朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

すべての人に知って欲しいのだそうです。この「うれしい知らせ」を。

2016-05-26 08:16:41 | 聖書から
諸国の民に御業を示し、

  気高い御名を告げ知らせよ。イザヤ書12:4




 イエスは弟子たちに言われた。

「全世界に出て行って、

すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。マルコ16:15




      (ローズンゲン日々の聖句5/26;木)




 かつて(3500年ほど前)、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出された方が、すべての人を罪の奴隷状態(ヨハネ8:31~36)から救い出し、新しい生き方をさせてくださるのだそうです。




 その、うれしい知らせを、すべての人が知ってくれるようにと願っておられるようですね。




 イエスが十字架に架かって、私たち、すべての人間に代わって、すべての人間のそむきの罪の罰を御自身に受けてくださって十字架刑での処刑を受けてくださいました。




 それで今は、受け取る者、誰にでも、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださる道が開けているのだそうです。




 この方が、受け取る者の心に、「父である神」と呼ばれる方が、ひとりひとりに思ってくださっている御思いを書き付けてくださるので、その働きを受ける人は、その部分において、「父である神」と同じ思いを持つ者としていただけ、一つ心にしていただけるのだそうです。




 ちょうど、私たちの身体にいろいろな肢体があり、それぞれがそれぞれの働きをしていながら、ひとりの人として調和し、統一されているように、この「聖である霊」と呼ばれる方の働きで、「父である神」の御思いによって生きる者も、その御思いのとおりに、それぞれの働きをしていながら、バラバラではなく、一つの意志によって統一された、調和のある一つのからだになるのだそうです。




 父である神は、ご計画のとおりに、それぞれの肢体として、ある人を使徒として用い、ある人を預言者として用い、教師、奇蹟を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などとして用いられるのだそうです(エフェソ4:1~7、Ⅰコリント12:27~31)。




 用いられ方はいろいろですが、身体に一つとして無駄なものはないように、私たちも私たちでなければ埋まらない場として今の場所に置いてくださっており、ご計画のとおりに用いてくださるのだそうです。




 その御思いを尋ねながら歩みたいですね。

今日も。


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主は、あなたを、その手に乗せて運び、守られる方。

2016-05-25 07:35:08 | 聖書から
主はあなたのために、御使いに命じて、

  あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

 彼らはあなたをその手にのせて運び、

   足が石に当たらないように守る。詩編91:11~12




 主は私のそばにいて、

力づけてくださいました。Ⅱテモテ4:17




      (ローズンゲン日々の聖句5/25;水)




 私たちとともにおられる方、天の神、主は、私たち一人一人に、その人を通してなさりたいご計画を持っておられるのだそうです。

そして、その計画が成るようにと、私たちを守り、運んでくださる方なのだそうです。




 パウロが、ローマ皇帝を神として拝まず、イエスの十字架刑での死と復活を宣べ伝えているということで、ローマ皇帝の裁判にかけられているとき、パウロは、愛弟子テモテに書き送っているのですね。




 「私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。

どうか、彼らがそのためにさばかれることがありませんように。

 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。

それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、

すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。

私は獅子の口から助け出されました。

主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。

御栄がとこしえにありますように。アーメン」と(Ⅱテモテ4:16~18)。




 パウロとともにいてくださった方、主は、受け入れる者とともに立ち、力を与え、守り、運んでくださる方なのですね。ご計画のとおりに。

今日も。


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光と闇とに何のつながりもないように

2016-05-24 08:48:02 | 聖書から
災いだ、偽りの判決を下す者は。

 彼らは弱い者の訴えを退け、

  わたしの民の貧しい者から権利を奪う。イザヤ書10:1~2




 正義と不法とにどんなかかわりがありますか。

光と闇とに何のつながりがありますか。Ⅱコリント6:14 




      (ローズンゲン日々の聖句5/24;火)




 「聖」とは、まったく別なもの、という意味を持つ言葉なのだそうです。

「聖なる神」。

人間を造り、人間の住まいとして、この宇宙、この地球の自然環境を創造された方と、人間が自分の理性で考え出した神々とは全く別なる方、なのだそうです。




 天の神、主は、私たち、人間を、愛し合う者、ご自身と思いを一つにし、心を一つに沿わせて生きる者を、と望んで創造してくださったのだそうです。




 けれども、最初の人、アダムは、その、造られた場、天の神、主と一つでいる場にとどまることをしないで、もっと素晴らしいものに、「神のようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:4~7)とし、「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」(創世記3:22)のだそうです。




 天の神、主と、思いを一つに沿わせていく生き方を捨て、じぶんの理性による善悪の判断のとおりを生きる者になり、自分が一番上に立つ者になりたい、他より優れていないと気が済まない者に、そして、よいものは、全部自分一人で独占したい者になってしまったのだそうです。

そして、その子孫である私たちも、同じ性質を受け継いでいるのですね。

 それで、治める者、裁判をする立場に立つと、弱い者の訴えを退け、貧しい者の権利を奪う者ともなってしまうようです。




 天の神、主は、そのように、最初の創造の目的からはずれてしまった私たち人間を、なお、惜しんでくださって、回復の道を用意して下さったのだそうです。




 永遠の昔から共におられた、御子である方を、人間イエスとして人の世に遣わし、この方をすべての人間の身代わりとして立てて、人間のすべてのそむきの罪をこの方の上に置き、反逆者として処刑し、これを受け入れる者の、「善悪を知る者」となっている、「生まれたときからの霊」をイエスの十字架刑に合わせて、処刑されたものと手続きしてくださるのだそうです。




 そのうえで、受け入れる者に、もうひとりの方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方の働きによって、父である神の、私たち一人一人に対する御思いを、受け入れる者の心に書き付けてくださって、受け入れる者が「父である神」と一つ思いを思う者にしてくださるのだそうです。




