有朋自遠方来、不亦楽乎。
人不知而不慍、不亦君子乎。
学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。
ともあり遠方より来る、亦楽しからずや。
人知らずしていきどおらず、亦君子ならずや。
他人が、自分のことを理解し正しく評価してくれなくても、それを不満に思ったり、また、怒ったりしない境地。それでこそ君子である。
孔子にとっては、学ぶことが喜びであって、教えを理解できない人々の評価などは取るに足らず、気にすることはないのである。
5月22日(日)大塚・遠妙寺さんにて、子どもお会式が奉修されました。「第五支庁・支庁巡教」をいただき、東京中央布教区は第4回目、遠妙寺は第15回目の子どもお会式です。一つの行事にトリプルネーム(笑)。もう、すごいコトになっちゃいました。
山門よこの、「かわらけの大灯籠」と「掲示板」
チャリティーバザー。フィリピン別院による、現地のフードコート。熊本支援のための、熊本グッズとグルメの販売。
お給仕かかり。小さな改良服(お坊さんの普段用の「お衣」です)が、かわいい。しっかりお給仕できてました。これをみた裕香が、感動しておりました。
本堂での法要では、こども向けのお話しをさせていただきました。「いっしょうけんめい」というコトについてお話ししました。ご法門は後日アップします。宗務総長・木村日覚上人(遠妙寺の御住職です)のごあいさつはすごいです。「今日はねー。みんなにひみつを教えちゃう。」もう、たったこれだけで、子どもに聞く耳を持たせてしまう。すごい。そして「お教務さんは、じつはアンパンマンなんだよー」「高野師もアンパンマンでしょ(笑)」「蓑田先生もアンパンマン(笑)」。外見のことでしょうか(笑)?
いえいえ、そのこころは。「アンパンマンはみんなを助けてくれるんだ。だから、お教務さんはすごいんだよー。」というワケです。世を利益する活動に従事する僧侶の姿を、子どもたちに伝えていらっしゃいました。お話しは、ほんの2分くらい。達人です。
せっかくお側に居させていただけるので、ご一緒にお写真をとお願い申し上げ、イベントで盛り上がっている中で撮影。お導師、ありがとうございました。
260名ほどのお参詣で、会場は熱気につつまれていました。ゲストのパフォーマーが盛り上げます。
射的。巨大迷路。ストラックアウト。
ご供養は手作りの、焼きそば、ウインナー、トルティア、野菜のソテーは抜群のおいしさでした。梅沢さんが調理して下さいました。
とてもかわいい木製のフォーク。これはきっと、子どもたちに暖かさを伝えたことでしょう。すべてにおいてクオリティーが高い。真剣に取り組み続けて15周年を迎えた積み重ねが、随所に表れていたのだと感じました。
最後のしめは小林師がご奉公下さいました。
布教区くんげ会・会長の岩崎さん。いつも最初から最後まで、全力で先陣をきってご奉公下さいます。素晴らしい、本当に素晴らしいリーダーです。
本堂内に設置された、子どもお会式のカンバン。
次は8月のキャンプ。ポスターはいつも、中野師がつくってくれます。
どれも、次世代に伝えるための大事な行事です。布教区11ヶ寺の未来を担う青少年の集まりです。各位にご理解とご協力をいただきながら進めさせていただいております。感謝感謝です。
みのだ先生と教信師。裕香はもんちゃんとお呼びしてます(笑)。
岩崎さんご夫婦。矢代さん。つるみさん。のりえ。えーた。
岩崎さん。良尚師のご長男。いい子です。のりえ。前日準備の夕方に撮影。
前日の夕方。映像のテスト。
集合写真。すごい熱気です。ほんと、ありがたく思います。
次世代の育成。みんなが、元気がでる行事でした。一人ひとりが想いを込めて、この日に望みました。子どもたちはボクらの希望です。優しく、たくましく、そして正しい教えをしっかり修めて、ステキな大人になって下さい。いまを一歩一歩、ステキな道のりを歩んで下さい。そんな、大人たちのねがいがつまった行事でした。いとおしい、愛すべき子どもたちへ。
久しぶりの、仲間の集まりです。
午後になって時間がとれた順にながれ集合でした。
東京駅の八重洲地下街、カーブ・ド・オイスターというお店。ボクは2番目に到着。
はやく着くと、それなりにコアな話しができるので、いい時間になりました。
番長はクルマで、お寺の所要をすませて駆けつけました。
江原師もご奉公が終わってから合流でした。
久しぶりの会合。
「ただ集まっただけ」という集まり方はここ近年では珍しいこと。
奇跡の一日だったと言えます。
かけがえのない仲間との時間。
むかしと同じ空気ではありませんが、集まるとやはり嬉しく思います。
さいごに柴又が合流して6名で会食。明日への活力になりました。
みんなそれぞれ、明日からの日常を淡々ときばっていくことでしょう。
今月は布教区行事が2つ。先日・14日に開催された「布教区総会」と、22日に営まれる「子どもお会式」です。布教区総会では「過去一年間の報告」と「これからの一年間、また先々のあり方を協議」されました。布教区をお預かりして、今期で2期目。最終年度・平成30年の秋には、次の体制に引き継ぎとなります。子どもが対象の行事は、「いま参加してる子どもたちが成長して、今後は自分の子どもを連れて参加する」というのを想像しながら行事を行っています。ですから、任期満了までに、20年くらい先まで行事が続くための道をつけるのが目標の一つです。
総会の準備をしている写真。総務部参与さんたちが、各部署の資料をまとめて、事前に参加者に配布して下さいました。5月14日の総会にむけて、5月3日に決算以外の資料を発送しました。議案を先に読んでもらってますので、会議がスムーズに進みました。総務の教信師、彰孝師にはご奉公ありがとうございました。
