朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

あなたを離しません。私を祝福してくださるまでは。

2016-11-30 06:23:55 | 聖書から
私は、祝福してくださるまでは、あなたを離しません。創世記32:27

 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。コロサイ書4:2  

 コロサイ書1:9~14
 イザヤ書60:1~14
      (ローズンゲン日々の聖句11/30;水)

 兄エサウの空腹につけ込んで赤い豆の煮もの1杯で長子の権利を買い取り、父イサクが老齢で目が見えなくなっていることをいいことに、兄エサウに成りすまして相続の祝福を奪ったヤコブ。

 兄エサウの怒りから逃れて、母リベカの兄ラバンのもとに逃れ、20年を過ごし、4人の妻と12人の息子、そして羊ややぎ、ラクダや牛など多くの財産を手に入れ、今、カナンの地に帰って来て、兄エサウが400人を引き連れて迎えに出てくるというので、恐れてヤボクの渡しを渡れないヤコブ。

 その夜、ひとりの人(神)が現れ、ヤコブは夜明けまでその人と格闘したのだそうですが、その人が「わたしを去らせよ。夜が明けるから」と言っても、ヤコブは、「私を祝福してくださるまでは」としがみついたまま離さず、ついに祝福を受け、名をヤコブ(かかとをつかむ)からイスラエル(神と戦い勝った。神の王子)に変えていただいたのだそうです。

 ヤコブが、兄への恐れから神にしがみついていたように、「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と使徒パウロは勧めるのですね。

 パウロは祈り求めているのだそうです。
「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、
神を知る知識を増し加えられますように。
また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、
喜びをもって感謝をささげることができますように」(コロサイ1:9~12)と。
私たちも祈るのですね。

 「神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子のうちにあって、
私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ている」(コロサイ1:13~14)のだそうですから。
今日も。
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取り消されることはないのだそうです。賜物も招きも。

2016-11-29 08:49:43 | 聖書から
わたしが諸国の民の中から連れ出し、
  散らされていた国々から集めるとき、
   わたしは 諸国民の前で、お前たちに自分を聖なるものとして示す。
わたしが先祖に与えると誓った地、
  イスラエルの土地に導き入れるとき、
 お前たちはわたしが主であることを知るようになる。エゼキエル20:41~42

 神の賜物と招きとは取り消されないものです。ロマ書11:29

 ヘブル書10:32~39
 イザヤ書59:15b~21
      (ローズンゲン日々の聖句11/29;火)

 キリスト紀元前597年、1回目のバビロン捕囚のとき、祭司であったエゼキエルも捕囚となったようですが、
天の神、主は、そのバビロンの地でエゼキエルを預言者として用いられたのだそうです。

 この、バビロンによって散らされた民は、
その70年後、イスラエルの地に帰ってくることになったのだそうですが、
キリスト紀元70年、ローマ軍によって国を失い、世界に散らされたイスラエルの民は、
2000年を経た今日、世界中からイスラエルの地に帰って来ているのだそうです。

 天の神、主は、彼らのそむきにもかかわらず、ご自分の民を退けてしまわれることはないのだそうです。
神がご自分の賜物と招きを取り消されることはないのだそうですから。
イスラエルの場合も、私たちの場合も。

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、
あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、
今よりとこしえに離れない」(イザヤ59:21)言われるのだそうですから。


 独り子である方を、人間イエスとして人の世に遣わし、
すべての人のすべてのそむきの責任をイエスに負わせて十字架刑で神に呪われた者として処刑し、
受け入れる者の「生まれた時からの霊」を処刑済み、処罰済み、死んだものとしてくださった方、

 受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、
この方によってご自身の一人一人に思っておられる御思い、ことばを受け入れる者の心に置き、
受け入れる者がご自身と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者にしてくださる方(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:20~24)がそう言われるのだそうですから。


 神のみこころを行って、約束のものを手も入れるためには、
忍耐が、待ち望み続けることが必要なのだそうです。

 十字架刑で処刑され、墓に葬られたイエスは、三日目の日曜日の早朝、墓から、新しい霊のからだに復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されたのち、オリーブ山から弟子たちのみている前で天に上げられ、天の父である神の右の座に帰られ、今、その神の右の座にあって、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者に派遣していてくださるのだそうです。

