朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

救う力のある方の御思いについて行って

2018-02-27 21:57:41 | 聖書から

心を尽くして主に仕えなさい。
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。
それはむなしいものだから何の力もなく、
救う力もない。サムエル記上12:20~21

 無分別な者とならず、
主の御心がなんであるかを悟りなさい。エフェソ書5:17

 ヨハネ16:29~33
 ヨハネ11:32~45(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/28;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
サムエルを通して、イスラエルの民に言われたのだそうです。
「恐れてはならない。
あなたがたは、このすべての悪を行った。
しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。
役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、
わきにそれてはならない。
それはむなしいものだ」(Ⅰサムエル12:⒛~21新改訳)と。



 また、使徒パウロを通しても言われます。
「無分別な者、愚かな者とならないで、
主のみこころが何であるかを、よく悟りなさい」と。

 イエスは、常に、
〔父である神〕といっしょにおられた方(ヨハネ16:32)、なのだそうです。
いつも、〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにしておられた方、
〔父である神〕の御心を悟っておられた方なのですね。

 それで、死んで、墓に納めら、
もう4日目になり、臭くなって来ているであろう、ラザロに対して、
心に来た〔父である神〕の御思いに従って、
マリヤについて来た人々の前で、
「ラザロよ。出て来なさい」と大声で叫ばれ、
顔は布で包まれ、手と足を長い布で巻かれたまま、出て来たラザロを、
「ほどいてやって、家に帰らせなさい」と言って、
マルタとマリヤに返されたのだそうです(ヨハネ11:32~45)。

 私たちも、イエスの十字架刑での処刑と復活を通して
私たちに来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについていくとき、
〔父である神〕から遣わされた者として、
神の栄光を現すために(ヨハネ11:40)用いていただけるのだそうです。
イエスに似た関係にしていただけて。
今日も。
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私の心の思いをことごとく知っておられる方の御前で、心、安らかに

2018-02-27 08:10:42 | 聖書から

あなたの御計らいは、
私にとっていかに尊いことか。
神よ、いかにそれは数多いことか。詩139:17

 心に責められることがあろうとも、
神は、私たちの心よりも大きく、
すべてをご存知だからです。Ⅰヨハネ3:⒛

 ヨブ記2:1~10
 ヨハネ11:17~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/27;火)

 私たちの存在を計画し、
その御思いのとおりに、母の胎のうちで私の内臓を造り、
私の骨を組み立てられた方の御計らいは、
私にとって、どんなにか尊く、
数えることのできないほど多いとこの詩人はうたうのですね。


 その、私たちを造られた方が、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
さまよい出ている私たちを、
ご自身の家族にし、
愛し合い、ご自分と思いを同じくし、
心を一つにする者に回復しようと計画し、
それを実行してくださっているのだそうです。

 だから、私たち、
自分の心が自分を責めても、
この方、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の御前で、
心を安らかにしておれるのだそうです。
はばかることなく、大胆に、御前に出て行けるのだそうです。
神は、私たちの心よりも大きく、
私たちのすべてを、
私たちの何もかもご存知のうえで、
愛し、いつくしんでいてくださり、
ことばや口先だけの愛でなく、
ご自身が、私たちの身代わりになり、
ご自身の身に私たちの「的外れ」の責任を負って、
十字架刑での処刑を受けてくださっているのだそうですから。

 だから、自分の心がどんなに私を責めても、
サタンが、私たちを告訴し、
神の御前に、どんなに私の「的外れ」を並べ立てても(ヨブ11:17~31)、
私たちは、御子イエスにあって心安らかで、
大胆に神の御前にいることができるのだそうです。

 イエスは、
「わたしはよみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、
決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:25~26)
と言うことができるお方なのですから。
今日も。
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悪を、神の栄光の現れに

2018-02-26 08:38:55 | 聖書から

 私たちは先祖と同じく、
不正を行い、主に逆らった。詩106:6

 私たちを悪い者から救ってください。マタイ6:13

 創世記37:3~4、12~14、23~35(36)
 ヨハネ11:1~16(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句2/26;月)

 私たちも、私たちの先祖と同じく、
アダムの罪を引き継いで、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方に
逆らい、対抗して、
自分の理性による善し悪しの判断によって、
自分が正しいと思うことをしていく(士師記17:6)、
創造の目的から「的の外れた」ものになっている者、のようです。

 その、「的外れ」のゆえに、ヤコブは、
4人の妻のうちの最愛の妻、ラケルの子、ヨセフを偏愛し、
兄弟たちは、父の偏愛のゆえに、
ヨセフと穏やかに話すことができなくなっており、
ついに、野で、ヨセフを殺そうと相談し、
殺すのは思いとどまったのですが、
ちょうど通りかかったミデヤン人の隊商にヨセフを売り渡したのだそうです。

