朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

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2014-03-31 23:56:15 | 聖書から
「人が私にするように、私もその人にしよう。それぞれの行いに応じて報いよう」とは、あなたの言うべきことではない。箴言24:29
 イエスの言葉:憐れみ深い人々は、幸いであ、その人たちは憐れみを受ける。マタイ5;7
  (ローズンゲン日々の聖句4/1;火)
「目には目を、歯には歯を」ではなく、むしろ憐れみをもって接するようにということでしょうか。
あの方が、私たちを、自分の行いに応じて報いられたとしたら、誰一人としてあの方の前に立てる者はいないのだそうですが、幸いにも、あの方は、ご自分の側で正義を全うして下さって、私たちには憐れみだけの御顔を向けていて下さるのだそうですね。そのうえ、こんな私たちが、このままで、あの方を親しく「父よ」と呼んでいいようにして下さっているのだそうです。ありのままの気持ちをあの方の前に広げて、見ていただいて、あの方の憐れみの深みへと進んでいきたいですね。今日も。



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あの方の行いに期待するのですね。自分に義と認められるに十分な行いがないと知った者は

2014-03-30 22:59:53 | 聖書から
主の言葉:



わたしが

アブラハムを選んだのは、



彼が

息子たちとその子孫に、

主の道を守り、



主に従って

正義を行うよう

命じるためである。

創世記18:19
 





アブラハムの信仰が

義と認められた、

のです。

ロマ書4:9
  



(ローズンゲン日々の聖句3/31;月)






自分の力で、

自分の義を積み上げていく道と、



あの方を信頼して

約束の言葉の実現を

待ち望んでいく道が

あるのだそうですね。



アブラハムの子孫の前に

開かれている道、

主の道を守り、

主に従って正義を行う道に。






神の律法に示された

主の道、

正義を



自分の力で行い、

神の基準をクリアすることができるか、

坐して、

よく計算して

(ルカ15:28~)、



完成出来ないとの計算に達した者は、

なんの働きもない者が、

不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、



その信仰(信頼)を

義と見なして下さる方がいらっしゃるとの

約束の言葉を

喜ぶ者になるのでしょうね

(ロマ4:5)。




けれども、

その道は、



私たちの側には、

義と認められるまでの、

なんの行いも

ありませんけれど、





あの方の側では、

独り子であられ方を

一人の人として、

人間の世に送り込み、



人類のすべてのそむきを

この方の上に置き、



私たちを罰する代わりに、

この方を

反逆者として処刑するという、



とてつもない大きな犠牲の行いが

あってのことなのだそうです。




イエスの命がささげられた今は、



私たちも、



あの方は、

約束されたことを成就する力があることを信じて

(ロマ4:21)、



「聖である霊」と呼ばれる方が来て下さり、

私たちの心に

あの方の御思いを思わせ、



あの方が

私たちを通してしようと思っていらっしゃることを

私たちが

するようにして下さるとの

約束の言葉が

私の身に実現することを

期待していきたいものですね。



今日も。



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永遠の命とは、唯一のまことの神である方と、イエス・キリストとを体験的に知ることなのだそうですね

2014-03-29 23:33:04 | 聖書から
一粒の麦は、

地に落ちて死ななければ、

一粒のままである。



だが、

死ねば

多くの実を

結ぶ。

ヨハネ12:24

(ローズンゲン今週の聖句)
 





あなたたちの神、

主こそ、

上は天、

下は地に至るまで

神であられる。

ヨシュア記2:11







 キリストは、

神の身分でありながら、

神と等しい者であることに

固執しようとは

思わず、



かえって

自分を無にして、

僕(しもべ)の身分になり、



人間と同じ者になられ、

人間の姿で

現れました。

フィリピ書2:6~7
 



 (ローズンゲン日々の聖句3/30;日)






