朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

風も波も従わせる方が

2017-03-31 10:58:11 | 聖書から
あなたは誇り高い海を支配し、

波が高く起これば、それを静められます。詩編89:10




 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、

「先生、先生、おぼれそうです」と言った。

イエスが起きて、風と波をお叱りになると、

静まって凪(なぎ)になった。ルカ8:24




 ヨハネ16:16~23

 ルカ21:29~38(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/31;金)




 詩編の作者は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に向かってうたいます。




「天はあなたのもの、地もあなたのもの。

世界とそれを満たすものは、あなたがその基を据えられました。

北と南、これらをあなたが造られました。

タボルとヘルモンはあなたの御名を高らかに歌います。

あなたは力ある腕を持っておられます。

あなたの御手は強く、

あなたの右の手は高く上げられています」(詩篇89:11~13新改訳)と。




 ガリラヤ湖の漁師出身の弟子たちが、力尽きて、死を覚悟する嵐も、イエスが「黙れ、静まれ」とお叱りになると(マルコ4:39)、湖は静かになったのだそうです。




 そのような天と地の造り主である方、嵐もその命令に従う方が、人間の手にかかって十字架刑で処刑され、弟子たちが「見なくなる」というのですね(ヨハネ16:16)。




 けれども、そのイエスが、三日目に墓より新しいからだに復活し、

もう一度弟子たちに会うので、

弟子たちの悲しみは喜びに代わり、喜びで満たされると、

イエスは言うのです(ヨハネ16:19~22)。




 そして、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスに代わって来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。

その方が、私たちの心に〔父である神〕の御思いを書きしるしてくださるので、私たちはその方に聞いていくようになるのだそうです(ヨハネ16:13、23)。




 そして、さらに、天に帰られたそのイエスが、ご自分を受け入れた者を迎えに来てくださり、受け入れる者がイエスの前に立つ、その時が来るというのですね。

それは、同時に、全世界のすべての人に臨むのだそうです(ルカ21:29~36、1テサロニケ4:16~17)。




 その日を目指しながら、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちの心に置いてくださる

〔父である神〕が私を通してしようと思っておられる御思いについて行き、備えていてくださる場に出て行けば、運んで下さるのだそうですから。

今日も。



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常に、付け加え、減らしている私たちを

2017-03-30 07:54:11 | 聖書から
モーセの言葉:

あなたたちは、

私が命じることをすべて忠実に守りなさい。

これに何一つ加えたり、

減らすことがあってはならない。申命記13:1




 イエスの言葉:

もし命を得たいのなら、

掟を守りなさい。マタイ19:17 




 Ⅱコリント4:11~18

 ルカ21:20~28(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/30;木)




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

私たち人間と愛し合う関係になりたいのだそうです。

機械的、自動的なものではなく、強いられたものでもなく、

「こうあるべきだから」ということでもなく、

自由な、自発的な関係による愛し合う関係に。




 そして、そのような愛の関係になっているかどうか、

私たちが心を尽くし、精神を尽くして御自身を愛するかどうか、が、私たちに分かるようにと、私たちの前に、ご自身以外のものがあることも許可しておられるようです(申命記13:3新改訳))。




 天の神、主は、私たち人間を、御自身が、自由な関係において、自発的に愛し合い、一つになっていらっしゃる、その関係に入るものをと願われて、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)造られたのだそうです。




 けれども、最初の人、アダムとエバは、その、天の神、主との、自由な関係における自発的な愛による、「一つになる」関係よりも、

自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になる道を選んだのだそうです(創世記3:5、22)。

天の神、主に対抗し、神の上に自分を置き(イザヤ14:13~14)、神を選び、自分の思いのとおりに動く神を作る者になる道を。




 そして、このアダムの子孫として、すべての人間が、この「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとする性格を受け継いで生まれて来ているのだそうです。

「女の子孫」(創世記3:15)として来られた方以外は。




 そのような、私たち人間の、〔生まれたときからの霊〕から心に来る思いは、天の神、主の御思いのとおりに、ではなく、常に、自分の理性による善悪の判断、「これは善い。これは悪い」を判断して、自分の考えを神のことばに付け加え、あるいは差し引いて聞いているのですね。




 イエスは、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいでしょうか」と聞く青年に、神に対立し神に対抗している、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、「生まれたときからの私」という霊では、永遠のいのちを得る、良いことはできない、ことを分からせるために、「戒めはぜんぶ守っております」という、この青年の一番弱い所、できないところを、あえて、示されたようです。

自分がそういう者だとよく分かったうえで、「わたしについて来なさい」(マタイ19:21)と。




 すべての人間の身代わりになって、十字架刑での処刑を受けるために処刑場に向かって進んで行かれるイエスに、自分の十字架を負って、自分の「生まれたときからの私」という霊は十字架刑で処刑されるはずの者だと認めて、「ついて来なさい」と。




