朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

私たちのそばにいて、私たちを見捨てることはなさらないお方に

2018-06-29 23:22:53 | 聖書から
 主よ、
御名を知る人はあなたに依り頼む。
あなたを尋ね求める人は
見捨てられることがない。詩9:11

 パウロの手紙:
主は私のそばにいて、
力づけてくださいました。Ⅱテモテ4:17

 ルカ7:24~30
 ホセア書8:1~14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/30 ;土)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
義によって世界をさばき、
公正ををもって国民にさばきを行われる方。

 主はしいたげられた者のとりで、
苦しみのときのとりでとなってくださる方なのだそうです。

 それで、この方を知る者は、
この方により頼むのですね。

 この方は、
ご自身を尋ね求める者をお見捨てになることはないのだそうですから(詩篇9:8~10新改訳)。

 この方は、最期まで、
どんな時も、私たちと共に立ち、
私たちを獅子の口から助け出し、
力を与えてくださり、
私たちを通して為そうと思っておられることを
実現に至らせてくださるのだそうですから(Ⅱテモテ4:17)。

 それで、世間から、
取税人、遊女、罪びとのやからと言われていた人々は、
神のことばを受け入れて、
神の正しいことを認めたのです。

 これに反して、
自分は正しい、
自分で神の律法を守れていると思っている人々は、
神の勧めを受け入れず、
自分たちに対する神の御心を拒むのですね(ルカ7:24~30)。

 そして、神のことばを他国人のもののようにみなし、
事を行うのにも、
天の神、主によってではなく、
天の神、主に知らせることなく、
相談することもないのだそうです。

 天の神、主は、
私たちと心を一つにして生きる関係になりたいのだそうです。
「われわれのかたちとして、われわれに似せた」(創世記1:26)関係に。

 それで、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るようになって(創世記3:5、22)、
天の神、主に背き、
この方に対立、対抗している
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせて、
処刑されたもの、
死んだものとしてくださるのだそうです。

 そして、受け入れる者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、
受け入れる者の心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者が
〔父である神〕と同じ思い、
一つ心になれるようにしていてくださるのだそうですから。

 どこまでも、より頼む者のそばにいて、
見捨てられることはない
この方の守りの中で。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

私たちの恥は、イエスが全部、受けてくださって

2018-06-28 22:33:55 | 聖書から
 お前が
自分の道を思い起こし、
恥を負うとき、
わたしは
全てのことについて
お前を赦す。エゼキエル書16:61、63

 パウロの手紙:
「キリスト・イエスは、
罪人を救う為に世に来られた」という言葉は
真実で
そのまま受け入れるに値します。
私は罪びとの中で最たる者です。Ⅰテモテ1:15

 ヨハネ6:37~40(41~46)
 ホセア書6:1~6(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/29;金)

 私たちの行い、
心に思うことのすべてが、
天の神、主の御前で明らかにされ、
白日の下にさらされる時が来るのだそうです。

 そのとき、私たちは
どのような大恥をかくことになるのか。

 けれども、〔父である神〕は、
私たちのそむきのすべてを赦そうとしていてくださるのだそうです。

 私たちが赦されるために、
〔神の御子〕であられる方が、
人間イエスとなって人の世に来られ、
私たちの身代わりになって、
私たちに代わって、ご自身の身に私たちの背きの責任を負い、
神に呪われたものとして木に架けられてくださり、
処刑を受けてくださったのだそうです。

 まさしく、イエスは、
罪人である私たちを救う為に
この人間の世に来てくださったのですね。

 イエスは言われます。
「わたしが天から下って来たのは、
自分の思いを行うためではなく、
わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
わたしのところに来る者を、
わたしは決して捨てません。

 わたしを遣わしたみこころは、
わたしに与えてくださったすべての者を、
わたしがひとりも失うことなく、
ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

 事実、わたしの父のみこころは、
子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
わたしはその人たちをひとりひとり
終わりの日によみがえらせます」(ヨハネ6:37~40)、と。

