朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

心が喜び踊るのだそうです。見ていただき、知っていただいて。

2017-01-31 21:27:52 | 聖書から
銀はわたしのもの、
  金もわたしのもの、
 と万軍の主は言われる。ハガイ2:8

 擦り切れることのない財布を作り、
尽きることのない富を天に積みなさい。
あなたがたの富のあるところに、
あなたがたの心もあるのだ。ルカ12:33~34
 マタイ21:18~22
 (通読箇所)ルカ7:36~50
    (ローズンゲン1/30;月)

 神よ、あなたが変わることはありません。
あなたの歳月は終わることがありません。詩編102:28

 神である主、
今おられ、かつておられ、やがて来られる方、
全能者がこう言われる。
「わたしはアルファであり、オメガである。黙示録1:8
 マタイ8:28~34
 (通読箇所)ルカ8:1~3
    (ローズンゲン日々の聖句1/31;火)

 慈しみをいただいて、私は喜び躍ります。
あなたは私の苦しみをご覧になり、
私の魂の悩みを知ってくださいました。詩編31:8

 願いなさい。そうすれば与えられ、
あなたがたは喜びで満たされる。ヨハネ16:24
 ホセア2:20~25(新改訳18~)
 (通読箇所)ルカ8:4~15
    (ローズンゲン日々の聖句2/1;水)

 慈しみ深い方に、苦しみを見ていただき、知っていただくことで、心が喜び躍ることになるようです。
それで、思い煩っている暇に、願い事を神に知っていただきなさい、と勧めてくださるのですね(ピリピ4:6)。

 私たちの責任のすべてをイエスに負っていただいて、十字架刑で処刑されたものとしていただくなら、自分のうちから出てくるどんな思いも、安心して、大胆に御前に差し出し、広げて、見ていただくことができるのだそうです。

イエスの十字架刑での処刑で、すでに処罰は終わっているのだそうですから。
ありのままの、単一な心になって、大胆に恵みの御座の前に出て行って、見てもらい、知ってもらえるようになるのだそうです。
今日も。
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驚くべき御業を受け取って

2017-01-29 10:20:32 | 聖書から
来て、神の御業を仰げ、

  人の子らになされた恐るべき御業を。詩編66:5(1/29の週の聖句)




 神よ、わたしの若い時から、

あなた御自身が常に教えてくださるので、

今に至るまで私は、

驚くべき御業を宣べ伝えて来ました。詩編71:17




 私を強くしてくださった、

私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。

この方が、私を忠実な者と見なしてくださったからです。Ⅰテモテ1:12




 マルコ4:35~41

 (通読箇所)詩編9

    (ローズンゲン日々の聖句1/29:Ⅴ日)




 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の御業、

イエスの弟子のヨハネは、そのみわざをいちいち書きしるすなら、世界もそれを入れることができないだろうと書いています(ヨハネ21:25)。




 私たち人間の創造。

そして、私たちの住まいとして、私たちが喜び、快適に過ごすようにと用意してくださったこの天地、宇宙、地球のこの自然環境の創造。




 また、多くの民の中からご自分の民としてのイスラエル民族の選び。

その民を超自然的な御業によってエジプトから脱出させられた御業。




 また、紀元70年、ローマ軍によってエルサレムを徹底的に破壊し、残りの民を世界に離散させられながら、2000年、なお、民族としてこれを保ち、今、約束の地に国を再建させ、預言の言葉のとおりに世界中から民を帰らせておられること、など、など、など。




 使徒パウロは言うのですね。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」と。

そして「神をけがす者、迫害する者、(イエスの弟子たちに)暴力を振るうものであり、罪人のかしらのような私を憐れみ、その罪を赦し、さらに、使徒に任命し、異邦人(イスラエル民族以外の人たち)にイエスの出来事を伝える者として、強くしてくださり、用いてくださった」(Ⅰテモテ1:12~15)驚くべき御業と。




 イエスが、荒れ狂い、舟を飲み込もうとするガリラヤ湖の嵐に、「黙れ、静まれ」と言われると、風はやみ、大なぎになったのだそうです。

それで、舟に乗っていた弟子たちは、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(マルコ4:39~41)と驚いたのだそうです。




 神の御子である方。

その方は天使の万軍に号令し、これを意のままに動かされる(ルカ7:8)方なのだそうです。

その方が、その天の栄光の座を後にして、人となって人の世に来られること、それ自体が驚くべきことなのだそうです。




 それなのに、その方が人間の手にかかって十字架刑で処刑される。

それはまさしく、「目がみたことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」(Ⅰコリント2:9)だったのですね。




