朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

罪に対して死んで、義によって新しく生きる

2017-07-31 05:55:28 | 聖書から

わたしは一日のうちにこの地の罪を取り除く。ゼカリヤ書3:9

 キリストは十字架にかかって、
自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。
私たちが、罪に対して死んで、
義によって生きるようになるためです。Ⅰペトロ2:24

 ヨハネ6:47~56
 使徒18;1~22(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/31;月)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
エジプトを出たイスラエルの民に、律法というかたちでご自身の御思いを示し、
人間が自分の力で、ご自身と思いを一つにし、心を一つにすることができるかどうかを実験されたようですね。
そして、イスラエル1500ほどの歴史において、
誰一人、義と認められる者はいないことを実証されたうえで、
私たちのそむきの罪を取り除く救い主としてダビデの切り株からの一つの若枝を来させ(ゼカリヤ3:8)、
この方が、自らの身に、私たち、すべての人間のそむきの責任を担って、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

そして、受け入れる者の、その人自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、この、イエスの十字架刑での処刑に 合体させてくださって、処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。
そのうえで、受け入れる者にもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、その心に置いてくださって、受け入れる者の心に、ご自身と同じ思いがあるようにしてくださり、受け入れる者がご自身と心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。


ちょうど、パン(食物)を食べると、そのパン(食べた物)が私たちのからだの中にあり、また、私たちのからだは、食べた物によってできていて、ある意味で、食べた物の中にあって、食べた物と私たちのからだが一体になっているように、イエスの十字架刑での処刑を通して受け入れる者に来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕の御思いを内に持つ者は、その部分において、神と心を一つにする者、神と一体にされた者にしていただけるのだそうです(ヨハネ6:47~56)。

 パウロが、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる御思いのままに生きていったように(使徒18:1~22)。
私たちも御思いに聞きながら生きる新しい生き方を、今日。
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相続権を持つ子、ご自身の家族としてくださって

2017-07-30 08:10:18 | 聖書から
あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者。神の家族である。エフェソ書2:19(7/30の週の聖句)

主の神殿、主の神殿、主の神殿という、
むなしい言葉により頼んではならない。
お前たちの道と行いを正しなさい。エレミヤ書7:4~5

 神の国は言葉ではなく
力にあるのです。Ⅰコリント4:20

ヨハネ6:1~15
 詩21(通読箇所)
 (ローズンゲン日々の聖句7/30;Ⅴ日)

 私たちは、以前は異邦人であり、
無割礼の者で、キリストから離れ、イスラエルの国籍から除外され、
約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない者でした。

しかし、以前は遠く離れていた私たちも、キリスト・イエスの中にあることにより、
キリストの十字架で流された血によって近い者としていただけて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕のみもとに近づくことができるようにしていただけるのだそうです。
他国人でもなく、寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国民、神の家族に。

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が、バビロン軍を用いて、イスラエルを打ち、人々をバビロンへ捕らえ移そうとされたとき、
エルサレムの人たちは、ここには主の神殿があるから、異邦人であるバビロン軍が入ってくることなない、と、言っていたのだそうです。

ちょうど、かつての日本が、日本は神国、神風が吹いて、戦争に負けることはない、と言っていたように。

それに対して、天の神、主は、エレミヤを通して言われたのだそうです。
「主を礼拝するために、この門に入るすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。
イスラエルの神、万軍の主はこう仰せられる。
あなたがたの行いと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの地に住ませよう。
あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言っている偽りのことばを信頼してはならない。
もし、ほんとうに、あなたがたが行いとわざとを改め、
あなたがたの間で公義を行い、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、
罪のない者の血をこの所で流さず、
ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう」(エレミヤ7:2~7新改訳)と。

しかし、この時のイスラエルの人々も、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」であって、
エレミヤを通しての神のことばに聞こうとせず、
自分の理性の判断の善しとするところに従って、「主の宮があるから」と言い続け、
エジプトに頼り、他の神々を拝む道から離れようとはしなかったのだそうです。

