朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

もらいますか?恵みのプレゼントなのだそうですが。

2018-03-31 10:04:19 | 聖書から
 主は恵みを与えようとして
あなたたちを待つ。イザヤ書30:18

 あの方が、
まだガリラヤにおられたころ、
お話しになったことを思いだしなさい。
人の子は必ず、罪人の手に渡され、
十字架につけられ、
三日目に復活することになっている、
と言われたではないか。ルカ24:6~7

 Ⅰペテロ3:18~22
 ヨハネ19:31~42(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/31;土)

 神である主は、
私たちが、ご自身と心を一つにしようとせず、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
自分の思いのままに生きる者であることをよくご存じなのですね。

 それで、私たちには期待できないことを見極めて、
ご自身の側の愛の好意によって、恵みとして、
私たちを取り返す計画を立てておられたのだそうです。

 それで、そのご計画の時が満ちて、
愛する御子を、女の子孫として(創世記3:15)、
ダビデ王の子孫のひとりの貧しい処女マリヤの胎を通して人の世に送り、
この方がおよそ33歳の頃、
私たちすべての人間の身代わりとして立て、
この方に私たちのそむきの責任のすべてを負わせて、
十字架刑で処刑し、
神にそむき、呪われたものとして(申命記21:23)、
天と地の間に掲げられたのだそうです。

 〔父である神〕は、そのようにして、
人となられた〔御子である神〕、イエスを、
ユダヤ人の指導者たちの妬みとローマ兵を用いて十字架刑で処刑し、
私たちすべての人間のそむきの罪の処刑が完了しているものとされた後、
墓に葬られた(ヨハネ19:31~42)この方を、
三日目に、死人の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れさせ、
イエスが生きていることを証明し、神の国のことを語らせた後、
オリーブ山から、弟子たちが見守る中、天に引き上げられ(使徒1:3~11)、
ご自身の右の座に復帰させなさったのだそうです(Ⅰペテロ3:22)。

 〔父である神〕は、この方、イエスを通して、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入おれる者に派遣してくださり、
この方によって、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを私たちの心に置き、
受け入れる者がご自身と思いを同じくし、
心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。
神の家族、神の子の身分を持つものとして。
神の一方的な恵みのプレゼントとして。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、私たちを覆い、満たし、
御思いを心に置いてくださり、
私たちを〔父である神〕がしようと思われることをしていく者に
してくださるのだそうです。
今日も。

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もし、全能の神が、私の味方であるなら

2018-03-30 08:00:22 | 聖書から
 モーセが手を海に向かって差し伸べると、
主は夜もすがら激しい東風をもって
海を押し返された。出エジプト14:21

 私は確信します。
死も命も、
天使も支配する者も、
現在のものも未来のものも、
力ある者も高い所の者も低い所の者も、
他のどんな被造物も、
主キリストによって示された神の愛から
私たちを引き離す事はできない。ロマ書8:38~39

 ヨハネ19:16~30
 Ⅱコリント5:(14b~18)19~21
 ヨハネ19:16b~30(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句3/30;金)

 エジプトを脱出したイスラエルの民、
前は葦の海、
後ろからは、追いかけて来たエジプト王パロの率いる戦車隊が迫る
絶体絶命の時、
天の神、主は、モーセに
「あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、
イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を行くようにせよ」
と命じられたのだそうです(出エジプト14:16新改訳)。

 そして、モーセがそのおことばのとおりに、
手を海に向かって差し伸べると、
神である主は、一晩中激しい東風を吹かせて海を押し返され、
水は分かれて、右と左に壁となり、
イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を進んで行ったのだそうです。

 そのように、海の水をさえ退かせる力ある方が、
人の手にかかって十字架刑で処刑を受けられたのだそうです。

 兵士たちのあざけりを受けられ、
自分がかかる十字架を背負ってゴルゴタと呼ばれる処刑場まで歩かれ、
大きな釘で手と足を十字架に釘づけにされるままにされてくださったのだそうです。

 番をしている4人のローマ兵は、
イエスの十字架の足もとで、
イエスの上着を縫い目から4つに分け、
下着は縫い目なしだったので裂かずにくじ引きにしたり、
していたのだそうです。詩編22:18に書いてあるとおりに。

 イエスは、十字架刑での苦しみの中から、
そばに立っている母マリヤを愛する弟子(ヨハネ)に託し、
「完了した」と言われて、
午後の3時頃、ちょうど、過ぎ越しの小羊がほふられるその時間に、
霊をお渡しになったのだそうです(ヨハネ19:16~30)。