任期満了の平成30年には、(宗門の青少年行事が何もなければ)、ウチの布教区主催で「本山奉仕」をさせていただこうと企画しています。その予算を確保するために、総会でみなさんにご協力を呼びかけ、予算確保のための議案が通過しました。ちょっと荒々しい手段だったかとも思いましたが、みなさまよりご理解とご協力をいただきましたことを感謝申し上げます。また、個々の反応もありがたく思いました。会議がおわってから大寺院の局長さまが話しかけてきて下さり、立ち話の中で、「本案を実行する際には、積極的にご協力させていただく。」とのお言葉を賜りました。ほんとうにありがたく、御礼申し上げます。また、総会会場の光寺さまには大変お世話になりました。御住職で本宗・宗務副総長の亀井日魁上人におかれましては、いつも小僧を可愛がって下さいます。この度もご高配を賜り、まことにありがとうございました。あつく御礼申し上げます。
22日は子どもお会式、宗務総長・木村日覚上人のご慈教のもと、準備が進んでいます。
子どもお会式が終わると、8月のキャンプに向けて動き出します。
布教区という組織。ウチの布教区は都内の11ヶ寺があつまったグループです。年間でいくつもの集まりがあり、大勢が集まる大会は規模の大きな寺院で行われます。大勢の人が集まるということは、人も、元気も、必要なものも、奉納も、全てが集まります。ですから、規模の小さな寺院でも、何らかの集まりをもっていただき、行事をおこなった寺院にパワーが集まりますようにと考えて会場を選びご協力をおねがいしています。前期から今期まで、そこを軸にして行事をつくってきました。みんなが元気いっぱいでありますように。行事を行う際は、そんなささやかな願いが込められています。
ご教歌 御初穂は第六天に奉り 仏に上げる己が残物
ふり仮名→(おはつほ は だいろくてん に たてまつり ほとけに あげる おのが ざんぶつ)
大 意
まずは「ご宝前(ほとけさま)にお供えさせていただく。」ということを心がけるように。
欲にまかせて、結果、残り物を供えるようなことをしては功徳にならない。
ご信心の中では、ゴハンが炊けたら最初に、お仏飯をお供えさせていただくことを教わります。自分たちが食べたあとに、「そうだ。仏さんにお供えしなくちゃ」なんていう動きになったらカッコ悪い。これは、信仰を持たない人がその場面を想像しても、きっと「志がないなぁ」と感じるんじゃないかと思います。
まず最初にお供えをする。そして、ゴハンを食べるときには、みんな揃って、いっしょに、手を合わせて「いただきます」と言ってからいただく。家庭でもそうですが、イメージしやすいのは、部活の合宿などでの食事では、このようにすると思います。手を合わせて、感謝のおもいを表してから、みんないっしょに食べると思います。もし、みんなバラバラだったらどうでしょう?合宿でそんなことはしないと思いますが、もしそんなチームがあったとしたら、恐らく強いチームではないと思います。みんなそろって、いっしょに「いただきます」をする。最後も一緒に「ごちそうさまでした」をして、それぞれが自分で片づける。これは、ごくごく普通の光景でしょう。
だれかの年回などで親族が集まったとき、お寺にお参りして、お墓に行って、それからお清めで食事をしたりします。こういうときは、みなさん、どこに座るか考えてしまうことだと思います。やはり、順序を考えるからです。お坊さんや喪主(弔主)が上座にすわり、その近辺に故人のお写真があったりします。そしたらまず、故人の写真に陰膳を供える。かげ膳がなくても、お酒やビールをついで、まずはお供えをすることと思います。やはり、順序があるのです。
「娘に100両。仏には一文。」というコトバがある。それほど人の心には、ほとけさまを粗末にするようなこころが存在しているようですが、それをあらためて、まずはお供えをさせていただく習慣を身につける。これは、ちょっと気をつけていればできることだと思います。そして、「まずはほとけさまにお供えをしよう」と心がけている人は、「娘に100両。仏には一文」などという残念なやり方にはならないハズです。ですから、「お金をいくら使えばいいのか?」というよりも、まず一番最初に「ほとけさまにお供えをさせていただこう」という心を養うのがスタートというところでしょう。
普段は信仰をもたない人でも、年回のお清めの席では、かげ膳をお供えすることに目が行く。そういう「場面」や「人の目」が、人の心や行いをかえていく。またはひと言、「おい、やろうぜ!と伝える」ことが、人をかえていくんですね。ご信者さんは、この「お初」ということろからご信心をスタートさせる。またご信者さんでも信仰をもたない方でも、こういう場面をつくっていくことで、周りがよい方向へ、おおきく変化していくことでしょう。
そういう空気をつくっていくのは、お坊さんの役割だと思っています。そして、お寺にはそういう空気があります。お供えする対象である、正法たる妙法お題目のほとけさまがいらっしゃり、いつもお初の精神で、お敬いして、お仕え申し上げています。ですから、お寺にくると、部活の合宿で鍛えられるような清々しい雰囲気を持ち帰ることができます。その影響は広くに及んでいくことでしょう
お初を家訓と定めるのもいいのではないでしょうか。みんなで揃える。こころも揃う。敬うこころが芽生え、申し訳ない、もったいない、などという心を育みます。だから、だれかがひとこと言いましょう「お初の精神を心得よ」と。その核を、お寺にきて、持って帰っていただけたら幸甚です。
ここのところ家庭問題の記事を書いていましたら、このブログを読んでくださっているご近所の方から、わが家の様子を心配するお言葉をかけていただきました。(ご本人がこれを読んだら、そんな大げさなと仰るかもしれません。ただ、ボクらは嬉しかったのです。)この方は小学校の元・PTA会長さんです。町会でもお世話になっており、なにかとお声をかけて下さる有りがたい存在です。そして、ご縁があるのだと思いますが、この方が会長の時に、ウチのかみさんが副会長をさせていただいておりました。本来はそんなお役をいただける者ではありませんが、この会長さんのご指導のお陰様で、無事に任期を務めることができたのだと感謝しております。
