朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

このキリストの愛から私たちを引き離すものは何もないのですね。

2015-02-28 23:23:44 | 聖書から
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。ロマ5:8(今週の聖句)







主よ、あなたの慈しみは天に、
あなたの真実は大空に満ちている。詩編36:6







だれが、
キリストの愛から私たちを引離すことができましょう。ロマ8:35




              (ローズンゲン日々の聖句3/1;日)




 天の神、主、
父と呼ばれている方、御子と呼ばれている方、
聖である霊と呼ばれている方は、
ご自身と心通じ合い、思いを一つにしあう、愛し合う存在として
私たち人間を望んで下さり、そのように造られたのだそうです(創世記1:26~27)。




 けれども、私たち人間は、
神様との一つ、愛し合う関係にとどまることを嫌い、
神のひとりのようになろうとし、
自分一人で良し悪しを決定して、自分ひとりの意志を実現しようとする、
創造の目的からはずれた者になったのだそうです(創世記3:22)。




 けれども、天の神、主は、
そのような、背いた私たち人間をなお、愛し続けて下さっているのですね。

 御子である方は、
父である方の御思いの通りに、
人間イエスとして人の世に生まれて下さって、
私たち人間のすべての背きの罪をご自身に引き受け、
十字架刑で処刑されて下さって、
私たちがこのままで父のもとに帰ることができるようにして下さったのだそうです。


 生まれたときからの私という霊から来る、背きの心、その思いを、
そのままに御前にささげられるようにして下さって、
私たちの罪の思いを受け取って、
私たちと思いを一つにする者になって下さるというのですね。




 そして、聖である霊と呼ばれる方を私たちの内に派遣し、
この方によって、私たち一人一人に対するご自身の御思いを、
私たち、各自の心に書き記して下さって、
私たちがご自身と思いを一つにできるようにしていて下さるのだそうです。




 この思いを一つにし合い、愛し合う関係から
私たちを引き離すものは何もない。
患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、
今あるものも、後に来るものも、
力ある者も、高さも、深さも、どんな被造物も、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできないのだそうです(ロマ8:35~39)。




 天の神、主は、安心して、生まれたときからの私という霊から来る、
心に浮かぶ背きの罪の思いの一つ一つを、隠さないで御前に差し出し、見せ、
また、各自の心に置かれた御思いに気づき、御思いによって行動する、
思いを一つにし合う、愛し合う関わりを深めていきたいと
願っていて下さるのですね。
今日も。


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あなたの教えを胸に刻みます。聖である霊と呼ばれる方によって。

2015-02-28 00:13:57 | 聖書から
私の神よ、

御旨を行うことを私は望み、

あなたの教えを胸に刻みます。詩編40:9





神を愛するとは、神の掟を守ることです。

神の掟は難しいものではありません。Ⅰヨハネ5:3




              (ローズンゲン日々の聖句2/28;土)



 人間の愛は、相手を自分の思ったとおりに動かそうとする。

 

神から来る愛は、相手の思っていることが成ることを願う。

神を愛する者は、神が思っていらっしゃるとおりに生きたいと願うから

神の掟を胸に刻みつけ、常に意識しておれるようにしようとするのだそうです。

天の神、主は、私たち人間と

愛し合い、思いを一つにし合う関係になりたいと願い、

永遠の初めから共におられた独り子である方を、

人間イエスとして、人の世に生れさせ、

私たち人間の背きの罪のすべてをこの方の上に置き、

およそ33歳の頃、この方を十字架刑で処刑することで、

私たちのそむきの罪を処刑が済んだものとの手続きを済ませて下さった。




それで、私たち人間は、どんな背きの罪の思いが心に浮かんで来ても、

それをそのまま、天の神、主の御前に差し出し、広げて、見ていただけるようになった。

すべて、イエスの十字架刑で処刑済みのものとして。



このようにして、聖である神が、私たち罪人の思いを受け取り、

一つ思いになって下さる道が開かれたのだそうです。



 

