朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

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2015-05-31 08:09:05 | 聖書から
聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
主の栄光は、地をすべて覆う。イザヤ書6:3(今週の聖句)




 私の主なる神は、わが力。ハバクク書3:19




 だから、私たちは落胆しません。
たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、
私たちの内なる人は日々新たにされていきます。Ⅱコリント4:16




        (ローズンゲン日々の聖句5/31;日)




 天の神、主は、栄光につつまれた御座に座しておられる方。
預言者イザヤが見た幻では、その方の前でセラフィムと呼ばれる天使たちが賛美の声をあげていたのだそうです。




 私たち人間は、この方々と一つ栄光につつまれる者にと望まれて造られた者(創世記1:26)なのだそうですが、高ぶりのせい自分の力により頼む者になり、今は、この方のもとから迷い出てしまって、栄光を失い、この身体も土の器のようになり、弱いものになってしまっているのだそうです。




 けれども、天の神、主は、私たち人間を取り戻そうとして下さり、御子である方を人間イエスとして人の世に生れさせ、この方がおよそ33歳の頃、私たちすべての人間の身代わりとして立て、十字架刑で処刑し、私たち、すべての人間のそむきの罪の処刑が終っているものと手続きして下さったのだそうです。




 そして、この方によって、私たち、すべての人間のそむきの罪の処罰を終えた上で、天の神、主は、もう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を、この方を受け入れる者のうちに派遣して下さって、私たち、人間を新しく生まれる者として下さるのだそうです(ヨハネ3:3~15)。




 この方は、私たちの内にあって、私たち一人ひとりの心に、天の神、主が私たち一人ひとりに思っていらっしゃる御思いを置いて下さって、私たちが、私たち一人ひとりの部分において、天の神、主と思いを一つにしながら生きるようにして下さるのだそうです。





 それは、ちょうど、風が吹くようなもののようなのだそうです。風は思いのままに吹き、私たちはその音を聞くけれども、それがどこから来てどこへ行くかしらないように、聖である霊と呼ばれる方によって新しく生まれる者も、そのようなのだそうです(ヨハネ3:8)。




 私たちの外なる人、肉体や精神は衰え、弱り果てて行くとしても、内側の、この、聖である霊と呼ばれる方によって生きていく新しい人は日々に新たにされていくのだそうです。
むしろ、私たちの外なる人がおとろ、弱くなるほどに、内なる人が生き生きと働いて下さるようになるのだそうです。

 そして、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをも主イエスと共によみがえらせてくださり、共に、天の神、主の栄光の御座の前に立たせて下さるのだそうですから。




 地震や大波のとどろき、民族は民族に敵対し、あちこちに戦争のうわさ、自然界も世の中もなんだか不安を駆りたてるような最近の状況ですが、この望み、この永遠の世界につながる新しい生き方で、この方を我が力として生きるように、と天の神、主は仰っておられるようですね。
 この新しい週も。


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イエスは、かわいそうに思って、

2015-05-29 23:45:23 | 聖書から
見よ、
わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、
彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。エレミヤ書33:6




 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、
御国の福音を宣べ伝え、
また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。マタイ4:23




              (ローズンゲン日々の聖句5/30;土)





 私たちをいやされる方、いやそうとおっしゃられる方。
弱い者、虐げられている人に心を向けられる主は、病で苦しんでいる人にも心を向けていて下さるのですね。
 また、町を、国を、その背きとかたくなさのゆえに打たれることがあるけれど、同時に、回復の約束もしていて下さる方(エレミヤ49:6、39。

 イエスは、弟子たちを町々に遣わされる時、汚れた霊どもを制する権威をお授けになって、言われたのだそうです。
「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアト(ライ病?)に冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい」(マタイ10:1、7~8)と。

 「かわいそうに思って」病気を癒して下さったイエスが(マタイ20:34、ルカ7:13)、聖である霊と呼ばれる方によって、私たちの心にも同じ思いを置いて下さって、私たちを通してもお働き下さり、ありとあらゆる病をいやして下さいますように。

今日も。












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栄光を共にしたいのだそうですね。私たちと、この方。

2015-05-29 08:28:22 | 聖書から
聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、

主の栄光は、地をすべて覆う。イザヤ書6:3




 すべてのものは、神から出て、
神によって保たれ、

神に向かっているのです。
栄光が神にありますように。ロマ書11:36
...

