朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

一人として滅びることなく、永遠の命を持つように、と

2017-12-31 15:22:15 | 聖書から
主の憐れみは深く、
恵みに富み、
忍耐強く、
慈しみは大きい。詩103:8(12/31の週の聖句)

 主は言われた。
「わたしは、
エジプトにいるわたしの民の苦しみを
つぶさに見、
追い使う者のゆえに叫ぶ
彼らの声を聞いた。出エジプト記3:7

 神は、
その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された。
独り子を信じる者が
一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

 ルカ12:35~40
 詩103(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/31;Ⅰ日)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
憐れみ深く、恵みに富み、
忍耐強く私たちを待っていてくださる方、
慈しみ豊かな方なのだそうです。

 イスラエルの民が、エジプトで、奴隷の労役に苦しんでいる
その苦しみをつぶさに見ていてくださり、
その叫びを聞いていてくださる方。
その労役かから解放し、
約束の地に導き入れるために
モーセを派遣してくださった方。

そのように、独り子である方を、人として、人の世に派遣され、
この方を私たちの身代わりにして、
私たちの「的外れ」の責任の全部をこの方に負わせて
十字架刑で処刑してくださるほどに、
私たち人間を愛してくださっている方、なのだそうです。

 そして、私たちを処刑済みのものとみなしてくださって、
ご自身との正しい関係に戻してくださるために、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、
受け入れる者に派遣してくださり、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
受け入れる者の心に置いてくださって、
すべての人が、ご自身と思いを同じくし、
心を一つにして生きるようにと願っていてくださるのだそうです。

その、十字架刑で処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが、
私たちを迎えに、また、来てくださるのだそうです。

 そのときを、
いつ、婚礼から帰って来るのか分からない主人を、
帰ってきたら、すぐ、戸を開けられるようにと、
腰に帯を締め、明かりをともして待っているしもべのように、
泥棒が、今夜、来ると分かって
用心している家の主人のようにしていなさいと言われるのですね。
「人の子(イエス)は、思いがけない時に来る」のだそうですから(ルカ12:35~40)。


 そのときを待ち望みながら、
あの詩篇103篇の詩人のように、私たちも歌いたいですね。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。

私のうちにあるすべてのものよ。
その聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓から贖い、
あなたに、恵みと憐れみの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。


主はすべてしいたげられている人々のために、
正義とさばきを行われる。
主は、ご自身の道をモーセに、
そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
主は、憐れみ深く、情け深い。
怒るのに遅く、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。
いつまでも怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように
御恵みは、主を畏れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように
私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
父がその子をあわれむように、
主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ちを知り、
私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。


人の日は草のよう。
野の花のように咲く。
風がそこを過ぎると、それはもはやいない。
その場所すら、それを、知らない。
しかし、主の恵みはとこしえからとこしえまで、
主を恐れる者の上にある。
主の義は、その子らの子に及び、
主の契約を守る者、
その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。
主は天にその王座を堅く立て、
その王国はすべてを統べ治める。
主をほめたたえよ。御使いたちよ。
みことばの声に聞き従い、
みことばを行う力ある勇士たちよ。
主をほめたたえよ。
主のすべての軍勢よ。
みこころを行い、主に仕える者たちよ。
主をほめたたえよ。
すべて造られたものたちよ。
主の治められるすべての所で。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。詩103新改訳)、と。


 この一年の終わりの日にも。

恵みの上に、さらに恵みを

2017-12-30 10:12:51 | 聖書から
人の生涯は草のよう。
野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消え失せ、
生えていた所を知る者もなくなる。

主の慈しみは
代々とこしえに
主を畏れる人の上にある。詩103:15~16、17

 私たちは皆、
この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上に、さらに恵みを受けた。ヨハネ1:16

 イザヤ書63:7~14
 ヨハネ1:14~18(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句12/30;土)

 人の生涯、人の日は、草のよう、なのだそうです。
熱風が吹くと、草は枯れ、花は散り、
生えていた所を知る者もいなくなる、のだそうですから。

けれでも、
天の神、主の恵みは、
とこしえから、とこしえまで、
主を畏れる者の上にあるのだそうです。


天地創造の初めから、〔父である神〕とともにおられ、
すべてのものを造られた方。
その方が人となって、私たちの間に住まわれたのだそうです。
〔父である神〕の恵みとまことを、私たちに届けるために。
私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、
恵みの上に、さらに恵みを受ることができるのだそうです。
〔父である神〕の恵みとまことが、
イエスによって、
この人間の歴史の中に実現したのだそうですから(ヨハネ1:1~3、14~18)。