 それで、この世の支配者は誰一人、サタンでさえもこのことを悟らず、神の御子、栄光の主である方、イエスを十字架刑で処刑したようです。




 けれども、このイエスを十字架につけて処刑することが、「サタンが〔女の子孫〕と呼ばれる方のかかとに噛みつき、サタンの頭が踏み砕かれる」(創世記3:15)出来事であったのだそうです。




 〔父である神〕が御子イエスを十字架につけられるのを許すこの出来事は、天使の万軍もかたずを飲んで見守り、驚き、仰天するような出来事だったのだそうです。




 さらに、〔父である神〕は、ご自身が「ねたむほどに愛しておられる方」、〔聖である霊〕と呼ばれる方(ヤコブ4:5)を受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

聖である神が罪人の私たち人間の中に来られる、

これも、天使たちから見れば考えられない、ありえないような、驚くべき出来事なのでしょうね。




 天の神、主は、そのあり得ないような出来事、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、受け入れる者の心にご自身の、ひとり一人に思っておられる御思いを置き、書きしるして、受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になって生きるようと私たちに願ってくださっているのだそうです。

こ新しい週も。


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とがをここごとく洗い、罪から清めてくださって

2017-01-28 16:15:19 | 聖書から

わたしの咎をことごとく洗い、

  罪から清めてください。詩編51:4




 憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛してくださり、

その愛によって、

罪のために死んでいた私たちを

キリストとともに生かしてくださいました。エフェソ書2:4~5




 黙示録15:1~4

 ルカ7:24~35(通読箇所)

    (ローズンゲン日々の聖句1/28:土)




 天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方は、憐れみ豊かな方なのですね。

 私たち、自分の罪過と罪の中に死んでいる者であって、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいる者でした。

自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、生れながら御怒りを受けるはずの者だったのですね。




 けれども、天の神、主は、そのような私たちを見放さず、求め続け、追いかけ続けて下さっているのだそうです。




 そして、〔御子である神〕が、すべての人のすべてのそむきの責任を負って、その刑罰を受けるために人間イエスとして人の世に来られ、反逆者として十字架刑での処刑を受けてくださり、

私たちがこのままで赦してもらえる道を開いてくださったのだそうです。




 イエスは、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となって、天の神、主に対抗するばかりの私たちの〔生まれたときからの霊〕をご自身の処刑に合わせて、処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。




 そして、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

この方は、受け入れる者の心に、〔父である神〕が私たちひとり一人に思っておられる御思いを来させてくださるので、受け入れる者は新しく生まれた者として、イエスと共に〔神の子〕の身分を与えていただけ、家族として御父と思いを一つにしながら生きる者にしていただけるのだそうです(エペソ2:6)。




 そして、天の御国に移ったときには、御前で、私たちを贖(あがな)う(買い戻す)代価としていのちをささげてくださったイエスをほめたたえる者の仲間に加えていただけるのだそうです(黙示録15:1~4)。




 自分自身である〔生まれたときから霊〕から出て来る思いを死んだものから来た思いとして横に置き、〔聖である霊〕から来る御思いを自分の思いとして生きるのですね。

今日も。


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剣に替えて祝福を

2017-01-27 08:24:08 | 聖書から
アブネルはヨアブに呼びかけて言った。

「いつまで剣の餌食とし合うのか。

悲惨な結末になることを知らぬわけではあるまい。」サムエル記下2:26




 イエスはペトロに言われた。

「剣をさやに納めなさい。

剣を取る者は皆、剣で滅びる。」マタイ26:52




 コロサイ書1:24~29

 (通読箇所)ルカ7:18~23

    (ローズンゲン日々の聖句1/27:金)




 これは、サウル王の子、イシュ・ボシェテの側の将軍アブネルが、勝敗ははっきりしたのになお追撃して来るダビデの側の将軍ヨアブに呼びかけた言葉なのだそうです。




 ゲツセマネの園で、ペテロは剣を抜いて、イエスを捕えに来た一隊の、マルコスという大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落としたのだそうです。