 さらに、天の神、主は、イエスによる救いを受け取った者の内に、

もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方を派遣して、

この方によって、私たち一人一人の心に、私たち一人一人、それぞれに関する

ご自身の御思いを来させ、置いて下さって、

各自、それぞれに関わる部分において

ご自身の御思いと同じ思いを持ち、同じ願いを願う者にして下さる。



 このようにして、天の神、主は、

新しい契約として、

イエスの十字架刑での処刑によって、

私たちのそむきの罪の思いと一つになり、

御自身の思いを私たちが一つにする、

思いを一つにし合う関係を完成して下さったのだそうです。

  




 この新しい契約に生きる者は、

  

生れたときからの私という霊から来る背きの罪の思いの一つ一つを

天の神、主の御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、

その一つ一つが処刑済みであることを確認しつつ、

新しく、聖である霊と呼ばれる方によって心に、胸に来る御思いを

我が思いとして行動していく者になるのだそうですね。

今日も。


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あの方の道を私たちの心に置いてくださるのだそうです。

2015-02-27 00:40:39 | 聖書から
主は恵み深く正しくいまし、
罪人に道を示してくださいます。詩編25:8







信仰の弱い人を受け入れなさい。
その考えを批判してはなりません。ロマ書14:1


            (ローズンゲン日々の聖句2/27;金)








 天の神、主は、恵み深い方。
道をそれた者を断罪し、切り捨てるのではなく、
あるべき在り方に導かれる方。




 私たち人間の一人一人にご計画をもっていて下さって、
その行くべき道、足元の小道を示して下さる方なのだそうです。




私たちが右に行くにも左に行くにも、
私たちの耳に後ろから、
「これが道だ。これに歩め」という言葉を聞く(イザヤ30:21)
場合もあるのでしょうし、





私たちの心に、御思いを来させて、
志を立てさせ、願いを起して、
ことを行わせ、実現に至らせて下さる(ピリピ2:13)こともあるのでしょうね。







 信仰の仲間同士の関係にあっても、
信仰にもいろいろな段階があり、
信仰の強い人、知識で割り切っていける人もいれば、
信仰の弱い人(信仰の知識で割り切れず、良心の呵責を覚える人)もいるわけですから、
天の神、主が願っておられる在り方は、
信仰の強い人は、信仰の弱い人を受け入れる在り方のようですね。
批判しないで。




 具体的に言うと、
神殿にささげられた肉を食べてもいいのか、
食べてはいけないのかという問題で、
当時の異邦人社会にあっては、
異教の神々の神殿にささげられた肉が取り下げられて、
市場で売られていたそうで、
市場で買ってきた肉が、もし、他の神々にささげられたものであれば、
それを食べると偶像礼拝の罪を犯すことになるので、
罪を犯さないよう、市場で売っている肉は食べない、
食べるべきでないと考える人たち、
その肉を食べると良心の呵責をおぼえる人たちがいたようです。




 また、もう一方で、信仰の強い人:偶像に対して知識を持っている人、

他の神々は本来存在しないものであるとの知識を持っていて、
だから、そのような神々は、本来存在しないのだから、
他の神々の神殿にささげられた肉であっても、
普通の肉として食べていいと割り切れる人もいたようです。




 それで、主は、こちらが正しいから、このようにしなさいとは おっしゃらないで、
お互いが相手を裁き合ったり、批判し合い、見下したりしないで、
信仰の強い人は、弱い人に配慮して欲しいと思っていらっしゃるいうことのようですね。

 強い人が、自分の自由で、肉を食べ、
信仰の弱い人が、それに巻き込まれて肉を食べて、
良心の呵責を覚え、罪責感で悩むことがないよう、
強い人は弱い人に配慮して欲しいと主は思っていらっしゃるようですね。




 キリストが身代わりになって死んで下さったほどの人を、

食べ物のことでつまづかせ、滅ぼさないでほしいのだそうです(ロマ14:15)。




 あの方の道、お互いの霊的成長に役立つことを追い求める小道を歩みたいとの願いを

私たちの心に起して下さるのだそうですね。
今日も。


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あの方の道を私たちの心に置いてくださるのだそうです。

2015-02-27 00:38:36 | 聖書から
主は恵み深く正しくいまし、
罪人に道を示してくださいます。詩編25:8







信仰の弱い人を受け入れなさい。
その考えを批判してはなりません。ロマ書14:1


            (ローズンゲン日々の聖句2/27;金)








