清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

お風とおし

2014年12月28日 | 常住寺 行事 できごと 家族

12月26日。常住寺・本堂内陣のご清掃と、宝物のお風とおしをさせていただきました。

泰信師が「まさ」と「よし」にご指導下さり、一緒にご奉公させていただきました。

なんとか、集中してやってくれています。

お敬いの心で、ていねいに、ていねいに。

うっかりすると、怒鳴られますが、そういう場面はほとんどなく、慎重にできています。

さすが泰信師。まもなく法鑞50年の大先輩が、内面からはきびしい空気を出しつつも、表面はとてもやさしく、導いて下さいました。

お風とおしをして、「虫よけ」を入れ替えて、お軸をふたたびお巻きして宝蔵にお納めする作業です。

ご本尊のみを「お風とおし」していましたが、今回は、その他、ご真筆のご遺墨などをお出ししました。

歓尊時代の記録が載っている記念誌です。

乗泉寺の旧本堂で営まれた法要など、初めてみる写真が満載です。しかも新品。ページをめくる時に、薄紙をグシャっとしてしまい慌てました。

平成27年度は、秋頃までを目安に、本堂うらの宝蔵と仏具・什物の格納庫を大掃除する予定ですので、まだまだ沢山でてくることでしょう。

以前お導師がお作りになった「ご本尊のリスト(写真付き)」と照合しながら、一つひとつ確かめる作業をしていきます。照合できるまで、徹底的に調べます。

お写真も、初めて拝見するものが多数ありました。

こちらは、まだ開けてません。これから作業します。

本堂うらの塔婆・浄書室は、すべて空っぽにしてから窓のサッシも外してお掃除しました。

新しいじゅうたんを敷いて、机も取り替えました。

窓のサッシは外側からしか外せない構造ですので、手を滑らして落下させたら大変です。時間をかけて慎重に作業が進みました。

おかげさまで、窓のワクまでお掃除ができました。でも、経年劣化で傷んだところは仕様がありません。

水屋は年明けから水道回りの取り替え工事に入りますので順次、きれいにしていこうと思っております。

あと、墨汁の汚れは、これはどうにもなりません。コルクの壁紙を貼っていこうと思っています。

レトロな、カセットテープがでてきました。淳尊のご法門も録音されているようです。はたして再生できるでしょうか?

年末年始は時間がありませんので、寒参詣あけくらいから作業に入ることになりそうです。

終わったら、また記事をアップします。テープが再生できればいいなぁ。。。


意気地

2014年12月24日 | 学び ・ すすめ

意気地なし(日晨上人要語録より)

日蓮聖人は「心甲斐なければ多くの能無用なり」と仰せられました。

心甲斐なしとは、かい性がないということで意気地なしという意味です。

意気地なしではどんなに頭脳がよくても、体力があっても、技能があっても、その能力を存分に発揮できません。

それで日蓮聖人は

「臆病にては叶うべからず」

「獅子王の如き心をもてるもの仏になるべし」

などと仰せられ、無気力では妙法の大利益をいただくことは困難だと強調されたのであります。


お題目をお唱えする心構えは、佛立第24世講有・小山日誠上人がお示し下された口唱の改良・よいお看経がお手本となります。

「ご本尊をみつめ、姿勢を正し、大きな声ではっきりと、上行所伝のお題目をお唱えさせていただきます。」

人々のご祈願をねがう時の「修行=お題目口唱」は、勇ましく、一生懸命に、根気よく、迷う心なく、おこなって行きたいものです。


てっする

2014年12月22日 | 学び ・ すすめ

日晨上人要語録より、「 父母の恩 - 徹する - 」というコラムを拝見しました。
次のご妙判(お祖師さまのご遺文)をお引きになられて、「不惜身命のご弘通を遊ばされたお祖師さまの原動力になっていたのは〔父母の恩に報いるという心〕から発せられていた。徹する偉力を痛感する。」と仰せになり、徹しておこなうことの大事をお示し下さっています。