さかのぼって思い返せば、「3人兄妹の一番上が小学校に上がるとき」には「学区域外の小学校」に入れるコトも視野に入れて考えていました。思案をしていたときにタイミングよく会長さんご夫婦がお声をかけて下さり「こっちにおいでよ」と、やさしく誘って下さいました。ボクはこのことをかみさんから聞いて、すぐ、「そうやって誘って下さったのだから、学区内の学校に上がろう」と決めました。あれこれ思案していたのがウソのように、一瞬で決心しました。それほど、親切な一言というのは大きな力があり大きな救いになると実感しました。ですので、今回ご心配いただいたことも本当にありがたく思いました。そして、いただいたご恩を、ご本人にもまた他の方にもお返し申し上げたいと考えた次第です。
元会長さんとは町内会でもごいっしょさせていただいております。ウチの町会はとても雰囲気がいいと感じます。みなさん本当に仲睦まじく、にこやかです。近所に困った人がいたら親身になって手助けする方がいらっしゃいますし、みなさん積極的に治安を守る活動をされています。自治体とはよく言ったもので、まさしく、自分たちの町は自分たちで守るという信念があるのだと感じます。ですから、みなさんがなさる活動内容を見聞きし、意気に感じて「自分も活動に参加する」なんて方も多いんじゃないかと思うのです。
先般、小学校の掲示板に画像の標語が張り出されているのに気づきました。「まちがえをおそれず、元気に発言すること」をうながしてくれています。ネットで検索したら一杯ヒットしました。どうやら、有名な絵本の中の文言みたいです。これを一部、次の通りご紹介します。(画像は小学校の掲示板です)
教室はまちがうところだ まきたしんじ(氏)
教室はまちがうところだ
みんなどしどし手をあげて
まちがった意見を 言おうじゃないか
まちがった答えを 言おうじゃないか
まちがうことを おそれちゃいけない
まちがったものを ワラッちゃいけない
まちがった意見を まちがった答えを
ああじゃないか こうじゃないかと
みんなで出しあい 言いあうなかでだ
ほんとのものを 見つけていくのだ
そうしてみんなで 伸びていくのだ
絵本は、こんな言葉で綴られているようです。(つづきは画像の文章をお読み下さい。)
じつにありがたいコトバの連続です。『 間違えながら、経験しながら成長していく。だから、まちがうのが当たり前。それを、自分はできるからって、人をバカにしちゃあダメ。人の失敗を笑っちゃダメ(蔑んだらダメ)。だからみんな、勇気をもって挑戦しよう。わからないことは分からないと言えて、そこから覚えていこう。元気出していこう。』と、教室中を、そういう空気にしてしまう、そんな魔法のコトバだと思いました。そしてこれは、これから色々なことを経験して成長していく子どもたちへの励ましですね。
このまえも書きましたが、仏教では、「欲がある人は慈悲がなく、慈悲のある人は欲がない。妙なものだ。」と教えていただきます。人をバカにしたり、あざけ笑ったりするのは欲です。よわい人に優しくないのも、欲ですね。怒るのも欲。自分を卑下するのだって欲なんだそうです。なんだか欲ばっかりです(笑)。そんな中で、まごころで接することができる、人に親切にできる、自分の気持ちを押しつけない。一本すじが通ってる(なんのスジだろ(笑))。見返りなど求めない。これらは慈悲になるんだと思います。
自分の思いを捨てて公の立場で物事に取り組む、なんていうのも慈悲でしょうか。たとえば、自分にとって利益がない人間がトップに立ったとしても立場上、全力でサポートする。自分が損しても、自分の立場が下になったとしても、自分の役割を自覚して行動する。それができれば、すばらしいことだと思います。逆に、それができない人ばかりが集まる組織はきっと、消滅するんだと思うのです。自分はそろそろ上の立場だと自覚する。そういうものばかりが集まっちゃったら、そしたら、だれが下で働くんでしょうね(笑)。滑稽です。
役職は上から与えられるものですが、自分がすべき役割は、心ある人が担おうとする。たとえば、お母さんじゃなくてはできなことがたくさんあるでしょうが、その替わりを務めようとこころざすことはできるのだと思います。この人のために、困っている人のために、地域の平和のために、なにかお役にたてることがしたいという目線を持っている人が「世の中のお役に立てますように」「みんなに喜んでもらえますように」という思いの中で、すすんで役割を果たそうとする。先生が心をこめて生徒を育てて下さる。町会の方が無償で地域の平和のために活動されている。これらは当たり前でしょうか。当たり前ではないのですが、こういう一つ一つの思いあって、よい世の中をつくっているのだと思います。だから、こういう人たちのおこころざしをありがたく思います。そして自分も、積極的にお役に立たせていただけるよう、今日もまた元気でぼさつの境地で生きていけますようにと、私の思いをすてて道を求めたいと思います。
( ↑↑↑ タイトルをクリックで、リンク元にジャンプします。)
家庭問題で検索していたら、大阪大学の教授が講演された内容が全文アップされているのをみつけました。
テーマは上の通りで、ここのところ気がかりなテーマである「離婚などの家庭問題」にもふれていましたので、次の通り本文を引用させていただきました。
(以下、本文のコピー)
▼熟年離婚されないために
直近の『週刊現代』にこんな凄い記事が出ました。『夫に早く死んでほしい妻たち─あなたの存在自体がストレスなのよ!─』という記事です。何故こんなに「夫に早く死んでほしい妻たち」が増えたのでしょうか?
