朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

目のひとみのように、私たちを大事に思って。

2016-04-30 08:12:46 | 聖書から
主はその民を

  御自分のひとみのように守られた。申命記32:10




 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、

また信じています。Ⅰヨハネ4:16




        (ローズンゲン日々の聖句4/30;土)




 天の神、主は、私たち、人間を、御自分のひとみのように思っていて、

守り、大切にしていてくださるのだそうですね。




 そして、導き、運んでくださるのだそうですね。

鷲が巣のひなを呼びさまし、

そのひなの上に舞いかけり、

翼を広げてこれを取り、

羽に載せていくように(申命記32:11新改訳)。

今日も。


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永遠の昔、天地が造られる前からの計画なのだそうですね。あの方の。

2016-04-29 07:52:17 | 聖書から
神の言葉:

わたしは、とこしえに責めるものではない。

  永遠に怒りを燃やすものでもない。イザヤ書57:16




 神が私たちを

救い聖なる招きによって呼び出してくださったのは、

私たちの行いによるのではなく、

御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔に

キリストにおいて私たちのために与えられました。Ⅱテモテ1:9




        (ローズンゲン日々の聖句4/29;金)




 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、

その名を聖ととなえられる方が仰せられるのだそうです。

「わたしは、高く聖なる所に住み、

心砕かれて、へりくだった人とともに住む。

へりくだった人の霊を生かし、

砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、

いつも怒ってはいない。

わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

彼のむさぼりの罪のために、

わたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。

しかし、彼はなおそむいて、

自分の思う道を行った。

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。

わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、

慰めを報いよう。

わたしはくちびるの実を創造した者。

平安荒れ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。

わたしは彼をいやそう」(イザヤ57:15~19新改訳)と。




 天の神、主は、声をかけていただきながら、なおそむいて、むさぼるばかりの私たちを、

そういう自分の実体を認めて悲しむ者、心砕かれた者、その一番低い所にも共にいて下さって、下から支えてくださるのだそうです。

「たましいが衰え果てるから」と思っていてくださるのだそうですね。




 天の神、主は、永遠の昔、人間のために天地が造られる前からそう思っておられ、「御子である方」を私たち、そむくばかりの人間の身代わりとして処刑することによって、私たち、人間を取り戻すご計画を立てたうえで、天地の創造、人間の創造に取りかかられたようですね。




 そのご計画を、今から2000年ほど前、「御子である方」が、ダビデ王の子孫であるユダヤのナザレ村の貧しい一人の処女マリヤの胎を通して、「女の子孫」(創世記3:15)、人間イエスとして生まれられ、およそ、33歳の頃、エルサレムの城壁の外で、十字架刑での処刑を受けてくださったことで実行されたのだそうです。

その救いを、なんの良き行いもない者に、恵みのプレゼントとして差し出していてくださるのだそうです。




 そして、これを受け取る者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方により、受け入れる者の心に、私たち、一人一人に思っていてくださる御自身の思いを書き付けてくださるのだそうです。




 それで、悪いことばかりに傾く私たちの心も一新していただけて、「父である神」が一人一人に対して思っていてくださる御思いを思うようにもしていただけ、一つ思いになって、「父である神」が一人一人をとおしてしようと思ってくださっていることをしていく者にもしていただけるのだそうです。

永遠の昔から。

今日も。


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具体的な助けの道を用意して、待っていて下さる方

2016-04-28 07:35:21 | 聖書から
主よ、私は貧しく身を屈めています。

  私のためにお計らいください。詩編40:18




 イエスは5つのパンを裂いて、

弟子たちに渡しては配らせ、

2匹の魚も皆に分配された。

すべての人が食べて満腹した。マルコ6:41~42




        (ローズンゲン日々の聖句4/28;木)




 詩篇の作者は謳っています。

「主よ。どうかみこころによって

私を救い出してください。

主よ。急いで、私を助けてください。




あなたを慕い求める人がみな、

あなたにあって楽しみ、喜びますように。

あなたの救いを愛する人たちが、

『主をあがめよう』といつも言いますように。

私は悩む者、貧しい者です。

主よ。私を顧みてください。

あなたは私の助け、私を助け出す方。

わが神よ。送れないでください」(詩篇40:13~17新改訳)と。




 イエスは、話しを聞きに来ていた人々が、空腹で、途中で動けなくなるのはかわいそうだと思い、そうならないようにと、そこにあった5つのパンと2匹の魚で、女と子供を除いた、男だけでも5千人ほどいた人々を満腹にして帰されたのだそうです(マルコ6:34~44)。




 天の神、主は、悩む者、貧しい者、助けを求める者を顧みてくださり、具体的な助けを用意していてくださる方なのだそうです。

今日も。


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聞くには早く、語るには遅く、怒るにはおそく

2016-04-27 08:34:37 | 聖書から
夢や空想が多いと饒舌になる。

  神を畏れ敬え。コヘレト5:6




 愚かな議論、系図の詮索、争い、

律法についての論議を避けなさい。

それは無益で、空しいものだからです。テトス書3:9




        (ローズンゲン日々の聖句4/27:水)