 種々御振舞御書
「日蓮貧道(沙門=入門した修行僧)の身と生まれて、父母の孝養心にたらず。国の恩を報ずべき力なし。今度頭を法華経に奉りて、其の功徳を父母に回向せん。そのあまりは弟子旦那等に、はぶく(配当)べし。」


 また、次のコラムを引用され、「身近なことを、徹して、見よう、考えるべし。」とご指南下さってあります。

 「父母の恩」 三木公久

高校生諸君の作文を見ていたら、早く父親をなくし、母親の細腕一つで育てられた高校生の母親への感謝の情をつづった文章が目にとまった。

長い間の苦労で、からだが弱ってきた母親が病の床についたのを看護しながら、この作者は、早く大人になってその恩に報いたいと願う。そして、どんな形で恩に報いようかと、さまざまに心を砕くのである。が、これといって良い方法は思いつかない。作者の頭に浮かぶのは、いつか母親をどこかの温泉へ保養に連れて行くこと、それくらいのものなのだ。作者は、それがありふれた、子どもじみた考えだと自分で苦笑いしながらも、いつもその考えに熱中しているのである。

なんだ、ほかにいくらでも、もっといい恩返しの方法がありそうなものだ。そう思うかもしれないが、それなら、あなただったら何をするかと問われれば、やっぱり返答に窮するだろう。

母親に限らず、親と子の関係は、もともとそういうものなのだ。つまり、子は親の恩に、ついに報いることができない宿命を、生まれながらに負っているのである。親の恩はあまりに大きく、あまりに深いものだからである。期間的にみても親が子をはぐくむ年月は長く、それに比べて子が親に孝養を尽くせる年月は短いのである。親は子が一人前になって孝養が尽くせるようになる日を、いつまでも待っていてはくれないのだし、一応の実力が身に備わり、さあ、これから大いに孝行しようと思うときには、すでに親はこの世にいない。。。というのが、古今を通じて変わらない、多くの人の子の嘆きであるのだ。

今ここに世界一の親孝行者がいて、あらゆる孝養を尽くしたとしても、その努力は、親が彼に払った苦労の〔百分の一〕にも満たないのである。

しかし、父母のほうは、子どもたちに何かをしてもらおうなんてことは、でんで頭にないのである。それどころか、自分たちの命ある限り、物心の両面について、子どもたちを激励応援しようという考えしか頭にないのだ。こんなことが親子以外の関係でありうるだろうか。

われわれは、父母に、いわゆる「恩返し」ができぬ。それゆえに、父母は、われわれにとって絶対的な存在なのだ。つまり、われわれが絶対に侵すことのできない唯一至高のものとして、親はわれわれの前に厳として存在しているのである。

とうてい報いえぬ親の恩ではあるが、また、それだからこそ、子は、できる限り親に尽くさなければならないのだ。たとえ、子供じみた考えであったとしても、母親への報恩の念を温泉行きという形に表さないでいられない、子の気持ちというものは、やっぱり、貴く美しいのである。そしてまた、子の親を思う心は、それを表す形が、いかに小さく、ささやかであっても、今まで子のために払った苦労を一度に忘れ去るほど、親の心を喜ばすのだ。


 親孝行は、自分がソバにいてもらったのと同じだけ、親のソバにいるのが、一番の孝行になるのでしょうね。ことあるごとに捧げる、捧げたい、との思考の中です。何気ない日常であるが、よく考え=よく親の思いを察して、接するべきなのだと考えさせられました。また、いまの世の中は、我が師の恩などという言葉が、危うく死語になりかけている風潮があるように思えてなりませんが、親の恩、師の恩、長幼の序を弁えるなどの思考が、もう少し弘まってもいいと思います。

お寺は、お題目を唱えて功徳を積む場所。積んだ功徳は親や周りに回り向かっていきますようにとの菩薩心を常々もってご信心に励むのです。孝行と功徳を向かわす。そして、日々それらに心を砕いて、徹することをお教えいただきました。