「何も死んでもらわなくたって熟年離婚でいいじゃないか」と皆さん思われるかもしれません。しかし、熟年離婚の場合、女性にとって3つ嫌なことがあります。1つ目は、別れる時に裁判をして争う必要がある。2つ目は、たとえ裁判に勝っても夫と財産は半分分けである。3つ目は、自分が選んだ男が駄目だったということを世間に公表するようなものだ。この3つがどうも癪(しゃく)に障る。しかし、旦那が65歳ぐらいでコロッと逝ってくれると、裁判で争う必要はなく、財産は全部自分のものになり、世間は皆、気の毒がってくれる。良いことずくめです。ですから、「密かに夫の死を望んでいる奥様たちが増えている」という、あくまでも噂の話です。でも、何人か後ろのほうで頷いておられるご婦人がおられましたから…(会場笑い)。
この話の中でひとつご紹介しますと、57歳の男性が、奥様とお2人で夕食の時に「子供たちも独立した。これまで私は家庭も顧みずに働いてきたが、退職後はお前の好きな温泉旅行や社交ダンスに一緒に参加しよう。これからは君と一緒にいる時間を大切にする。定年後は君の幸せを優先して考えたい」と、しみじみと語られた。この場に居られる男性の方々にしてみれば「何も問題はないじゃないか。なかなか良い旦那じゃないか」と思われるかもしれません。ところが、奥さんの反応は全然違った。妻の怒りが爆発し、「私の人生はあなたのせいで無茶苦茶よ。本当に私の幸せを思うならば、今すぐ死んで!」と言われたそうです。
何故こんなことになったんでしょう? 宗教関係の偉い方々は日常的に説教をされますので、皆様もちょっと気を付けていただきたいんですけれども、男性はつい「お前の幸せは俺が考えてやる」と、上から目線になってしまうんですね。しかし、人間ずっと上から目線で話されますと、この男性のケースのように奥さんの怒りが爆発してしまうんです。対等な目線というものが大切になってくるんですが、どうしても男というものは上から目線になってしまう。という訳で、熟年離婚がどんどん増えている。一瞬離婚が減った時がありますが、これはバブル期です。バブル期は男性はお金を持っていますから、女性は付いてきてくれるんですが、バブルがはじけた途端、また離婚が増えました。
そして、平成15年には、ついに年間離婚件数が30万件を突破しようという勢いでしたが、ここで減ってきました。2つ理由があると言われています。ひとつは、老齢年金の夫婦分割制度が国会で可決され、平成19年から実際に施行されました。それでも妻はまだ半分も持って行けません。しかし最近の噂では、強制的に半分持って行っても良いという制度になるそうです。それを待っている人がいた。
それから、平成15年というのは、まだ団塊の世代が現役です。旦那が五十代後半になって奥さんが離婚したいと思った場合、そういう方は、旦那が60歳になるのを待たれるんです。何故なら60歳になれば定年で、退職金のまとまったお金が入ります。離婚したい奥様にしてみますと、「この退職金をふんだくらないことには死んでも死にきれないわ」という訳で、退職金をもらった途端に離婚というのが最近の風潮です。もし、皆様の中に「うちの嫁さん、ひょっとしたら危ないかも……」という方が居られましたら、退職金を一気にもらってはいけません。必ず分割してもらってください。そうすると奥さんが出て行くリスクが減ります。宗教関係の方々は定年退職がないので大丈夫だと思いますから、あまり関係ないと思いますが。
▼夫源病とは何か?
