朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

べんごしてくださるのだそうです。ご自分の義を着せてくださって。

2016-10-31 22:09:44 | 聖書から
主は乏しい人の右に立ち、
  死に定める裁きから救ってくださる。詩編109:31

 イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としません。ヘブル書2:11

 使徒17:1~10
 Ⅱコリント7:2~16
      (ローズンゲン日々の聖句11/1;火)

 救い主、イエス・キリストは、義の一点もない者、乏しい者、貧しい者、力のない者、知恵のない者の右に立って、死刑に定めようとする者に対して弁護し、救ってくださるのだそうです。

 その、訴えられている人の罪のすべてをご自身に引き受けて、十字架刑での処刑を受けてくださっていて、その、ご自身の命を差し出しての贖いによって、処罰済みの判決を勝ち取ってくださるのだそうですから。

 十字架刑で処刑され、墓に葬られ、三日目に、新しい霊のからだで復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて、ご自分が生きていることを見せたうえで、
オリーブ山から、弟子たちの見ている前で天に帰られたイエス。

 そのイエスが、
天の「父である神」の右の座にあって派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方。

 その方をお迎えし、
「霊によって新しく生まれた者」とされ、
「聖である霊」と呼ばれる方によって「父である神」の御思いを、心に書き付けていただき、
「父である神」と思いを一つにし、「父であるがしようと思われることをしていくようになった者を、
イエスは、共に死に、共に生きる者として(Ⅱコリント7:3)、
兄弟と呼ぶことを恥ずかしく思うことはないのだそうです。
今日も。
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喜び歌うのだそうです。叫び声をあげて。

2016-10-30 20:34:38 | 聖書から
シオンに住む者よ、

  叫び声をあげ、喜び歌え。

 イスラエルの聖なる方は

   あなたたちのただ中にいます大いなる方。イザヤ12:6




 私たちすべてのために、

その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、

御子と一緒にすべてのものを

わたしたちに賜らないはずがありましょうか。ロマ8:32




 マタイ5:2~12

 ロマ3:21~28

 Ⅱコリント6:11~7:1

      (ローズンゲン日々の聖句10・31;月、宗教改革記念日)




 聖なる方、大いなる方が、私たちのただ中にいてくださるというのですね。

それで、私たちは、喜びの叫び声を上げるようになる、と。




 罪ある者が聖なる方の前に出るとき、罪ある者は滅びてしまうのだそうです。

けれども、天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方は、

私たち人間を惜しみ、

なお、ご自分と思いを同じくし、心を一つにし、行動を共にし、存在を一つにする者、

共に一緒にいるものに回復しようとしていてくださるのだそうです。




 それで、御子である方を、人間イエスとして人の世に派遣され、

この方がおよそ33歳の頃、この方を私たちすべての人間の身代わりとし、

すべての人間のすべての罪をこの方に背負わせて処刑し、

私たち人間の罪を処罰済みとしてくださるというのですね。




 それで、律法を行うことによっては、義と認められない私たちも、

私たちに代わって、このイエスが十字架刑での処刑を受けてくださったことによって、

それを私のこととしていただくことによって、

イエスの義をいただき、

聖である方と共にいることができる者にしていただけるのだそうです。

 

イエスの義をいただいた者に、イエスは、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、受け入れる者の心に、「父である神」が私たちひとり一人に思っていてくださる御思いを置いてくださるので、この部分において、受け入れる者は「父である神」と同じ思いを思い、一つ心となり、「父である神」がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです。




 それで、この出来事を受け取った者は、叫び声をあげ、喜び歌うようになるのだそうです。

御子イエスと一緒にすべてのものをいただいている者として。

今日も。


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待ち望み、喜びを得ながら

2016-10-29 22:21:50 | 聖書から
王の王、主の主。

 唯一の不死の存在である神に

  誉れと永遠の支配がありますように。Ⅰテモテ6:15~16(10/30の週の聖句)




 神に従う人は待ち望んで喜びを得る。箴言10:28




 あなたがたも忍耐しなさい。

心を堅く保ちなさい。

主が来られる時が迫っているからです。ヤコブ書5:8




 マタイ22:15~22

 詩編125篇

      (ローズンゲン日々の聖句10/30;日)