 私たち、天の神、主から、「われわれのかたちとして、われわれのように」 (創世記1:26)と願われて創造されながら、その天の神、主と一つになっている場を捨て、「かみのひとりのようになり、善悪を知るようになろう」とした者(創世記3:4~6、22)の性質を受け継いでいるものなのだそうです。

 それで、私たちは、自分の知識を誇り、自分の考えがいかに優れているかを知らせたくって、その知識をなんとか人にしらせようと、やたらに話す、議論するようです。 かしましく。




 キリスト教会の交わりにおいても、だれかが一つ、ずれたことを言うと、20も30も言葉が返って来る。まあ、正してあげなければ、と、善意でやっているのですけれど。(私もずいぶん、そういうことをやって来たな、との自戒を込めて。)




 「祈り」と言うことにおいても、やたら、しゃべくりまくる。そして、たくさん、激しくしゃべれたから、今日はよく祈れた。恵まれた、と。さらには、私の信仰もまんざらではない、とか思う。(これも自戒です。)

ともかく、聞くことが苦手で、しゃべりたいもののようです。私たち。




預言者エリが、神の訪れを知ったとき、少年サムエルに教えたのは、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と申し上げることだった(サムエル3:9)。




 もちろん、積もる憂いと悩みを、ひたすらに申し上げて、神さまに聞いていただけることも素晴らしい恵みですが(サムエル1:15~16口語訳)。




イエス御自身も言っておられます。「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは父の命令が永遠の命であることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(ヨハネ12:49~50)と。

イエスは、その生涯のすべてにおいて、自分の考えだけで言葉を発したことは一度もなく、ただ、「父である神」が話そうとされたことだけを話し、しようとされたことだけをした方なのだそうです。




 イエスが、私たちの身代わりになって十字架刑での処刑を受けてくださっている今は、「私が、私が」と自分の方にばかり心向く私たちも、「生まれたときからの霊」と呼ばれている、今までの私自身はイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとしていただき、復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、「父である神」が私たち一人一人に思っていてくださる御思いをそれぞれの心に書き付けていただいて、御父と同じ思いを持つ者にしていただけるのだそうです。




 「父である神」は言っておられるのでしょうか。

「あなたを通してこの地上に実現したいこと、この人間の歴史の中でしていきたいことがあるのだけど」と。




 聞くに早く、語るにおそく、怒るにはおそいもの(ヤコブⅠ:19)にしていただいて、心に来る「御思い」に聞いていきたいですね。

今日も。

用意してくださった弁護者が、

2016-04-26 07:31:06 | 聖書から
神は私の道を見張り、

 私の歩みをすべて数えておられるではないか。ヨブ記31:4




 神の御前では隠れた被造物は一つもなく、

すべてのものが神の目には裸であり、

さらけ出されているのです。

この神に対して、

私たちは自分のことを申し述べねばなりません。ヘブル書4:13




        (ローズンゲン日々の聖句4/26;火)




 この方の前に、隠れたところはなく、私たちのすべてがさらけだされているのだそうです。

心の思い、その動きまでも。

この方は、私たちの行動だけでなく、その動機、心をご覧になる方なのだそうですから。




 やがて、私たちは、一人でこの方の前に立ち、生きて来た一つ一つのことについて問われる時が来るのだそうです。

 けれども、父である神は、私たちのうち、誰一人、自分の正しさで立つことができないことをよく御存じで、私たちのためにひとりの弁護者を用意していてくださるのだそうです。




 その方は、私たち、すべての人間の、すべての罪を、御自身に引き取って、自分から、反逆者、犯罪人の場に自分を置き、十字架刑での処刑を受けて、天と地との間に高く掲げられ、呪われ、見せしめにされた方なのだそうです。




 死刑にされ、黄泉のどん底にまで下り、霊の世界のすべてを体験された方。

罪は犯されなかったけれど、人間のすべての悩み、苦痛を経験してくださった方なのだそうです。




 この方に弁護をお願いしていくなら、私たちのすべての罪は、この方ご自身において処刑済みになっており、告訴する者、サタンが新たに、どんな私たちの罪をほじくり出して来たとしても、その罪の、私たちが受けるべき処罰は、もう、ひとかけらも残っていないと弁護してくださるのだそうです。




 だから、この方に弁護をお願いしていく者は、憐れみを受け、恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、はばかることなく、大胆に、恵みの御座に近づいていいのだそうです(ヘブル4:14~16)。

今の、この自分のままで。




 「父である方」は、受け入れる者に、「御子」の義の衣をきせ、「子」の身分を与える霊、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださり、一新された新しい心、「父である方」と思いを一つにしていく心を与えてくださり、御自身が、私たち一人一人をとおしてしようと思っておられることをしていく者にしてくださるのだそうですから。

今日も。


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