そして、ついに、城門は破られ、頼みにしていた神殿は火で焼かれ、
主だった人々はバビロンへ引いて行かれることになったのだそうです。

「神の国は言葉ではなく力にある」のだそうですから。
神のことばは、人間の思想の産物のように、ことばだけで終わるものではなく、
事実となって現れることばなのだそうですから。


イエスが、ガリラヤ湖の向こうの、人里から離れたところに行かれたとき、
大ぜいの人の群れがイエスに着き従って行ったのだそうです。

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、
ピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と言われ、
少年が持っていた大麦のパン五つと小さい魚2匹を、感謝をささげてから、人々にほしいだけ分け与えられ、
男だけで5千人ほどいた彼らが十分食べた後、残ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになった(ヨハネ6:1~13)、そのように。

そのときも、人々は、天の神、主に聞こうとせず、自分の理性の判断による善しと思うところに従って、イエスを王にするため、イエスを無理やり連れて行こうとしたのだそうです(6:15)。


天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
イエスの十字架刑での処刑を、私たちの、この「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊の処刑としてくださって、
私たちを処刑が完了している者、死んだ者としてくださって、
イエスを通して〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって、私たち一人一人に思っていてくださるご自身の御思いを、受け入れる者の心に置いてくださって、
受け入れる者がご自身と思いを同じくし、心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。
イエスが王として(詩篇21)、再び来られるその日に向かって。
この新しい週も。
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手の幅ほどの、この短い人生において

2017-07-29 17:22:11 | 聖書から

ご覧ください。
与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生も無に等しいのです。
ああ、人は確かに立っているようでも、
すべて空しいもの。詩39:6

わたしがお願いするのは、
彼らを世から取り去ることではなく、
悪い者から守ってくださることです。ヨハネ17:15

 黙示録3:1~6
 使徒17:16~34(通読箇所)
 (ローズンゲン日々の聖句7/29;土)

 私たち、定規を持たないで、物の長さを測るとき、
指を広げ、小指の先から親指の先までで計ることがありますが、
ユダヤでは閉じた手の幅で測ったようです。

ダビデ王は言います。
人生は、天の神、主の御前では、その手の幅ほどのもの、と。

その、短い人生を、
イエスは、明日は、いよいよ十字架に架かり死刑になる、との前夜の弟子たちのとの最後の夕食の席で、
弟子たちを守ってくださるようにと、〔父である神〕に祈られたのだそうです。

その、手の幅ほどの人生をどう生きるか。

イエスは、サルデスにある教会に対して、
「わたしは、あなたの行いを知っている。
あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
目を覚ましなさい。
そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。
わたしはあなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたかを思い出しなさい。
それを堅く守り、また悔い改め(方向転換し)なさい。
もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。
あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない」
とおっしゃられたのだそうです(黙示録3:1~3)。

パウロは、アテネのアレオパゴスで、言ったのだそうです。
「アテネの人たち。私はあなたがたが宗教心にあつい方々だとみております。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、
手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、
人の手によって仕えられる必要はありません。
神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。
神はひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、
それぞれに決められた時代と、その住まいの境界をお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
私たちは、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、
今は、どこででもすべての人に悔い改め(方向転換)を命じておられます。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくために日を決めておられるからです。
そして、この方を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒17:22~31)と。

 天の神、主は、私たちにも、どのように受け、どのように聞いたのかを思い出し、
そこに、しっかりと立っていてほしいのでしょうね。
今日も。
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鳴く小鴉に餌を備えられる方の御思いの中へと

2017-07-28 08:05:38 | 聖書から
誰が烏のために餌を置いてやるのか。
その雛が神に向かって鳴き、
食べ物を求めて迷い出るとき。ヨブ記38:41

 主は、ご自分を呼び求めるすべての人を
豊かにお恵みになります。ロマ書10:12

 Ⅰコリント12:12~18
 使徒17:1~15(通読箇所)
 (ローズンゲン日々の聖句7/28;金)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、鳴く小烏に餌を備えられる方。
すべての人の主であって、主を呼び求めるすべての人に恵み深くあられる方、
主の御名を呼び求める人を、だれでも救ってくださる方なのだそうです。