さて、旦那が「わしも族」になったらどうなるかと申しますと、妻が「亭主在宅症候群」になります。私はこれを「夫源病(ふげんびょう)」と呼んでいますが、どんな病気かと言いますと、ずっと旦那が家に居るものだから奥さんの体調が崩れるんです。「旦那の顔を見ると吐き気がする」、「旦那の声を聞いたら耳鳴りがガンガンする」、「旦那の足音を聞くだけで動悸が酷くなってくる」といった症状が挙げられます。熟年離婚の表向きの理由として、よく「愛情が冷めたから」と言われます。しかし、60歳ぐらいまで連れ添ってきて、結婚当時と変わらぬ愛情を持っている夫婦を私は未だ一組も見たことがありません。うちも30年ぐらい夫婦をやっていますが、惰性です(会場笑い)。しかし、惰性というのは悪いことではないんです。プラスでもマイナスでもない。そのままいったら良いんです。けれども「この人と居たら私の体がもたない」というのが、熟年離婚の一番の理由なのです。
宗教家の方には定年がありませんから皆さんに尋ねても無駄ですが、「定年後は何をしたいですか?」とサラリーマンの男性に聞きますと、「旅行」、「ゴルフ」、「釣り」の3つが出てきます。中でも断トツに多いのが「奥さんと旅行」です。しかし、JTBの調査によると、旦那さんの7割から8割は「妻と行きたい」というのに対し、奥さんの半数以上は「友達と行きたい」(会場笑い)。ここに問題が出てくる訳です。けれども、優しい奥さんは定年後2年ぐらいは旅行にも付き合ってくれるんです。61歳から62歳ぐらいの間は国内外いろんな所へ旅行に行きますが、奥さんは一緒に旅行してもしんどいので、だんだん飽きてきます。そして2年ぐらい経つと、男性は奥さんから「1人で行ってきたら?」と言われるようになるのですが、旦那さんは1人では行かない。そうすると、男性が思い浮かべていた定年後の生活がフワーッと無くなってくる。そこから起こるのが定年後の鬱(うつ)ですが、これが今一番問題になっています。「毎日何をしたいですか?」と聞いても、特に何もない。一方、家事には定年がない訳ですから奥さん方に「定年後何がしたい」という発想がそもそもありません。
夫と暮らすと妻の死亡率が2倍になるというデータがあります。愛媛県のある先生が60歳以上の男女約3,000人を3年間経過観察したところ、女性は夫が居るほうが死亡率が2倍。男性は妻が居るほうが死亡率が半分。逆に言うと、奥さんを先に亡くすと男性の死亡率が倍になります。奥さんを亡くした男性…。しんどそうにしてるなあと思っていると、翌年息子さんから「母の後を追うように父が亡くなりました」と喪中ハガキが届く。一方、旦那さんを亡くした奥さん…。一応、49日頃までは元気なさそうですが、半年後ぐらいしてから会うとむちゃくちゃ元気になっている(会場笑い)。そんな例はいっぱいあります。
何故かというと、夫が妻に依存し過ぎていて自立していないからです。自立には2通りあります。ひとつは経済的な自立。もうひとつは身の回りのことができる自立。今一番問題なのは、女性は経済的な自立ができていない。男性は身の回りの自立ができていない。ですから、女性も働き、男性も身の回りのことをできる時代が、一番リスクが少ないと言えます。
そういう訳で、高齢者の心中・殺人事件がすごく増えています。夫は「妻は絶対病気はしない」、「妻は俺より先に死なない」という妄想を持って信じ込んでいます。そうでも思っておかないと、実際に現実化したらえらいことになりますから…。しかし、実際はそういう訳にはいきません。奥さんが倒れると、介護殺人心中の加害者の76パーセントが男性なんです。介護とは、だいたい男性が倒れて女性が看取ることのほうが多いんです。何故こんなことになるのかと言いますと、夫が自立していないから奥さんが倒れるとパニックになる。それでも頑張る。そして男性は他人に救いを求めない傾向があります。いろんな所へ行けば手伝ってもらえるのですが、そういう手だてを取らない。そして思い余って最後に、寝たきりの妻の首を絞めにかかって自分も死ぬ。こんな悲惨な最期を迎える介護殺人心中を減らすことがこれからの大きな課題なんです。一方、妻は「夫は定年後すぐに死ぬんじゃないか」と思っていますが、実際はなかなかしぶとい。だから熟年離婚や別居が増えているんですね。男性側、女性側それぞれにこういう妄想があります。
以上、長々と引用させていただきました。今後も、本を読んだり、話しを聞かせてもらったりして、もう少しこの家庭問題についての知識を深めたいと思っております。きっと、現場にはそれぞれの事情があることでしょう。ボクは坊さんとして、役割が果たせるように努めたいと思います。
昨日、お寺に帰るまえに本屋にいってきました。「 捨てるという生き方 」という特集・テーマが目をひきました。しばらくはお寺の行事などと交互に、家庭問題にふれていきたいと思いますが、捨てるということについても、また、ここの記事にしたいと思います。
