朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

この杯、取りのけるわけにはいかなかったのだそうです。私たちのために

2014-02-28 23:44:19 | 聖書から
主の言葉:

彼は

わたしを慕う者だから、



彼を

災いから

逃れさせよう。

詩篇91:14
 





イエスは祈られた。

「父よ、

御心なら、

この杯を

わたしから取りのけてください。



しかし、

わたしの願いではなく、

御心のままに

行ってください。」



すると、

天使が天から現れて、

イエスを力づけた。

ルカ22:42〜43
 



 (ローズンゲン日々の聖句3/1;土)






あの方は、

ご自身を愛し、

慕う者を

災いから守り、

逃れさせて下さる方なのですね。




でも、

このときの、

イエスの、

血の汗がしたたり落ちるような切なる祈り、

「この杯(十字架刑による処刑)を

取りのけてください」

との祈りに答えることは

されなかったのだそうです。




あの方が、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」

(創世記1:26)、



「私たちが一つであるように、彼らも一つである」

(ヨハネ17:11、21、22)

ものとして、



しかも、

機械的な一つではなく、

自由意思による、

愛と尊敬によって

一つになっていくものを欲しいと

願われ、

人間を造られたた時、



人間は、

その自由意思のゆえに、

あの方との一つを嫌って、

自らが

「善悪を知る者」(創世記3:22)

となり、



自分一人で立って行く道を

選ぶであろうことは

想定されていたのでしょうね。




それで、

人間がそうした時には

どうしようかということが

確認されていたのでしょうか。




御子である方が

人となって

人間の世界に降り、



人間の

「はずれ」と「そむき」の

責任の全部を

御自分に背負って、

天と地との間に上げられ、

呪われた者として

処刑されること。




この処刑によって、

人間の「はずれ」と「そむき」が解決されたときは、



「聖である霊」と呼ばれる方が、

人間一人一人の中に

来られて、



これを受け入れる者の心に

働きかけ、



その人その人への、

その時その時の、

あの方の御思いを

心に思うようにされ、



内側から、

心の思いが

あの方の思いと一つになっていくようにしよう

との確認が。




それで、

いよいよその時になった

この時、



あの方は、

御子イエスのこの祈りに答えて、

十字架刑を取り止めることは

できなかったということでしょうか。




イエスの十字架刑による処刑に、

すべての人間の、

そして

自然界、この宇宙のすべてのものの

滅び去るか、

創造の目的に回復されるかの

命運が

かかっていたのだそうですから。




イエスの十字架刑による処刑が

完了し、



受け入れる者の内に

「聖である霊」と呼ばれる方が来て下さる道が

完成した

今、



私たち、

「生まれた時からの霊」は、

イエスの十字架の処刑に合わせられて

処刑されたものと認めて、



新しく、

「聖である霊」と呼ばれる

このお方を

お迎えし、



このお方によって

心に書き付けられる、

あの方との一つ思いに

心を向けていきたいですね。



今日も。




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敵を愛し、自分を憎む者に親切にする、あの方の御思いが来るのだそうです。私たちの心にも

2014-02-27 23:38:37 | 聖書から
サウルの言葉:

自分の敵に出会い、

その敵を

無事に去らせる者があろうか。



今日のお前の振る舞いに対して、

主が

お前に

恵みをもって

報いてくださるだろう。

サムエル記上24:20
 





イエスの言葉:

敵を愛し、

あなたがたを憎む者に

親切にしなさい。



悪口をいう者に

祝福を祈り、



あなたがたを

侮辱する者のために

祈りなさい。

ルカ6:27〜28
  



(ローズンゲン日々の聖句2/28;金)






ダビデの命を取ろうと追いかけていた

イスラエルの王サウルを、

ダビデが

殺すチャンスがあったにも関わらず、

「主に油注がれた者に手を下してはいけない」と、

無事に去らせたとき、



これを知った

サウル王が

ダビデに語った言葉なのだそうですね。




イエスも、

「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。



しかし、

わたしはこう言います」と

このように

言われたのだそうです。






そして、

自分を十字架につける人たちのことを

「父よ、

彼らをお赦し下さい。



彼らは

何をしているのか

自分で分からないのです」と

執り成しておられたのだそうです。





自分の善悪の判断を最善のものとして、

他をこれに従わせようとし、



自分一人が頂点に坐することを求める、

私たち、

「生まれた時からの霊」は、



片方の目をつぶされたら、両目をつぶしてやりたい、



歯1本をおられたら、相手の歯、全部を折ってしまいたい、



それよりも、

相手を殺してしまいたいと思う者ですけれど、



「聖である霊」と呼ばれる方によって

私たちの心に来る、

あの方の御思いは

そうではないようですね。




この、

イエスの言葉のような

思いが

心に満ちるほどに、

「聖である霊」と呼ばれるお方の働きを

受けていきたいものですね。



今日も。







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十字架に架かった方を御座に仰ぐことになるのだそうですね。私たち

2014-02-26 00:36:17 | 聖書から

主は

地の果てまで

裁きを及ぼし、



王に

力を与えてくださる。

サムエル記上2:10
 





神は、

キリストを

死者の中から復活させ、



天において

御自分の右の座に着かせ、



すべての

支配、権威、勢力、主権の上に

置き、



今の世ばかりでなく、

来るべき世にも唱えられる

あらゆる名の上に

置かれました。

エフェソ書1:20~21
  



(ローズンゲン日々の聖句2/26;水)




