朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

天と地をお造りになった方、やがて、来られて、地を治められる方が、

2018-07-31 08:24:12 | 聖書から
 万軍の主よ。
あなただけが
地上のすべての王国の神であり、
あなたこそ
天と地をお造りになった方です。イザヤ書37:16

 私は天が開かれているのを見た。
すると見よ、白い馬が現れた。
それに乗っている方は
「誠実」および「真実」と呼ばれて、
正義をもって裁き、
また戦われる。黙示録19:11

 エフェソ書5:15~20
 ヨハネ7:53~8:11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/31;火)

 天使の万軍を従えておられる方、
地上のすべての王国の神であり、
天と地、この宇宙と地球の自然環境を
私たち人間の住まいとして創造された方。

 その方が、神のあり方を捨て、
御自分を無にして、その天の御座を後にして、
仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのだそうです。
人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、
死にまで従い、
実に十字架の死にまで従われたのだそうです。

 〔父である神〕の御思いに従って、
私たちすべての人間の身代わりとなり、
神に背き、神に呪われた者となって
十字架刑での処刑を受けてくださり、


 私たち自身である、
私たちの「生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わっているもの、死んだものとしてくださるために。

 それで、〔父である神〕は、
墓に葬られたこの方を、
三日目に死者の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って弟子たちに何度も現れさせ、
神の国のことを伝えさせた後、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
高く上げて、ご自身の右の座に帰らせ、
すべての名にまさる名をお与えになったのだそうです(ピリピ2:6~9)。

 ヨハネが見た幻では、
この方は、「忠実」、「真実」と呼ばれ、
義をもってさばきをなさるのだそうです。

 また、血に染まった衣を着ていて、「神のことば」と呼ばれ、
白い馬に乗り、やがて、天にある軍勢を従えて地に来られ、
地を治められるのだそうです。

 だから、私たちの人間の歴史がどんなに暗い方向に進むことがあっても、
このようなことにあずかっている私たちには希望があるのですね。

 このイエスを通して
受け入れる者に来てくださる〔聖である霊〕とよばれる方は、
受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださるのだそうですから(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は
イエスのように
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして生きるようにしていただけるのだそうです。

 〔父である神〕のみこころはなんであるかをよく悟り、
悪い時代にあっても
機会を十分に生かして用いるようになるのだそうです。

 酒に酔う(満たされる)のではなく、
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、
主に向かって心から歌い、
また賛美しながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方に満たされ、
いつでも、すべてのことについて、
私たちの主イエス・キリストの名によって
〔父なる神〕に感謝する心にも(エペソ5:15~20)。


 イエスが宮で、
みもとに寄って来た民衆に教えておられるとき、
律法学者とパリサイ人がイエスを告発する理由を得ようとして、
姦淫の現場で捕らえられた一人の女を連れて来て、
真ん中に置き、
イエスに言ったのだそうです。


 「先生。
この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打に(処刑)するよう命じています。

 ところで、
あなたはなんと言われますか」と。

 イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられたのですが、
彼らが問い続けてやめなかったので、
身を起こして言われたのだそうです。

 「あなたがたのうちで、
罪のない者が、最初に彼女に石をなげなさい。」

 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、
イエスが一人残された。
女はそのままそこにいた。

 イエスは身を起こして、そして女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。
あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

 彼女は言った。
「だれもいません。」

 そこで、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:1~11)。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に働いて、
事に当たって、
このイエスのように、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者にも
してくださるのだそうですから。
今日も。

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神の御思いに、心傾けて

2018-07-30 09:37:37 | 聖書から
 主よ、
不当な利益にではなく、
あなたの心の定めに
心を傾けるようにしてください。詩119:36

 金銭の欲は、すべての悪の根です。
しかし、神の人よ、
あなたはこれらのことを避けなさい。
正義、信心、信仰、
愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。Ⅰテモテ6:10、11

 列王記上3:16~28
 ヨハネ7:40~52(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/30;月)

 私たち人間は、
天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方によって、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)
と願われて造られたものなのだそうです。

 〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛において、
自由意志で、自発的に、
思いを一つにし、
心を一つにし、
行動を一つにし、
存在を一つにしていらっしゃる、
その一つに加わるものを、との願いにおいて。

 けれども、最初の人、アダムをエバは、

その、神との一つの場に居続けることをせず、
自分をもっと素晴らしい者に、偉い者にしようとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになる道を選んだのだそうです。

