朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

主のものとして、新しく生きる

2017-09-30 08:54:32 | 聖書から
町に災いが起こったなら、
それは主がなされたことではないか。アモス書3:6

 私たちは、生きるとすれば主のために生き、
死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、
私たちは主のものです。ロマ書14:8

 創世記16:6b~14
 ルカ14:1~6(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/30;土)

 預言者アモスは言うのですね。
イスラエルの子らよ。
主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方があなたがた、
すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。

 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。
それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。
  ~~
まことに、神である主は、そのはかりごとをご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは何事もなさらない。
獅子がほえる。だれが恐れないだろう。
神である主が語られる。
だれが預言しないでいられよう(アモス3:1~8新改訳)。


 使徒パウロは言います。
(イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
〔生まれた時からの私〕である霊を処刑されたもの、死んだものとしていただき、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いを自分の思いとして、
〔父である神〕と思いを一つにして生きるようになった)私たちの中で、
だれひとりとして、自分のために生きている者はなく、
また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、
もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです(ロマ14:7~8)と。


 今から4000年ほど前のこと、アブラハムの妻サライの女奴隷であったエジプト人ハガルは、
サライに子どもが生まれないため、女主人サライによってアブラハムの妻とされたのだそうです。
そして、アブラハムの子を宿したので、子を産まない女主人を見下げるようになったため、
サライからいじめられ、サライのもとから逃げ出したのだそうです。
 主の使いが、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねたのだそうです。
そして言ったのだそうです。
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。
そして、彼女のもとで身を低くしなさい。
あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。
見よ。あなたはみごもって、男の子を産もうとしている。
その子をイシュマエル(神は聞かれる)と名づけなさい。
主があなたの苦しみを聞き入れられたから。
彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。
彼はすべての兄弟に敵対して住もう」(創世記16:1~12)と。

 このイシュマエルの子孫がアラブ人であり、
マホメットも自分をイシュマエルの子孫としていて、
エジプトのサダト大統領は、イスラエルとの和解交渉の時、
「アブラハムの子イサクの子孫であるあなたがたと、
アブラハムの子イシュマエルの子孫である私たちが」と、格調高い演説をしたのだそうです。


 天の神、主は、ソドムとゴモラをさばくため、出て行かれるとき、考えられたのだそうです。
「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(創世記18:17)と。

 天の神、主は、私たちにも、ご自身がこれからしようと思われることを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、私たちの心にその思いを置いてくださるのだそうです。
私たちが、神のものとして、
ご自身を愛する愛によって、
自由意思で、自発的に、自分から進んで、一つ心になるようにと願って。
今日も。
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人間の側の、努力への自信、自負が尽き果てたところで、

2017-09-29 09:58:11 | 聖書から

あなたの神、主が導かれた
この40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。
こうして主はあなたを苦しめて試し、
あなたの心にあること、
すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。申命記8:2

 愚かな者としてではなく、
賢い者として、
細かく気を配って歩みなさい。
時をよく用いなさい。エフェソ書5:15~16

 ルカ10:17~20
 黙示録12:7~12a(12b)
 ルカ13:31~35(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/29;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
エジプトを出たイスラエルの民が、すぐに約束の地に入るようにはされないで
(それは、イスラエルの民の不従順の故ではありましたが(民数記13章、14章)、
40年、荒野で生活するようにされました。

それは、苦しい出来事、困難な出来事に出会うことによって、
民の心にあることを表そうとされたようですね。

あのホレブの山、シナイ山で、民は、確かに、
「私たちは主が仰せられたことを、みな行い、聞き従います」(出エジプト19:8、24:3、7)と答え、
神の民となる契約を結んだのです。

しかし、神と心を一つにして生きる場から離れ、
「神のひとりのようになろう」として、「善悪を知る者」になった(創世記3:5、22)人間の本心は、
「聞き従います」とのことばのとおりではなかったようですね。

天の神、主は、この荒野の40年の旅を通して、
そして、その後の800年ほどのイスラエルの民の歴史の中で、
人間は、神と心を一つにして生きることを求めないで、
自分の理性の善悪の判断で、自分の判断のままに生きる者であることを明らかにされたようです。

そして、イスラエルの民において、その、神に対する反逆が極まり、
これ以上放置するならば、民は滅びるしかないところまで来て、
民を懲らしめ、立ち返らせるために、バビロン帝国を用いてイスラエルを打たれる、
そのとき、天の神、主は、新しい契約の約束を与えられたのだそうです。

「見よ。その日が来る。
  ――主の御告げ――
その日、わたしはイスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。
わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。
――主の御告げ――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルと家と結ぶ契約はこうだ。
――主の御告げ――
わたしは、わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31~33)と。

