朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

主は太陽、また、盾

2016-05-21 06:36:51 | 聖書から
主は太陽、盾。詩編84:12




 だから、思い悩むな。マタイ6:31




      (ローズンゲン5/21;土)




 詩人は謳いました。

「まことに、あなたの大庭にいる一日は

千日にもまさります。

私は悪の天幕に住むよりは、

むしろ上の宮の門口に立ちたいのです。

まことに、神なる主は太陽です。盾です。

主は恵みと栄光を授け、

正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。

万軍の主よ。

なんと幸いなことでしょう。

あなたに信頼するその人は」(詩篇84:10~12新改訳)と。




 主は恵みと栄光を授け、

正しく歩む者たちに、良いものを拒まれない方。




 だから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、など、心配しなくていい。

神の国と義とを求めて行けば、これらのものは、それに加えて与えていただけるのだそうですから。




十字架に架かられ、死んで墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝、死人の中からよりよみがえられた方、イエス。

天の、父である神の右の座に帰られた、このイエスが派遣して下さる「聖である霊」と呼ばれる方。




 その方が、受け入れる者の心に、「父である神」が私たちひとり、一人をとおしてしようと思っていらっしゃる御思いを、書き付け、置いてくださるので、その思いについて行くなら、その人は、自分自身が、神の国、天の神、主の統治にあずかる者となり、また、この歴史の中に天の神、主の統治が及ぶのを手伝う者としていただけるのだそうです。

 思い悩みは、全部、お話しして、見ていただき、知っていただきながら(ピリピ4:6)。

今日も。





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隣人に対し、真実を語る者に

2016-05-20 07:55:43 | 聖書から
悪人に加担して、

 不法を引き起こす証人となってはならない。出エジプ記23:1




 偽りを捨て、

それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。エフェソ書4:25




      (ローズンゲン日々の聖句5/20;金)




 偽りのうわさを言いふらしたり、悪者と組んで、悪意ある証人になってはいけない。

悪を行う権力者の側に立ってはならない。

訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。

また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない(出エジプト23:1~3新改訳)、と、おっしゃるのですね。天の神、主は。




 「生まれたときからの霊」という私自身は、人をあざむく情欲によって滅びて行くもののようですが、その「生まれたときからの霊」という自分自身は、イエスの十字架の死に合わせていただいて、処刑されたもの、死んでしまっているものと認めて(計算して)、これを古いものとし、イエスによって派遣される「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方から来る「父である神」の御思いを我が思いとして生きる者は、心の霊において新しくされるのだそうです。




 受け入れる者の内に始まる、その新しい人は、偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語るようになるのだそうです。

怒っても、日が暮れるまで憤ったままでいることはなくなり、怒り、憤りも全部、天の神、主の御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら歩むようになるのだそうですね。




 盗みをしていた者も、正しい仕事をし、ほねおって働き、かえって、困っている人に施しをすることを喜ぶようになり、旧い人からわいて来る悪い言葉、悪い思いも、主に差し出し、受け取ってもらい、死んでいる者から来た思いと認めて通り過ぎて行くようになり、かえって、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与える者になるのだそうです(エペソ4:22~29)。




 「聖である霊」と呼ばれる方は、働いてくださるのですね。受け入れる者のうちに。

今日も。


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とこしえの世界の生き方を、今、

2016-05-19 07:53:53 | 聖書から
肉なる者は皆、草に等しい。

  永らえても、すべては野の花のようなもの。

 草は枯れ、花はしぼむが、

   私たちの神の言葉はとこしえに立つ。イザヤ書40:6、8




 天地は滅びるが、

わたし(イエス)の言葉は決して滅びない。マルコ13;31




      (ローズンゲン日々の聖句5/19;火)




 私たち、人間同士で、成功している人、栄えている人と、そうでない人を比べますが、人間がどんなに栄えても、その栄は、野の花のようなものだと天の神、主はおっしゃるのですね。