その時、イエスはこのように言われ、その耳にさわって彼をいやされたのだそうです。




 イスラエルの人々は、ローマ軍と戦い、ローマ軍を打ち破ってダビデの王国を再建してくれるキリストを待ち望んでいたようです。

しかし、イエスは、剣を取る方向には進まれなかったのですね。

むしろ、目の見えない者を見えるようにし、

足のなえた者が歩けるようにし、

ツァラート(ハンセン病とか重い皮膚病)に冒された人をきよめ、

耳の聞こえない者を聞こえるようにし、

死人を生き返らせ、

貧しい人々に福音を伝えていったのだそうです(ルカ7:22)。




 そして、自分からすすんで、私たちすべての人間の身代わりとなり、すべての人のそむきの責任を引き受けて十字架刑で処刑されたのだそうです。




 そして、ローマ兵によって槍で突き刺されて死亡していることが確認された後、その死体は、隠れた弟子であり、ユダヤ最高議会の議員のひとりであったアリマタヤのヨセフに引き渡されたのだそうです。

そして、既に夕方になり、日没になると安息日が始まるので、急いで、近くにあった、ヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたのだそうです。




 それは金曜日の夕方の事でした。

そして、三日目、日曜日の早朝、マグダラのマリヤと何人かの婦人たちが香料を持って墓に行ってみると墓にイエスの死体はなく、天使が現れてイエスは復活したと告げたのだそうです。

それで、墓から戻って弟子たちにこのことを報告したのですが、男の弟子たちには〔女のたわごと〕のように思われ、信用してもらえなかったのだそうです。




 そんな弟子たちのところへイエスは現れ、確かに復活し、生きていることを見せ、40日に渡って何度も現れて神の国のことを語ったのち、オリーブ山から、弟子たちの見ている前で雲に迎えられ、天の〔父である神〕の右の座、神の御子の位に帰られたのだそうです。

「エルサレムから離れないで、父の約束を待ちなさい。

もう間もなく、あなたがたは聖霊のバブテスマを受けるからです」と言い残して。




 それから10日後のペンテコステ(五旬節)の祭りのとき、集まっていた120人ばかりの弟子たちに、その〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られ、弟子たちは〔聖である霊〕と呼ばれる方が語らせられるままに大胆に語りだしたのだそうです。




 このイエスによる救いの出来事がエルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、そして、今、東の果てである日本の私たちのところにまで伝えられているのですね。

 やがて、天の神、主の前に出るとき、完全な者としてたつことができるようにと(コロサイ1:28)。




 剣に替えて平和を、復讐は神にゆだねて自分に害を加える者を祝福する、〔聖である霊〕と呼ばれる方による、天の神、主と思いを一つにしていく新しい生き方が。

今日も。


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叫びに答えてくださる方に

2017-01-26 08:50:48 | 聖書から
苦難の中で、私が叫ぶと、

  主は答えてくださった。ヨナ書2:3




 父がわたしにお与えになる人は皆、

わたしのところに来る。ヨハネ6:37




 使徒13:45~52

 (通読箇所)ルカ7:11~17

    (ローズンゲン日々の聖句1/26:木)




 私たちの叫ぶ声に答えてくださる神なのですね。

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は。




 この方は、預言者ヨナの

「私はあなたの目の前から追われました。

しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」との叫びにも答えてくださったのだそうです。




 イエスは言われました。

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。

そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

わたしを遣わした方のみこころは、

わたしに与えてくださったすべての者を、

わたしがひとりも失うことなく、

ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

事実、わたしの父のみこころは、

子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(ヨハネ6:37~40新改訳)と。




 このイエスの出来事が宣べ伝えられるところ、

これを喜んで聞き、受け入れる人と、

反対し、あるいは無視する人とにはっきり分かれるようですね。




 使徒パウロがピシデヤのアンテオケ(今のトルコ)で、イエスの十字架の死と復活を宣べ伝えたときのように(使徒13:45~52)。




 イエスを求めて行くなら、私たちは、イエスの十字架刑での処刑を自分の〔生まれたときからの霊〕の処刑としていただけるのだそうです。




 そして、墓に葬られ、三日目に墓より新しい霊のからだに復活し、

天の父である神の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスは、

私たちにもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。




 この方は受け入れる者の心に、〔父である神〕が私たちひとり一人に対して思っていてくださる御思いを書き記して下さるのだそうです。




 それで、私たちも、これを受けいれ、自分の〔生まれたときからの霊〕から心に来る思いを、死んだ者から来た思いとして横に置き、〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る〔父である神〕の御思いによって生きるようにもしていただけるのだそうです。




 主に答えていただき、喜びと〔聖である霊〕と呼ばれる方に満たされながら。

今日も。


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