イザヤはうたいます。

私は、主の恵みと、主の奇(くす)しいみわざをほめ歌おう。
主が私たちに報いてくださったすべてのことについて、
そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださった
イスラエルの家への豊かないつくしみについて。

主は仰せられた。
「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。
こうして、主は彼らの救い主になられた。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

 しかし、彼らは逆らい、
主の聖なる御霊を痛ませたので、
主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。

 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思いだした。
「羊の群れの牧者たちとともに、
彼らを海から上らせた方は、
どこにおられるのか。
その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、
どこにおられるのか。
その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
彼らの前で水を分け、
永遠の名を成し、
荒野の中を行く馬のように、
つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、
どこにおられるのか。
家畜が谷を下るように、
主の御霊が彼らをいこわせた」(イザヤ63:7~14新改訳)、と。


 私たちも、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を忘れ、
自分で生きているように思い違いをする者ですけれど、
天の神、主を思い出し、
この方の恵みとまことに帰って行けますように。
今日も。

打ち砕かれた心、貧しくされた霊の人と共にいてくださり

2017-12-29 07:09:32 | 聖書から
わたしは、高く、聖なる所に住み、
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、
へりくだる霊の人に命を得させ、
打ち砕かれた心の人に命を得させる。イザヤ書57:15

 貧しい人は福音を告げ知らされている。マタイ11:5

 Ⅰヨハネ4:11~16a
 ヨハネ1:9~13(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/29;金)

 いと高く、聖なる所に住んでおられる方が、
また、心打ち砕かれてへりくだる人と共にいてくださるのだそうです。
へりくだっている人の霊を生かし、
砕かれた心の人を生かすために。
それで、福音、
イエスによる喜ばしい音信は、
心の貧しい人に告げ知らされているのですね。


ヨハネは、手紙に書いています。
 愛する者たち。神がこれほどまでに、
私たちの罪のために、なだめの供え物として
御子である方を人の世にお遣わしくださり、
この方を十字架刑で処刑し、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
私たちにいのちを得させてくださったほどに、
私たちを愛してくださったので、
私たちも、また、互いに愛し合うようになります、と。


いまだかって、だれも神を見た者はありません。
もし私たちが互いに愛し合うなら、
神は私たちのうちにおられ、
神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神は私たちに御霊を与えてくださいました。
それによって、私たちが神のうちにおり、
神も私たちのうちにおられることがわかります。

 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、
今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、
神はその人の内におられ、
その人も神のうちにいます。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です(Ⅰヨハネ4:10~16新改訳)、と。


すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。

 しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、
肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれた(ヨハネ1:9~13)のだそうですから。

十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより、新しい霊のからだによみがえり、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方が、受け入れる者の心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
それで、これを受け入れる者、
心打ち砕かれ、心を貧しくされた者は、
〔父である神〕と思いを同じにし、心を一つにして生きる、
新しい生をもらい、受け取り、
この新しい生を生きていくようになるのだそうです。
今日も。

すべての人を神の子にしようと

2017-12-28 09:13:46 | 聖書から
エッサイの株から一つの芽が萌え出で、
その根からひとつの若枝が育つ。イザヤ書11:1

 しかし、時が満ちると、
神は、その御子を女から、
しかも律法のもとに生まれた者として
お遣わしになりました。
それは、律法の支配下にある者を贖い出して、
私たちを神の子となさるためでした。ガラテヤ書4:4~5

 マタイ2:13~18
 ヨハネ1:6~8(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/28;木)

 イエスが生まれる、およそ740年ほど前のこと、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
イザヤを預言者として立て、預言して言われたのだそうです。
「エッサイの根株から一つの新芽が萌え出で、若枝が出て実を結ぶ」、と。


