朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

圧倒的な勝利者として

2016-05-11 23:47:47 | 聖書から
恐れてはならない。

  おののいてはならない。ヨシュア記8:1




 信仰の戦いを

立派に戦い抜きなさい。Ⅰテモテ6:12




        (ローズンゲン日々の聖句5/12;木)




 エジプトを脱出したのち、40年の荒野での生活を終え、いよいよ、ヨルダン川を越え、約束の地に入ろうとするイスラエル。

 

 エリコをのぞむモアブの草原で、天の神、主は、モーセに命じられたのだそうです。

父祖の家ごとに20歳以上で軍務に着くことができる者すべての人口調査をせよと。

その結果、20歳以上で軍務に着くことのできる者の数は、60万1千730人だったそうです(民数記26:1~51)。

20歳未満と軍務につくことのできない高齢の男子が、その同じ数くらいだとすると、合わせて男子120万人。女性が同じくらいだとすると、総勢240万人くらいのイスラエル人と加わって来た多くのイスラエル以外の人々(出エジプト12:38)が40年、荒野の旅をしていたということでしょうか。

 

 指導者モーセがモアブの地で死んだ後、神である主は、モーセの従者、ヌンの子ヨシュアをモーセの後継者として立て、民を率いてヨルダン川を渡らせ、立ちはだかるエリコを陥落させたのち、アイの町を目の前にして、ヨシュアに仰せられたのだそうです。

「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた」(ヨシュア8:1)と。




 使徒パウロも、晩年、年若い弟子のテモテに書き送ったのだそうです。

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることも出来ません。

衣食があれば、それで満足すべきです。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心にもとめなさい。

信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠の命を獲得しなさい」(Ⅰテモテ6:6~12)と。




 イエスも言われました。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。

しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と。







 少しも恐れていない者に「恐れてはならない」という必要はないのですね。

恐れているなら恐れているまま、おののいているならおののいているまま、不安なら不安なまま、ひざがカグガクしているなら、ガクガクしているまま、そのままで出て行けばいいのだそうです。

すでに世に勝っているイエスがともにいてくださるのですから(マタイ28:20)。

今日も。


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救い、あがなってくださる力ある方

2016-05-11 08:54:13 | 聖書から
主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖うもの、

  ヤコブの力ある者である。イザヤ書60:16




 イエスは子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。

「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。

少女はすぐに起き上がって、歩き出した。マルコ5:41~42




        (ローズンゲン日々の聖句5/11;水)




 天の神、主は、預言者イザヤを通して言われます。




「見よ。主の御手が短くて救えないいのではない。

その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、

あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。




実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、

あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正をつぶやく。

正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、

むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。

彼らのわざは不義のわざ、

彼らの手のなすことは、ただ暴虐、

彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すのに早い。

彼らの思いは不義の思い、

破滅と破壊が彼らの大路にある。

彼らは平和の道を知らず、その道筋に公義がない。

彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。

それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。




私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。

輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。

公義を待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。

私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、

私たちは自分の咎を知っている。

私たちは、そむいて、主を否み、

私たちの神に従うことをやめ、

しいたげと反逆を語り、

心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。

こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。




主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。

主は人のいないのを見、

とりなす者のいないのに驚かれた。

そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、

ご自分の義を、ご自分の支えとされた。

主は彼らのしうちに応じて報い、

その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復する。

主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。




『しかし、シオンには贖(あがな)い主として来る。

ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。』




あなたは、わたしが、あなたを救う主、

あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る」(イザヤ59:1~20 、60:16)と。







 イエスは、足もとにひれ伏し、「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」といっしょうけんめいに願う、会堂管理者ヤイロの願いを聞いてくださって、いっしょに行って下さってのだそうです。




 途中で、家から人が来て「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」ということばを聞いて、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われたのだそうです。




 そして、家に着くと、大声で泣いたり、わめいたりし、イエスが、「子どもは死んだのではない。眠っているのです」と言うと、喜ぶどころか、あざ笑う人々を外に出し、このように言われると、死んでいた娘はすぐさま起き上がって歩き始めたのだそうです(マルコ5:21~24、35~43)。







 無から有を呼び出し、死人を生き返らせる力ある方が、私たちの罪を御自身で負い、受け入れる者の心に、私たち、一人一人に思っていてくださる御思いを置いてくださり、私たちを用いようとしていてくださるのだそうです。

今日も。


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