朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

全ての重荷、絡まりつく罪をイエスの足元にかなぐり捨てながら

2017-06-30 07:59:53 | 聖書から
イスラエル人は主に言った。
「私達は罪を犯しました。
私達に対して何事でも、御目に適うことを行ってください。
ただ、今日私達を救い出して下さい。」士師記10:15

 私達もまた、
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、
自分に定められている競争を
忍耐強く走りぬこうではありませんか。ヘブル書12:1

 ヨハネ6:37~40(41~46)
 使徒13:13 ~25(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句6/30;金)

 エジプトを出たイスラエル人が、40年の荒野での生活の後、
約束の地に入り、自分の土地を得て生活が安定し、代が替わって行ったとき、
また、主の目の前に重ねて悪を行い、
行って近隣の人たちの神々に仕え、
自分の神を捨て、主に仕えなかったのだそうです。

 それで、神である主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、
彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡されたのだそうです。

アモン人がヨルダン川を渡って攻め寄せ、イスラエルが非常な苦境に陥ったとき、
イスラエル人は天の神、主に叫んで言ったのだそうです。
「私たちは、あなたに罪を犯しました。
私たちの神を捨てて、他の神、バアルに仕えたのです」と。

 すると、天の神、主は仰せられたのだそうです。
「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。
シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。

しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。
だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。
行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。
あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい」と。

 それでも、イスラエル人は、さらに、このように答えて、彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、
主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなったのだそうです(士師記10:6~16)。

 イエスは言われました。
「父がわたしにお与えになる者はみな、私のところに来ます。
そしてわたしのところへ来る者を、わたしは決して捨てません。
わたしが天から下って来たのは、自分の心を行うためではなく、
わたしを遣わした方のみこころを行うためです。

わたしを遣わした方のみこころは、
わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、
ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

事実、わたしの父のみこころは、
子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(ヨハネ6:37~40)と。 

 私たちもまた、すべての重荷、絡まりつく罪を、
〔父である神〕の御前に言い表し、見ていただき、知っていただいて、
イエスの足元にかなぐり捨てながら、助けをいただいて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
〔父である神〕が私を通してしようと思っておられる御思いの場に出て行き、
与えられている行程を走り抜くのだそうです。
よみがえり、御前に立つ、その日を目指して。
今日も。
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豊かな慈しみをもって

2017-06-29 08:28:34 | 聖書から
あなたに向かって私は祈ります。
主よ、御旨にかなうときに、
神よ、豊かな慈しみのゆえに、
私に答えて確かな救いをお与えください。詩69:14

 あなたがたの中で苦しんでいる人は、
祈りなさい。
喜んでいる人は、
賛美の歌をうたいなさい。ヤコブ書5:13

 マタイ15:29~39
 使徒13:1~12(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句6/29;木)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちに、願いを言って来てほしいと思っていらっしゃる方のようですね(ピリピ4:6)。
私たちが、自由意思で、自発的に、ご自身と思いを一つにすることを喜ばれる方ですから。

それで、私たちに、自分から、自発的に、話して来てほしいのだそうです。

 そして、すべてのものをあい働かせて益にしてくださり(ロマ8:28)、
ご計画の時にかなえてくださるのだそうですから。

 天の神、主は慈しみ深い方。
イエスが、ガリラヤ湖の岸を行き、人里離れた、へんぴな山に登られたときも、大勢の人が追いかけて来て、
足のなえた人、手足の不自由な人、盲人、口のきけない人などを御許に連れて来て、
イエスの足元に置いたのだそうです。

イエスは、それらの人々をいやされたので、
人々は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者がなおり、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚き、神をあがめたのだそうです。

 さらに、イエスは言われたのだそうです。
「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。
彼らを空腹のままで帰らせたくありません。
途中で動けなくなるといけないから」と。

 そして、群衆に、地面の草の上に座るように命じられ、
手元にあった7つのパンと小さい魚、少しを取り、
感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられたので、
弟子たちはそれを群衆に配ったのだそうです。
人々は、食べて満腹して、帰ったのだそうですが、
パン切れの余りを取り集めると、7つのかごにいっぱいあったのだそうです。
食べた者は、女と子どもを除いて、男4千人だったそうですが(マタイ15:29~39)。

 天の神、主は、
私たちのことを心にかけ、私たちと思いを一つにしたいと願っていてくださるのだそうですから。
今日も。
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あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

2017-06-28 08:34:14 | 聖書から
天は神の栄光を物語る。詩19:2

 イエスが水の中から上がるとすぐ、天が裂けて
“霊”が鳩のように御自分に降(くだ)って来るのを、ご覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。マルコ1:10~11

 ヨハネ4:5~14(15~18)
 使徒12:18~25(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句6/28;水)

 イエスが、バプテスマ(洗礼)を受けようとして、ヨハネのもとに来られた時、
ヨハネは、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と言ったのだそうです。
ところが、イエスは、
「今はそうさせてもらいたい。
このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と答えられ、そこで、ヨハネはバプテスマを授けることを承知したのだそうです。

そして、イエスがバプテスマを受けて、すぐに水から上がられると、天が開け、
神の御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方が鳩のように、イエスの上に下って来られ、
そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が天から聞こえたのだそうです。
天がイエスの栄光を語ったということでしょうか。