けれども、そのためには、〔御子〕である方が、人として人の世に降り、
神にそむく者として十字架刑での処刑を受けられなければならなかったのだそうです。

そして、〔父である神〕は、この方を死者の中からよみがえらせ(使徒17:3)、
天のご自分の右の座に復帰させ、
この方を通して、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、受け入れる者の心に、ご自身の御思いを置き、
受け入れる者が、ご自身と思いを同じくし、心を一つにして生きる、新しい生き方を生きさせてくださるのだそうです(エレミ31:31~34、エゼキエル36:25~31)。

この、新しい生き方を生きるようになった者は、ちょうど、からだの肢体のような関係なのだそうですね。
手や足、目や耳や口がそれぞれちがう働きをしながら、その人の思いのとおりに働いているように、受け入れる者は、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕の御思いのとおりに、御思いを実現していくものにしていただけるのだそうです(Ⅰコリント12:1~18)。

鳴く小烏に餌を備えてくださる方の豊かな恵み、御思いの中に一歩踏み出してみると経験できることなのだそうのですから。
今日も。
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幼子のように自分を低くし、神のことばに聞いていく者は幸い

2017-07-27 08:49:02 | 聖書から
聞き従うことはいけにえにまさる。サムエル記上15:22

 幸いなのは神の言葉を聞き、
それを守る人である。ルカ11:28

 マタイ18:1~6
 フィリピ書4:10~23(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/27;木)

 奴隷状態であったエジプトを脱出したイスラエルの民。
不従順のゆえに、天の神、主から、「あなたがたを焼くその地には入れない」と言われ、
その当時の軍務に着く者が死に絶えるまでの40年を荒野で生活したのだそうです。
そして、世代が替わって、約束の地に入り、定住はしたのですが、
天の神、主に聞き、主である神と思いを同じくし、心を一つにして歩むことをせず、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)として、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていたのだそうです(士師記21:25)。
そして、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が王であったのに、周りの国々のように人間の王が欲しいと預言者サムエルに要求したので、
天の神、主は、ベニヤミン族のサウルを王として立てるよう、サムエルに命じられたのだそうです。

 預言者サムエルは、サウル王に告げました。
「天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方」は私を遣わして、あなたに油を注ぎ(王とする儀式)、その民イスラエルの王とされました。
今、主の言われることを聞きなさい。
万軍の主はこう仰せられる。
『わたしは、イスラエルがエジプトから上ってくる途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。
今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。
容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』

 サウルは、天の神、主から立てられて王となりましたが、自分の実力で王となったのではなく、
サウルの属するベニヤミン族は、イスラエル12部族の中で最も小さく、
また、サウルは父の家でも末っ子で最も小さい者、若者だったのだそうです。

それで、民を恐れ、民の言うことを聞いて、羊と牛の最も良いものを残したのだそうです。
「あなたの神、主にいけにえをささげるために」と言って。

 それに対してサムエルは答えたのだそうです。
「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。
主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされました。
主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、
従わないことは偶像礼拝の罪だ。
あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」(Ⅰサムエル15:1~23 新改訳)と。

こうして、イスラエルの最初の王朝は、サウル一代で終わることになり、
代わって、ダビデが王として立てられることになっていったのだそうです。

「幸いなのは、神のことばを聞き、それを守る人」(ルカ11:28)なのだそうですから。


 弟子たちが、イエスに「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と問うたとき、
イエスは、小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われたのだそうです。
「まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたも、向きを変えて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、自分を低くするものが、天の御国で一番偉い人です」(マタイ18:1~4)と。

 そして、このように、自分を低くし、イエスが派遣してくださる〔聖である霊」と呼ばれる方によって神のことばに聞いていく者は、どんな境遇にあっても満ち足りることを知っており、
貧しさの中にいる道も、豊かさの中にいる道も、
飽くことにも飢えることにも、
富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている者にしていただけるのだそうです(ピリピ4:11~12)。
「岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと、水の流るる」(甲斐和理子)と、
こだわらず、とらわれることなく、自由に。
今日も。
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