朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

命の水を、私たちが、ただで飲めるよう、用意して

2018-01-31 22:33:54 | 聖書から
 主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも、
彼らは渇くことがない。
主は彼らのために岩から水を流れ出させる。イザヤ書48:21

 渇いている者は来るがよい。
命の水の欲しい者は、価なしに飲むがよい。黙示録22:17

 Ⅰコリント3;(1~3)4~8)
 申命記10:10~22(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/1;木)

 エジプトを出たイスラエルの民は、
彼らの不信仰のゆえに、
40年間、荒野の乾ききった地を旅したわけですけれど、
天の神、主が、彼らにいつくしみ深い霊を賜り、
彼らの口から天からのパン、マナを絶やさず、
彼らが渇いたときには、岩から水を出させて、水を与え、
彼らを養われたので、
彼らは何も不足することはなく、
彼らの着物もすり切れず、足もはれなかったのだそうです(ネヘミヤ9:⒛~21)。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自身で、御子の命という代価を支払ってくださって、
私たちにも言われます。

「渇いている者は来なさい。
命の水が欲しい者は、それをただで受けなさい」と。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が、私たちのこの地上での生活を通して、
私たちひとりひとりを通してしようと思っておられることを、
その人の心に、その人自身の願いとし、志として立てさせ、
事を行わせてくださるのだそうです(ピリピ2:13)。

 神である主を畏敬し、愛し、
心を尽くし、精神を尽くして神である主に仕え、
主の御思いのとおりの幸せな人生を歩みむようにと(申命記10:12~13)。

 そして、それぞれの働きに従って
報酬を与えようと思っていてくださるのだそうです(Ⅰコリント3:8)。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかなものに忠実だったから、
わたしはあなたにたくさんのものを任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21、23)、と。
今日も。

私たちを、ご自分の子としてくださるほどに、愛してくださって

2018-01-30 23:32:18 | 聖書から
主に向かって私は歌おう。
主は大いなる威光を現してくださった。出エジプト15:1

 御父がどれほど私たちを愛してくださるか、
考えなさい。
それは、私たちを神の子と呼ばれるほどで、
事実また、そのとおりです。Ⅰヨハネ3:1

 ロマ書4:1~8
 申命記10:1~9(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/31;水)


エジプトを脱出したイスラエルの民、
前には葦の海、
後ろには、追って来たエジプトの王パロが率いるエジプトの戦車と騎兵の全軍。

 その絶体絶命の中で、民はモーセに言ったのだそうです。
「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、
この荒野で、死なせるのですか。
私たちをエジプトから連れ出したりして、
いったい何ということを私たちにしてくれたのです」、と。

 けれども、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
モーセに仰せられたのだそうです。
「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、
海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」、と。

 それで、モーセが、言われたとおりに杖を持った手を海の上に伸ばすと、
天の神、主は、一晩中強い東風で海を退かせ、水を分けられたので、
イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んでいったのだそうです。

 そして、後を追って来たエジプトの戦車隊上に、水を返らせたので、
水は、パロの全軍勢の戦車と騎兵をおおい、
残された者はひとりもいないようにされた。


そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、歌ったのだそうです。
「主に向かって私は歌おう。
主は大いなる威光を現してくださった」(出エジプト14~1~15:1)、と。



〔父である神〕は、私たちを愛し、大切に思っていてくださっていて、
私たちをご自身の「子」にしようと思っておられるのだそうです。

 その手続きとして、〔御子である神〕を、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となった、
「そむき」、「的外れ」(創世記3:5、22)の性質を受け継がない、
〔父である神〕との一つ(創世記1:26、ヨハネ10:30、14:10)の関係を保ったままで、
人として、人の世に来られるために、
「女の子孫」(創世記3:15)として、
男との関係をまだ持っていない処女マリヤの胎を通して、
生まれさせ、

この方が、およそ33歳の頃、
その当時のユダヤ人の指導者たちの妬みとローマ兵を用いて、
この方を十字架刑で処刑し、
私たち、すべての人間の
「そむき」、「的外れ」の処罰が終わったものとしてくださるのだそうです。


そして、このイエスによる贖(あがな)いを受け取った者に、
さらに、もうひとりの助け主(ヨハネ14:16)、
ご自身が、ねたむほどに深く愛し、慕っておられる方(ヤコブ4:5)、
私たちを「神の子」としてくださる
「聖である霊」と呼ばれる方(ロマ8:15)を派遣してくださるのだそうです。