 そして、イエスの十字架刑での処刑が完了している今は、

私たちの「生まれたときからの私」という霊は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、十字架刑で「処刑されたもの」としていただいて、三日目に墓より新しい霊のからだに復活され、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、この方が私たちの心に置いてくださる〔父である神〕が私たち一人一人に思ってくださる御思いに「ついて来なさい」と。




 私たちは、私たちを動かそうとて心に働きかけて来る〔生まれたときからの私〕という霊を絶えず死に渡し、イエスの命が私たちの死ぬべき肉体において明らかに現れ、〔聖である霊〕によって生きる内なる人が日々新たにされていくのだそうです。




 また、主イエスをよみがえらせた方が、私たちも主イエスとともによみがえらせ、測り知れない、思い永遠の栄光に包んで御前に立たせるようにと(Ⅱコリント4:11~18)、私たちを迎えに、輝かしい栄光を帯びておられるイエスを遣わしてくださる、その時をゴールに見つめながら(ルカ21:20~28)。

今日も。


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この方を待ち望んで

2017-03-29 07:56:37 | 聖書から
「主こそ私の受ける分」と私の魂は言い、
私は主を待ち望む。哀歌3:24

 キリストのお陰で、
今の恵みに信仰によって導き入れられ、
神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。ロマ5:2

 ヨハネ15:9~17
 ルカ21:5~19(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/29;水)

 滅びてしまうはずだったのだそうです。私たち人間は。
私たちの悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
これを思い出しては沈むばかり。
私たちが滅び失せなかったのは、天の神、主の恵みによることなのだそうです(哀歌3:19)。

 自分の〔的外れ〕な生き方の行きつく先は滅びでしかなかったのだそうですが、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちを、なお、惜しみ、愛し、憐れんでくださったのだそうです。

 それで、〔御子である神〕と呼ばれる方が、預言の言葉のとおりに、
天の栄光の座を後にして、
ダビデの子孫として生まれる、〔女の子孫〕として、
人間イエスとして人の世に来てくださり、
救い主、キリストとして、すべての人の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちが神のもとに帰る道を開いてくださったのだそうですから。

 私たちは、この、キリストであるイエスが自分のいのちを差し出して完了してくださった(ヨハネ19:30)手続きによって、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えする者ともしていただき、神の子の身分を与えていただけ、神の家族として、〔父である神〕と心を一つにする者にもなり、神の同労者と呼ばれる栄光をいただく者ともしていただけるのだそうです。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕が、私たち一人一人を愛し、大事に思っていてくださる、その御思いが、私たちの心にも来て、私たちも、互いを大切に思い合う者ともしていただけ(ヨハネ15:9~17)、口から出る言葉も、〔父である神〕が語ろうとしておられることを話す者ともしていただけるのだそうです(ルカ15:14~15)。

 〔御霊〕を無限に与えられた(ヨハネ3:34)イエスが、
「わたしがわたし自身からは何事もせず、
だだ、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」と言われた(ヨハネ8:28)、そのように。
今日も。
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イエスがしようと思うことを何でもしていく者に

2017-03-28 08:44:12 | 聖書から
しようと思うことは何でもしなさい。
神があなたと共におられるのです。サムエル記上10:7

 何を話すにせよ、行うにせよ、
すべて主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。コロサイ書3:17

 ヨブ記9:14~23
32~35 ルカ21:1~4(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/28;火)

 イスラエルに王がなかったころ、
天の神、主は、民の中から士師を立ててさばきつかさとし、
士師は神に聞きながら民の問題を解決していました。

 けれども、民は周りの国々のように王がいればと、
王制の弊害を説く預言者サムエルに、
「いや、どうしても、私たちの上に王がいなくてはなりません。
私たちも、ほかのすべての国民のようになり、
私たちの王が私たちをさばき、
王が私たちに先立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」と王を立てるよう迫ったのだそうです。

 天の神、主は、サムエルに、
「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。
それはあなた(サムエル)を退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」と言われ、サムエルを通して、イスラエル第1代目の王、サウルが立てられることになりました。

 あなたはイスラエルの王となるというサムエルの言葉が信じられなくて、
「どうしてあなたはこのようなことを言われるのですか。
私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。
私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか」と答えるサウルにサムエルは言います。
「あなたが、ペリシテ人の守備隊のいる町、神のキブアに入るとき、高きところから降りてくる預言者の一団に出会います。
彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
このしるしがあなたに起こったら、手あたりしだいに何でもしなさい。
神があなたとともにおられるからです。」(サムエル8:1~10:7)と。

 「しようと思うことは、手あたりしだい何でもしなさい」とは、〔ともにおられる神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる〔思うこと〕は、ということのようですね。

 事実、サウロは、サムエルから「私が着くまで7日間、そこ(ギルガル)で待たなければなりません」と言われていたのですが(Ⅰサムエル10:8)、ペリシテ人が攻めて来て、サウロは、ギルガルで、7日間、待ったのですが、サムエルは来ず、民は逃げて行こうとするので、サウロはサムエルを待ちきれず、ついに、自分で全焼のいけにえと和解のいけにえを神にささげたのだそうです。

