朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

ただ、天の神、主の慈しみによって

2017-02-28 08:34:27 | 聖書から
主よ、
あなたの慈しみが、我らの上にあるように、
主を待ち望む我らの上に。詩編33:22

 イエスの言葉:
あなたがたの名が
天に書き記されていることを喜びなさい。ルカ10:20

 ルカ5:33~39
 ルカ11:37~54(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/28;火)

 私たちは、霊的な何かが出来るようになったことを喜ぶ傾向があります。
信仰が強くなったとか、
病気をいやしたり、悪霊を追い出すことができるようになったとか。

 イエスに遣わされて出かけて行った弟子たち。
帰って来て、喜んでイエスに報告したのだそうです。
「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と。
そのとき、イエスはこう言われたのだそうです。
「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:17~20)。

 名が天に記されるために、私たちの前には二つの道が開かれています。
一つは、律法的生き方と呼ばれるもので、
ことばによって示された天の神、主の御思いを、自分の力で行っていく道。
イエスの在世当時も、この律法的生き方で自分の義を完成しようと一生懸命努力している人たちがいました。
律法学者やパリサイ人たち。

 けれども、この道では、行為に現れた外側をきれいに見せるだけで、内側、心の中は神の御思いからは遠く離れているままなので、天に名が記されることはないのだそうです。
イエスは、彼らを「白く塗った墓」にたとえられました。
外側はきれいけれども、内側は汚れた骨で満ちているようだ、と(ルカ11:37~54)。

 もう一つの道は、自分の力では、律法的生き方では神の義に達することができないことを認めて、天の神、主が、ご自身の私たちに対する愛とあわれみによって差し出していてくださるプレゼントとしての義をいただく道。
天の神、主の慈しみを待ち望む道。 

 この道を開くために、〔父である神〕は、〔御子である神〕を、人間イエスとして人間の世に派遣し、この方に、私たちのそむき、的外れの責任のすべてを負わせて、祭司長、律法学者、パリサイ人たち、当時の民の指導者たちのねたみを用い、ローマ兵の手によって十字架刑で処刑されたのだそうです。

 このイエスの処刑を、受け入れる者の〔生まれた時からの霊〕の処刑と手続してくださって、受け入れる者を、処刑が終わったもの、死んだものとみなしてくださる道なのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者の心に、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、ご自身がしようと思われることをしていくものにしてくださるのだそうです。
外側ではなく、内側から、心のほうから新しくしてくださる道なのだそうです。

 この、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、〔子としてくださる御霊〕とも呼ばれ(ロマ8:15)、受け入れる者に「神の子」の身分を与え、その保証となってくださる方なのだそうです。
それで、この方を受け入れる者は、この方によって、神の子、神の家族、名が天に記された者、天の御国の国籍を持つ者としていただけるのだそうです。
受け入れる者は、〔父である神〕に対して、イエスと同じように「アバ、お父さん」と呼び掛ける者としていただけて、このままで、はばかることなく、御前に出て行ける者にしていただけるのだそうです。
丸ごと死んで、丸ごと、新しく生まれた、名が天に記されている者として(ルカ5:33~39、ヨハネ3:3~8)。
今日も。
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律法の要求を満足させる者として

2017-02-27 07:44:40 | 聖書から
主の御言葉は正しく、

御業はすべて真実。詩編33:4




 イエスの言葉:

わたしが来たのは

律法や預言者を廃止するためだと思ってはなりません。

廃止するためではなく、完成するためである。マタイ5:17




 ルカ13:31~35

 ルカ11:29~36(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/27:月)




 イエスによる救いを受け取った者は、古い契約、律法的な生き方、「主の仰せられたことはみな、(自分の力で)行います。聞き従います」(出エジプト24:3、7)という生き方から解放され、福音(イエスによるうれしい知らせ)的生き方に移されているのだそうです。




 しかし、それは、律法そのものを無視し、無律法になってしまってよいということではないようです。

律法は、天の神、主が、「わたしはこういう者だから、あなたがたもこういう者になって欲しい」と思っておられる、その御思いを戒めのかたちで言い表したものだそうですから、その神の御思いが廃止されることはない、のだそうです。




 律法の要求を満足させるのに、二つの方向があるようです。

一つは、違反した場合、その違反にふさわしい報いを与えること。

そして、もう一つは、律法が言っているとおりの心になること。




 天の神、主は、この二つをイエスによって、私たちに完成させてくださろうとしていておられるのだそうです。




 まず、私たちの違反、〔的はずれ〕に対しては、今から2000年ほど前、預言されていたとおりに、〔御子である神〕が、「女の子孫」として(創世記3:15)、人間イエスとなって人の世に来てくださり(ルカ2:1~7、ヨハネ1:14)、