 そして、この方によって、
ご自身が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを、
受け入れる者の心に置いてくださって、
受け入れる者が、愛において、自由意思で、自発的に、
〔父である神〕と思いを同じにし、心を一つにして、
「子」として、「家族」として生きるようにしてくださるのだそうです。


 それで、私たちも歌うのですね。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである。
主が罪を認めない人は幸いである」(ロマ4:7~8)、と、
イエスによって実現した威光、輝かしい勝利の御業(みわざ)を。
今日も。

神ご自身の満ち満ちたさまにまで、私たちを満たそうと

2018-01-29 22:50:09 | 聖書から
神が私たちを祝福してくださいますように。
すべてのものが神を畏れ敬いますように。詩67:8

 あなたがたが
すべての聖なる者たちとともに、
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解し、
神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。エフェソ書3:18~19

 申命記7:6~12
 申命記9:15~29(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/30;火)

 モーセは言います。
「あなたは、あなたの神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方の聖なる民だからである。
あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民の内から、
あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
主があなたを恋い慕って、あなたを選ばれたのは、
あなたがどの民よりも数が多かったからではない。
事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。


しかし、主があなたがたを愛されたから、
また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、
主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、
奴隷の家から、エジプト王パロの手からあなたを贖い出された。

 あなたは知っているのだ。
あなたの神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方だけが神であり、
誠実な神である。
主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。


それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、
これを守り行うならば、
あなたの神、主は、
あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、
あなたを愛し、あなたを祝福し」(申命記7:6~12新改訳)、と。


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちを祝福しようと、
その愛の豊かさで満たしたいと思ってくださっている方なのだそうです。
今日も。

私たちに、新しい霊によって、新しい心を創造し

2018-01-28 22:13:57 | 聖書から
 わたしは彼らに一つの心を与え、
彼らの中に新しい霊を授ける。エゼキエル書11:19

 キリストと結ばれる人はだれでも、
新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、
新しいものが生じた。Ⅱコリント5:17

 ルカ19:1~10
 申命記9:1~14(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句1/29;月)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
愛し合い、尊敬し合っておられて、
互いを大切に思い合い、
自分の思いよりも相手の思いが成ることを願って、
自由意思で、自発的に、思いを同じにし、
心を一つにしておられる方なのだそうです。

 それで、御子である神は、全知、全能の方でありながら、
「自分からは何事もせず、
ただ、〔父である神〕の御思いのとおりを話し、
御思いのとおりに行動しておられるのだそうです(ヨハネ8:28、12:20)。

 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
その〔御子である神〕、イエスの思いを受けて行動し、
御子イエスの栄光を現そうとされる方なのだそうです(ヨハネ16:14)。

 そして、〔父である神」、〔御子である神〕は、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をねたむほどに愛し慕っておられ(ヤコブ4:5)、
この方を汚す、冒涜する者は赦さない(マルコ3:29)と仰っておられるのですね。

 そして、〔父である神〕は、そのご自身の愛の中に加わり、
愛し合うゆえに、自由意思で、自発的に心を一つにする者を、と願われて、
私たち人間を創造されたのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方と、心を一つにしていく場に留まることを止め、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となって、
自分の理性の善し悪しの判断に従って生きる道を選び取ったのだそうです(創世記3:5、22)。

 それで、アダムとエバの子孫である私たちも、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」、
天の神、主に対抗する者として生まれてきているのだそうです。

 それで、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自身の御思いを言葉で、文字で伝えても、心を一つに出来ない私たち人間に、
新しい霊によって新しい心を与え、心の思いのほうから、一つになるよう、
道を開いてくださっているのだそうです。

 〔父である神〕は、人となられた〔御子である神〕イエスが、
私たちに代わって受けてくださった十字架刑での処刑を私の処刑と見なしてくださり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれたときからの霊〕を
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そして、受け入れる者に、御子イエスを通して〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって私たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕の御思いを思い、一つ心になるようにしてくださるのだそうです。

 エリコの町の取税人の長ザアカイが、
イエスが声をかけられ、家に泊まられたことによって、
心を変えられ、
自由意思で、自発的に、自分から、
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」と言い出したように(ルカ19:1~10)。
私たちにも。
今日。