神のことばに従わず、自分の理性の判断に従って行動した、このことが、サウロが王位から退けられることにつながったのだそうですから(Ⅰサムエル13:5~15)。

 私たちも、〔聖霊を受ける〕と、今までの律法の束縛から解放され、〔生まれた時からの私〕という私自身も生き生きとし、元気になり、今までの、人に気を配りながら、おずおずとではなくなるので、主の思われるとおりにではなく、自分の思いのとおりにして、人をけとばしていくことにもなりやすいようです。

 しっかりと、〔生まれた時からの私〕は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとなっており、〔生まれた時からの私〕から来る思いは、死んだものから出て来ている思いであることを認めて、神の前に差し出し、お渡しし、〔聖である霊〕と呼ばれる方から心に来る〔父である神〕が私を通してしようと思っておられる、その御思いについて行く生き方を理解しておかないといけないようです(ガラテヤ5:24~25)。
もし、王であれば、御思いのとおりに、手あたりしだい何でもしていいのでしょうが。

 義人ヨブは、原因が自分には思いあたらない激しい苦しみの中にあって、神と自分との間を〔仲裁する者〕を望んだのだそうですが(ヨブ9:33)、
その仲裁者として、〔御子である神〕が人間イエスとなって人の世に来てくださり、
和解のいけにえとして、ご自身の身を十字架刑での処刑に差し出してくださって、
天の神、主と私たちすべての人間の仲裁をしてくださいました。

 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思ってくださっている御思いを置いてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。

 あの、レプタ銅貨二つをささげたやもめも(ルカ21:1~4)、その、〔聖である霊〕によって心に置かれた御思いによって生きる人だったのでしょうか。

 私たちも、イエスの御名によって、イエスの代理人として、それぞれの、心に置いていただく、イエスがしようと思われる御思いを、そのとおりにしていく生き方をさせていただけるのだそうです。
今日も。
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眠ることもなく、まどろむこともなく、見守ってくださりながら

2017-03-27 08:42:04 | 聖書から
どうか、主があなたを助けて、

足がよろめかないようにし、

まどろむことなく見守ってくださるように。詩編121:3




 イエスはすぐ手を伸ばしてペトロを捕まえ、

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。マタイ14:31




 ヨハネ6:26~35

 ルカ20:41~47(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/27;月)




 私たちの助けは、天と地を造られた主から来るのだそうです。

この方は私たちの足をよろめかないようにと、

まどろむことなく、眠ることなく見守っていてくださる方なのだそうですから。




 イエスは、ヘロデ王が、捕えていたバプテスマのヨハネの首をはねたことを聞き、舟で寂しい所に行かれたのだそうです。

けれども、群衆は歩いてイエスのあとを追って来たのだそうです。

それで、イエスは、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされたのだそうです。




 陽が西に傾いて来て、手元には、パンが五つと魚が二匹しかなかったのに、イエスは彼らを空腹のまま帰らせるのはかわいそうに思い、

群衆を草の上に座らせ、

その五つのパンと二匹の魚を祝福して裂き、弟子たちが群衆に配ったので、群衆は食べて満腹し、残ったパン切れを集めると12のかごにいっぱいになったのだそうです。

女と子どもを除いて、男5千人ほどいたのだそうですが。




 そして、イエスは、弟子たちを強いて船に乗り込ませて向こう岸へ行かせ、ご自分は一人残って祈っておられたのだそうです。




 弟子たちは、風が向かい風なので波に悩まされていたのだそうですが、

夜中の3時頃、イエスが湖の上を歩いて彼らのところに行かれたので、弟子たちは幽霊だと思い、恐ろしさのあまり叫び声を上げたのだそうです。

イエスが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われると、

ペテロが「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言ったので、

イエスが「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から出て、イエスのほうへ行ったのですが、風を見てこわくなり、沈みかけ、「主よ。助けてください」と言ったので、イエスはすぐに手を伸ばして彼をつかんでくださったのだそうです(マタイ14:1~31)。




 私たちも、沈みかけるようなときにも、ペテロのように、「主よ。お助け下さい」というと、眠ることもなく、まどろむことなく、近くにいてくださる方は、私たちの手をつかんで引き上げてくださるのですね。




 群衆は、イエスがなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、イエスをむりやり連れて行って王としようとしたのだそうです(ヨハネ6:14~15)。




彼らが、向こう岸、カペナウムでイエスを見つけたとき、イエスは彼らに言われたのだそうです。

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子(イエス御自身)があなたがたに与えるものです。

神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。

わたしの父は、天から真のパンをお与えになります。

神のパンは、天から下って来て、世に命を与えるものだからです。

わたしがいのちのパンです。

わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6:22~35)と。




 そして、この後のやりとりで、多くの者がイエスから去って行ったのですが、

父である神は、自分の考えに合わないからと去っていく者ではなく、イエスの言葉に信頼して、イエスこそ、天から下って来た、永遠の命を与えるパンであることを知って、いのちを得る者になって欲しいと願っておられるのだそうです。

眠ることも、まどろむこともなく、見守っていてくださりながら。

今日も。


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