 イスラエルでは、朝、咲き誇っている野の花が、東風が吹くとたちまち枯れてしまう。

人間の栄華もそのようなものだと。




 私たち、無意識に、大地は不動のもの、頼りがいのあるものと思っています。

だから、大地が揺れると大騒ぎになるのですね。

 さらに、この宇宙は永遠に続くものだと、ずっと思っていた。

最近の物理学で、宇宙に始まりがあり、終わりが来るはずだと発見されるまでは。




 天の神、主は、預言者をとおして、そして、その預言のことばが記録された「聖書」と呼ばれている本を通して言っているのだそうです。

「天地は滅びるときが来る」と。




 イエスは言われます。

「人に惑わされないように気をつけなさい。

わたしの名を名のる者が大勢現れ、『私こそそれ(キリスト、救い主)だと言って、多くの人を惑わすでしょう。

また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。




 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは生みの苦しみの初めです。

   ~ ~ ~

 だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

 そのとき、人々は、人の子(イエスご自身のこと)が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」(マルコ13:5~8、24~27)と。




 天の神、主は、この宇宙を御思いのとおりに創造された方。

そして、これを終わらせる権威を持っておられる方。

この方は、ご自身の存在を宇宙の存在に左右される方ではないのだそうです。

そして、この方の御意志、そのことばも変わることはないのだそうです。







 この方が、この人間の歴史の中で用意された、御子イエスの「代理の死」による贖い(あがない、代価を支払っての買戻し)を受け取り、そのイエスが遣わされる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方が受け入れる者の心に置いてくださる、「父である神」と呼ばれる方の、私たち一人一人に思っていてくださる御思いによって生きる者、この方とともに生きる者は、その日には、地の果てから天の果てまで、四方から集められて、新しく実現する御国を受け継がせていただけるのだそうです。




 その日に向かって、御思いをいただきながら、この方とともに生きる生き方が始まっているのだそうです。

今日も。


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新しい人を着て、聖なる者に

2016-05-18 09:55:56 | 聖書から
あなたたちは聖なる者となりなさい。

 あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。レビ記19:2




 あなたがたは、

神にかたどって造られた新しい人を身に着け、

真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません。エフェソ書4:24




      (ローズンゲン日々の聖句5/18;水)




 「聖なる者」とは、「別なる者」、「区別された者」、「取り分けられた者」というような意味なのだそうですね。

 天の神、主と呼ばれている方は、人間が作り出した神々、地上の霊どもとはまったく違う、区別された方なのだそうです。




 人間は、そして、天の神、主に反逆し、地に投げ落とされた霊どもも、本当は、天の神、主と一つになる者を、御自身と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者をとの願いにより、天の神、主によって造られた者なのだそうです。




 けれども、その霊どもは、そして、これに誘われた人間・アダムは、天の神、主と一つの場にとどまっていることを不満に思い、天の神、主に対抗し、天の神、主のひとりのようになろうとし、「善悪を知る者」になったのだそうです。




 神のひとりのようになり、自分がトップになり、全部を、神さえも支配し、良きもののすべてを、自分一人で独占する、その思いのままに生きる者に。




 それで、人が心に思い計ることはみな、いつも悪に傾き、地は神の前に堕落し、暴虐で満ちることになったのだそうです。

肉親の女に近づいてこれを犯す者。

母を、父の妻を犯し、父をはずかしめる者に。

父の娘、母の娘である姉妹を、あるいは、息子の娘、娘の娘を犯して、自分自身をはずかしめる者に。

父の姉妹、母の姉妹と関係をもって父や母をはずかしめる者に。

息子の妻、兄弟の妻と関係をもって、息子や兄弟をはずかしめる者に。

女とその娘、その姉妹と関係をもって妻を苦しめる者に。

月のさわりの者と、また、隣人の妻と関係を持ち、自分を汚す者となっているのですね。

そのようなことをしていない者も、心の思いにおいて。




 あるいは、自分の子どもを悪霊にささげる者、女と寝るように男と寝る者、動物と寝て、あるいは、動物の前に立って、これと伏して、身を汚す者になっているのだそうです (レビ18章)。




 また、父と母を軽んじる者に、貧しい者、在留異国人を思いやらないで、畑の隅々まで刈りつくし、落穂も残さない者、ぶどうの実を取りつくして、彼らのために残そうとしない者に。




 盗む者、互いに偽ってあざむく者、偽り誓う者、隣人をしいたげ、かすめ奪う者、賃金の支払いを渋る者、耳の聞こえない人をあなどり、目の見えない人の前につまずく物を置く者に。