MONTHLY 

2014年12月20日 | インポート

JR藤沢駅の改札通路から富士山の夕焼けがみえました。

これから、マンスリーのはじまりです。

玉川。本所。柴又。王子。から、藤沢に集合です。

みなさんと集う、月に一度の貴重な時間。楽しいひとときでした。


落款(らっかん)を新調しました

2014年12月19日 | 日記

ご信者さんから色紙のご依頼をいただきましたので、正式な落款を新調することにしました。(1枚目)

アップの写真も記載します。こちらは「姓名印」で、白文の落款です。

「信廣山・常住寺」を略しました。

続いて「雅号印」。朱文の落款です。

当山第二世・権大僧正日泰上人の落款は白文が「信廣門下」朱文が「信成日泰」です。

日泰上人がお作り遊ばされた白文の「信廣門下」の「信廣」は、「乗泉寺本末信廣会の門下」の意で、ボクが作った白文の文字「信廣常住」の「信廣」は、信廣山の略です。どちらも、佛立第八世講有・乗泉寺中興開基・信廣院日歓上人の院号に由来しています。

昭和辛酉(かのと・とり)=昭和56年。

すなわち、高祖日蓮大菩薩700回御遠諱の年におしたため遊ばされたことが記されています。

作品ができましたらアップします。。。。。と云いたいところですが、お見せするほどのでき映えでもないでしょうから、アップするのをためらってしまうと思います。

でも。印鑑ができたのはとても嬉しいものです。筆を持つ楽しみが増えました。

 


協力の徳

2014年12月17日 | 学び ・ すすめ

佛立第15世講有「日晨上人要語録」より。(太字は要語録の本文)


 

「悪いゾウに卵を踏みつぶされたスズメは、キツツキに訴えました。」

「どうか私のうらみをはらして下さい。」

キツツキは「苦しむ友を見捨てぬのが真の友といわれているから力を貸そう」といって、ハエとカエルの協力を得て、悪いゾウの征伐にかかりました。

弱い動物たちは相談し、ハエはゾウの耳に入り、キツツキはゾウの目をつつきました。目をやられたゾウに、カエルは鳴き声を出して水のありかを示すようにして、深い穴に誘導しました。悪いゾウはついに、穴におちてしまいました。

ここには、弱者同士が自分の身を守るために、どう協力すれば勝つかそのやり方が説かれています。協力は弱者を強者にします。


昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあります。文殊は仏教では知恵をつかさどるお方です。

「膝とも談合」=相談するに足りないと思う人にでも、相談したらしただけの御利益がある。協力で利口になるという意味。


梅雨時の田園風景で、共同作業で田植えをしているのを見ると、人間の協力美を感じます。(逆に)最も親密な両親とか兄弟が協力しないで困るなどという話しを聞くとイヤな気持ちになります。当事者もさぞ不愉快なことでしょう。ですから、隣人との交わりも、勤務先、その他周囲との関係は、争わぬよう心がけ不愉快のたねを減少することが肝要です。世をうらみ、人をとがめてばかりいる人は、周囲の人々との関係に配慮が不足で、協力から生ずる楽しみを知らないようです。日頃相談しあったり、力の貸しあいのできる人は、人間関係の調節が上手な人で(中略)気持ちがよければ、それが健康にも影響し、気持ちに余裕があれば勉強も楽しくすすみ、人にも親切になり、さらに愉快になること請け合いです。


本文の途中には、肝心要の、「ご信心をさせていただく人々の、異体同心の和を破るようなことをするのはダメ」とお叱り下さってあります。このコラムは、本来はここがメインです。

日晨上人の要語録を拝読して、仏さまの教えを柱として、その教えのもとに集い、協力しあって、よい空気を広げていけるようになりたいものだと思ったものです。


四条金吾殿御返事

2014年12月16日 | 学び ・ すすめ

タイトルは、お祖師さま(日蓮聖人)の御遺文名です。御抄・御書のことを、ご妙判(ごみょうはん)と申します。


 

賢人は(けんじん・は)八風と(はっぷう・と)申て(もうして)八のかぜに(やっつ・の・かぜ・に)をかされぬを(おかされぬ・を)賢人と(けんじん・と)申なり(もうすなり)。