およそ、33歳の頃、エルサレム郊外で(ルカ13:31)、神に呪われたものとして木に掛けられ(申命記21:23)、処刑されてくださったことで(ヨハネ19:30)、すべての人間の、すべての違反、〔的はずれ〕の処罰が終わったものとしてくださっているのだそうです。




 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださり、

新しい霊として、私たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださって(エレミヤ31:33~4、エゼキエル36:25~31)、私たちの心を一新してくださり(ロマ12:2)、

私たちが〔父である神〕の御思いを持つ者、律法の精神と同じ心を持つ者にしてくださるのだそうです。




 それで、受け入れる者は、御子であるイエスによって、そして、イエスが天の〔父である神〕の右の座にあって派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって律法を完成する者としていただけるのだそうです。

心に、律法で表されている同じ思いが来る者に。

御言葉の真実にかけて。

今日も。








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人間を照らす光、命の中へ

2017-02-26 10:13:02 | 聖書から
今、私たちはエルサレムへ上って行く。

人の子について預言者が書いたことは

みな実現する。ルカ18:31(2/26の週の聖句)




 主よ、あなたは万物に命をお与えになる方。

天の軍勢はあなたを伏し拝む。ネヘミヤ記9:6




 言(ことば)の内に命があった。

命は人間を照らす光であった。ヨハネ1:4




 マルコ8:31~38 

 詩編15

  (ローズンゲン日々の聖句2/26:Ⅳ日)




 聖書には、天使のことはあまり詳しくは述べていないようです。

しかし、天(霊の世界)には、私たちが、「天の神、主」とお呼びし、ご自分では、「わたしはあるという者」と名乗られる方がおられ、また、多くの天使の軍勢がいて、天の神、主に仕えているようです。

それで、天の神、主を「万軍の主」ともお呼びしているわけです。




 〔父である神〕は、人間を、そして、人間の住まいとしてのこの天地、宇宙、この自然界のすべてを設計、計画なされ、〔御子である神〕は、〔神の言(ことば)〕、〔言(ことば)である神〕の立場にあって、〔父である神〕の御思いを表現、宣言なさり、創世記1:2によると、その、〔言(ことば)〕のとおりを〔聖である霊〕と呼ばれる方が実現されたようです。

 この〔御子である神〕、〔言である神〕は命であり、人を照らす光でなのだそうですね。




 私たち人間も、この自然界のすべてのもの、天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものは(ネヘミヤ9:6)、〔父である神〕の御思いのとおりに、〔御子〕、〔言である神〕を通し、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって造られ、命を与えられた、ということでしょうか。




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち人間を、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造られたのだそうです(創世記1:26新改訳)。




 しかし、人間の始祖、アダムは、その、神が造られた場に留まることをしないで、「神のひとりのようになろう。善悪を知る者になろう」として、天の神、主に対抗、対立する者になり、〔的はずれ〕なものになったのだそうです(創世記3:5、22)。




 それで、アダムの子孫である私たち人間は、その性質を受け継いで生まれて来ており、自分が一番になろうとして、互いに対抗、対立しあい、良い物の全部を独り占めしようとし、他を自分の思いのとおりに支配しようとし、その心に計ることがみな、いつも悪いことに傾き、人の世界は暴虐で満ちることになったのだそうです(創世記6:5、11)。




 天の神、主は、そのように、創造の目的から的はずれになってしまった人間を、廃棄処分にはしないで、なお、最初の目的のとおりに、「われわれのかたちとして、われわれに似た」ものに回復しようと計画してくださっているのだそうです。




 そのご計画は、〔御子である神〕が、人となって人の世に下り、すべての人間の、すべての〔的はずれ〕の責任を負って、神に反逆する者として木に掛けられ、処刑されることで、すべての人間の、すべての〔的はずれ〕の処罰が終わったこととしてくださるというもののようです。




 その上で、受け入れる者に、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、この方によって受け入れる者の心に、ご自身の、一人一人に思っておられる御思いを置き、受け入れる者と一つ思いとなり、一つ心となろうと願っておられるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。

 ご自分たちが一つ思いになり、一つ心になっておられるように(ヨハネ17:21~22)。




 冒頭の言葉は、その〔父である神〕の御計画のときが満ちて、旧約聖書で預言されていたとおりに、十字架刑で処刑されるために、イエスは、いよいよこれから、エルサレムに向かおうとしておられるときのものなのだそうです。