 このようにして、〔父である神〕は、
ひとりの人、イエスをすべての人のために処刑し、
すべての人の〔生まれたときからの私〕という霊が
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 生きている人々が、もはや自分のために生きるのではなく、
自分の〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いによって生きるのではなく、
自分のために死んでよみがえった方のために生きる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
〔父である神〕の御思いによって生きる、
〔父である神〕と心を一つにして生きる、
新しく造られた人となるために(Ⅱコリント5:14b~17)。

 このことによって、〔父である神〕は、
私たち人間をご自分と和解させ、
違反行為の責めを私たちに負わせないで、
和解のことばを私たちにゆだねられたのだそうです。
イエスによる、この神の和解を受け取ってほしいと懇願しながら。

 神は、罪を知らない方、イエスを
私たちの身代わりに罪とされ、処刑されました。
私たちがこの方、イエスにあって、
神の義、神との正しい関係に復帰するために。

 だから、もう、死も命も、天使も支配する者も、
現在のものも未来のものも、
力ある者も高い所の者も低い所の者も、
他のどんな被造物も、
主キリストによって示された神の愛から
私たちを引き離す事はできないのだそうです。

 神との和解を受け入れ、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕と心を一つにして生きる者を。

 天の神、主は、海の水を分け、
イスラエルの民を、かわいたちを行くように進ませたように、
私たちにも、してくださるのだそうですから。
今日も。

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「すべては、わたしが創造した」、とおっしゃる方が

2018-03-29 07:21:35 | 聖書から
 すべての命はわたしのものである。エゼキエル書18:4

 イエスの言葉:
わたしの父の家には
住む所がたくさんある。ヨハネ14:2

 ヨハネ13:1~15(34~35)
 Ⅰコリント11:23~26
 ヨハネ19:1~16a(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句3/29;木)

 「すべての命はわたしのものである」と宣言できる方、
その方が、天の神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方なのだそうです。

 「すべてのことが、神から発し、
神によって成り、
神に至る」(ロマ11:36)のだそうですから。

 最初の人アダムも、そして私たち一人一人も、
また、わたしたちの住まいとして用意された
この地球、その自然環境、天地宇宙も、
人間の歴史の出来事の一つ一つも、
〔父である神〕の御思いから発し、あるいは許しの中で起こり、
神にかえっていくのですね。

 イエスも、〔父である神〕の御思いによって、人として人の世に来られ、
御思いのとおりを歩まれ、
御思いのとおりの業を成し遂げられ、完了されて(ヨハネ19:30)、
〔父〕の身元に帰って行こうとしておられた(ヨハネ13:1)のだそうです。

 それで、〔父である神〕御思いのとおりに、
ご自身が、まるで奴隷がするように、弟子たちの足を洗い、
やがて、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
弟子たちの心に〔父である神〕の御思いを置かれるとき、
弟子たちも、互いに足を洗い合う、
互いに愛し合う、
相手を大切に思い合い、
相手の欠点や失敗を補い合う思いが来るようなる
(ヨハネ13:1~15、34~34~35)と仰られるのですね。

 その方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られても、
私たちが滅びてしまわないように、
イエスは、〔父である神〕の御思いに従って、
黙って、ひとことも逆らわずに、
むち打ちの刑を受けられ、
兵士たちの侮辱を受けられ、
ローマ総督ピラトの裁判を受けられ、
祭司長や役人、議員たちの
「十字架につけろ。十字架につけろ」との叫びによって、
「ユダヤ人の王」との罪状で
十字架刑での処刑に赴かれたのだそうです(ヨハネ19:1~16)。

 今は、イエスの十字架刑での処刑が完了し、
私たちすべての人間の肉、〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑済みのもの、死んだものとする道が開かれているのだそうです。

 そして、〔父である神〕は、
十字架刑で処刑され、
墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から、新しい復活のからだ、霊のからだに復活させ、
40日に渡って弟子たちに何度も現れさせ、
イエスが確かに生きていることを証明し、
神の国のことを語るようにされたのち、
オリーブ山から、弟子たちの見守る中、
ご自身の右の座に帰らせられたのだそうです。

 〔父である神〕は、そのイエスを通して、
受け入れる者にもう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、
私たち一人一人に思っておられる御思いを、
受け入れる者の心に置いてくださり、
受け入れる者が、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして、
ご自身がしようと思われることをしていく者としてくださるのだそうです。
イエスがそうであったように。

 そして、私たちのための天の住まい、「父の家」の用意ができたとき、
イエスを二度目に派遣してくださって、
受け入れる者を迎えに来てくださり、
受け入れる者がいつもイエスのいるところにいる(ヨハネ14:1~3)
ようにしてくださるのだそうです。
神の子の栄光に包んで。