 また、不正な裁判、弱い者におもねり、強いにへつらって、正しくさばかない者に。

人々の間を歩き回って、人を中傷する者に。

隣人の血を流そうとし、心の中で身内のものを憎む者に。

自分で復讐しようとし、人を恨む者になっているのだそうです(レビ19:1~18)。 







 天の神、主は、私たちに、それらから「区別された者」、「取り出され、取り分けられた者」となり、ご自身と同じ思い、同じ考えの者になって欲しいのだそうです。




 それで、ひとりの人、アブラハムから一つの民族を造り、彼らと契約を結び、ご自身の御思いを「戒め」のかたちで、文章で示し、心を一つにする者になるようにと、この人間の歴史の中で実験をされたのです。

 けれども、このイスラエル民族1500年の歩みを通してはっきりされたことは、人は自分の働き、努力によっては、天の神、主と心を一つにする者になり、自分を「聖」である者(区別する、取り分けられた者)とはなれない、という現実だったのだそうです。




 まさしく、

「義人はいない。ひとりもいない。

悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

すべての人が迷い出て、

みな、ともに無益な者となった。

善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10~12、新改訳)、という現実だったのだそうです。




 それで、天の神、主は、私たち人間が、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」とする、その「生まれたときからの霊」を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた「新しい人」を着るようにと、最初からのご計画を実行されたのだそうです。




 それは、永遠の昔から共におられ、この天地創造、人間の創造を共にされた「御子である神」と呼ばれる方を、男のそむきの罪を引き継いでいない、「女の子孫」 (創世記3:15)として、人の世に生まれさせ、この方に、すべての人間のそむきの罪を負わせ、すべての人間の身代わりとして立てて、十字架刑で処刑し、天と地の間に高く掲げて、呪われたものとしてさらしものにすることだったのだそうです。




 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、受け入れる者の心にご自身の思いを書き付け、受け入れる者がご自身と同じ思い、一つ思いを持つ者とし、新しい心、新しい人を着た者として生きるようにしてくださることだったのだそうです。




 確かに、今から2000年ほど前、ナザレ村出身のイエスが、十字架刑での処刑を受けられた今は、そして、弟子たちに「聖である霊」と呼ばれる方が来られ、「生まれたときからの霊」をイエスの十字架に合わせられた者として、、十字架刑で処刑されたものとしていただき、「神にかたどって造られた新しい人を着る」、新しく生まれる道が開けている今は、「われわれが、愛しあうゆえにひとつになっているように、愛によってわれわれと一つになる」(創世記1:26)ことを受け入れる者には、来てくださるのだそうですね。「聖である霊」と呼ばれる方が。

 そして、ご自身と思いを一つにし、ご自身が、その人を通してしようと思っておられることをしていくようにしてくださるのだそうです。

今日も。


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燃え立つ炎のように

2016-05-17 07:28:53 | 聖書から
あなたたちは主の祭司と呼ばれ、

  私たちの神に仕える者とされる。イザヤ書61:6




 パウロのテモテへの手紙:

あなたに与えられている神の賜物を、

  再び燃え立たせるように勧めます。Ⅱテモテ1:6




      (ローズンゲン日々の聖句5/17;火)




 神である主の霊が、受け入れる者の上に来てくださるとき、その者は、神である主がしようと思われている思いと同じ思いが心に来る者とされ、神である主がしようと思われているとおりに、「主の祭司」の働きをする者とされるのだそうです。




 神である主がしようと思われているとおりに、

貧しい者に良い知らせを伝え、

心の傷ついた者をいやし、

捕らわれている人には解放を、囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年と、神である主の復讐の日を告げ、

すべての悲しむ者を慰め、

シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、

悲しみの代わりに喜びの油を、

憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために用いていただけるのだそうです(イザヤ61:1~3)。




 イエスが、「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(ヨハネ12:49~50)、と言われている、イエスと「父」との関係と同じ関係に入れていただいて。




 使徒パウロが、若い弟子、テモテに書き送っているように、神の賜物(プレゼント)として、受け入れる者に来てくださる「聖である霊」とよばれる方は、その者の内で、炎が燃え立つように働いてくださるのだそうです。

 受け入れる者を、御思いのとおりに突き動かしてくださるのだそうです。力強く、大胆に(使徒4:31)。

あの、死んでしまったラザロの墓の前で、「激しい憤り」のようにイエスを突き動かしたように(ヨハネ11:38)。

今日も。


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