ご教歌 きよがきの やや見事なり このごろは 心こめてや 手を習ふらし
大 意
『 清書を見ると段々と見事になってきた。この頃はきっと、心を込めて一生懸命、稽古に励んでいるのであろう。(これからも励んで行けよ。)』と、仰せであると拝します。(すなわち)ご信心ご奉公は、心を込めてさせていただくこと。日々つづけること。これが大事とお示しのご教歌です。
辞書を引きますと「手習い」は、お習字であり、お稽古、学問と記載されていました。すなわち、日々筆を持ち、心を込めてお稽古してこそ、やがて上達していくのです。それと同じようにご信心も日々の行(ぎょう)が大事で、想いを込めてさせていただく中で道が開けてまいります。
このご教歌は、自分自身のご信心をどのように高めていけるかをお諭し下さっていますから、みなさん、日々の朝参詣や朝夕のお看経、ご宝前のお給仕、お初をお供え申し上げるなど、心をこめてお敬いの心を以てさせていただきましょう。おなじお掃除をするのでも、「物ぐさそう」にするのではなく、「思いをこめて、やらせていただく」という気持ちで行う。毎日これの連続。ここが肝心とのお諭しです。
また、ほとけさまのお心(お経文に記される教え)を真似るのが信じる心=信心ですから、菩薩行を志さなければ、まことの信心に行き着きません。ですから、菩薩行という「人の為になるような働きかけ」が正しくできるように稽古をしたいのです。まことのぼさつ行とは、いかなるものかと。
菩薩行を志す者が、その道を成就するためには「凡夫のこころ丸出し」では叶うはずもなく、「み仏のお心を真似ようと志し」「すべてを慈しみ」「他の人にアプローチ」して行きたいのです。ですから人に対して「指導」や「命令」をするのではなく。「いっしょに学ぼうとする」「ともにお参りさせていただこうとする」。こういう姿勢を、行動で姿形にあらわして他人に示すのが、「お教務さん」や「ご信者の代表となる、事務局員。連合長。教区長。部長。」の、とるべき姿勢です。新入信徒へのアプローチを「育成」というコトバで表現しますが、ボクはこれが適当なコトバなのかと考えてしまうことがあります。「教えてやらなきゃ」と、指導者になろうとした時点で、ご信心をしている値打ちが底に落ちてしまうことでしょう。「させていただく」「手本となるように自身の姿勢を正す」のが、ご信心で言うところの「育成」のあり方です。
そんな姿勢が解決のヒントとなるような話題があります。本日は、ちょうど母の日ですので、それに因んで話題を出しました。
ちょっと、ゾッとするお話しですが、インターネットで「夫」と検索すると、続いて出てくるコトバが、「しね」であると聞きました。試しに検索してみると本当に出てきました。そして先の画像でご覧いただいたように「しね」「きらい」「大好き」「呼び方」とつづいています。なんだかあまりいい心地ではありません。
4月の末に本屋へ行きましたら、次の書籍が目にとまり、すぐ手にとって購入しました。タイトルは『 夫に死んでほしい妻たち 』です。こちらもゾッとしてしまうタイトルの本ですが、この手の書籍が多く発刊されていることを思えば、これらはいまの社会問題であり、知ってかねばとおもいます。
世の中の奥さん方は、夫の世話をして当たり前。家事をこなして当たり前。怒鳴られて、命令されて、使い走りをさせられて、という感情が積もっていく。子育てが済んでやがて定年を迎えて自由な時間ができた。もう、そのころには、いっしょに生活する理由がなくなるというところでしょうか。離婚は様々な問題があって自分にとってもマイナスになる要素が多い。だから、早く死んでもらった方が、お金も家も自由になるし、裁判などの煩わしさもない。周りの人々が同情してくれる。だから「いいことずくめ」だというのです。本当にさみしい話しですが、こういう風に思っている人が少なからず存在するという事実があります。世の男性は、これをどう捉えていくべきか。こんな話しを振りました。
深い不満を抱える女性の問題です。男性諸君は女性にこびへつらってご機嫌を取って生きていこう、などと申すつもりはありません。ただ、表面上だけでご信心をしているような場面で起こる摩擦とこの問題に、共通したところがあるように思えてならないのです。
人には煩悩があります。煩悩(ぼんのう)とは、
もし、言いしれぬ不安を感じている方があったならば、思い切って、いまよりもお参詣の回数や時間を長くする、あるいは優先順位を先頭にもってくるなど力を入れてみてほしいと思うのです。自宅のご宝前にお初をお供えしていますか?おそうじ・お給仕をまごころ込めてさせていただいているでしょうか?やったりやらなかったりということはないか?