 〔父である神〕は、このように計画し、
私たちに、これを受け取り、
この事実の中を生きて行ってほしいと願っておられるのだそうです。
今日も。

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恐れているまま、不安なままで大丈夫なのだそうです

2018-03-28 05:47:05 | 聖書から
虐げる者から遠く離れよ、
もはや恐れることはない。
破壊する者から遠く離れよ、
もはやそれがあなたに近づくことはない。イザヤ書54:14

 イエスの言葉:
わたしは平和をあなたがたに残し、
わたしの平和を与える。
心を騒がせるな。おびえるな。ヨハネ14:27

 ルカ22:1~6
 ヨハネ18:28~40(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句3/28;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
イザヤを預言者として立てて言われます。
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、
大きなあわれみをもって、あなたを集める。
怒りがあふれて、ほんのしばらく、
わたしの顔をあなたから隠したが、
永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」と
あなたを贖(あがな)う主は仰せられる。

 たとい山々が移り、丘が動いても、
私の変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かないとあなたをあわれむ主は仰せられる。

 あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、
あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。
あなたは義によって堅く立ち、
しいたげから遠ざかれ。
恐れることはない。
恐れから遠ざかれ。
それが近づくことはない」(イザヤ54:7~8、10、13~14新改訳)、と。

 イエスは言われます。
「しかし、助け主、すなわち、
父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、
また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
わたしは、あなたがたに平安を残します。
わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」(ヨハネ14:26~27)、と。

 そして、イエスは、12弟子の一人、イスカリオテのユダによって
祭司長たちに引き渡され(ルカ22:1~6)、
祭司長たちは、イエスをローマ総督ピラトに引き渡して、
十字架刑での処刑へと(ヨハネ18:28~40)道を開いて行くことになったのだそうです。

 この、イエスの十字架刑での処刑を通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方、
この方によって私たちも、
〔父である神〕の私たち一人一人に持っておられる御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにするようにしていただいて、
イエスの平和、平安の内に置いていただけるのだそうです。
恐れや不安のだだ中にあっても、
恐れているまま、不安なまま、出て行けば運んでいただけるのだそうですから。
今日も。

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私たちを超えて力強い慈しみによって

2018-03-27 09:42:38 | 聖書から

 主の慈しみとまことは
とこしえに、私たちを超えて力強い。
ハレルヤ。詩117:2

 私たちすべてのために、
その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、
御子と一緒に
すべてのものを
私たちに賜らないはずがありましょうか。ロマ書8:32

 ヨブ記38:1~11、42:1~6
 ヨハネ18:12~27(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/27;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の
慈しみとまことは、
私たち人間の力を超えて力強いのだそうです。
その為された御業は、
私たち人間の理解をはるかに超えているのだそうです。
耳がまだ聞かず、目がまだ見ず、
人の心に思い浮かびもしなかったようなことを、
〔父である神〕は私たちのためにしていてくださるのだそうですから。

 〔父である神〕は、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)として、
ご自身に逆らい、さまよい出てしまった私たち人間を、
元のかたち、
「われわれのかたち、われわれに似たもの」(創世記1:26)、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、自由意思で、自発的に心を一つにしておられる、
その、愛における一つに、私たちを取り戻そうとしておられるのだそうです。

 それで、御子である方を、
女の子孫として(創世記3:15)、
約束のことばのとおりに、ダビデ王の子孫の、
ひとりの貧しい処女を通して
この世に派遣されたのだそうです(ルカ1:26~38、21~7)。

 この神の御子であられる方は、
社会的にも経済的にも貧しい場所におられたのですね。
 それゆえに、世の指導者たちは、
この方が神から遣わされた方と認めることが出来ず(Ⅰコリント:2:8~9)、
世を騒がすものとして捕らえ、
十字架刑で処刑してしまったのだそうです。

 イザヤが、
「私たちの聞いたことを誰が信じたか。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:1~3)と書いているとおりに。

 けれども、〔父である神〕は、
人々がご自身に背いて御子である方を十字架刑で処刑した、
その、御子が受けられた処刑を、
私たち、すべての人間の処刑としてくださって、
受け入れる者の〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わっているもの、
死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 そのうえで、
墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れて、
ご自身が生きていることを証明され、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して、
受け入れる者に、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 そして、この方によって、
私たちの心に、
ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になって生きるようにしていただけるのだそうです。
〔父である神〕がしようとされることをしていく者に。
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰るとおりに。
〔御子である神〕がなされた大いなる御業によって。
今日も。

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