利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽、也(なり)。

をゝ心は(おおむね・は)利あるに(り・あるに)よろこばず。をとろうるに(衰える・に)なげかず等の(なげかず・とう・の)事也(ことなり)。

(この)八風に(はっぷう・に)をかされぬ(おかされぬ)人をば(人をば)必ず天は(かならず天は)まほらせ(守らせ)給也(たもうなり)。


【八風】
八風(はっぷう)とは、仏の教えに基づいた修行を妨げる8つの出来事の事。
人間が求める4つのできごと・四順(しじゅん)と、人間が避ける4つのできごと・四違(しい)がある。

四順
利い(うるおい)‐目先の利益
誉れ(ほまれ)‐名誉をうける
称え(たたえ)‐称賛される
楽しみ(たのしみ)‐様々な楽しみ

四違
衰え(おとろえ)‐肉体的な衰え、金銭・物の損失
毀れ(やぶれ)‐不名誉をうける
譏り(そしり)‐中傷される
苦しみ(くるしみ)‐様々な苦しみ


「らしく」なる 

2014年12月16日 | ご法門

ご信心させていただくお互いは、仏さまの教えを学びます。

これはいいかえますと、仏さまのお心を習うということですから、所謂ちまたで聞くようなセリフですが、「あの人は仏さまのような人だ」などと呼ばれるような「人がら」を身につけることが、僧侶と信徒にとっての一つの目標であったりします。

生活の中でのご信心の場面。ですから、お寺にお参りしたり、お題目をお唱えするお看経の場面においても、ただ唱えるんじゃなくて、学びがたくさんあります。お寺参りの時の態度や、あいさつの仕方、お題目をお唱えする中では他の人と調和がとれているかとか、拍子木の打ち方、御法門を聴く姿勢など、よいお手本となるように勤めるのは大事なことです。同じ、仏さまの教えを学ぶのでも、凡夫まる出しな雰囲気でやっていましたら、周囲からもあまりありがたく思われないことでしょうし、自分自身も功徳を積ませていただいたと実感できないんじゃないでしょうか。人と人とが同じ場所で同じ時間に共に過ごすのですから当然、良い影響もわるい影響も受けるハズ。そんな中、「自分はよい姿勢でよい影響を与えられるように勤めるんだ」という心でやっていけるのが素晴らしい事です。

今日の記事は、先師上人の御法門を拝見しながら作文しました。その御法門の譬喩の一文を次下に記載させていただきます。

古語に「人うまれながらにして聖なるはなし。習い修して聖となるなり。」と言われていますが、小さな子は習い修してなど、とてもできるものではありません。子どもを取りまく周囲の環境がその子に、習うと云う事の心を、育てて行くのです。(入学時に泣いていた子が)幼稚園も2年目になりますと門前で泣いて居る子は居りません。習うと云う事、見て真似ると云う事が、はぐくみ育てられて、泣いて居た子が園児らしくなったのです。

 「あいつも坊さんらしくなったなぁ。」このように云ってもらえるとしたならば、恩師より賜ったご薫陶のおかげ。周囲のみなさま方のおかげです。らしくなった、なれてきたのは学んだことで、環境や周囲の人がよいからよく学べますし、もしわるい環境ならばそのように体感してしまいます。氏より育ちなんて申します。

多くの人とともに生きる社会ですから、互いに影響しあって生きています。ましてや、お寺でご信心を学ぶものは、仏さまの教えという基幹があります。そして、そこに近づこうと日々精進しています。ですから宗門人は、よいものをひろげていく存在となっていこうという意識を持たねばならない。

そう云いながら、ボクは凡夫まる出しですが。。。


 ご教歌 人の世は人らしきことしてくらせ みのりにあへる人は猶さら

 


主 師 親

2014年12月10日 | 常住寺 行事 できごと 家族

ボクが生まれた時の写真。

大奥様がだっこして下さり、その左は大阪の祖母、右は種村郷子姉、そして母です。

種村夫婦は日豊上人の仲人です。そのむかし、種村さん宅のご宝前で日豊上人は出家得度を決意されたそうです。ボクも種村郷子さんに御奉公を教わりました。お綿の折り方、おちり払いの仕方、お助行に連れて歩いていただいたのも覚えています。ご信者さんへのお参詣の勧め方、教化子のお世話など、現場で実際にみせていただき教えて教えていただいた思い出があります。普段から着物を着て、草履で闊歩する御奉公は、そんな遠い昔の景色ではありません。 