夫婦の縁は、深遠なご縁で結ばれたものです。愛し合うのもご縁。憎しみあうのもご縁です。できれば、いやなご因縁はなくしたい。別れたり背を向けるのではなく、わるいご縁を排除できればいいですね。「相手を理解できる」「いつくしむ心」「尊敬しあえる関係」。きれい事をならべているようですが、母の日に感謝のコトバを伝えるに当たって、表面上でありがとうというのではなく、まごころとは何だと考え直すのも良いかもしれません。そんなことを考えた母の日でした。
最後に、本に載っていた「愛の三原則」をご紹介します。
愛の三原則
・「ありがとう」をためらわずに言おう。
・「ごめんなさい」を恐れずに言おう。
・「愛してる」と照れずに言おう。
非勝利三原則
・勝たない。・勝てない。・勝ちたくない。(負けるが勝ち、なんですね。)
語句の解説
きよがき=清書(せいしょ)。やや=だいぶ。いくらか。だんだんと。やがて。
手を習ふ=手習い(てならい)=① 文字を書くことを習うこと。習字。② けいこ。学問。「60(歳。高齢。)の手習い」
や=①~だろうか?(問いかけ)。②~せよ(呼びかけ)。
昨日・8日は母の日。お寺でも、お母さま方に感謝の思いをお伝えする行事が行われました。
朝参詣に引き続きお看経をおあげし、先住日豊上人の奥様には花束を贈呈。
婦人会のみなさまには、母の日カードを贈呈させていただきました。
母の日イベントが終わってから、営繕部と打合せをすませ、部屋に戻ろうと思って2階の講堂に入りましたら、
先ほど先住奥様に差し上げたお花が、大奥様のお写真のまえに飾ってありました。
いつまでも、お師匠さまへの想いを忘れない。恐らく一生ずっと、弟子としてお給仕の心を貫くんだと思います。
そんなおばあちゃんに、子どもと孫から、あらためてお花を差し上げました。
Mather Dayのプレートがささっているだけでグンとお花の見映えがよくなるもんですね。
そして、おばあちゃんを囲んで、みんなで記念写真です。
おばあちゃんはスッピンだからイヤだといいましたが孫にかこまれて拒否できず(笑)。
でもね。お化粧してる写真より、この方が自然でいいと思うんです。
変わってるとおもうでしょうが、ボクはお化粧してるのがあまり好きじゃなくて、
かみさんも普段はずっとスッピンでいます。自然が一番だとおもうんですけど。。。
まーとよしは表情がかたい。いちおう反抗期まっただ中ですので、あしからず。
「今日は母の日だから裕香が卵焼きつくるね」と言って、作ってくれました。
なかなかやるじゃないかー。お母さんじゃなくて、ボクがおいしくいただきました(笑)。
ひまわりはおかあさんへ。
ゆかが持ちたいっていうので持たせたら「重いっ!」と一言(笑)。
ゆかは自分がためたお小遣いでおかあさんにプレゼントしてました。
手紙が大好き。やっぱり女の子なんだなぁと思います。
まーは、今日届くように、事前にハガキを出してました。やるじゃないか。
「ひまわり」は、かなり喜んでくれてました。めでたしめでたし。これで家庭も平和です(笑)。
ただ、やっぱり、子どもたちからのプレゼントが一番嬉しかったんだろうなぁ。
女性は偉大ですね。わが子のことは、父親以上に頭の中から離れないものなのだと思います。
女性であるまえに母親。そう考えると、あらためて、聖なる存在のように思えてきます。
ボクなんかは平気でダダをこねますので、まぁ、子どもみたいなもんです(笑)。
今日の、母の日のご法門は明日アップします。
現代社会における、夫婦・家族の諸問題などをテーマにしました。
4月末から5月あたまにかけて読んだ本もご紹介したいと思います。
ご信者方々とも和やかな時間を過ごすことができ、ありがたい、感謝の一日になりました。
今日は母の日。
朝参詣からつづいて、母の日・こどもの日のお看経をおあげします。
おかあさんに感謝の思いをこめて母の日カードをお送りいたします。
カードの作成は、前局長の斉藤勝男氏です。
母の日カードをはじめてからずっと、
母の日・こどもにはこのカードを作成して下さいます。
いつもありがとうございます。
7日は東神連合の甲お講でした。ここはかつて勢いがありました。
いまはちょっと元気がありませんが、すこしづつ元気を取り戻しつつあります。
席主は、地元の民生委員を勤めた方で、だいぶ前に現役を引退されていますが、
いまでも地元の方々との強いパイプをもっていますし、毎日、お元気でお寺参詣されてます。
この日のお参詣は17名。ボクの「小中学校時代の同級生」のご家族が3家族お参り下さいました。
数日まえの5月1日には、この日のお参詣者とは別に、お友だちとその家族3人が新たにウチのお寺のご信者になりました。
現在ご縁を得てウチの所属になった同級生が5家族。ともだち全体で7家族になります。
今年は親戚も2人お教化になりました。ありがたくおもいます。
写真で、ボクが改良服の下に着ている白衣は、種村さんが生地から縫い上げて下さいました。
ご信者さんお手製の白衣です。着心地抜群。種村さんはその他、すべてのお衣のほころびを直して下さいます。
いつもありがとうございます。母の日に、感謝の思いをお伝えしたいとおもいます。
5月8日。母の日・こどもの日の行事。家族みんなで過ごせる楽しい一日となりますように。
「リズムを刻む」。ここのところずっと頭にあるのは、このことばかりです。「同じ時間に同じことをする」「毎日欠かさず、きめたことをやる」。たったこれだけのことをするだけなのに、そのことで「頭が一杯になる」といっても過言ではありません。まぁ、ただ、ずっと続けるのは簡単ではないかも知れませんね。ですから、たとえ単純作業であっても「今日も忘れずにやった」ということに、大きな喜びを感じています。