 神に背き、
神を無視し、
あるいは、対立、対抗して、
自分一人の理性の善し悪しの判断で事を行っていく、
創造の目的から「的外れ」になった者に。

 そして、アダムの子孫である私たちは、

このアダムの「的外れ」の性質を負って生まれて来ているのですね。


 それで、
この「的外れ」になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
「不当な利益」、
本来、自分に与えられたものではない利益を追い求める、
自分一人で、良いもののすべてを独占してしまいたい思いなのですね。
神の御思いを聞こうとはしないで。

 けれども、天の神、主は、

人となられた〔神の御子〕、イエスが受けてくださった
十字架刑での処刑に私たちを合体させてくださって、
私たちの、この、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わったもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、

もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、
受け入れる者の心に
〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを置き(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いがあるようにしてくださるのだそうです。

 それで、天の神、主は、

私たちが、事ごとに、
この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであることを認め、計算して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いに心を向けていくようにしてくださるのだそうです。

 私のうちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、
不当な利益、金銭の欲を求める思いは、
死んだものから出て来た思いとしてイエスの前に差し出し、
受け取っていただきながら、
神の御思い、
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和が心にあるようにしてくださるのだそうです。

 王となったばかりのソロモンのところに、
ふたりの遊女が訴え出たのだそうです。
二人が三日違いで、それぞれ子供を産み、
ふたりだけで、ほかにはだれもいない夜のこと、
片方の女が自分の子の上に伏してしまい、赤ん坊が死んだのですが、
それと気づいたこの女は、
もう一人の女のそばから生きている赤ん坊を取り
自分のふところに抱いて寝かせ、
死んだ赤ん坊をもうひとりの女のふところに寝かせたので、

 その女が、朝、起きてよく見ると、
その死んだ赤ん坊は自分の子ではなかったということで、
ふたりの女がそれぞれ、
その生きている赤ん坊が自分の子だと訴えたのだそうです。

 そのとき、ソロモン王は、

家来に剣を持って来させ、
「生きている子どもを二つに断ち切り、
半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい」と命じたのだそうです。

 すると、生きている子の母親は、
自分の子をあわれに思って胸が熱くなり、
王に申し立てて言ったのだそうです。

 「わが君。
どうか、その生きている子をあの女にあげてください。
決してその子を殺さないでください」、と。

 しかし、もうひとりの女は、
「それを私のものにも、あなたのものにもしないで
断ち切ってください」と答えたので、

 王は宣告を下し、
「生きている子供を初めの女に与えなさい。
決してその子を殺してはならない。
彼女がその子の母親なのだ」、と言ったのだそうです。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

事に当たって、
そのような知恵も
私たちの心にも、
置いてくださるのですね。

 イエスの話しを聞いた人々の中のある者は、

「あの方は、確かにあの(モーセが預言している)預言者だ」と言い、
またある者は「この方は、キリストだ」と言い、
イエスを捕らえに来た役人も、
空手で祭司長たちのもとに帰り、
「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言ったように。

私たちにも。
今日も。

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鹿が、谷川の流れを慕いあえぐように

2018-07-29 07:40:07 | 聖書から

 すべて多く与えられた者は、
多く求められ、
多く任された者は、
さらに多く要求される。ルカ12:48(7/29の週の聖句) 

 まことにあなたはご自分を隠される神、
イスラエルの神よ、
あなたは救いを与えられる。イザヤ書45:15

 いまだかつて、
神を見た者はいない。
父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである。ヨハネ1:18

 マタイ25:14~30
 詩42(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/29;Ⅴ日曜)

 人間、ひとりひとり、皆、違います。
顔かたちももちろんですが、
才能や環境も。

 良いものを多く持っている者もあり、

それは、時には不公平に思えます。

 天の神、主は、
私たち人間を、
大量生産のビスケットのように、
均一、平均的に造られたのではなく、
御思いのままに、
ユニークな、独自性のある者として造られたのだそうです。

 そして、多く与えた者からは多く求め、
多くのものを任せた者からは、
多くのものを要求されるのだそうです。

 他のしもべたちから抜きんでて主人に信用され、
家の管理を任されたしもべ(ルカ12:42~48)、

 あるいは、
5タラント任されたしもべ、
2タラントまかされたしもべ、
1タラント任されたしもべの時のように(マタイ25:14~30)。

 そして、神の評価は、
量や成果そのものではなく、
主人の心、その思いのとおりを実行したかどうか、
その誠実さ、忠実さにあるようです。

 神は、ご自分を隠して救いを与えられる方。

〔父である神〕のふところにおられる〔独り子〕である神、
人となられたイエスによってご自身を示しておられる方。

 それで、人々が、「おまえの神はどこにいるのか」とそしるとき、

「鹿が谷川の流れをしたいあえぐように、
神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎ、
神を、生ける神を求めて渇く」(詩篇42:1~2)のですね。