そして、イエスは、エッサイの息子のダビデ王の子孫であるマリヤ
(ルカ3:23~32 ヘリは、マリヤの父、夫ヨセフには義父)と
ヨセフ(マタイ1:6~16)の息子として、人の世に来られたのだそうです。
律法を持つ民の中に。

 そして、ホセアの預言に、
「わたしの子をエジプトから呼び出した」(ホセア11:2)とあるように、
赤ん坊のイエスは、ヘロデ大王の殺意を逃れてエジプトに逃げ、
ヘロデが死んだ後、御使いのお告げを受けて、イスラエルの地に帰り、
ガリラヤのナザレに住まれたのだそうです(マタイ2:13~15、19~23)。

 ヘロデは、イエスを殺そうとして、
ベヅレヘム近辺の2歳以下の男の子をひとり残らず殺させ、
エレミヤ書31:15に書かれてある、
「聞け。ラマで聞こえる。
苦しみの嘆きと泣き声が。
ラケルがその子らのために泣いている。
慰められることを拒んで。
子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」
というようなことも起こったのだそうです(マタイ2:18)。

 また、イエスが30歳のころ、
キリスト(神の子・救い主)としての活動を始める直前、
イザヤ書40:3にある、
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整えよ。
荒れ地で、私たちの神のために。
大路を平にせよ』との預言のように、
「王の前に道を備える者」として
バプテスマのヨハネが宣教を始めたのだそうです(ヨハネ1:6~8)。

イエスは、律法の支配下にあって、
「的外れ」の存在のゆえに滅びるはずの私たちの身代わりとなり、
律法に示されているとおりに、
贖いの小羊としてご自分のいのちを差し出し、
神に呪われた者として、
十字架刑で天と地との間に掲げられてくださったのだそうです。
それで、受け入れる者は処罰が終わっている者としていただけるのだそうです。

 そして、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、受け入れる者に「神の子」の身分を与え、
〔父である神〕の御思いを心に置いてくださり、
受け入れる者が神の家族として、
〔父である神〕と思いを一つにし、
心を一つにして生きていくようにしてくださるのだそうです。
今日も。

子の御救いは、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄、なのだそうですから。

2017-12-26 08:44:38 | 聖書から
主は私たちの神、
主の裁きは全地に及ぶ。詩105:7

 光が世に来たのに、
人々はその行いが悪いので、
光よりも闇の方を好んだ。
それが、もう裁きになっている。ヨハネ3:19

 ヨハネ1:1~5(6~8)9~14
 ヘブル書1:1~3(4~6)
 ルカ2:29~32(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/26;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方。
この方こそ、私たちの神、主。
この方の裁きは全地に、すべての人に及ぶのだそうです。


光が世に来ているのに、
私たちは、光よりも闇を愛するのですね。
悪いことをする者は光を憎み、
その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方へ来ないで。
ちょうど、アダムとエバが、
「あなたはどこにいるのか」と呼びかける神から身を隠し、
園の木の間に身を隠したように。
このこと自体が、
私たちが「的外れ」になっている結果であり、
裁きになっている、というのですね。

〔神の御子〕であられる方が、
人間イエスとして、人の世に来られたのだそうです。
使徒ヨハネは記しています。

初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。
  ~~
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、
肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:1~5、9~14新改訳)、と。


ヘブル書の記者は記しています。
神は、むかし父祖たちに、
預言者たちを通して、
多くの部分に分け、
また、いろいろな方法で語られましたが、
この終りの時には、御子によって、私たちに語られました。

 神は、御子を万物の相続者とし、
また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、
また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられます。
また、罪のきよめを成し遂げて、
すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:1~3)、と。


 この御子である方、イエスが、
私たちに代わって、
私たちが受けるはずの十字架刑での処刑を受けてくださっているので、
私たちは、このイエスに合わせられたものとしていただけ、
処罰が終わっているものとしていただけるのだそうです。

 そして、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者に来て下さり、
私たちの心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを
置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は、
〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして、
〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていく者に
していただけるのだそうです(創世記1:26、ヨハネ17:21~23、14:12)。


イエスが〔父である神〕と心を一つにしておられ、
〔父である神〕がしようと思われることだけをしておられたように(ヨハネ5:30、8:28)。

 イエスによる、この御救いは、
〔父である神〕が万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの光栄(ルカ2:31~32)なのだそうですから。
今日も。