 この、「聖である霊」と呼ばれる方によって受け入れる者のうちに始まる「新しい人」と「生まれたときからの霊」と呼ばれる今までの私とは、「聖」の関係、延長線を持たない、まったく別のもの、なのだそうです。

光と闇とに何のつながりもないように。




 改良して、少しづつよくしていく関係ではなく、「新しく生まれる」(ヨハネ3:3)関係なのだそうです。

天の神、主は、私たちが、「聖である霊」と呼ばれる方の働きを受け、「新しく生まれて」、ご自身と思いを一つにしながら生きていって欲しいのだそうですね。

今日も。


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尊敬をもって、互いに相手を優れた者と

2016-05-23 07:53:45 | 聖書から
白髪の人の前では起立し、

  長老を尊びなさい。レビ記19:32




 尊敬をもって

互いに相手を優れた者と思いなさい。ロマ書12:10




      (ローズンゲン日々の聖句5/23;月)




 その名を「わたしはある」という者だと名乗られる方、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とおっしゃる方(出エジプト3:13~15)が言われるのだそうです。




 わたしが、あなたがたのために、わたしの独り子を人間イエスとして人の世に遣わし、これを、あなたがたのそむきの罪の代償として十字架刑で処刑し、あなたがたを贖(あがな)った者。




 受け入れる者に、わたしが妬むほどに愛している、「聖である霊」を派遣し、この方の働きで、受け入れる者のうちに、ひとりひとりに思っている私の思いを置き、わたしたちが、愛し合うゆえに、自由意思で、自発的に心を一つになっている、そのように、受け入れる者が、愛し合い、自由意思で、自発的に、わたしたちと一つになる道を開いた主である」と。




 これを受け入れ、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、「父である神」と思いを一つにし、心を一つにしていただく者は、「父である神」の御思いのように、「白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、在留異国人を自分の国に生まれたひとりであるかのように愛する」心にしていただけるのだそうです(レビ19:32~33)。




 「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思う」思いが来、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず、いつも、「父である神」と話し合いながら生活する心にしていただけるのだそうです。




 旅人をもてなし、自分を迫害する者に、のろいで返すのではなく、祝福をもって返し、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き、互いに一つ心になり、自分を知者だと思って高ぶったりせず、だれに対しても、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図り、自分に関する限り、すべての人と平和を保ち、自分で復讐しないで、神の怒りに任せ、敵が飢えたなら、彼に食べさせ、渇いたなら、飲ませ、善をもって悪に打ち勝つ、「父である神」の御思いに合わせていただけるのだそうです。

「聖である霊」と呼ばれる方によって。

今日も。


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さあ、一緒に行って、万軍の主を尋ね求めよう、と

2016-05-22 07:52:55 | 聖書から
聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。

 主の栄光は、地をすべて覆う。イザヤ書6:3(5/22の週の聖句)




 さあ、共に行って、

主の恵みを求め、

万軍の主を尋ね求めよう。ゼカリヤ8:21




 このキリストによって

私たち両方の者が一つ霊に結ばれて、

御父に近づくことができるのです。エフェソ書2:18




      (ローズンゲン日々の聖句5/22;日)




 「父である神」に対して、「御子である神」に対して、「聖である霊」と呼ばれる方に対して、御座近く使える天使が「聖なる」、「聖なる」、「聖なる」万軍の主と、賛美しているのだそうです。




 これに接したイザヤは、畏敬の念に打たれ、

「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、

くちびるの汚れた民の間に住んでいる。し

かも万軍の主である王を、この目で見たのだから」と言うしかなかったのだそうです(イザヤ6:1~5)。




 けれども、その天使のひとりが飛んで来て、火ばさみで、祭壇の上から取って来た燃え盛る炭をイザヤの口に触れ、

「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、

あなたの罪は贖(あがな)われた」と宣言して、イザヤは預言者としてつかわされることになったのだそうです(イザヤ6:5~13)。




 そのように、イエスが、私たち、すべての人間の罪を背負って十字架刑での処刑を受けてくださっている今は、これを受け入れる者は、イエスの死によって罪を贖っていただいた者としていただけるのだそうです。




 イエスは、三日目に死人のうちより、新しいからだに復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れて、数多くの、確かな証拠をもって、ご自身が、確かに生きていることを見せたうえで、オリーブ山で、弟子たちの見ている前で、天の「父である神」の右の座に帰られたのだそうです。




 そして、そのイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が、受け入れる者の心に「父である神」の私たち一人一人に対する御思いを置いてくださるので、受け入れる者は、その部分において、「父である神」と同じ思いを持つ者、一つ心になった者とされ、「父である神」が私たち一人一人を通してしようと思っておられることをする者にしていただけるのだそうです。

イザヤがそうであったように。




 それで、「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない者であった」私たちなのですが、これを受け入れるなら、キリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者としていただき、「聖である霊」と呼ばれる方によって、「父である神」のみもとに近づくことができる者、神の国の国民、神の家族としていただけるのだそうです(エペソ2:11~22)。




 それで、多くの人が、

「さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう」、

「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ」(ゼカリヤ8:21~23)と言うようになるのだそうですね。




 そして、歌うのだそうです。

「主は情け深く、憐れみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。

主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。

主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。

彼らはあなたの王国の栄光を告げ、あなたの大能のわざを、語るでしょう。

こうして人の子らに、主の大能のわざと、主の王国の輝かしい栄光を、知らせましょう。

あなたの王国は、永遠にわたる王国。

あなたの統治は、代々限りなく続きます」(詩篇145:8~13新改訳)と。

この新しい週も。


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