欲しくなる貪欲な様子をうかがうことができます。どっちに転んでも最終的には愚痴がでます。ですから、三毒が盛んで強い状態から、ストレスがおこるというワケです。


(上記コラムの筆者が、)ある方から「会社に行けなくなった、どうすればいいでしょうか」と相談を受けたことがあります。話を聞いてみると、その人は大変な怒りを抱えていて、上司が嫌だ、同僚が嫌だ、嫌な仕事が山積みになっていると、不平不満を並び立てるのです。私はその人に何のアドバイスもできませんでした。なぜならその人は私に「別の怒りを作ってほしい」と考えていたことが分かったからです。つまり「あなたは悪くありませんよ、嫌な人間関係に負けないで頑張りなさい」というふうに。この類のアドバイスは世の中の心理カウンセラーたちが一時的な対処法としてやっていることであって、仏教では、怒りを正当化して人のやる気を起こさせるようなことはやりません。仏教は「完治する方法」を教えています。ストレスを完治させるためには、心を客観的に観察しなければなりません。ですから、彼にアドバイスできることは「心を客観的に観てください。怒っているのはあなたではないですか。悪いのは、いかなる場合でも怒った人です」ということ。でも残念ながら誰も「自分が悪い」ということは認めたがらないのです。(以上、根本仏教講座・本文)


他人や世間を厳しくジャッジしている状態。「いまの政治はなっていない。」「こんなのは常識外れでふざけている。」「そんなことは許されるモンじゃないぞー。」などと、叱る側に立つことを無意識にも望んでいる人には、常にストレスがついてまわっているのかも知れません。むさぼり、怒って、求めても得られない苦しみの連鎖があるようです。

こんなときにはお題目をお唱えするに限ります。コンコンと唱え続けるのです。上行所伝のお題目は、人のこころの中の三毒をよい方向へと変えて下さいます。いかりまくっている人も、そのいかりを蒙っている人も、どうかお題目を唱えるためにお参りしてほしいとねがいます。


 

 

 


業(ごう)と因縁(いんねん)

2016年07月14日 | 学び ・ すすめ
業の深い人生とか言います。業は行いです。因縁は行いや思考を原因として善し悪しの結果を受けることです。因縁を、悪い方向から良い方向へと修正していただけるのがお題目です。その、業と因縁について、根本仏教講座で解説していただいてたので、本文を拝借して、(抜粋して)次の通り記載しました。

業と因縁
(1)全てのことに理由がある     A・スマナサーラ長老
 
■日本でいう「業と因縁」とは?■
「業と因縁」と言えば日本ではごく普通に使われている言葉。
 よく開くのは「業が悪い」という言い方。また「因縁」という言葉もよく出て来ますが、たとえば、人に会った時に「ご縁があったんですね」というふうに言う。「これも何かの縁ではないか」とかね。何かよくわからない場合に、私達はそういう言葉を使うようです。
 
なぜこうなったか分からない、或いは偶然人に会って、何かものごとが非常にうまくいったような場合。まあ、それも何か縁ではないかと思うんですね。このように私が知る限りでは日本で縁というのは「何か分からないもの」について言うものではないかと思います。
 
例えば人が来るという約束があって会った場合、或いはこちらから会いたいと、アポイントを取って会った場合は「これは何かの縁ですよ」とは言わないんです。
 
「業」の場合も同じです。自分の希望どおりではなくて何かちょっと自分の希望と違ったことが起きた場合、特に悪いこと、不幸なこと、あってほしくないことが自分に起こったならば「業が悪い」と考えたりすると思います。
 
これらの言葉は仏教から出て来た言葉なんですね。そうすると皆様がたが因縁とは何か、業とは何かを知りたいと思うのは、ごく普通のことだと思います。では、お釈迦様は、業と因縁という2つの言葉についてどういうふうにおっしゃっているかというと、業については、そんなことは放っておきなさい、普通の人間の頭で分かることじゃない、とてもとても難しい、深いことなのだと話しておられます。人間には考えても考え切れないことなので、考えない方がいいとおっしゃいます。考えたら頭が狂ってしまうという四つの事がありまして、その一つが業なんですね。
 
ですが因縁のことは、考えるなとは言っておられません。因縁については、みんなが因縁をわかっていないから、そのためにあらゆる苦しみを味わっているんだとおっしゃっています。
 
人間の人生というのは、糸があっちこっち、無茶苦茶に絡まってしまったような状態なんですね。たとえば猫に糸でもあげて、自由に遊ばせてやるとどうなるかというと、ぐちゃぐちゃになりますよね。そしてもう元に.は戻らない。そういう風に我々の頭も人生も全部ぐちゃぐちゃになっているのは、この因縁がわかっていないからだとおっしゃっているのです。ですから因縁はもしかすると理解出来るものかも知れません。しかし業は放っておいた方がいい。同じものでもないし、テーマとしてもなかなか合うものでもないのです。
 