さらにまた、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、
あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、
あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、
わたしのおきてに従って歩ませ、
わたしの定めを守り行わせる。
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、
あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(エゼキエル36:25~28)と。

そして、このご計画の時が満ちて、
〔御子〕である方が、人となって、人の世に来られ、
およそ33歳の頃、エルサレム城外で十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、三日目の日曜日の朝、死者の中から新しいからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
オリーブ山で、弟子たちの見守る中、天の〔父である神」の右の座に帰られたのだそうです。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」と言い残して(使徒1:2~11)。

そして、その10日後のペンテコステ(五旬節)、
律法授与の記念日、出エジプトの時の契約締結の記念日に、
待ち望んでいた120人ばかりの弟子たちのところに、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
弟子たちは、この方が心に置いてくださる御思いのままに話し始めた(使徒2:1~4)のだそうです。

エルサレムで始まったこの出来事は、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てにまで広がり、
そのときからおよそ2000年を経た今の、東の果て日本の私たちにまで届いているのだそうです。

それで、今の時をよく用い、
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって心から歌い、賛美しながら、
この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方に満たされ、
心に〔父である神〕の自分に関わる御思いを置いていただいて、
自分の善し悪しの判断ではなく、
御思いによって生きるように(エペソ5:15~19新改訳)と勧められているようですね。

日夜、私たちを神に訴える告発者サタンとその手下の悪霊どもさえも従わせる権威の中で(ルカ10:17~20、黙示録12:7~12)。
今日も。
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子どもを大事に育てる母親のように

2017-09-28 08:57:53 | 聖書から
かわいい息子を懲らしめる父のように、
主は愛する者を懲らしめる。箴言3:12

 私達は、あなたがたからも他の人達からも
人間の誉れを求めず、
キリストの使徒としての権威も主張しませんでした。
私達は、母親がその子供を大事に育てる様に、
あなたがたを愛する者となったからです。Ⅰテサロニケ2:6~8

 ルカ10:38~42
 ルカ13:22~30(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/28;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たち、人間を、
息子をかわいいと思う父親のように、
母親が子どもを愛するように、かわいいと思い、愛し、大事に思っていてくださる方のようですね。

 それで、私たちに必要なときには私たちを懲らしめ、訓練もし、
また、私たちに、ご自身のすべてを与え切って、私たちを育ててくださるのだそうですね。

 イエスがベタニヤ村へ入られたとき、
マルタという女性が、喜んでイエスの一行を家に迎え入れたのだそうです。

 彼女はいろいろもてなしのことで気が落ち着かず、イエスに言ったのだそうです。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃって下さい」と。

 妹のマリヤは、イエスの足もとにすわって、イエスの言葉に聞き入っていたのだそうですから。
イエスは、答えて言われました。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ10:38~42新改訳)と。


イエスが、エルサレムへの旅を続けておられると、
「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があったのだそうです。
イエスは、人々に言われました。
「努力して狭い門から入りなさい。
なぜなら、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
家の主人が、立ち上がって、戸を閉めてからでは、外に立って、
『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、
もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。
『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。」
だが、主人はこう言うでしょう。
『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
 ~~
 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓につきます。
いいですか。今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるからです」(ルカ13:22~30新改訳)と。


よく聞いて、天の神、主が何を思っていらっしゃるのかを知り、
思いを一つにすることを求めてほしいとイエスは仰っているのでしょうか。
自分の理性の判断での「善し」とするところにしたがってする、もてなしや奉仕、敬虔、信仰の業は、もしかすると、土台がちがっているかもしれないのですね。
それを、イエスは、「不正」だと仰る。


「神のひとりのようになろう」とし、「善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)私たち自身の〔生まれた時からの私〕という霊を、
いよいよ立派にし、強くし、信仰深くしていく方向ではなく、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものと認め、計算して、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに聞いて、ついて行ってほしいのだそうですから(ガラテヤ5:24~25)。
愛され、愛されて。
今日も。
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永遠に不変であり、この方以外に、誰も閉じることなく、誰も開けることがない出来事が、

2017-09-27 07:56:57 | 聖書から
すべて神に業は永遠に不変であり、
付け加えることも除くことも許されない。コヘレト3:14

 聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、
この方が開けると、だれも閉じることなく、
閉じると、だれも開けることがない。黙示録3:7

 コヘレト4:(4~7)8~12
 ルカ13:18~21(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句9/27;水)

