朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

憐れみに依り頼んで

2015-01-31 23:02:33 | 聖書から
私たちは、
あなたの深い憐れみのゆえに、
伏して嘆願の祈りをささげます。ダニエル書9:18(今週の聖句)




見よ、主なる神。
 彼は力を帯びて来られ、
御腕をもって統治される。イザヤ書40:10




主よ、だれがあなたの名を畏れず、

 たたえずにおられましょうか。
聖なる方は、あなただけ。
すべての国民が、来て、
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。黙示録15:4

      (ローズンゲン日々の聖句2/1;日、後半)

 主は、人を、その仕業に応じて裁かれるのですね。
それに誰が耐えられるのか。
自分の側には、差し出せる一点の義もないと知った者は、
嘆願の祈りをささげるのですね。
あの方の深い憐れみだけを頼りにして。

主なる神が来られるとき、
怒りではなく、慰めをもって来られるのだそうです。
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と仰っておられるのだそうですから。

何一つ弁済のできない私たちに代わって、
御自身の側で、
御子のいのちを私たちのあがないしろとして支払って、
「その労苦は終わり、その咎はつぐなわれた」と(イザヤ40:1~2)。

この方の統治は
羊飼いがその群れを飼うよう、なのだそうです。
御腕に小羊を引き寄せ、ふところに抱き、
乳を飲ませる羊をやさしく導くよう、なのですね(40:10~11)。




この恵み、憐れみをいただいた者は、御前にひれ伏し、
御名を畏れかしこみ、たたえるのですね。
今日も。


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信頼して大丈夫なのですね。この方は

2015-01-30 23:15:39 | 聖書から
エフライムの腕を支えて、
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを、
彼らは知らなかった。ホセア書11:3




私たちが誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を、否むことができないからである。Ⅱテモテ2:13

      (ローズンゲン日々の聖句1/31;土)

あの方は言われます。
イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、
わたしの子をエジプトから呼び出した。
それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、
彼らはいよいよ遠ざかり、
バアルたちにいけにえをささげ、
刻んだ像に香をたいた(ホセア11:1~2)と。

それでも、あの方はエフライム(イスラエルの別称)の腕を支えて
歩くことを教えたのに、彼らは、それを認めようとはしなかったのだそうです。

このように、イスラエルに代表される、
私たち人間は、誠実でないものですが、
それにもかかわらず、あの方の側、キリストご自身は
常に真実であって下さって、
約束を誠実に実行して下さっているのですね。

それで、勧めているのですね。
ダビデの子孫として生まれ、
死者の中からよみがえったイエス・キリストを、
いつも思っていなさい。
もし、私たちが、彼とともに(十字架刑で)死んだのなら、
彼とともに生きるようになる。
もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる(Ⅱテモテ2:8~12)と。




生れたときからの私という霊は、
イエスと共に十字架刑で処刑されたものと認め、

聖である霊と呼ばれる方によって、
彼(イエス)とともに生きるのですね。私たち。
今日も。


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希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈らせて下さるのだそうです。あの方が

2015-01-29 23:34:24 | 聖書から
ダニエルは、
エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、
日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。ダニエル書6:11







希望をもって喜び、
苦難を耐え忍び、
たゆまず祈りなさい。ロマ書12:12




          (ローズンゲン日々の聖句1/30;金)







 神への礼拝が禁止されたときも、祈っていたのですね。たゆまず希望をもって。




 バビロニア帝国を滅ぼしたメディアペルシャの王、ダリヨスの時、ダニエルをねたんだ大臣や太守たちは、ダニエルを陥れるため、ダリヨス王に、「今から30日間、王以外のいかなる神にも人にも、祈願する者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」との禁令に署名させたのだそうです。





 それを知っても、ダニエルは、今までどおり、エルサレムに向かい開いている窓辺で、日に3度、日ざまずき、彼の神の前に祈り、感謝をしていたのだそうです。それで、捕えられ、獅子の穴に投げ込まれることになったのですね。




 ローマ帝国にあっても、皇帝を神と拝むことをしないで、聖書が示す神を真の神として拝む人たちは、円形競技場で、見世物にされライオンに食われたり、木に縛りつけられ、人間たいまつとして火をつけられ燃やされたのですね。