 私たちの恥は、全部ご自身が受けてくださって、
私たちには、
ご自身の、神の子の栄光で包んでくださるのだそうですから。

 それで、私たちも言うのですね。
「さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。

 主は二日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。
私たちは知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現れ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される」(ホセア6:1~3)、と。

 イエスによる赦しの中で。
今日も。

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神に聞いて行くなら。自分の思いはイエスに差し出して

2018-06-28 08:39:17 | 聖書から
 悪を行う者は
そのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば、
豊かに赦してくださる。イザヤ書55:7

 ザアカイは立ち上がって主に言った。
「主よ、私は
財産の半分を貧しい人々に施します。
また、誰かから何かをだまし取っていたら、
それを4倍にして返します。」
イエスは言われた。
「今日、救いがこの家を訪れた。」ルカ19:8~9

 使徒13:15~25
 ホセア書5:8~15(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/28;木)

 私たちは、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るようになっている」(創世記3:5、22)
自分の理性の判断のままに
いろいろ計画を立てる者です。

 けれども、私たちの造り主である、天の神、主は、
ご自身の側で赦しの道を用意して、言っておられるのだそうです。
「わたしのもとに帰って来てほしい。
わたしと心を一つにして歩む者になってほしい」と。

 ザアカイは、自分の理性による善し悪しの判断のままに、
金を神とし、
人々から嫌われ、除け者にされる取税人になり、
金持ちになる道を突き進んだ人のようです。

 けれども、イエスが、
自分から進んでザアカイを名指しで呼び、
ザアカイの家の客となってくださり、
ザアカイのうちにあって、このような思いを与えられたのでしょうか。

 ザアカイは、喜びに満たされ、
誰からも、何も言われていないのに、
自分から進んでこのようにイエスに申し出たのだそうです。
財産の半分を貧しい人に施し、
だまし取った物は、4倍にして返します、と。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
このように、
「神のひとりのようになり、
善悪を知るようになった」(創世記3:5、22)私たち、
ご自身のもとからさまよい出て、
背き、対立、対抗して生きるようになった私たち人間を、
ご自身のもとに取り戻そうとされているのだそうです。

 「われわれのかたちとして、
われわれに似せた者」(創世記1:26)に。
〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛において、自由意思で、自発的に、一つになっていらっしゃる、
その一つに愛において、自由意思で自発的に加わる者に、と。

 それで、天の神、主は、この人間の歴史を導き、
ひとりの人、カルデヤのウルにいたアブラハムを選び、
その一族をエジプトに寄留させ、
そこで一つの民族に成長させ、
奴隷状態にされていたその民のもとにモーセを派遣し、
御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出されたのだそうです。

 そして、アブラハムに約束しておられたとおりに、
カナンの地に民を道びき入れ、
その地を相続財産として分配されたのだそうです。

 そして、エッサイの子ダビデを、
羊を飼っている野から選び出してイスラエルの王とされました。

 そして、約束に従って、
〔御子である神〕が、
このダビデの子孫のマリヤから、
救い主イエスとして生まれるようにされたのだそうです。

 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、
このイエスを認めず、
イエスを罪に定めて、
死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、
当時、イスラエルを支配していたローマの総督ピラトに、
イエスを殺すよう強要し、
十字架刑で処刑させたのだそうです。

 しかし、〔父である神〕は、
墓に葬られたこのイエスを死者の中からよみがえらせたのですね。
イエスは幾日にもわたり、
ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに現れ、
その人たちがイエスの復活の証人となりました(使徒13:15~31)。

 〔父である神〕は、このイエスを、ご自分の右の座に返らせ、
このイエスを通してもう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる神を受け入れる者に派遣し、
この方によって、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
私たちの心の置き、心に書きしるして、
受け入れる者がご自身と一つ思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 天の神、主は、
私たち一人一人を通してしようと思っておられる御思いがあるのだそうですから。
今日も。

