朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

わたしがあなたがたを愛したように

2016-05-31 09:00:06 | 聖書から
いかに幸いなことか、

  裁きを守り、

   どのような時にも恵みの業を果たす人は。詩編106:3



 わたしがあなたがたを愛したように、

互いに愛し合いなさい。

これがわたしの掟である。ヨハネ15:12



      (ローズンゲン日々の聖句5/31;火)



 愛してくださっているのですね。天の神、主と呼ばれる方は。

「父である神」、「御子である神」、「聖である霊」と呼ばれている方が、互いに愛し合い、尊敬しあい、すべてを明るみに出し、見せ合い、互いに、自分の思いがなることではなく、相手の願っているその思いがなるようにと願っておられる、愛し合っておられる、その同じ愛で私たちを愛してくださっているのだそうです。



 そして、私たち人間が、その、同じ心になるようにと、御子である方が、天の栄光の御座を後にして、マリヤの胎を通して、人間イエスとして人の世に来られ、私たち人間の背きの罪の贖(あがな)いしろ(買い戻しの代金)とてして、ご自分の命を差し出し、十字架刑での処刑を受けて、私たちの背きの罪の全部を処罰済みにしてくださっているのだそうです。



 うえで、今度は、「聖である霊」と呼ばれる方が私たちに来てくださって、受け入れる者の心に、ご自身の愛の心を置いてくださるのだそうです。



 それで、私たち、自分の思いがなることを願うだけの者、身勝手な愛しか持たない者なのに、この方を受け入れるなら、イエスが愛しておられる、その同じ愛の思いが心に来るようにしていただけるのだそうです。



 その働きを受け入れる者は、「なんと幸いなことよ」と言われる、その幸いの中を進むことになるのだそうです。

今日も。



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「わたしはある」と名乗られる方が共にいて

2016-05-30 07:40:31 | 聖書から
神はモーセに、

「わたしはある。わたしはあるという者だ

  (I Am who I Am)」と言われた。出エジプト記3:14




 イエス・キリストの言葉:

わたしは世の終わりまで、

いつもあなたがたと共にいる。マタイ18:20




      (ローズンゲン日々の聖句5/30;月)




 あろうと思われる通りにある方が、世の終わりまで、私たちと共にいるとおっしゃるのですね。




 この方が、受け入れる者とともにおられることは、

エルサレム神殿の美しの門に置かれて、施しを求めていた、40歳あまりの、生まれつき足のなえた人が、イエスの弟子のペテロとヨハネによる、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」との宣言で、立ち上がろうとしたとき、たちまち、足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだし、歩いたり、はねたりしながら、神を賛美し始めたこと(使徒4:1~8)のように、イエスがなされたのと同じようなわざが起こることや、

互いに愛し合う愛が増し加わること、

「聖である霊」と呼ばれる方の働きの現れである異言や預言(Ⅰコリント14:1~21)、

知恵のことば、知識のことば、

特別なことをない遂げる信仰、いやし、奇蹟を行う力、

霊を見分ける力、異言を解き明かす力(Ⅰコリント12:6~11)などの事実によって、 

また、父である神と呼ばれる方の、私たち一人一人に対する御思いが、受け入れる者の心に来て、今までの自分では思うはずのない思いが来ることなどによって、

また、御霊に満たされる、「聖である霊」と呼ばれる方の存在の中に自分が覆われる、沈められること、などによって分かるのですね。

また、イエスの名前によって話しかける、その私たちの語りかけを聞いていただけることによって。




 全能の神と呼ばれる方、「あろうと思われるとおりにある」方が共にいて御業を現してくださるのだそうですから。

今日も。














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渇いた大地が、雨を吸い込むように

2016-05-29 06:45:38 | 聖書から
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、

  あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。ルカ10:16




 あなたに向かって両手を上げ、

渇いた大地のような私の魂を、あなたに向けます。詩編143:6




 疲れた者、重荷を負う者は、

だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。マタイ11:28




      (ローズンゲン日々の聖句5/29;日)




 自分は正しい、出来ていると思っている人は、潤った地のよう。

もう、雨はいらない。

だから、イエスのことばを受け入れないのですね。




 自分に正しいところがない、出来ていないと分かっている者は、乾いた地が雨を吸い込むように、イエスの恵みのことばに耳を傾けるのだそうです。




 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知るようになっている者」は、天の神、主に対抗して、自分の理性の判断のとおりを、自分の思った通りをやって行きたい者です。だから、イエスと一緒にやって行くよりも、自分一人でやって行こうとする者。