 王の王、主の主、唯一の不死の存在である方が、愛と正義と平和をもって治められる国が実現するのだそうです。




その時が迫っているので、喜びをもって、また、忍耐をもって待ち望むのだそうです。




そして、山々がエルサレムを取り囲んでいるように、この方に信頼し、待ち望む者を、天の神、主は取り囲み、守られるのだそうです。




カイザル(ローマ皇帝)のものはカイザルに、神のものは神に返しながら(マタイ22:15~22)、

この方の御思いを求め、この方と心を一つにしながら、この方の統治の中へと進ませていただけるのだそうです。

この新しい週も。


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皆に仕える心にも

2016-10-28 21:50:04 | 聖書から
ギデオンの言葉:

私はあなたたちを治めない。

  主があなたたちを治められる。士師記8:23




 イエスの言葉:

 異邦人の間では、

支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

しかし、あなたがたの間では、そうではない。

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。マルコ10:42~43




 イザヤ1:18~27

 Ⅱコリント6:1~10

      (ローズンゲン日々の聖句10/29;土)




 イナゴの大群のように侵入して来て、イスラエルに羊や牛やロバのためのえささえも残さないほどに国を荒らす、10万を超えるミデヤン人を、天の神、主の導きで、300人で撃退したギデオン。




「あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。

あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから」と言うイスラエルの人々に、ギデオンは「主があなたたちを治められる」と答えたのだそうです。







 イエスも、「皆に仕える者が、偉い人なのだ」と、「人の先に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」と教えられたのだそうです。




 イエスご自身が、仕えられるために来たのではなく、仕えるために、

多くの人のための、贖い(あがない、代価を払って買い戻すこと)の代価として、自分のいのちを与えるために、人として、人の世に来られた方なのだそうですから(マルコ10:44~45)。




 イエスが十字架刑で処刑され、私たちの贖う(買い戻す)代価としてご自身の命を支払ってくださったことを受け取り、

「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白く、

紅のように赤くても、羊の毛のように白く」(イザヤ1:18)していただき、

三日目に墓より復活し、天の父の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして、「父である神」の御思いを心に置いてもらうなら、

偉くなりたいだけの私たちも、皆に仕える心にもしていただけ、

みなしごのために正しいさばきをし、やもめの訴えを取り上げ、正義と忠信を持つ者とも(イザヤ1:21~27)していただけるのだそうです。

今日も。


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御顔を、御思いを尋ね求めて

2016-10-27 22:18:38 | 聖書から
主の御力を尋ね求め、

  常に御顔を求めよ。詩編105:4




 主よ、

私たちにも祈りを教えてください。ルカ11:1




 Ⅰヨハネ3:19~24

 Ⅱコリント5:16~21 

       (ローズンゲン日々の聖句10/28;金)




 イエスが、天の「父である神」に祈っている、「父」と語り合っているのを見て、弟子が「私たちにも祈りを」と言ったのだそうです。




イエスは、答えて、こう祈りなさいと言われたのだそうです。

「天にいます私たちの父よ。

御名があがめられますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6:9~10新改訳)と。




 私たち、「お祈り」というと、「こうしてください。ああしてください」と願い事を並べ立て、「祈りました。ハイ、おしまい」というようなことをしがちです。




 それもありますが、さらに祈りとは、「御顔を求める」、神、ご自身を求める、みこころが天で、天使たちの間で、行わるように、地でも、この私にも、行われますように」と願っていくことのようです。




 私たちの罪を背負って十字架刑で処刑を受けてくださり、

復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えるなら、私たちが神のうちにおり、神が私たちのうちにいてくださる者にしていただけるのだそうです。




 そして、「父である神」がひとり一人に思っていてくださる御思いを心に置いていただき、「父である神」と同じ思い、一つ心にしていただくので、神が愛しておられる、その愛の思いとも一つ思いとしていただけるのだそうです。

それで、私たちも、イエスが私たちを愛してくださっているように愛し合うようになるのだそうです(Ⅰヨハネ3:24)。




人を押しのけて、自分が一番になりたい本性の「生まれたときからの私」という霊を、イエスの死に合わせていただいて、死んだもの、古いものとしていただき、

「生まれたときからの私」という霊から来る思いを、死んだものから、古いものから来た思いであると認めて、横に置いておき、

「聖である霊」から来る思いを私の思いとして生きるのだそうです。

新創造された、新しくされた、新しく生まれた(ヨハネ3:1~8、Ⅱコリント5:17)者として。




もはや、自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方(イエス)の御思いのとおりに生きる者に(Ⅱコリント5:15)。

今日も。


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