 天の神、主は、恵み深い方。
道をそれた者を断罪し、切り捨てるのではなく、
あるべき在り方に導かれる方。




 私たち人間の一人一人にご計画をもっていて下さって、
その行くべき道、足元の小道を示して下さる方なのだそうです。




私たちが右に行くにも左に行くにも、
私たちの耳に後ろから、
「これが道だ。これに歩め」という言葉を聞く(イザヤ30:21)
場合もあるのでしょうし、





私たちの心に、御思いを来させて、
志を立てさせ、願いを起して、
ことを行わせ、実現に至らせて下さる(ピリピ2:13)こともあるのでしょうね。







 信仰の仲間同士の関係にあっても、
信仰にもいろいろな段階があり、
信仰の強い人、知識で割り切っていける人もいれば、
信仰の弱い人(信仰の知識で割り切れず、良心の呵責を覚える人)もいるわけですから、
天の神、主が願っておられる在り方は、
信仰の強い人は、信仰の弱い人を受け入れる在り方のようですね。
批判しないで。




 具体的に言うと、
神殿にささげられた肉を食べてもいいのか、
食べてはいけないのかという問題で、
当時の異邦人社会にあっては、
異教の神々の神殿にささげられた肉が取り下げられて、
市場で売られていたそうで、
市場で買ってきた肉が、もし、他の神々にささげられたものであれば、
それを食べると偶像礼拝の罪を犯すことになるので、
罪を犯さないよう、市場で売っている肉は食べない、
食べるべきでないと考える人たち、
その肉を食べると良心の呵責をおぼえる人たちがいたようです。




 また、もう一方で、信仰の強い人:偶像に対して知識を持っている人、

他の神々は本来存在しないものであるとの知識を持っていて、
だから、そのような神々は、本来存在しないのだから、
他の神々の神殿にささげられた肉であっても、
普通の肉として食べていいと割り切れる人もいたようです。




 それで、主は、こちらが正しいから、このようにしなさいとは おっしゃらないで、
お互いが相手を裁き合ったり、批判し合い、見下したりしないで、
信仰の強い人は、弱い人に配慮して欲しいと思っていらっしゃるいうことのようですね。

 強い人が、自分の自由で、肉を食べ、
信仰の弱い人が、それに巻き込まれて肉を食べて、
良心の呵責を覚え、罪責感で悩むことがないよう、
強い人は弱い人に配慮して欲しいと主は思っていらっしゃるようですね。




 キリストが身代わりになって死んで下さったほどの人を、

食べ物のことでつまづかせ、滅ぼさないでほしいのだそうです(ロマ14:15)。




 あの方の道、お互いの霊的成長に役立つことを追い求める小道を歩みたいとの願いを

私たちの心に起して下さるのだそうですね。
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大喜びで迎え入れて下さるのだそうです。私たちを。

2015-02-25 23:59:49 | 聖書から
どうか私を立ち帰らせてください。

私は立ち帰ります。

あなたは主、私の神です。エレミヤ書31:18











十字架にかけられていた犯罪人の一人が言った。

「イエスよ、

あなたの御国においでになるときには、

私を思い出してください。ルカ23:42







      (ローズンゲン日々の聖句2/26;木)







願えば立ち帰らせて下さる方なのですね。







親の元にいるのが嫌で、

自分の思ったとおりに生きたくて

家を飛び出した子供のような私たち人間。







天の神、主は、

親の元にいることのほうが家族として正しい在り方であることを

悟らせようと、

困難や苦難によって

自分のいるべき場所を思い出させようとなさるようですね。







国が亡び、バビロンへ捕囚されるという懲らしめを受けた

イスラエルの人々も、

強盗の罪で十字架刑にされ、息絶えようとしてしている犯罪人も、

帰るべき方を思い出し、

願ったとおりに立ち帰らせてもらったのだそうです。







天の神、主は、私たちを打ち、懲らしめることがありますけれど、

そのとき、御自身は、はらわたがわななき、

あわれみの思いで満ちておられるのだそうです(エレミヤ31:20)。







私たちも告白したいですね。

どうか私を立ち帰らせてください。

私は立ち帰ります。

あなたは、私が帰るべき神です、と。



今日も。














聖書・聖句:  http://philosophy.blogmura.com/bible/











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