朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

神の国(統治)の中へと

2018-05-31 08:37:29 | 聖書から
 私は知っています。
主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、
乏しい人のために裁きをしてくださることを。詩140:13

 貧しい人は幸いである。
神の国はあなたがたのものである。ルカ6:20
 エフェソ書4:1~7
 ヘブル書12:1~11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/31;木)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
悩む者、貧しい人の訴えを取り上げ、
乏しい者のために裁判をしてくださる方、なのですね。

 この方は、また、
心の貧しいもの、霊の貧しい者は幸いなのだとおっしゃられる方。
神の国はあなたがたのものだ、と。

 心の、霊の貧しい者が、神の統治を受け入れる、
神の御心を求めて生きるようになるということなのでしょうか。

 私たちは、とかく、
自分を富んだ者、豊かな者、立派な者にしたくて
キリスト教会と呼ばれる所に来ています。

 けれども、天の神、主は、私たちが、
的外れになっている者、
霊の貧しい者、負債しか持っていない者であることを
気づかせようとされるようです。

 イエスを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受けていく方向は、
自分が、「役に立たないしもべ」、
「有りて甲斐なき者」、
居ると場所ふさぎで、ないほうがいい者であることが分かって、
それを認めていく方向だと(ルカ17:10)。

 私たち、「神のひとりのようになろう」とし、
「善悪を自分の理性の判断だけで決めていくようになっている者」(創世記3:5、22)は、
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方と
心を一つにすることを嫌い、
この方に背き、対立、対抗して、
この方の向こうを張って、
あのパリサイ人のように(ルカ18:11~12)、
「私は、あなたのおことばどおり、
こんなこともあんなこともできるようになりました」
と言える者になりたいのですね。

 そして、「私は自分でちゃんとやれますから、
もう、あなたの憐み、恵みは、私には必要ありません。
御子イエスを私のために十字架刑で処刑するなんて、
あなたは、無駄な、私に必要のないことをなさいましたね」、と。

 そして、天の神、主の統治に入ろうとしないで、
自分の王国を建て上げていこうとするのだそうです。
「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行う」生き方を(士師21:25)。

 しかし、自分の、その「的外れ」の存在に気づき、
霊の貧しさに気づき、
自分がそのようなものであることを認めて、
神に立ち返る者を、
天の神、主は、
あの、家出をした放蕩息子が帰って来るのを待ちわびていた父親のように(ルカ15:11~24)受け入れ、

 その、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスが受けられた十字架刑での処刑に合わせて、
処刑済みのもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、〔父である神〕は、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、
ご自分が生きていることを見せ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
天の父である神の右の座に帰られたイエスを通して、

もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです(ヨハネ14:16~20)。

 この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たちの心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、
書きつけてくださるので(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
受け入れる者は、〔父である神〕と一つ心にしていただけるのだそうです。

 すべてのものの上にあり、
すべてのものを貫き、
すべてのもののうちにおられる、
すべてのものの〔父である神〕が唯一であるように、

キリストのからだは一つ、
御霊は一つ、
望みは一つ、
主は一つ、
信仰は一つ、
バプテスマは一つ、に。

 それで、受け入れる者のうちには、
〔父である神〕の、謙遜と柔和、寛容、
愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて、
御霊の一致を保つ思いがあるようにしていただけるのだそうです。
ひとりひとりがそれぞれ、違っていながら(エペソ4:1~7)。

 私たちも、
いっさいの重荷とまとわりつく罪とをイエスの前にかなぐり捨てながら、
自分の前に置かれている競争を、
忍耐をもって走る続けるのですね。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから
目を離さないで(ヘブル12:1~2)。

 自分の貧しさを認めて、天の神、主の統治の中へと。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

私の魂よ、主をたたえよ

2018-05-30 08:16:32 | 聖書から
 主に造られたものはすべて、
主をたたえよ。
主の統治されるところの、
どこにあっても。
私の魂よ、
主をたたえよ。詩103:22

 霊に満たされ、
詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、
主に向かって心からほめ歌いなさい。エフェソ書5:18~19

 使徒17:(16)22~34
 ヘブル書11:32~40(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/30;水)