 伝道者(コヘレト)の書(新改訳)4章7節~12節には次のように記されています。

「私は再び、日の下に空しさのあるのを見た。
ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。
それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽きることがない。
そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。
これもまた、むなしく、つらい仕事だ。

ふたりはひとりよりもまさっている。
ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。
倒れても起こす者がいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。」


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が決められ、実行された御業は、変えられることがないのですね。

〔父である神〕の御心に従って、〔御子である神〕が、「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの子孫である処女マリヤの胎を通して人の世に来られ、
すべての人の、すべての「的外れ」の責任をご自身の身に負って十字架刑での処刑を受けられ、
すべての人を処刑済み、死んだ者としてくださったことは。

そして、このイエスの死を自分の死としていただいた者に、
新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来て下さることは。

この方が受け入れる者の心に、
〔父である神〕が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者を〔父である神〕と同じ思いを思う者としてくださり、
一つ心になって、
イエスがそうであったように、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく、
〔父である神〕と行動を一つにする者にしてくださることは。


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、最初に、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られたのだそうですから(創世記1:26)。

そして、十字架に架かられる前夜の、弟子たちとの最後の晩餐の席で、イエスは言われたのだそうですから。
「父よ。あなたが私におられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな(わたしたちと)一つとなるためです。
また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。私たちが一つであるように、彼らも(わたしたちと)一つであるためです」(ヨハネ17:21~22)と。
だれも変えることができない、この方が閉じられるまでは、だれも閉じることができないこと、として。


 そして、この、私たちが天の神、主と心を一つにして生きるようになる関係は、
どんどん大きくなり、全体に広がっているのですね。
野菜のうちで最も小さい種、針の先でちょっと突いたくらいの大きさのからし種が、成長すると木になり、空の鳥が枝に巣を作るほどになるように。
また、パン種が、粉全体を膨らませるように(ルカ13:18~21)。

 私たちの心のうちにも。
今日も。
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私たちが被った苦難のすべてを、小さい事と見なさないでください。

2017-09-26 09:43:00 | 聖書から
私たちの神よ、
偉大にして力強く畏るべき神よ、
忠実に契約を守られる神よ、
私たちが被った苦難のすべてを、
取るに足らないことと見なさないでください。ネヘミヤ記9:32

 盲人は叫んだ。
「ダビデの子よ、憐み給え。」
イエスは立ち止まり「呼びなさい」と言われた。
人々は彼に「安心して、立ちなさい。お呼びだ」と言った。マルコ10:48~49

 Ⅰテモテ6:(3~5)6~11a
 ルカ13:10~17
  (ローズンゲン々の聖句9/26;火)

自分たちの思うままに外国の神々を拝み、たび重なる天の神、主からの呼びかけにも答えようとしなかったイスラエルの民。
天の神、主は、民をこれ以上放置できなくなったようですね。
イスラエルの民は、ついにバビロン軍によって国を滅ぼされ、
主だった者はバビロンに捕囚とされたのだそうです。

 そして、70年、ついに、天の神、主のご計画の時が満ちて、
ペルシャの王、クロスによって帰還を許され、ゼルバベルを中心に神殿再建を果たしたのだそうです。

けれども、それからおよそ70年、エルサレムの城壁は崩されたままで、民は周辺国の侮りと苦難の中にあり、
それを聞いた、ペルシャの王アルタシャスタの献酌官であったネヘミヤは、断食して祈り、
王に願い出てエルサレム帰還を許され、エルサレムの城壁再建を果たしたのだそうです。

そのネヘミヤが天の神、主に訴えているのですね。
「アッシリアの王たちの時代から今日まで、私たちの先祖と、あなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さい事とみなさないでください」と。


イエスがエリコを通られているとき、道ばたで物乞いをしていた盲人、パルテマイは、
人々の制止を振り切って「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続け、
イエスから見えるようにしていただいて、イエスについて行く者になったのだそうです。

また、イエスは、安息日に会堂に来ていた、18年間、腰が曲がって、全然伸ばすことができない女性を呼び寄せ、
「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれ、
腰が伸びるようにされたのだそうです(ルカ13:10~17)。


敬虔、それは、大きな叫び声と涙とをもって願うことができる、天の神、主との関係のようです(ヘブル5:7)。
私たちは金持ちになりたい者であり、敬虔を利得の手段としてしまうものでもあります。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利得を受ける道、なのだそうです。

 使徒パウロは、弟子のテモテに書き送っています。
「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」(Ⅰテモテ6:6~11新改訳)と。

 思い煩い、心配事、願いも、思いっ切り、天の神、主に申し上げ、知っていただきながら、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、御思いを心に置いていただき、
御思いを私の心としながら、進みたいですね。
今日も。
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