 およそ2000年ほど前に、イエスによる処刑が完了している今は、それを受け入れるなら、私たちも、「神の一人のようになり、善悪を知る」ものになっている、私たち自身である〔生まれたときのままの霊〕を処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。




 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださり、心に、〔父である神〕の私に対して思っておられる御思いを置いてくださるので、私たちも〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になるようにしていただけるのだそうです。

命と光である御思いの中に。

この新しい週も。











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天の神、主が、私の相続財産に

2017-02-25 08:00:27 | 聖書から
私はあなたのほかに、

誰を天と地に持ちえよう。詩篇73:25口語訳




 あなたがたはキリストを見たことがないのに

愛しています。Ⅰペテロ1:8




 マタイ13:31~35

 ルカ11:24~28(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/25:土)




 この地上では悪者が栄え、誇り高ぶるのを見ます。

彼らの死には苦痛がなく、彼らのからだは脂ぎっています。

人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、

ほかの人のように打たれることもありません。

 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、

暴虐の着物が彼らをおおっています。

彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出ます。

彼らはあざけり、悪意を持って語り、高い所からしいたげを告げ、

豊かな水は彼らによって飲み干されます。

 彼らは言います。

「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか」と。

彼らはいつまでも安らかで、富を増しています。




 私たちが彼らを見てねたむとき、私たちの足はたわみそうになり、

心が苦しみ、内なる思いが突き刺され、

愚かで、わきまえのない獣のようになります。




 そんなときも、天の神、主は、私たちとともにいてくださり、

右の手をしっかりつかまえていて、さとして導き、

後には栄光のうちに受け入れてくださいます。

それで、天でも、地でも、この方、天の神、主が私たちの望み、

私たちの相続財産。

この方が私たちの避けどころ。

この方の近くにいることが幸せな者としていただけます(詩篇73より)。




 私たちは、イエスの弟子たちのようにイエスを見たことがありません。

けれども、聖書を通して、イエスが語った言葉、なされた御業を知り、

それを受け取り、天の御国の国籍をいただき、天の神、主とともにいる幸いにあずかっています(ルカ11:28)。




 この幸いは、からし種が、野菜の中でどんな種よりも小さいのに、成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣をつくるほどの木になるように、

また、パン種が、混ぜられた小麦粉の全体をふくらますように、

成長し、ふくらみ、広がっていくのだそうです(マタイ13:31~33)。

今日も。











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負い運び、担ってくださっている方のもとに帰って

2017-02-24 08:40:07 | 聖書から
主は愛と憐れみをもって彼らを贖(あがな)い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。イザヤ書63:9




 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、

今は、魂の牧者であり、

監督者である方のところへ戻って来たのです。Ⅰペテロ2:25




 Ⅱテモテ3:10~17

 ルカ11:14~23(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/24:金)




 私たちはこの方を知りませんでした。

けれども、この方は、私たちが生きていくのに必要なもの、私たちを喜ばせる善きもののすべてを創造し、私たち人間を造り、常に私たちを負い運び、担って来てくださっている方なのだそうです。

私たちが存在するのも、また、存在し続けられているのもこの方によるのだそうです。




 この方は、ひとりの人、アブラハムを選び、このひとりの人から一つの民族イスラエルを造り、この民族と神の民となる契約を結び、このイスラエルの1600年ほどの歴史の中で、40人ほどの人たちを聖書の記者として立て、聖書をとおしてご自身を私たち人間に啓示し、ご自身の御思いを表わしておられるのだそうです。




 その聖書によりますと、この方、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、人間の始祖、アダム以来の、私たち人類のこの方に対するそむき、離反の責任を、今から2000年ほど前、ナザレ村出身のイエスを、旧約聖書で預言されていたとおりにエルサレムで十字架刑によって処刑され、その処刑によって、私たちを処罰済みとしてくださったのだそうです。




 そのうえで、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、この方によって、受け入れる者の心にご自身の御思いを置いてくださり、受け入れる者がご自身と思いを同じにし、心を一つにするようにと道を開いていてくださるのだそうです。




 私たち、どのように生きていったらいいか分からないで、羊のようにさまよっているものですが、この方、天の神、主が魂の牧者、監督者となってくださるのだそうです。




 そして、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者としていただき(Ⅱテモテ3:17)、

神の指として悪霊どもをさえ追い出す神の国、神の統治を地にもたらす者ともしてくださるのだそうです(ルカ11:20)。

この方のこの御業の中に出て行くのですね。

私たち、今日も。


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