 そのイエスが、受け入れる者を迎えに来られ(Ⅰテサロニケ4:16~17)、
次には、王としてこの世界を統治するために、
また、オリーブ山に立たれるというのですね(ゼカリヤ14:4~21、黙示録19:1~20:6)。

 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びるばかりの者ですが、
イエスによって、信じて、待ち望んで、いのちを保つ者にしていただけるのだそうですから(ヘブル10:35~39)。
今日も。
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なんと幸いなことでしょう!主の仰せを喜ぶ人は。

2016-11-28 08:34:06 | 聖書から
いかに幸いなことか、

  主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は。詩編112:1




 あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。

自分が幼い日から聖書に親しんできたことを知っているからです。

聖書は

 キリストへの信仰を通して救いに導く知恵を与えることができます。Ⅱテモテ3:14~15




 Ⅰペトロ1:(8~9)10~13

 イザヤ書59:1~15a

      (ローズンゲン日々の聖句11/28;月)




 幸いなのですね。天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方のお言葉、思っていらっしゃることを深く愛し、大いに喜ぶ人、主と心を一つにしている人は。




 使徒パウロは、弟子のテモテに宛てた手紙に書いています。

幼いから聖書に親しみ、聖書に学んで得た確信から離れないようにと。




 天の神、主は、聖書を通してご自分の思いを明らかにされるので、

私たちは聖書によってイエスによって完成された救いを知り、

「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださり「父である神」と心を一つにして生きる新しい生き方の約束を知り、

この方への信頼を与えられ、この方との一つの中に入れていただけるのだそうですから。




 聖書には、私たち人間の造られた場所からはずれている実態(イザヤ59:1~15)と、

その私たちを取り戻すためのキリストの苦難とそれに続く栄光が前もってあかしされており、

それが、あのイエスによって実現し、

そのうれしい知らせが今、天から送られた聖霊によって私たちに福音を語った人々を通して告げ知らされているのだそうですから(Ⅰペテロ1:12)。




 御使いたちもはっきり見たいと願っているその事実の中に。

今日も。


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あの方の望むことを成し遂げ、使命を果たす者に

2016-11-27 11:00:11 | 聖書から
見よ、

  あなたの王が来る、

 彼は神に従い、勝利を与えられた者。ゼカリヤ書9:9(11/27の週の聖句)




 わたしの口から出るわたしの言葉も、

むなしくは、わたしのもとに戻らない。

 それはわたしの望むことを成し遂げ、

わたしが与えた使命を必ず果たす。イザヤ書55:11




 弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。

主は彼らと共に働き、彼

らの語る言葉が事実であることを、

それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。マルコ16:20




 マタイ21:1~9

 詩篇24

      (ローズンゲン日々の聖句11/27降臨節第1主日)