 それで、ヨセフはエジプトへ連れて行かれ、
奴隷として売られることになったのだそうです(創世記37:3~36)。
けれども、天の神、主は、
彼らの計った悪を、良いことのための計らいとされ、
多くの人々が生かされるための出来事にしてくださったのだそうです(創世記50:⒛)。

 天の神、主は、呼び求める者を悪い者から救ってくださり、
悪い出来事も、神の栄光が現れる出来事、
神の子がそれによって栄光を受けるための出来事(ヨハネ11:4)に
変えてくださるのだそうです。

 ベタニヤ村のマルタとマリヤの兄弟ラザロの病気のように。
私たちにも。
今日も。
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正しい裁きを行いながら、慈しみとまことを全うしてくださって

2018-02-25 08:34:34 | 聖書から
キリストが
私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。ロマ書5:8(2/25の週の聖句)

 正しい裁きは御座の基、
慈しみとまことは御前に進みます。詩89:15

 義のために迫害されている人々は、
幸いである。
天の国はその人たちのものである。マタイ5:10

 マルコ12:1~12
 詩35:1~16(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/25;Ⅳ日)

 〔父である神〕は、
独り子である方を私たちの身代わりにして死に渡すほどに、
呪われたものとして十字架刑で処刑してくださるほどに、
私たちひとりひとりを愛していてくださるのだそうです。

 〔御子である神〕は、私たちひとりひとりを愛してくださって、
この、〔父である神〕の御思いを受けて、
天の栄光の座を後にして人の世に来られ、
自分から進んで、私たちの身代わりとなり、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 正義と愛、私たちに対する慈しみを全うするために。

 そして、もうひとりの方、
ねたむほどに愛しておられる方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣してくださって、
心に、私たちひとりひとりに対する御思いを置いてくださって、
愛し合い、思いを同じくし、心を一つにする者としてくださるのだそうです。


 それで、この方の愛を伝えていくとき、
〔御子である方〕、イエスが迫害されたように、
伝える者も迫害されることもあるようです。

 ちょうど、持ち主であるぶどう園の主人から
ぶどう園を借りている人たちに遣わされたしもべが、
はずかしめられ、迫害されたように(マルコ12:1~12)。

 けれども、天の御国はその人たちのもの、なのだそうです。
天の神、主は、迫害する人たちが、
「あははは。われわれの望みどおりだ。
われわれは彼を、飲み込んだ」とは
言わせない(詩篇35:25)のだそうですから。
この新しい週も。
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心の悪を洗い去り、捨て去って

2018-02-24 00:14:23 | 聖書から
あなたの心の悪を洗い去って救われよ。
いつまで、あなたはその胸に、
よこしまな思いを宿しているのか。エレミヤ書4:14

 あらゆる汚れやあふれるほどの悪を
素直に捨て去り、
心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。
この御言葉は、
あなたがたの魂を救うことができます。ヤコブ書1:21

 ロマ書6:12~18
 申命記34:1~12(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句2/24:土)

 私たちは、その胸に、よこしまな思い、
天の神、主に対抗し、
天の神、主のひとりのようになり、
自分の理性の判断で善悪を決めていく者になろうとする思いを持つ者なのですね。

 これは、どんな洗剤を使っても、
どんな漂白剤を使っても
洗い去ることはできないのだそうです。
〔生まれたときからの私〕という霊から、噴き出して来る思いなのだそうですから。

 だから、洗い去るためには、その、出所である
〔生まれたときからの私〕という霊を、殺すしかないのだそうです。

 それで、神の〔御子〕である方が人となって人の世に来てくださったって、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
受け入れる者を、この、イエスに合わせて、
十字架刑での処刑を受けた者、
死んだものと手続きをしてくださるのだそうです。

その上で、受け入れる者に、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いが来るようにしてくださるのだそうです。
心の悪、よこしまな思いを洗い去ってくださって。

 だから、この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、
「天の神、主のひとりのようになり、
自分の理性の判断でことの善し悪しを決めて行こうとする」思いは、
そっくり、そのまま、イエスの御前に投げ出し、
捨て去って行けばいいのだそうです。

 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
心に植え付けられた御思いを受け入れ、
その御思いのとおりに踏み出してみるのだそうです。

 私たち自身とからだ、その手足を義の器として、神にささげるなら、
御思いが成るために用いていただけるのだそうです(ロマ6:12~18)。

 モーセがエジプトの王パロとその家臣たち、およびその全土に対して、
あらゆるしるしと不思議を行い、
神の力強い権威とおそるべき威力を現したように。
私たちも。
今日も
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