私たちが見とれるような姿もなく、

輝きもなく、

私たちが慕うような

見栄えもなく、

さげすまれ、

のけ者にされ、

悲しみの人で

病を知っていた方、



ご自分の国に来られたのに、

ご自分の民から捨てられ、

十字架刑で処刑された方、

イエス。




けれども、

それは

天地創造の前から

あの方の御思いの中で

定まっていたことなのだそうですね。



それで、

あの方は、

彼を

新しい霊のからだに復活させ、

天に帰らせ、

もともとついておられた位置、

ご自分の右の座に

就かせ、



あらゆる名の上に

置かれたのだそうです。



全ての支配、権威、勢力、主権は

造られたものの側にあるのですが、



この方は、

創造主の側の御座に

ついておられるのだそうですから。




やがて、

私たちが御前に出るとき、

その御座についておられる方は、

屠られたとみられる小羊、

十字架刑で受けた

釘の穴、

突き刺された

槍の傷跡を

持った方なのだそうですね。




私たちの

はずれの責任を

一身に背負って

処刑されて下さった方を

私たちは

御座に仰ぐことになるのだそうです。


その時になって、

はじめて悟るのではなく、

御国に向かっての、

今の旅路においても、

この方を

私の救い主、

主と

仰ぎ、



全てのことを

この方と相談し、



心を一つにしながら

歩んでいきたいですね。



今日も。












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あなたの救い主はわたしなのですよって、仰るのですね。あの方

2014-02-25 00:11:13 | 聖書から
わたし、

わたしが

主である。



わたしのほかに

救い主はない。

イザヤ書43:11
 





どうか、

私たちの主

イエス・キリストの神、

栄光の源である御父が、



なたがたに

知恵と啓示の霊を与え、



神を

深く知ることができるよう。

エフェソ書1:47
  



(ローズンゲン日々の聖句2/25;火)






前もって事を告げ、

それを実現する神が

他にいるかと、

あの方は言われるのですね。



このわたしが、

前もって告げ、

そのことばの通りに

救い、



それを

知らせたと。





神々と呼ばれるものは

たくさんあるけれど、



どの神が

このように出来るのかと。




目は曇り、

心は鈍くなり、

自分の理性への過信と

先入観で、



ものを正しく見ることの出来ない

私たちに、



十字架刑で処刑され、

墓に葬られたけれども、

大能の御力によって

三日目に復活し、

40日にわたって弟子たちに何度も現れて、

確かに復活したことを

見せ、



弟子たちの見ている前で

天に帰り、



御父の右の座に就いた

イエスが、



御父から受けた、

「聖である霊」と呼ばれる方を

私たちに

派遣して下さるとき、



その方が

知恵と啓示をもって、

私たちに

あらゆる真理を

悟らせ、



父である方を

深く体験させて下さるのだそうですね。



「聖である霊」とか、

「真理の御霊」と呼ばれている

この方よって、

御父の御思いが

私たちの心に

満ちるのだそうです。



今日も。








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隠して、抱え込まないで、言い表し、脱ぎ捨てていくのだそうです。あの方の前に

2014-02-23 23:32:02 | 聖書から
私は

黙し続けて、

絶え間ない呻きに

骨まで朽ち果てました。



御手は

昼も夜も

私の上に重く、



私は

罪を

あなたに示し、

咎を

隠しませんでした。

詩篇32:3,4、5
 





以前のような生き方をして

情欲に惑わされ、

滅びに向かっている

古い人を

脱ぎ捨て、



心の底から

新たに

されなさい。

エフェソ書4:22〜23
 



 (ローズンゲン日々の聖句2/24;月)






自分の罪を押し隠し、

黙しているときは、

骨まで朽ち果てるような

苦しさの中にいることになるようですね。





思いっきり

一歩を踏み出して、

口を開き、



あの方に

罪、咎を申し上げ、

御前に広げて、

「私はこういう者です」と

見ていただくとき、



その罪、咎の罰は、

すでに

御子である方が受け切っていて下さることが

分かるのだそうです。





もう、

私が受ける、

私の罰は

ひとかけらも残っていないことが。




この私は、

御子である方の十字架刑での処刑で、

「死刑にされた者」との手続きが

全部終わっていて、



私は

死亡した者とされていることが。




今も、

日々、

「生まれた時からの私」という「霊」から来る思いが

心に満ちますけれど、



それは、

もう

死んだものと認め、

計算していくのだそうです。




そして、

あの方の前に

それを言い表し、

投げ捨てていくのだそうですね。




さらに、

御子である方が、

御父から受けて

私たちのところに派遣して下さる、

「聖である霊」と呼ばれる方を

お迎えするなら、



この方によって、

御父の御思いと同じ思いが

私の心にも来るようになるのだそうです。




心を新しくするには、

外側から規制していくやり方もありますが、

心の思いの出どころである

「霊」を取り替えるのが

最善の方法なのだそうですね。




「聖である霊」と呼ばれる方によって、

どんな「思い」が

私の心に起こるのか、

来るのか、

心を向けていきたいものですね。



今日も。




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