日本でも、多くの人たちが殺されていった。







 それでも、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈ることを止めさせることはできなかったのですね。




 イエスによって派遣され、

彼らのうちにおられ、働いていた

「聖である霊と呼ばれる方」は、

私たちの内にも来られて、

働かれるのだそうです。

今日も。





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あの方が私の羊飼いになっていて下さるのですから

2015-01-28 23:24:08 | 聖書から
死の陰の谷を行くときも、
私は災いを恐れない。
あなたが私と共にいて下さる。
あなたの鞭、あなたの杖、

  それがわたしを力づける。詩編23:4








私たちは、
四方から苦しめられても行き詰らず、
途方にくれても失望せず、
虐げられても見捨てられない。Ⅱコリント4:8〜9





      (ローズンゲン日々の聖句1/29:木)











 安心なのですね。
あの方が一緒にいて下さるから。





イスラエルでは、羊飼いは、後ろから羊を追い立てるのではないのだそうですね。
水飲み場で、いろいろな群れの羊が入り混じっていても、

羊飼いが呼ぶと、

羊は自分の羊飼いの声を聞き分けて羊飼いのところに出て来るのだそうです。








そして、羊飼いが羊の群れの先頭に立って進むと、

羊たちはそのあとを追っていくのだそうです。








 とすると、羊飼いが持っている鞭や杖は羊に対してのものではなく、

オオカミなど、外敵に対してのものなのでしょうか。
羊飼いがいてくれると、羊は安心して草を食べておられるのでしょうね。





 自分で自分を守り、自分一人の判断で行く道を決めないといけないのなら、

いつも、間違わないように気を張っていないといけなくなりますが、

力強い導き手、相談相手がいてくれれば、

死の陰の谷を行くときも心強く、

苦しめられることがあっても行き詰りきることはなく、

途方にくれますが失望に終わることはなく、

虐げられますが見捨てられてしまうことはないのですね。








 私のいのちの日の限り、

慈しみと恵みとが私たちを追って来るのだそうです(詩篇23:6)。








 いつも、いつまでも共にいて下さる、もう一人の助け主、

聖である霊と呼ばれる方が、

私たち一人一人と一緒に進んで下さるのだそうです(ヨハネ14:16)。
今日も。










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新しい生き方を生きることが出来るのですね。私たちも

2015-01-27 23:51:17 | 聖書から
主を畏れることは、
悪を憎むこと。箴言8:13

あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、
神に対して生きているのだと考えなさい。ロマ書6:11

     (ローズンゲン日々の聖句1/28;水)


 悪を憎むこと。
生まれた時からの私という反逆している霊は死ぬしかない者と
認めることも入るのでしょうね。

 新しく生まれる。
罪に対しては死んだもの、
神に対して生きる者と計算していいのだそうです。
手続きは、全部、
あの方のほうで完了して下さっているのだそうですから。

 天の神、主は、私たち人間の一人一人を取り戻すための2段階を計画されたようですね。
 第1段階として、私たち人間が、ご自身と一緒になって善悪を判断していくことをやめ、自分の理性の判断だけで善悪を決定していく者となっている、その背きを処罰すること。
 天の神、主は、このために天地の造られる前からともにおられた御子である方を、人間イエスとして人の世に生まれさせ、この方を私たち人間の身代わりとして立て、十字架刑で処刑することで、私たち、すべての人間の一人一人を処刑が終わった者との手続きを済ませて下さったのだそうです。
それで、イエスは、十字架上でこの手続きが「完了した」と宣言されたのですね(ヨハネ19:30)。
今、私たち人間は、罪に対して、死んでいるものと計算していいのだそうです。

 そのうえで、今度はもう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を私たち人間の一人一人の中に派遣して、この聖である霊と呼ばれる方によって私たちの心に、天の神、主の思いを書き付けて下さって、私たちが天の神、主と思いを共有しながら生きる、新しく生きる者として下さるのだそうです。
 これは、天の神、主からの、私たちへの一方的なプレゼントなのだそうです。

 だから、今、私たちは、このプレゼントをもらいさえすれば、神に対して生きている者と計算していいのだそうです。

キリスト・イエスにつく者は、
自分の肉(生まれた時からの私)を、
さまざまな情欲や欲望とともに、
十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか(ガラテヤ5:24~25)。
今日も。
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