 けれども、自分の理性、その善悪の判断は、ずれているもの、頼りにならないもの、自分を破滅に導くものと分かっている者は、自分の理性の判断を横に置き、イエスのくびきに入り(マタイ11:29)、イエスに聞きながら、相談しながら、イエスとともに歩くことを喜ぶのだそうです。




 私たちの身代わりになり、私たちの背きの罪を背負って十字架刑で処刑され、よみにまで下り、三日目、日曜日の早朝、新しい身体に復活されたイエス。




 40日にわたって何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを証明されたうえで、オリーブ山から、弟子たちの見ている前で天の父である神の右の座に帰られたイエス(使徒Ⅰ:3~11)。




 そのイエスが、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣して下さって、この方の働きで、受け入れる者の心に、父である神と一つ心になっていらっしゃる御自身の御思いを置いてくださるので、受け入れる者は、私たち一人一人に対する父である神の御思い、イエスの御思いが心に来るようになるのだそうです(ヨハネ16:7、13~15、エゼキエル36:25~28)。




 自分の理性の善悪の判断を休ませ、止めて、渇いた大地が、天を吸い込むように、天の神、主の善悪の判断、その御思いに聞いていかせてくださいますように。

この新しい週も。


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死の恐怖、滅亡から救い出し、復活の光を仰ぐ者に

2016-05-28 07:21:20 | 聖書から
神は私の魂を滅亡から救い出された。

  私は命を得て光を仰ぐ。ヨブ記33:28




 主を復活させ、

また、その力によって

私たちも復活させてくださいます。Ⅰコリント6:14




      (ローズンゲン日々の聖句5/28;土)




 天の神、主は、イエスを復活させたその御力によって、滅亡、よみの穴に下るはずの私たちを復活させ、イエスと持っておられた関係と同じ関係に入れてくださりたいのだそうです。




 天の神、主は、永遠の初め、天地が造られる前から共におられ、この天地創造を共になさった御子である方、創造者の側に立つ方を、人間イエスとして、ダビデの子孫であるひとりの処女、マリヤの胎を通して、男のそむきの罪を引き継いでいない者、「女の子孫」(創世記3:15)として、この人の世に遣わし、そむきの罪を引き継いでいないこの方を、私たち、すべての人間の身代わりとして立て、十字架刑で処刑することによって、私たちすべての人間の、すべてのそむきを処刑済みとしてくださっているのだそうです。




 神である主は、墓に葬られ、よみに下ったイエスをよみから引き上げ、新しいからだに復活させ、復活の初穂とし、復活、新しい「霊のからだ」をいただける約束をすべての人と結びたいと願っておられるのだそうです。




 さらに、神である主は、私たちと、ご自身と同じ思いを持つ関係、一つ心を持つ関係になりたいと願っておられるのだそうですね。




 それで、この、イエスの代理の処刑による救い、贖い(あがない 代価を支払って買い戻すこと)を受け取った者には、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、この方によって、私たち一人一人に対するご自身の御思いをその心に置いて、受け入れる者がご自身と同じ思い、一つ心を持つ者にしてくださるのだそうです。




 イエスが、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。

わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、(わたしが行っている)わざによって信じなさい。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。

わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。

わたしが父のもとに行くからです(ヨハネ14:10~12)」と言っておられる、そのイエスともっておられるのと同じ関係、復活し、新しく実現する御国で持つその関係に今なろうと。

今日も。


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私たちの弱さの中に発揮される神の力

2016-05-27 07:49:09 | 聖書から
どうか、虐げられている人が

  再び辱められませんように。詩編74:21




 わたしの恵みはあなたに十分である。

力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。Ⅱコリント12:9 




      (ローズンゲン日々の聖句5/27:金)




 苦難や自分で解決できない出来事が起こって弱さを覚える時が、全能の神の力が現れる恵みの時なのだそうです。




 パウロも、人に卑しめられるような、使徒としての働きをしていくうえで妨げになるような「肉体のとげ」(たぶん、人から卑しめられるような病気)が与えられたのだそうですが、そのことを通して、事をなされるのは、天の神、主であって、パウロ自身ではないことがいよいよ明らかになり、いよいよ、思いっきり、自分の弱さを認めて、天の神、主により頼んでいくようになったのだそうです。




 神である主の力の具体的な現れの事実が、伝えられているイエスの出来事が「うまく考え出した作り話」(Ⅱペテロ1:16)ではなく、事実として起こった出来事であることを証言するのですね。




 私たちが、たとえ、人から虐げられ、辱められるような弱さの中にあったとしても、その場所でこそ、それにいや増さって、天の神、主の御力は発揮されるのだそうですから。

今日も。


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