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〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いについて行って

2018-06-26 22:35:11 | 聖書から
 隣人に関して
偽証してはならない。出エジプト20:16

 万一だれかが
不注意にも何かの罪に陥ったなら、
そういう人を
柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。ガラテヤ書6:1

 ルカ3:10~18
 ホセア書4:1~14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/27;水)

 私たち、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになっている」、
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
自分を守るため、
あるいは、自分を有利にするために偽証をすることもしてしまうもののようです。

 けれども、私たちは、
この〔生まれたときからの私〕という霊を、
私たちの身代わりとなり、
十字架刑での処刑を受けてくださったイエスに合わせていただいて、
処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。

 そして、イエスは、墓に葬られ、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちの見守る中、
雲に迎えられ、
天の父である神の右の座に帰られたのだそうです。

 そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
私たちの心に置いてくださるのだそうです。

 その、心に来た御思いによって導かれていく者は、
正しい証言をし、
あやまちに陥った人に対しても、
柔和な心で正してあげるようになるのだそうです(ガラテヤ6:1)。

 衣類や食べ物を余分に持っている者は、
持たない人と分け合いたいと思い、
決められた以上に取り立てたり、
力づくで金をゆすったり、
無実の者を責めたりすることを厭うようにも(ルカ3:11~14)。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いについて行ってみて。
今日も。

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「あなたの御名こそ、栄えかがやきますように」と願う者に

2018-06-26 08:14:12 | 聖書から
 私たちにではなく、
主よ、私たちにではなく、
あなたの御名こそ、
栄え輝きますように。
あなたの慈しみとまことによって。詩115:1

 天におられる私たちに父よ、
御名が崇められますように。マタイ6:9

 ヨハネ1:19~28
 ホセア書3:1~5(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/26;火)

 〔御子である神〕も、
〔聖である霊〕と呼ばれる神も、
自らも、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
ご自分の栄光を求めることはせず、
自分の思いが成ることを求めず、
〔父である神〕への愛のゆえに、
ただ、ひたすら、〔父である神〕が崇められること、
〔父である神〕の御思いが成ることだけを求めておられるの方なのですね(ヨハネ5:19、6:38、8:28、12:50、16:13~14)。

 「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊は、
天の神、主に対抗して、自分の栄光を求め、
自分独りの善悪の判断のとおりに事を行って行こうとする者です。

 その、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
私たちは、イエスが受けてくださった十字架刑での処刑で、
処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。

 そして、そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕とお迎えしたとき、
この方によって私たちの心に来る思いは、
〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神の御思いと同じく、
〔父である神〕を愛する思い、
〔父である神〕の御名が崇められることをひたすら願う思い、なのだそうです。

 それで、私たちも、
イエスが弟子たちに教えられたように、
「天におられる私たちの父よ、
御名が崇められますように」と願うようになるのですね。

 バプテスマのヨハネが、活動を始めたとき、
人々は、この人こそキリストと期待したのだそうです。
あるいは、旧約時代の最大の預言者エリヤの再来、
あるいは、モーセが預言していた「あの預言者」か、と。

 しかし、バプテスマのヨハネは、
人々の期待に便乗して自分の栄光を求めることはせず、
自分を遣わされた方の御思いのとおりの分を守り、
自分は、キリスト出現の前に道を整えるために遣わされた者、
「私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません」という場を守り、
イエスが栄光を受けられることを求めて行ったように(ヨハネ1:19~28)。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになって」
自分の理性を神とし、
自分の理性による善し悪しの判断のままに、
自分の好む神を作って行く、
「的外れ」になった私たち、

 夫に愛されていながら、
姦通している女のような私たちを
なお、愛してくださって(ホセア3:1~5)、

 立ち返って、ご自分の「子」、家族に、
自分と心を一つにする者になって
自分と栄光を共にする者になってほしいと
願っていてくださるのだそうですから。
今日も。

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