■全てのことに理由がある■
話を戻しますと、日本では分からないことに「何か縁があったのではないか」と言います。
 いい人に会ったとき、これも何か縁だからなどと言いますが、「縁」という言葉を使うポイントは「理由が分からない」という点にあるようですね。ところが仏教で因縁というのは、まったく逆で、いわばとても科学的な、合理的な話なんです。物事、出来事の理由、なぜこうなったのか、それを知っていることを「因縁」というわけなのです。
 
例えば、「このごろ大分寒いですね、それも何か縁ですね」というと、日本の感覚ではおかしいんです。でも仏教でいう因縁というのは、そういうものなのです。何か因縁があって今日は寒い。なぜ今日は寒いかということを皆様ご存じでしょう。季節はもう冬ですし、ちょうど寒波が来ている、だから寒い。つまり因縁とは「理由」「訳」のことなんですね。それは知ろうとすればいくらでもわかることなのです。寒さについても、更に因縁を捜せばもっと詳しくわかります。(中略)きちんとした理由、訳を捜すということ。つまり物事には、全部、きちんとした理由があるということなのです。
 
■因縁の話ほどつまらない話はない■
(中略)例えばある人が来て、私の人生は、毎日不幸なことばかり起こりますが、どうすれば明るくなりますかと聞いたとすると「あなたには何か死者の霊、怨念が付いていますね。大変です。今すぐ除霊してあげます。そうすればあなたは幸福になれます」と言えばすごく興味津々のってくるわけです。しかしもし「あなたの性格が悪い。あなたの喋り方は良くないし、人に親切でない。仕事のやり方もまずい。だから不幸になるのは当たり前だ。しっかりしなさい。良い言葉を喋りなさい。やることはちゃんとやりなさい」と言ったとすると、それは因縁の話で、あまり人気がないんです。それよりは「えいっ」と言って言葉でもかけて清めてもらった方が気持ちが良いんですね。
 
因縁の話はとても合理的で科学的で、おもしろい話ではありません。しかし人間というのは理由、訳を知りたがるものです。物事の理由、なぜそうなったかを知りたがります。それは、知った方が良いのです。知ろうと思って、変なところに行くのがおかしいのであって、きちんと、とことん追いかけて、追って、追って正しい原因を見つけるべきなのです。

世 情

2016年07月13日 | YouTube 動画 音楽

中島みゆきさんの「世情」という歌を聴いていました。
ボクが中学3年の時に放映されてたドラマ「金八先生」の名場面で使われた曲です。




「世情」と入力してネットで検索していると、次のような、「歌詞の意訳」を見つけました。


世の中の人たちは、刹那的に自分の欲望を満たそうと行動しているから、
世の中の真理とは何かを考え、世の中はどう変わっていかないといけないかを追求し、
まっとうに生きようと正義をつらぬこうとする頑固者たちは、
いつも世の中の人から反対されたり、裏切られたりして、悲しい思いをする。

世の中の人たちは、自分たちの刹那的で動物的な欲望から発していることなのに、
それをキレイな夢に置き換えて達成しようともがくけど
なかなか達成できないとわかると、他の人たちや政治家や国など、
結局、世の中の他人事のせいにしてしまう。
 
世の中の人は「戦争をやめよう、政治を変えよう」などと
その時のキレイごとをシュプレヒコールのように言って、
あたかも他人事のように言うけれど、決して自分の心から変えようとはしない。
 
この世の真理は何か、みんながまっとうに生きれる道は何か、を考え、追求している人たちは
その時代の流れにあわせて変えていくことに、自分なりにもがき苦しみながらも挑戦しつづけている。
 
それでも世の中には、時代のまっとうな進化の流れを止めて、今までどおりの生活をそのまま続け、
刹那的な欲望をまた満たそうと夢見る人たち が多いけれど、
実は 自分自身の心にもそういう一面が顔をのぞかせるときもある。
そんな変えられない世の中の人たちや自分自身の中からわきおこる刹那的な欲望とも戦わねばならない。
 
世の中の人たちはだいたいが臆病で、
自分だけが孤立し、異端視されて非難されるのを避けるため他愛ないウソをつくし、
また自分の欲望をさらけだして利己的に行動して いると思われるのは恥ずかしいから、
そんな欲望を隠そうと、また他愛ないウソをつく。
 
でも学者やマスコミの多くの人は、そんなウソをついている世の中の人たちの利己的な欲望を暴いたり、
見つけ出して、まるで世の中のことは全てわかってるかのような気になっている。
 

ボクはいつも、「ウソはつきたくない。」「私利私欲で行動したくない。」と考えています。
ところが世情の歌詞(意訳)を読んでいると、「何を言ってるんだ。欲望の塊のくせに。」と
一笑されているように思えてなりませんでした。
みんなもがいて生きています。楽しい時、嬉しいときも一杯あるけれど、だけどツラい時の方が多い世の中。
それでも、正直に生きていこうと、正面をむき直したい心地になりました。

優劣に一喜一憂しない。
他人からの評価にくよくよしない。
愛情は自分から注ぐ。
ウソつかない。
ズルいことしない。
こう、意識して生きていかねばと思うのです。