 

2枚目の写真は、昭和43年の撮影だと思います。場所は常住寺の境内です。(右)母がいとこ姉妹の妹を、(左)おばがボクを、だっこしてくれています。いとこの姉の方が左に写っています。撮影位置も現在はコンクリートが敷かれ、クルマの駐車スペースになっています。

 

3枚目は昭和52年です。日泰上人が日豊上人に住職位を継承された年です。この年はボクが見習いを始めた年でもあります。不覚にも、見習いが始まった日にちを覚えていないのですが、御乗台でお看経をされていた日泰上人がご閑士のお席へお移り遊ばされ、日豊上人が御乗台に上がられた移り変わりを内陣から拝見しておりましたし、見習いが始まったころは5時半に出仕すると外は明るかったのが徐々に日の出が遅くなり、やがて6時の朝参詣が始まったあとに太陽がのぼるようになったのを覚えています。この様に、いろいろ記憶を辿ると、おそらく9月ごろから見習いを始めたのだと思います。

見習い初日は開門参詣のご信者さんから「どうせ三日坊主だろ~(笑)」と、からかわれました。実のところ、気まぐれで早起きしたに過ぎなかったので、翌日に出仕するつもりなんか更々なかったのですが、この時にからかわれたのがとても悔しくて、次の日からずっと出仕したような次第です。ちなみに、翌日はほめられました。ほめられたけど、同時にからかわれました。3日目も同じでしたが、4日目からは「ありがとうございます」「おはよう」「がんばれよ」にかわりました。このこともよく覚えています。いま思えば、この人は変化の菩薩です。このご信者は郵政省の職員でした。バイクに乗って仕事をするので、交通安全の御利益をいただくようにと、お教務さんのご弘通車・オートバイ3台をご有志され、晩年まで欠かさず、定期的に新車の入れ替えもご有志され続けていらっしゃいました。この方は相続者がおりませんでしたので、護持ご尊像はボクが相続させていただき、ご尊像は現在、庫裏ご宝前のお厨子に収まっております。

上の写真を撮ったとき、ボクは左手で日泰上人の右手のぬくもりを感じていました。緊張感も手伝ったのでしょうか、それほど距離が近く感じたものです。このように、この写真を撮ったときの感覚は鮮明に覚えています。

見ていた景色、そして写真を撮るときの周りとのやり取りなども、ややおぼろげですが覚えております。たしか、よこに並ぶのが勿体なくて一歩下がったら、「写真はあとあと残るんだから、横に並んで撮らさせて頂きなさい」と、お導師からお叱りをいただきました。それで横に並んだら、日泰上人の右手の暖かさを感じた。このように記憶がつながっています。まだ得度したワケでないので、略五条・お袈裟も取ろうとしましたが、これも、学徒としてかけさせていただきなさいとのお言葉を賜ったのをおぼえています。思い返せば、本当にありがたいかぎりです。思い出は尽きませんがこの辺で。ただ、恩師のご恩を忘れちゃいかんなぁと思いふけったひとときでした。