この方は、

上は天の天、

下は地の最も深い所までの

すべての所の、

創造者であり、

審判される方なのだそうです。





だから、

この方だけが

人を生かし、



命を

死から救い出すことのできる方

なのだそうですね。




けれども、

正義と公正をつらぬきながら、

あるべき場からはずれてしまっている者を

赦すためには、



この方ご自身で

正義の要求を

満たさなければならなかったのだそうです。





そのた.めに、

この方の意向を受けて、

御子である方は

ご自分の地位を捨てて、

私たちと同じ人間になられ、



人として、

私たちが受けるはずの

刑罰のすべて、



人類のすべての罪を

御自身の身に背負って、

十字架刑で処刑されて下さり、



呪われたものとなって

天と地との間にかかげられて、

天にあるもの、地にある者のすべてに

さらされて下さったのだそうです。




このことによって、

私たちのすべての「外れ」は、

処刑済みと見なされ、



私たちは

「聖である霊」と呼ばれる方を

お迎えすることが出来る者となったのだそうです。




この方は、

私たちの内に来て、

私たちの心に

父である方の御思いを起して下さり、



私たちが

父である方と思いを一つにし、

行動を一つにするという、

創造の目的に適った生き方を

始めて下さり、



永遠の命と呼ばれる、

あの方との関わりを持ちながら生きていくという、

新しい生き方を

生きさせて下さるのだそうです。




さて、

あの方は、

私たちを通して

何をしようとなさるのでしょう。



どんな思いが

私たちの心に

来ることでしょう。



今日。






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夢を見ている人のようになるのだそうです。私たち

2014-03-28 23:10:53 | 聖書から
主が

シオンの捕われている人を

連れ帰られると聞いて、



私たちは

夢を見ている人のように

なった。

詩篇126:1
 





玉座の中央におられる

小羊が

彼らの牧者となり、



命の水の泉へ導き、



神が

彼らの目から

涙を

ことごとく、

ぬぐわれる。

黙示録7:17
  



(ローズンゲン日々の聖句3/29;土)






夢を見ている人のようになるほど、

喜びで満たして下さるのだそうです。



王の王として玉座の中央におられる方は、

ほふられたと見られる小羊、



私たちの罪を

一身に背負って

殺されて下さった方なのだそうです。



それほどに

私たちのことを大切に思って下さっている方が

私たちの王となり、

導き手となって下さって

、永遠の命の水の泉に

連れて行って下さり、



悲しみ、痛みを

いやして下さるのだそうですから。




その日の喜びの

前味を味わいながら生きるのですね。



今日も。





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私たちの悪に対しても善をもって報いて下さっているのですね。あの方

2014-03-27 23:36:43 | 聖書から
ルベンは

兄弟に言った。

「血を流してはならない」

創世記37:22






 だれも、

悪をもって

悪に報いることのないように

気をつけなさい。



お互いの間でも、

すべての人に対しても、

いつも

善を行うよう

努めなさい。

Ⅰテサロニケ5:15
 



 (ローズンゲン日々の聖句3/28;金)






ヤコブの4人の妻から生まれた12人の息子たち。

父親の偏愛のゆえに

10人の兄たちに憎まれ、

ついに殺されそうになった11番目の息子ヨセフ。



長子ルベンがこれをとどめたので

ヨセフは

殺されるのをまぬがれたのだそうですが、



ヨセフを殺さなかったことが

後に

自分達の救いとなったのだそうですね。



大飢饉に襲われ、

食料がなくなり、

エジプトに食料を求めていった兄弟たちは、

エジプトの地で

王に次ぐ宰相の地位に上り詰めたヨセフに

再開し、



殺そうとしたことも赦してもらい、

飢饉から救われたのみならず、

この地で

70人の一部族が、

戦いに出られる壮年の男子だけで60万人の

民族としてのイスラエルに

成長していったのだそうですから。




私たちも、

殺されそうになることは少ないとしても、

悪意をもって接せられることが

ままあります。



そんな時、

私たちは、

「目には目を。歯には歯を」ではなく、



力さえあれば

7倍にも、77倍にもやり返したいものですが、



あの方は、

私たちの悪に対して

悪をもって報いることをしないで、



善を用意して

招いて下さっているのだそうですね。




御子である方は、

自分を十字架につけ、

罵倒し、あざける人たちのことを、

「父よ、彼らをお赦しください。

彼らは何をしているのか自分で分からないのです」と

執り成されたのだそうです

(ルカ23:34)。



そして、

この方の執り成しは、

「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」から、

イエスを十字架に付けろと

ローマ総督ピラトに迫った

ユダヤの人々さえも

赦して余りあるのだそうです。




「聖である霊」と呼ばれる方によって、

私たちの心に来る

あの方の御思いは、



悪に対して

悪をもって報いる思いではなく、

善をもって報いる思いなのだそうです。



今日も。



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