 「わがたましいよ。
なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
私の顔の救い、私の神を」(詩篇42:10~11)、と。
この新しい週も。

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語った言葉が成るよう、見張っておられるのだそうですから。

2018-07-28 08:17:34 | 聖書から
わたしは、

わたしの言葉を成し遂げようと、

見張っている。エレミヤ書1:12


 神の言葉は生きており、

力を発揮し、

どんな両刃の剣よりも鋭い。ヘブル書4:12

 フィリピ書2:12~18
 ヨハネ7:25~39(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/28;土)


 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
御自分が語った言葉がそのとおりになるように
見張っておられる、というのですね。

 この方の語られた言葉は生きていて、
力を発揮する、
権威ある言葉なのだそうですから。

「北から災いが来る」と言われると(エレミヤ1:14)、
そのとおりになり、

 「主よ。お心一つで、私をきよくしていだけます」と言う
ツアラート(重い皮膚病、ハンセン病)の人に
イエスが、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると
ツアラートがきよめられ(マタイ8:1~4)、

 「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われると、
中風で死にかけている百人隊長のしもべはいやされた(マタイ8:5~13)
のだそうです。

 神は、言葉、

そのご自身の御思いを、
イエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
私たちの心に置いてくださり、
私たちの願いとし、
志としてくださって、
御自分がしようと思っておられるその事を、
私たちに行わせてくださるのだそうです(ピリピ2:13)。
私たちを御自分と心を一つにしている者として。

 イエスは言われました。

「まだしばらくの間、
わたしはあなたがたといっしょにいて、
それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」(ヨハネ7:33新改訳)。

 イエスは、そのことばのとおりに、
〔父である神〕のお心に従って、
私たちすべての人間の身代わりとなり、
十字架刑での処刑を受けてくださり、
死んで、墓に葬られ、
三日目の日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだによみがえり、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
上げられ、雲に迎えられ、
遣わされた方、天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。

 そして、〔父である神〕の右の座にあって、

もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、

 この方によって、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを
心に置いてくださり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になり、
〔父である神〕がその人を通してしようと思っておられることを
していくようにしてくださるのだそうです。

 そして、

「わたしの言葉を成し遂げようと、
見張って」いてくださるのですね。
今日も。

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今からは、あなたの仰せを守らせてください。

2018-07-27 07:19:58 | 聖書から
 わたしは迷い出て、

ついに卑しめられました。

今からは、

あなたの仰せを守らせてください。詩119:67

 
イエスの言葉:

わたしを愛する人は、

わたしの言葉を守る。ヨハネ14:23 

Ⅰペテロ3:8~17
 ヨハネ7:14~24(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/27;金)

 私たち、
「神にひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、
自分の理性による善悪の判断のままに、
創造者であられる天の神、主の御心から
迷い出てしまっている者なのですね。

 それで、
大きな困難などにより、
自分に力の限界を知り、
自分が造られたものであることを悟ることもあるようです。

 そして、造り主である天の神、主のおことばを求め、
御思いのとおりに生きようとするようになることも。

 イエスは言われます。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」、と。

 愛、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
私たちから出て来る愛は、
相手を自分の思うとおりにしようとする傾向があります。

 天の神、主から来る愛は、
相手の思うことがそのまま成るように願うもの、
相手の願うようにしてあげたいと思うものなのだそうです。

 イエスが、
「わたしが天から下って来たのは、
自分のこころを行なうためではなく、
わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」(ヨハネ6:38)と言っておられるように。

 私たちの身代わりとなり、

神に呪われたものとなって
十字架刑での処刑を受けてくださり、
死んで墓に葬られ、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだによみがえり、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちの見守る中、天に上げられ、
〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスを通して来てくださる、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が
受け入れる者の心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いは、
私たちが心を一つにし、
同情し合い、
兄弟愛を示し、
憐れみ深く、
謙遜な心で、
悪をもってあくにむくいず、
侮辱をもって侮辱に報いず、
かえって祝福を与えたい思いなのだそうです(Ⅰペテロ3:8~9)。

 イエスが、

私たちに代わって受けてくださった十字架刑での処刑によって、
私自身である
〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものとしていただいた私たちは、

 その、自分から、
〔生まれたときからの私〕から出て来る思いは、
「死んだもの」から出て来た思いであると認め(計算し)て
イエスの前に差し出し、受け取っていただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって行動するようにしていただけるのだそうですから。

 イエスが、
自分から語るのではなく、
〔父である神〕の御思いのとおりに語っておられたように。
語る言葉の一つ一つにおいてさえも(ヨハネ7:17)。
今日も。

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