 神の国というとき、
それは、やがて来る、やがて実現する神の国と、
今、ここに来ている神の国という二面があるようです。

 そして、今、ここに来ている神の国とは、
国土、場所ではなく、
神の支配、統治が及んでいるところ、という意味合いになるようです。

 その、神の統治の及んでいるところ、どこにあっても
主をたたえる思いで満たされる、ようですね。

 私が、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
造り主である天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方(出エジプト3:14)に
背き、対立、対抗している、
私自身の〔生まれたときからの私〕という霊の理性の支配から解放されて、
「『わたしはある(I AM)』という者」名乗られる方の統治に入り、
この方の御思いで生きるようになった者は、
この方に感謝と賛美をささげながら、
いよいよ、〔聖である霊〕と呼ばれる方に満たされ、
〔父である神〕の御思いおおわれ、
御思いについて行くようになるのだそうです。

 私たちの身代わりとなって、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
ご自分が生きていることを見せ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
雲に迎えられ、天の父である神の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
私たちは、その方が心に置いてくださる〔
父である神〕の御思いに満たされ、
詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合いながら、
主に向かってほめ歌を歌いながら、
いよいよ、この方によって
〔父である神〕の御思いに覆われ、包まれ、
沈められ、漬け込まれていくのだそうです。

 アテネでのこと、
使徒パウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じ、
広場で、そこに居合わせた人たちと論じたのだそうです。
それで、人々はパウロをアレオパゴスに連れて行き、
パウロの話しを聞くことにしたのだそうです。

 それでパウロは、
「神は、今までは、無知の時代を見過ごしておられたが、
今は、どこででもすべての人に、
方向転換して神に立ち返るよう命じておられること、

 神は、お立てになったひとりの人、イエスにより、
義をもってこの世界を裁くために、日を決めておられること、

 そして、この方を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです」と語ったのだそうです。

 しかし、死者の復活のことを聞くと、
ある者たちはあざ笑い、
ほかの者たちは、
「このことについては、またいつか聞くことにしよう」
と言ったのだそうです(使徒17:16、22~34)。

 アテネの多くの人たちはこのようでしたが、
ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、
またダビデ、サムエルや預言者たち、
彼らはこの方への信頼によって、国々を征服し、
正しいことを行い、約束のものを得、
獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、
剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、
戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れたのですね。

 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただき、
またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、
釈放されることを願わないで拷問を受けました。

 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、
さらに鎖につながれ、牢に入れられる目に会い、
また、石で打たれ、試みを受け、
のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、
羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、
悩まされ、苦しめられ、
荒野と山とほら穴と地の穴をさまよいました。

 この人々はみな、この方への信頼によって証しされましたが、
約束のものは得ませんでした。
神は、私たちのために、
さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられ、
彼らも私たちと別にではなく、
私たちといっしょに全うしようとされているのだそうですから(ヘブル11:32~40)。

 この方に信頼して、
御思いが、天で成っているように、いよいよ、私にもなるように、
私が御思いのとおりに生きられるよう、
この方をたたえながら願っていきたいですね。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]



[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]




でも、お言葉ですから、

2018-05-29 09:58:50 | 聖書から

 イスラエルの人々は
主の命令によって旅立ち、
主の命令によって宿営した。民数記9:18

 シモン(ペテロ)の言葉:
先生、
私たちは、夜通し苦労しましたが、
何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、
網を降ろしてみましょう。ルカ5:5

 イザヤ書43:8~13
 ヘブル書11:23~31(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/29;火)

 エジプトを脱出したイスラエルの人々は、
荒野を進む、出発するのも、
止まり、宿営するのも、
主の命令のとおりにしていったのだそうですね。

 シモン(イエスがつけたあだ名はペテロ〔石〕)は、
ガリラヤ湖の漁師だったのですね。
ガリラヤ湖では、夜、漁をしていたようです。
それで、その夜は、夜通し漁をしたのに何にも獲れなくて、
岸辺でむなしく網を洗っていたのだそうです。

 そこへイエスが来られ、群衆が集まったので、
シモン(ペテロ)の舟に乗って、少し漕ぎ出し、
集まった群衆に話をされたのだそうです。

 そして、話が終わったとき、
イエスがシモンに
「深みに漕ぎ出して、網を降ろして魚をとりなさい」
と言われたのだそうです。
それで、シモンは答えたのだそうです。
「先生。私たちは、夜通し働きましたが、
何一つとれませんでした」と。