気前のいい、慈しみ深く、憐れみに満ちた方を待ち望んで

2018-01-27 22:07:26 | 聖書から
私たちは、
あなたの深い憐みのゆえに、
伏して、嘆願の祈りをささげます。ダニエル書9:18

 主を待ち望め、
雄々しくあれ、心を強くせよ。
主を待ち望め。詩27:14

 あなたがたは、
ヨブの忍耐について聞き、
主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。
主は慈しみ深く、
憐れみに満ちた方だからです。ヤコブ書5:11

 マタイ20:1~16a
 詩119:73~80(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/28;Ⅳ日)

 バビロン帝国が滅ぼされ、
メディヤ人ダリヨスが、カルデヤ人の王となったその元年、
ダニエルは、預言者エレミヤにあった神である主の言葉によって、
エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が70年であることを、文書によって悟り、
顔を神である主に向けて祈り、
断食し、灰をかぶって、願い求めたのだそうです。


 「このわざわいはすべて、
モーセの律法に書かれているように、私たち上に下りましたが、
私たちは、不義から立ち返り、
あなたの真理を悟れるよう、
私たちの神、主に、お願いもしませんでした。
主はその災いを私たち上に下しました。
私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。
私たちが、御声に聞き従わなかったからです。

 しかし今、私たちの神、主よ。
あなたは力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、
今日あるとおり、あなたの名を上げられました。
私たちは罪を犯し、悪を行いました。
主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、
どうか御怒りと憤りを、
あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。
私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、
エルサレムとあなたの民が、
私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。

 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、
主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。
わたしの神よ。
耳を傾けてください。
目を開いて私たちの荒れすさんださまと、
あなたの御名がつけられている町をご覧ください。
私たちが御前に伏して願いをささげるのは、
私たちの正しい行いによるのではなく、
あなたの大いなるあわれみによるのです。
主よ。聞いてください。
主よ。お赦しください。
主よ。心に留めて行ってください。
私の神よ。あなた自身のために遅らせないでください。
あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです」(ダニエル9:13~19新改訳)、と。



ウツの地にいたヨブという人。
この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたのだそうです。
そして、天の神、主からの祝福を受け、
7人の息子、3人の娘、
そして、多くの羊、らくだ、牛、ろば、しもべを持っていたのだそうです。


ある日、神である主の前に立ったサタンは、ヨブについて言ったのだそうです。
「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。
あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。
彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません」と。

 そこで、神である主は、サタンに仰せられた。
「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。
ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」。


それで、サタンはヨブを打ち、
ヨブは一日のうちに、全財産と息子、娘を失ったのだそうです。

 そのとき、ヨブは立ち上がり、
その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、言った。
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな」。(ヨブ1:1~21)



サタンは、また、神である主に言った。
「皮の代わりには皮をもってします。
人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。
彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」



 主はサタンに仰せられた。
「では、彼をおまえの手に任せる。
ただ彼のいのちには触れるな」。


 サタンは主の前から出て行き、
ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中に座った。
すると彼の妻が彼に言った。
「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。
神をのろって死になさい。」
しかし、彼は彼女に言った。
「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。
私たちは幸いを神から受けるのだから、
わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ2:1~10)



 そして、ヨブは自分の潔白を主張し続け、
なぜ、このような目に会うのか、神と論じてみたいと、
神に叫び続けたのだそうです(ヨブ3~31章)。



 そして、ついに、神が現れて語ってくださり(38~41章)、
ヨブは神である方の主権を認めて、
神である主に答えて言ったのだそうです。
「あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、
私は知りました。



 『知識もなくて、摂理をおおい隠す者はだれか。』
まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。
自分で知り得ない不思議を。



 『さあ聞け。わたしが語る。
わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。』

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(42:1~6)、と。


 そして、神である主は、ヨブの繁栄を元どおりにされ、
ヨブの所有物を2倍にされ、
地上に7人の息子と3人の娘、
天に、7人の息子と3人の娘をもつものとしてくださったのだそうです(42:10~15)。

 このヨブの忍耐を覚え、
心を強くして、神である主を待ち望み続けるようにと言われるのですね。

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は、
夕方、5時ごろに雇われてぶどう畑に行った者にも、
「ただ私としては、この最後の人たちにも、同じだけ上げたいのです」と、
朝から働いたものと同じ賃金を払ってくれる
気前のいいぶどう園の主人のように(マタイ20:1~16)、
慈しみ深く、あわれみに満ちた方なのだそうですから。
今日も。