新年度の総祈願

2014年12月10日 | 常住寺 行事 できごと 家族

平成27年度の総祈願ができあがりました。

毎朝、ご法門の前に唱和するためにも本堂に掲示するのですが、この大きなポスターを、当山の相談役が毎年作って下さいます。今回も素晴らしい出来映えです。

「佛丸のすかし」が入っており、唱和するときに一層、士気が高まる感がします。

お仕事で使ってらっしゃるので本職のワザです。

イラストレーターを使って作成し、配置は、0,1㎜単位で調整できるとのことです。スゴいぞ。

A3の用紙をタテよこ4枚づつ=16枚をつないだポスターが、また1年間、本堂で活躍します。

今日は一日、年末大掃除の準備をしました。

上の写真は、1000枚入りの「超うすうすの半紙」です。

これで御尊像をおつつみ申し上げ、内々陣の真裏にある宝物庫に収めます。

当山第二世・権大僧正日泰上人がお使いになられていた「ご本尊、ご尊像のおちり払い用のお筆」です。

第三世・日豊上人もお使いになられ、小僧も使わせていただいておりましたが、ついに、筆の毛が根こそぎ抜けるまでに劣化しました。

もう何十年使われてきたのでしょうか。しかたなく、今月末のおちり払いから、新しいお筆に交換させていただくことにしました。

本数が多いので、新しい筆と古い筆を輪ゴムでペアにして、書道用品店から持ち帰りました。

お筆は、柔らかい半紙を筒状にまるめて収まっています。

表面には日泰上人のご直筆で、ご本尊、ご尊眼やご尊顔、ご尊体と類別が記されています。

これらは常住寺の歴史ですから、古い御筆は宝物庫にて保存するつもりです。

宝物庫も飽和状態で、整理が必要。水屋も水道シンクを取り替え、棚やテーブルを取り替える予定になっており、採寸を済ませました。

来年は終戦70周年の年です。戦後に活躍してきた什物は大事に使われてきましたが、それでも経年劣化してしまいます。

景色が変わるのは恩師の面影が薄れるようで気が進みませんが、本年度から「常住寺ルネッサンス」の合い言葉を揚げたごとく、

恩師の教えを守る中で、未来に残すものを積み上げていこうと思います。

 


日晨上人・ご法門のかなめ より

2014年12月05日 | ご法門

ご教歌  旅人の 日なたをあゆむ かげ見れば まへにうしろに はなれざりけり


 (日晨上人 ご法門のかなめ より)

外を歩く人の影、曇ったときは分からぬがお天気のときはよく分かる。影は形から離れぬもの。ごとくにその人の果報は善悪ともについて回る。信心の鏡でその影を見て、よき種まきをせよ。

徳・不徳というものは、その人々についてまわっているもの。形に影のそうように、それがわかる時とわからぬ時がある。日なたを通ればはっきりわかるが、曇天では影は見えない。しかし、ないのではない。信心はこの体から離れぬ体の徳をつかむものだと心得、しっかり種まきの御奉公をすべし。


人のために いのる

2014年12月03日 | 学び ・ すすめ

昨晩、niheiさん宅のお綿かけをさせていただきました。

カレー作って待ってるからと仰っていただきましたので、裕香もいっしょにお伺いしました。

niheiさんは裕香のことをとても可愛がって下さるのです。

いつも可愛がって下さるからというワケではありませんが、お看経をおあげする直前に、裕香にこう申しつけました。

「niheiさんが元気で過ごせますように。niheiさんが幸せでありますように。とお願いする気持ちでお看経させていただこうね。」

このように申しますと、なにやらはにかむような笑顔で「うん。そうだね。」とご返事がかえってきました。

はたしてお看経の様子はと申しますと、とても大きな声で勢いよく、短いお線香一本のお看経をあげてくれました。

人のためにいのる。お世話になっている人。自分が大好きな人のために、精一杯の祈りを捧げたいという思いでお看経をあげることができたのでしょう。

ご信心では、すべての生きとし生けるもの、一切衆生が救われることを祈るべしと教わります。では、好きではない人、さらに憎むような対象に対してはどのように向き合うべきなのでしょうか?好きではない原因を絶って、すなわち、罪障消滅をいのって、先々によいご縁を結べるように祈りたいもので、まさしく、罪を憎んで人を憎まずという類いの心持ちで仏道修行に励みたいものです。さらには、人間関係がよくない原因を自分に求め、自分自身の罪障消滅をもいのるべきとなるワケです。

そもそも、いのる気持ちそのものが持てない人だってたくさんいます。そんな中、まだチビですが、裕香は大好きなniheiさんのために祈ることができました。これから成長していく中で、ご宝前さまのおこころを学び、すべての生きとし生けるものが救われることを、自分の願いとなれるように育っていってほしいとねがいます。

人のためにいのる。菩薩行を志す人の心持ちです。