主よ、
あなたの慈しみが、我らの上にあるように、
主を待ち望む我らの上に。詩編33:22
イエスの言葉:
あなたがたの名が
天に書き記されていることを喜びなさい。ルカ10:20
ルカ5:33~39
ルカ11:37~54(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句2/28;火)
私たちは、霊的な何かが出来るようになったことを喜ぶ傾向があります。
信仰が強くなったとか、
病気をいやしたり、悪霊を追い出すことができるようになったとか。
イエスに遣わされて出かけて行った弟子たち。
帰って来て、喜んでイエスに報告したのだそうです。
「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と。
そのとき、イエスはこう言われたのだそうです。
「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:17~20)。
名が天に記されるために、私たちの前には二つの道が開かれています。
一つは、律法的生き方と呼ばれるもので、
ことばによって示された天の神、主の御思いを、自分の力で行っていく道。
イエスの在世当時も、この律法的生き方で自分の義を完成しようと一生懸命努力している人たちがいました。
律法学者やパリサイ人たち。
けれども、この道では、行為に現れた外側をきれいに見せるだけで、内側、心の中は神の御思いからは遠く離れているままなので、天に名が記されることはないのだそうです。
イエスは、彼らを「白く塗った墓」にたとえられました。
外側はきれいけれども、内側は汚れた骨で満ちているようだ、と(ルカ11:37~54)。
もう一つの道は、自分の力では、律法的生き方では神の義に達することができないことを認めて、天の神、主が、ご自身の私たちに対する愛とあわれみによって差し出していてくださるプレゼントとしての義をいただく道。
天の神、主の慈しみを待ち望む道。
この道を開くために、〔父である神〕は、〔御子である神〕を、人間イエスとして人間の世に派遣し、この方に、私たちのそむき、的外れの責任のすべてを負わせて、祭司長、律法学者、パリサイ人たち、当時の民の指導者たちのねたみを用い、ローマ兵の手によって十字架刑で処刑されたのだそうです。
このイエスの処刑を、受け入れる者の〔生まれた時からの霊〕の処刑と手続してくださって、受け入れる者を、処刑が終わったもの、死んだものとみなしてくださる道なのだそうです。
そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者の心に、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、ご自身がしようと思われることをしていくものにしてくださるのだそうです。
外側ではなく、内側から、心のほうから新しくしてくださる道なのだそうです。
この、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、〔子としてくださる御霊〕とも呼ばれ(ロマ8:15)、受け入れる者に「神の子」の身分を与え、その保証となってくださる方なのだそうです。
それで、この方を受け入れる者は、この方によって、神の子、神の家族、名が天に記された者、天の御国の国籍を持つ者としていただけるのだそうです。
受け入れる者は、〔父である神〕に対して、イエスと同じように「アバ、お父さん」と呼び掛ける者としていただけて、このままで、はばかることなく、御前に出て行ける者にしていただけるのだそうです。
丸ごと死んで、丸ごと、新しく生まれた、名が天に記されている者として(ルカ5:33~39、ヨハネ3:3~8)。
今日も。
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主を待ち望む我らの上に。詩編33:22
イエスの言葉:
あなたがたの名が
天に書き記されていることを喜びなさい。ルカ10:20
ルカ5:33~39
ルカ11:37~54(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句2/28;火)
私たちは、霊的な何かが出来るようになったことを喜ぶ傾向があります。
信仰が強くなったとか、
病気をいやしたり、悪霊を追い出すことができるようになったとか。
イエスに遣わされて出かけて行った弟子たち。
帰って来て、喜んでイエスに報告したのだそうです。
「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と。
そのとき、イエスはこう言われたのだそうです。
「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:17~20)。
名が天に記されるために、私たちの前には二つの道が開かれています。
一つは、律法的生き方と呼ばれるもので、
ことばによって示された天の神、主の御思いを、自分の力で行っていく道。
イエスの在世当時も、この律法的生き方で自分の義を完成しようと一生懸命努力している人たちがいました。
律法学者やパリサイ人たち。
けれども、この道では、行為に現れた外側をきれいに見せるだけで、内側、心の中は神の御思いからは遠く離れているままなので、天に名が記されることはないのだそうです。
イエスは、彼らを「白く塗った墓」にたとえられました。
外側はきれいけれども、内側は汚れた骨で満ちているようだ、と(ルカ11:37~54)。
もう一つの道は、自分の力では、律法的生き方では神の義に達することができないことを認めて、天の神、主が、ご自身の私たちに対する愛とあわれみによって差し出していてくださるプレゼントとしての義をいただく道。
天の神、主の慈しみを待ち望む道。
この道を開くために、〔父である神〕は、〔御子である神〕を、人間イエスとして人間の世に派遣し、この方に、私たちのそむき、的外れの責任のすべてを負わせて、祭司長、律法学者、パリサイ人たち、当時の民の指導者たちのねたみを用い、ローマ兵の手によって十字架刑で処刑されたのだそうです。
このイエスの処刑を、受け入れる者の〔生まれた時からの霊〕の処刑と手続してくださって、受け入れる者を、処刑が終わったもの、死んだものとみなしてくださる道なのだそうです。
そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者の心に、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、ご自身がしようと思われることをしていくものにしてくださるのだそうです。
外側ではなく、内側から、心のほうから新しくしてくださる道なのだそうです。
この、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、〔子としてくださる御霊〕とも呼ばれ(ロマ8:15)、受け入れる者に「神の子」の身分を与え、その保証となってくださる方なのだそうです。
それで、この方を受け入れる者は、この方によって、神の子、神の家族、名が天に記された者、天の御国の国籍を持つ者としていただけるのだそうです。
受け入れる者は、〔父である神〕に対して、イエスと同じように「アバ、お父さん」と呼び掛ける者としていただけて、このままで、はばかることなく、御前に出て行ける者にしていただけるのだそうです。
丸ごと死んで、丸ごと、新しく生まれた、名が天に記されている者として(ルカ5:33~39、ヨハネ3:3~8)。
今日も。
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