 このときのシモンの気持ちは、
「イエス様。あなたは、
神の国のことや大工のことなら詳しいのでしょうが、
魚をとることについては素人でしょう。
長年、このガリラヤ湖で漁師をしている私たちが、
一番いい時間に、
ここぞと思う場所で網を降ろしたのに、
何にも獲れなかったのですよ。
この真昼間に、
そのあたりの適当なところに網を降ろしたって、
魚が取れるわけはないでしょう」って感じだったのでしょうね。

 それで終わったら、それだけでした。
けれども、シモンは言ったのですね。
「でも、おことばどおり、網を降ろしてみましょう」と。

 そして、イエスのことばのとおりにすると、
たくさんの魚が入り、網は破れそうになったのだそうです。

 それを見たシモン・ペテロは、
イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ。私のような者から離れてください。
私は罪深い人間ですから」と言ったのだそうです。

 すると、イエスは、
「こわがらなくてもよい。
これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と言われ、
彼らは、舟を陸に着けると、
何もかも捨てて、イエスに従ったのだそうです(ルカ5:1~11)。
イエスがその方であることを感じて。

 その、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方が言われます。
「彼らのうちのだれが、
このこと
(直接的にはイスラエルの民がバビロンの捕囚から解放されて
帰って来ることでしょうか。
さらには、今、世界中に離散している民が
イスラエルへ帰って来ることも。イザヤ43:5~7)
を告げ、
先の事をわれわれに聞かせることができようか」と。

 そして「あなたがたわたしの証人、
わたしが選んだわたしのしもべである。
これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、
わたしがその者であることを悟るためだ。
わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。
わたし、このわたしが、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」であって、
わたしのほかに救い主はいない。

 このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。
あなたがたのうちに、異なる神はなかった。
だから、あなたがたはわたしの証人。
 ――主の御告げ―― 
わたしは神だ。
これから後もわたしは神だ。
わたしの手から救い出せる者はなく、
わたしが事を行なえば、だれがそれを戻しえよう」(イザヤ43:10~13)、と。

 そして、この方への信頼において、
モーセは生れてから、両親によって三ヶ月の間隠されていました。
エジプトの王、パロからは
イスラエル人の男の子が生まれたたら、
すぐにナイル川に投げ込めと命令されていたのに。

 この方への信頼において、
モーセは成人したとき、パロ(王)の娘の子
(葦のかごに入れて、ナイル川の葦の茂みに置かれたモーセを、
水浴びに来たパロの娘が見つけ、
自分の子として育てた。出エジプト2:1~10)
と呼ばれることを拒み、
はかない罪の楽しみを受けるよりは、
むしろ神の民とともに苦しむことを選び取り、
エジプトを立ち去りました。
目に見えない方を見るようにして、忍び通して。

 この方への信頼によって、
初子を滅ぼす者が彼らに触れることがないように、
彼らは過ぎ越と血の注ぎとを行いました。

 この方への信頼によって、
彼らはかわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。

 この方への信頼によって、
人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。

 この方への信頼によって、
エリコの町の遊女ラハブは、
偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、
エリコの町の不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。

 私たちも、この方を信頼して、イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いのとおりに、踏み出してみる、ついて行ってみるのですね。
ペテロのように、
「私にはそうは思えません。でも、おことばですから」と。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]



[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]



願いを聞き、涙を見てくださる方への信頼において、

2018-05-28 08:17:23 | 聖書から
 主はこう言われる。
わたしはあなたの祈りを聞き、
涙を見た。
見よ、わたしはあなたをいやす。列王記下20:5

 ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、
「主よ、
あなたの愛しておられる者が病気なのです」
と言わせた。ヨハネ11:2~3

 出エジプト3:13~20
 ヘブル書11:8~22(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/28;月)

 南ユダ王国の王、ヒゼキヤは、病気になって死にかかっていた。
そこへアモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。
「主はこう仰せられます。
『あなたの家を整理せよ。
あなたは死ぬ。直らない。』」

 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。
「ああ、主よ。
どうか思い出してください。
私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、
あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」
こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、
次のような主のことばが彼にあった。
「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。
あなたの父ダビデの神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者、
主はこう仰せられる。
『わたしはあなたの祈りを聞いた。
あなたの涙も見た。
見よ。わたしはあなたをいやす。
三日目には、あなたは主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者の宮に上る。