              (ローズンゲン日々の聖句5/29;金)




 宇宙、この地球、自然界、人間や天使も、神の御思いによって御思いのとおりに創造されたのだそうです。
すべては神の御思いから出発しているのだそうですね。




 そして、これが保たれ、正確に運行しているのは、神が支えておられるからなのだそうです。
だから、神がこの支えの御手をちょっとゆるめるなら、地球はどうなってしまうか分からず、私たちの身体がどう変調してしまうか分からず、私たちの理性もどうなってしまうか分からないのですね。
私たちが変わりなく朝を迎えることが出来るのは、理性がちゃんと働いているのは、この、神の支えがあるからなのだそうです。

 そして、すべてのものは神に向かい、神に帰って行くのだそうです。
 預言者イザヤが、神殿で王座に座しておられる方を見たとき、セラフィム(天使)が互いに呼び交わして「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、ちをすべて覆う」と叫んでいたのだそうです。

そして、イザヤは思わず、「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を見たのだから」(イザヤ6:5)と言ったのだそうですが、私たち人間のすべても、一人ひとり、この方の前に出るときが来るのだそうですね。
 自分の責任を自分で負う立場でこの方の前に出、私の行動、思いのすべてが明らかにされるのであれば、それは怖ろしい時になるのかもしれません。けれども、イエスによる救い、贖(あがな)いをいただいているなら、イエスが私の責任の全部を負って下さって弁護して下さるのだそうですから、これは安心な、うれしい時となるのでしょうね。




 天の神、主は、この全地を覆っている栄光を私たちと一緒にしたいのだそうです。
そして、今日、この世界を支え、前進させていくための御業も、私たちと共にしたいのだそうです。
この方のその御思いについて行ってみたいですね。
今日も。


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あの方と一緒にいるようにして下さるのですね。いつも、いつまでも。

2015-05-28 07:39:49 | 聖書から
命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。
主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。詩編23:6



 私たちすべてのために、

その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、
御子と一緒にすべてのものを
私たちに賜らないはずがありましょうか。ロマ8:32





              (ローズンゲン日々の聖句5/28;木)




 御子を下さり、すべてのものを一緒に下さっているのだそうです。
だから、誰も私たちを行きづまらせきることはできないのだそうです。





 イエスの十字架刑での処刑を私の処刑として下さっていることを受け取った者を訴えるものがあっても、

天の神、主は、イエスの義をその人の義と認めて下さるのだそうです。
 罪に定めようとするものがあっても、私たちの罪を背負って十字架刑で処刑され、

よみがえって神の右の座に着いておられる方が、この者は既に処刑済みであると弁護して下さるのだそうです。
 私たちを、イエス・キリストの愛から引き離そうとするものがあっても、

私たちは、私たちを愛して下さった方によって、

それらすべてに対して圧倒的な勝利者とならせて下さるのだそうです。





 命の日の限り、恵みと慈しみが追って来て、

いつまでも、神であり主である方と一緒にいるようにして下さるのだそうです。
今日も。


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あの方の憐れみ深い思いが、私たちの心にも来るのだそうです。聖である霊と呼ばれる方によって。

2015-05-27 00:56:07 | 聖書から
正義と真理に基づいて裁き、
互いにいたわり合い、憐れみ深くありなさい。ゼカリヤ書7:9




 憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受ける。マタイ5:7





          (ローズンゲン日々の聖句5/27;水)




 天の神、主は憐れみ深い方なのですね(ルカ6:36)。

それで、私たち人間にも憐れみ深くあって欲しいと願わるようです。




 断食をし、熱心に宗教行事を行うよりも、正しい裁きを行い、互いに誠実を尽くし、憐れみ合うこと、
やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげないこと、
互いに心の中で悪をたくらまないことを喜ばれる方のようです(ゼカリヤ7:5~11)。




 そして、この方の憐れみを受けた者が、自分の周りの人々に憐れみ深い行動をとることが出来るようになるようですね(マタイ18:21~35)。

 自分の中からは、憐れみの心のかけらも出て来ないものであることを知って、イエスの十字架刑での処刑を私の処刑として下さるとの提案を受け入れて、イエスの十字架刑での処刑に私も合わせていただき、
生まれたときからの私という霊は処刑された者と認めて(ロマ6:11)、
三日目に墓より復活し、天の父と呼ばれる方の右の座に着かれたイエスが派遣して下さる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、父である方の御思いを私の心にも書き記していただくとき、

私の心にも、憐れみ深い思いが来るようになるのだそうです。
 天の神、主が、私たち一人ひとりを憐れんで下さって、このようにして下さっているのだそうです。
今日も。


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