ボクはどちらかといえば、いい加減な性格です。言わばだらしがないんです。そんな人間が住職を勤めています。そもそもお寺は厳格なもので、何でもキッチリ動いていました。時間も、モノを置く場所も、干し方も、たたみ方も、目が見えない人でも困らないんじゃないかと思えるくらい、同じ時間に同じ場所で同じことをやっています。いや、やっていました。昔の、草創期の、まだ戦争が始まる前からの習慣も残っていました。それが代々伝わった。当初のやり方がかわらず正確に伝わり、残っていたのです。もちろん時代に合わなくなった古い習慣は廃れていったハズです。そういうモノではなく、恩師の乗泉寺時代からの御魂が、ご薫陶が、残っていました。
お寺の習慣をうやむやにすることなく、踏襲して行く。もちろん、新たなやり方もリズムを刻んでやって行く。これはご弘通に大きく寄与することになります。時間が正確だとそれが、人が集まる下地になるからです。また正確なリズムを刻むと、自分自身の心が、信心前がブレずにいられることでしょう。信じる部分がブレないと、自然と人に影響を与える機会が増えます。ですからこれもやっぱりご弘通の一助となるわけです。その核になる部分を恩師の教えを軸にして守っていく。そのはじめの一歩は雑巾のかけ方やおふきんの干し方といった単純作業を正確にこなすという所から始まります。ですから、日々のリズムを大事にして歩んでいきたいと思います。
そんな中、ここ数年やっていなかったお習字を再開しました。毎日すこしづつ筆を持とうと思います。「書は人なり」で、つづいていくと字にこころが映っていくことだと思います。こころを定めて、思い定めていきたいと思います。
ネットのニュースでこの歌が紹介されていましたので、YouTubeでみてみました。
タイトルどおり、「恋人のここが好き」ってところをたくさんあげていく、そういう歌詞です。
恋人だけじゃなくて「人のいいところに気づくっていうのは、実にすばらしい。」と、教わったような気持ちになりました。
「あなたの、こんな所が好き」
「この人は、こういう所がすばらしい」
こんな風に「他の人の、いいところ」に気づくことができたら、きっと、よい人間関係が築けることでしょう。
歌詞はココでみれます。→ I Love 歌詞
ご教歌
しれてある ことのやう(よう)にて しられぬは 水のながれと 人のゆくすゑ(え)
大 意
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にはあらず。(方丈記・1)
と、詠われるように、川の水は流れていて、留まることはない。
同じ景色に見えても、さっきまでみていた水は遙か下流に流れている。
つまり、ほんの一瞬でも同じ状態であることがない。
それと同じで、健康そうにみえても、人の命は、いつどうなるか誰にも分からない。
「そんなことは当たり前、分かっている。」と言うが、実は、その覚悟がないという。
常々、無常を意識して、できる時(いま)しっかり、功徳を積むことが大事とお諭し下さるご教歌です。
豊かな社会で、無常を意識して生きるのは簡単ではないかも知れません。
よく「出かける前にはケンカをするもんじゃない。」といいます。
出がけにバタバタしてたら忘れ物をしたり、いやな気分を引きずって仕事に差し支えたりします。
それに、いったん外出したら、必ず帰ってこれるという保証は100%ではありません。
なにかがあるかも知れない。縁起でもない。そう思うでしょうが、一歩家をでるのはそういうことだという。
ですから、文字通り見送る。にこやかに見送る。そして無事に帰ってくることを祈るのです。
見送る側は、「元気出してはりきって行こう」と、伝えたいものですね。
そうやって意識して、やっているとしたら、それは覚悟しているという心持ちじゃないでしょうか。
ご教歌では、世の中は無常だから、功徳を積むことを優先していくべきと諭されます。
日々つづいてゆく、お参り、自宅でのお看経。ここが肝です。
ご指南
人 一身の いきおい 面にあつまる、面を心の庭という、面上のいきおい眼中にあり。
故に利鈍は 眼に よく あらはれたり。
されば 一身の本は心にあり、故に心を以て人に賢愚ある也。
されば 眼ばかりを賢にせんとて、細くしても、太くしても詮なし、心をみがくべし。
常住寺の「朝のお勤め」は毎朝、6時30分から8時30分までです。ご法門は毎朝、8時30分からです。
全盛期の統計は、平日で80名~100名ほど、日祝で100~208名という数を、おぼろげに覚えています。
お勤めは、6時~8時30分。ご法門は、7時と8時30分の2回でした。
いま、いつかこの水準に戻そうと、真剣勝負の毎日です。
現勢は遠く及びませんが、日々をしっかりと勤めさせていただきます。
タイミングをみて線を引いていきますが、いまとりあえず、なるべく6時からお看経をおあげするようにしています。
暖機運転30分、そして、6時30分から、朝参詣が始まります。スタートダッシュ。
ボクは、地元のご弘通を果たす使命がある。
現在、開門参詣は、よしむら(ご主人)さん、茂出木さん、うつのさんご夫婦、くらさん、やまださん、
おばあちゃん、おかあさん、まさ、よし、つるみおばさん。だいたいこの顔ぶれです。11名ほど。
いま、寺族に檄を飛ばしています(笑)。やがて、その他も参ってくることでしょう。
一拍おいて、常題目の時間(朝参詣の当番参詣)には、当番でなくとも欠かさず毎日、
斉藤勝男さんご夫婦と種村さん、斉藤三さんがお参りです。局長も足の関節が痛みますが、
このタイミングに参っております。天野さんとゆかは、これに先駆けてお参りです。
いまはご法門めがけてお参りが集中しています。ここからまた、お参詣の輪が広がっていくことでしょう。
さぁ、もうすぐ朝参詣の時間です。心をみがこう。今日も朝のお勤めに励みます。