 わたしは、あなたの寿命をもう15年加えよう。
わたしはアッシリアの王の手から、あなたとこの町を救い出し、
わたしのために、
また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」

 イザヤが「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい」と命じたので、
人々はそれを持って来て、腫物に当てた。
すると、彼は直った」(イザヤ20:1~7新改訳)。

 兄弟のラザロが病気になったとき、
マルタとマリヤは、イエスの所へ使いを送って、
「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」
と言ったのだそうです。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちの願いを聞き、
私たちをいやしてくださる方。

 マルタとマリヤは、このイエスが、
その、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方(出エジプト3:13~20)、
〔御子である神〕であることを認めて、
こう言い送ったということなのでしょうね。

 この方への信頼において、アブラハムは、
相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、
これに従い、
どこに行くのかを知らないで、
出て行き、

その信頼によって、
彼は約束された地に他国人のようにして住み、
同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

 この方への信頼によって、アブラハムの妻、サラも、
すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。
彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

 この方への信頼によって、アブラハムは、
試みられたとき、独り息子のイサクをささげ、

 イサクは、未来のことについて、
息子のヤコブとエサウを祝福したのだそうです。

 この方への信頼によって、ヤコブは死ぬとき、
ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、
また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝し、

 ヨセフは臨終のとき、
イスラエルの子孫の(エジプトからの)脱出を語り、
自分の骨について、
(約束の地に持って行くよう)指図したのだそうです(ヘブル11:8~22)。

 私たちも、この方への信頼において、
十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活した
イエスを通して来てくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
〔父である神〕の御思いの中に出て行くのですね。
この方の行うわざを行う(ヨハネ14:12)ようにと。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]



[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]




思い起こし、心に留め、願い求めて

2018-05-27 07:46:32 | 聖書から
 聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、
主の栄光は、地をすべて覆う。イザヤ書6:3(5/27日の週の聖句)

 遠くから主を思い起こし、
エルサレムを心に留めよ。エレミヤ書51:50

 どのような時にも、
‟霊“に助けられて祈り、願い求め、
すべての聖なるものたちのために、
絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。エフェソ書6:18

 ヨハネ3:1~8(9~15)
 詩145(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/27;Ⅳ日曜)

 〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神は、
それぞれ、聖である方、
人間との延長をもたない、人間とは完全に別なる方。

 そして、その方の栄光は地をすべて多い、
全地に満ちている、と、
もっとも、御座近くで仕えている天使、
セラフィムは賛美しているのだそうです。

 そして、捕囚の地、バビロンにあったとしても、
天の神、主、「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方を
思い出し、思い起こし、エルサレムを心に思い浮かべるように、と。

 十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて
自分が生きていることを見せ、
神の国について語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置き、
〔父である神〕がしようと思われることを、
私たちの願いとし、志としてくださって、
祈るよう導いてくださるというのですね。
根気よく、忍耐の限りを尽くして。

 〔父である神〕は、
イエスの処刑によって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
私たちの〔生まれたときからの霊〕を
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そして、さらに、このイエスを通して
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 受け入れる者を、「生まれたときからの私」に死んで、
新しく生まれた者、
〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いで生きるのではなく、
この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方がが心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いで生きる者にしてくださるというのですね。

 風が思いのままに吹き、
私たちはそれがどこから来てどこへいくのかを知らないけれど、
その音を聞き、木の葉が揺れるのを見るように(ヨハネ3:1~8)。

 それで、私たちも、うたうのですね。
ダビデとともに。

 私の神、王よ。私は、あなたをあがめます。
あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。
日ごとにあなたをほめたたえ、
あなたの御名を世々限りなく賛美します。
主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。
その偉大さは測り知ることができません。
代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、
あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。
私は栄光輝くあなたの主権と、
あなたの奇しいわざに思いを潜めます。
人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、
私はあなたの偉大さを述べるでしょう。
人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を
熱心に語り、
あなたの義を高らかにうたうでしょう(詩篇145:1~5、新改訳)、と。

 この聖なる、聖なる、聖なる方を思い起こし、
心に留め、御名を呼び、
御心が地に、私に成ることを望みながら。
この新しい週も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]



[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]