 イエスが、ガリラヤに行こうとして、サマリヤを通られ、
お昼の12時頃のこと、スカルという町の町はずれにあるヤコブの井戸で、腰を下ろし、休んでおられたとき、弟子たちは食物を買いに町に行っていてイエスだけがそこにおられたのだそうですが、その井戸に水を汲みに来た女性に、イエスが「水を飲ませてください」と言ったことがきっかけで、その女性との話が始まったのだそうです。
イエスはその女性に、「この(井戸の)水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と言われたのだそうです(ヨハネ4:5~14)。
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、「永遠のいのちへの水」とも呼ばれる方なのですね。

 ガリラヤの領主ヘロデは、ツロとシドンの人々に対して強い敵意をいだいていたのだそうです。
ヘロデの国から食料を得ていたツロとシドンの人たちは、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めたのだそうです。
それで、定められた日に、ヘロデは王服をつけて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めると、彼らは、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたのだそうです。すると、たちまち、主の使いがヘロデを打ち、彼は虫(お腹の寄生虫)にかまれて、息が絶えたのだそうです。

 私たちに代わり、十字架刑での処刑を受けてくださったイエスを通して来てくださる、〔聖である霊〕と呼ばれるお方。
私たちの心に、〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言っていただけて、
〔父である神〕がしようと思われることをしていくようにしてくださり、
私たちも神の栄光の現す者としてくださるのだそうです。
今日も。
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忠実な管理者によってここまで伝えられて

2017-06-26 08:18:25 | 聖書から
真実を
私の口から奪わないでください。詩119:43

 人は私たちをキリストに仕える者、
神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。Ⅰコリント4:1~2

 箴言9:1~10
 使徒11:19~30(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句6/26;月)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方のみことば、その言葉に表された御思い、それが真実というもののようですね。
それがいつも私の口にあるようにしてください、ということでしょうか。

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、ご自身の御思いを、
イエスの十字架刑での処刑を自分の〔生まれた時からの私〕という霊の処刑と受け取り、
この〔生まれた時からの私〕という霊を死んだものとしていただいた者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きによって、その心に置いてくださり、
御思いが心に来るようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、そのようにしていただいた者の心には、〔父である神〕の御思いが来て、
「父である神〕がその人を通して誰かに話そうと思われるとき、
その御思いがその人の口にあるようにされ、
その人は、父である神が話そうとしておられることを口から出すことになるのだそうです。

 パウロは、そのような在り方を、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と言っているようです。
そして、「管理者に要求されるのは忠実であること」だと。

 「神のひとりのようになろうとして、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私たちの〔生まれた時からの私〕という霊は、
自分一人の理性の判断で、ことの善し悪しを決めようとする性格を持っています。

それで、天の神、主の御思いを取り次ぐときにも、この、自分の理性の善し悪しの判断が働いて、
その自分を知恵ある者だと思って神の御思いの上に自分の思いを上げ(箴言9:1~10)、
その自分の思いで神の御思いを差し引いたり、付け加えたりしてしまう者のようです。

だから、御思いに忠実であることが求められるということなのでしょうか。

 ステパノのことで起こった迫害によって、エルサレムから散らされたイエスの弟子たちは、フェニキヤ、キプロス、(シリヤの)アンテオケまで進んでいったのだそうですが、
「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは律法にかなわない」(使徒10:28)というユダヤ人の常識によって、
ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語っていなかったのだそうです。

 ところが、(シリヤの)アンテオケに来てからは、ギリシャ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えたので、大勢の人が信じて主に立ち返ることになったのだそうです。

 天の神、主の御思いは、ユダヤ人の枠を超え、すべての民族に(創世記12:3)、
そして、地の果てにまで(使徒1:8)なのだそうですから。
今日も。
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燃える炭火を、相手の頭の上に積み上げて

2017-06-25 08:05:24 | 聖書から
疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。マタイ11:28(6/25の週の聖句)

 ヨセフは、
兄たちを慰め、優しく語りかけた。創世記50:21

 悪に負けることなく、
善をもって悪に勝ちなさい。ロマ12:21

 ルカ14:(15)16~24
 詩28(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句6/25;Ⅳ日)

 イエスは、心優しく、へりくだった方。
疲れた者、重荷を負う者に、
「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言ってくださる方なのだそうです。

 エジプトの宰相になったヨセフも、
自分を殺そうとし、奴隷として売り飛ばした兄たちに復讐することをせず、
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、
神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」と優しく語りかけたのだそうです。

 使徒パウロは言います。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
『復讐はわたし(神)のすることである。わたしが報いをすると、主は言われる。』
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:19~21)と。

 私たちも、イエスを通しての、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の招きに応じ(ルカ14:16~24)、
「ほむべきかな、主。
まことに主は私の願いの声を聞かれた。
主は私の力、わたしの盾。
私の心は主により頼み、私は助けられた。
それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。
主は、彼らの力。
主は、そ油そそがれた者の、救いのとりで」とうたうのですね。

そして、「どうか、御民を救ってください。
あなたのものである民を祝福してください。
どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください」(詩篇28:6~9)と。この新しい週も。
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