 紀元前520年頃のこと、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

ゼカリヤを預言者として立て、告げられたのだそうです。




 「シオンの娘よ。大いに喜べ。

エルサレムの娘よ。喜び叫べ。

見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

この方は正しい方で救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。

それも、雌ろばの子の子ろばに。




 わたしは戦車をエフライムから絶やす。

戦いの弓も絶たれる。

この方は諸国の民に平和を告げ、

その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る」(ゼカリヤ9:9~10新改訳)と。




 そして、520年ほどの後、「神のことば」として人の世に来られた方、イエスは、

イザヤの預言にあるように、「父である神」が望まれるとおりに、

その使命を果たされたのだそうです。

およそ33歳の過ぎ越しの祭りのとき、軍馬ではなく、ろばに、

しかもまだ人を乗せたこともない子ろばに乗ってエルサレムに入城され(マタイ21:1~9)、

私たち人間のすべてのそむきの責任を負って、

神に呪われたものとして十字架刑での処刑を受け、

受け入れる者を処罰の終わった者、罰の残っていない者としてくださって

神との和解の道を開いてくださったのだそうです。




 墓に葬られたイエスは、三日目、日曜日の早朝、新しい霊の身体で復活し、

40日に渡って何度も弟子たちに現れ、

神の国のことを語り、

数多くの確かな証拠をもってご自分が生きていることを示されたのち、

オリーブ山から、弟子たちの見ている前で

天の「父である神」の右の座に帰られたのだそうです。




 そして、そこからもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を

受け入れる者に派遣してくださって、

この方の働きで受け入れる者の心に

「父である神」がひとり一人に思っておられる御思いを

置いてくださり、書きしるしてくださって、

受け入れる者が「父である神」の御思いのように生きる者にしてくださるのだそうです。




 それで、この方、「聖である霊」と呼ばれる方に来ていただいた弟子たちは、

御思いのとおりに、このイエスによる救いを地の果てにまで伝えて行き、

現在に至っているのだそうです。




 御子であるイエスは、2000年ほど前には、私たちのそむきの責任を負って十字架刑での処刑を受けるために世に来られたのだそうですが、

やがて、王として、

世界に正義と公正、平和をもたらすために来てくださるのだそうです。




 その時を待ち望む者はうたうのですね。

「門よ。おまえたちのかしら上げよ。

永遠の戸よ。上がれ。

栄光の王が入って来られる。

栄光の王とは、だれか。

強く、力ある主。

戦いに力ある主。

門よ。お前たちのかしらを上げよ。

永遠の戸よ。上がれ。

栄光の王が入って来られる。

その栄光の王とはだれか。

万軍の主。これぞ、栄光の王」(詩篇23:7~10)と。




 私たちも。

この新しい週も。


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流れのほとりに植えられた木のように

2016-11-26 09:04:45 | 聖書から
その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来たれば実を結び、

  葉もしおれることがない。詩編1:3




 霊の結ぶ実は愛であり、

喜び、平和、寛容、親切、

善意、誠実、柔和、節制です。ガラテヤ書5:22~23




 黙示録21:10~14、21~27

 イザヤ書58:9b~14

      (ローズンゲン日々の聖句11・26;土)




 詩篇の作者はうたいます。

「幸いなことよ。

悪者のはかりごとに歩まず、

罪人の道に立たず、

あざける者の座に着かなかったその人。

まことに、その人は

主、「わたしはあるという者」と名乗られる方のおしえを喜びとし、

昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

その人は水路のそばに植わった木のようだ。

ときが来ると実がなり、その葉は枯れない。

その人は何をしても栄える」(詩篇1:1~3新改訳)と。




 私たち人間は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方によって、

ご自分と心を一つにする者が欲しいと願われて、

愛と尊敬によって、自由意思で、自発的に、ご自分と一つになるものとして造らたものなのだそうです(創世記1:26)。




 けれども、最初の人アダムとエバは、天の神、主と一つになっているよりも、もっと上の者になりたいと思い、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとしたのだそうです(創世記3:5、22)。




 それで、アダムとエバの子孫である私たちにも、その「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとする性質が受け継がれているのだそうです。




私たちの「生まれたときからの霊」は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に対抗し、自分をその方よりも上の位置に置き、自分一人の理性の判断で善悪を決定し、天の神、主をも、他のすべての人をも自分の判断に従わせようとする性質を持っているのですね。




 それで、私たちがこの「生まれたときからの霊」から来る思いによって生きていくとき、私たちのはかりごとは「悪者のはかりごと。「罪人(的外れになった者)の道」、その居るところは「あざける者の座」、その行いは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの」になってしまうのだそうです(ガラテヤ5:19~21)。




 天の神、主は、そのような私たちの「生まれたときからの霊」を、イエスが十字架刑で処刑されてくださったその処刑に合わせてくださって、処刑済みのもの、死んだものと手続きしてくださるので、受け入れる者は、自分の「生まれたときからの霊」から出て来る思いを死んだ者から出て来た思いだと認めて、その思いは横に置いておいて、

イエスを通して来てくださるもう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方によって、「父である神」が私たちひとり一人に思っておられる御思いを心に置いいただき、書きしるしていただいて、「父である神」と同じ思いを思い、一つ心になって生きるようにしていただけるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。




 それで、受け入れる者は、自分の「生まれたときからの霊(肉)」をさまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまっているもの」としていただけ、「聖である霊」とか「神の御霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いに導かれて生きる者にしていただけて、

「愛、喜び、平安、寛容、新設、善意、誠実、柔和、自制」の思いが心に来て、水路のほとりに植えられた木のように栄えを与えていただき、

やがて実現する新しい都エルサレムを受け継ぐ者にもしていただけるのだそうです(黙示録21:9~27)。




 天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方を喜びとし、

「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と言われた約束のとおりに(イザヤ58:14)。

今日も。


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