朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

一人の人が、すべての人のために死んだことによって

2024-03-28 22:04:55 | 聖書から
ヤコブは、神が自分と語られた場所を
ベテル(神の家)と名付けた。創世記35:15
 
百人隊長や
一緒にイエスの見張りをしていた
人たちは、
地震やいろいろの出来事を見て、
非常に恐れ、
「まことに、この人は神の子だった」
と言った。マタイ27:54
 
 福音書:ヨハネ19:16~30
 使徒書:Ⅱコリント5:(14b~18)19~21
 旧約:イザヤ書52:13~53:12
 説教:マタイ27:33~54
 日課:1ペテロ3:18~22
 通読箇所:マルコ15:42~47
  (ローズンゲン『日々の聖句』3/29聖金曜(受難)日
 
   ―――― α&ω  ――――
 
 天の神、主は、
イエスが生まれる700年ほど前に活動した
預言者イザヤを通し、次のように預言しておられます。
 
「見よ、わたしのしもべは栄える。
彼は高められ上げられ、きわめて高くなる。
多くの者があなたを見て驚き恐れたように、
その顔だちは損なわれて人のようではなく、
その姿も人の子らとは違っていた。
そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。
王たちは彼の前に口をつぐむ。
彼らが告げられていないことを見、
聞いたこともないことを悟るからだ。」
 
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。
【主】の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように芽生え出た。
砂漠の地から出た根のように。
彼には見るべき姿も輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。
 
彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほどに蔑(さげす)まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
 
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎(とが)のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒(いや)された。
 
私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、【主】は私たちすべての者の咎(とが)を
彼に負わせた。
 
彼は痛めつけられ、苦しんだ。
だが、口を開かない。
屠(ほふ)り場に引かれて行く羊のように、
毛を切る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。
 
虐(しいた)げとさばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことか。
彼が民の背きのゆえに打たれ、
生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、
富む者とともに、その死の時に設けられた。
彼は不法を働かず、
その口に欺(あざむ)きはなかったが。
 
しかし、彼を砕いて病を負わせることは
【主】のみこころであった。
彼が自分のいのちを
代償のささげ物とするなら、
末長く子孫を見ることができ、
【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
 
「彼は自分のたましいの
激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しいしもべは、
その知識によって多くの人を義とし、
彼らの咎(とが)を負う。
 
それゆえ、
わたしは多くの人を彼に分け与え、
彼は強者たちを戦勝品として和勝ち取る。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、
背いた者たちとともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、
背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ52:13~53:12)
 
 
 イエスが十字架刑で処刑された後の様子を、
マルコは次のように書いています。
 
さて、すでに夕方になっていた。
その日は備え日、
すなわち安息日(土曜日)の前日であったので、
アリマタヤ出身のヨセフは、
勇気を出してピラトのところに行き、
イエスのからだの下げ渡しを願い出た。
ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。
 
ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。
そして百人隊長を呼び、
イエスがすでに死んだのかどうかを尋ねた。
百人隊長に確認すると、
ピラトはイエスの遺体をヨセフに下げ渡した。
 
ヨセフは亜麻布を買い、イエスを(十字架から)降ろして
亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。
そして、墓の入り口には石を転がしておいた。
マグダラのマリアとヨセの母マリアは、
イエスがどこに納められるか、良く見ていた。(マルコ15:42~47)
 
 
 使徒パウロは言います。
私たちはこう考えました。
一人の人がすべての人のために死んだ以上、
すべての人が死んだのである、と。

 
キリストはすべての人のために死なれました。
それは、生きている人々が、
もはや自分のためにではなく、
自分のために死んでよみがえった方のために
生きるためです。~~
 
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
 
これらのことはすべて、神から出ています。
神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、
また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
 
すなわち、神はキリストにあって、
この世をご自分と和解させ、
背きの責任を人々に負わせず、
和解のことばを私たちに委ねられました。
 
こういうわけで、
神が私たちを通して勧めておられるのですから、
私たちはキリストに代わる使節なのです。
 
私たちはキリストに代わってお願いします。
神と和解させていただきなさい。
神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。
それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(Ⅱコリント5:14b~21)
 
 
 神は、罪を知らない方イエスを、罪として
十字架刑で処刑され、
そのイエスの死によって私たち、人間のすべてが
死んだものとされました。
 
そして、イエスの三日目の死人の中からの
新しいからだへの復活、
そして、もう一人の方、【聖である霊】と呼ばれる方が
私たちに派遣されることによって、
私たちの心に【父である神】の御思いを置き、
私たちのうちに【父である神】の御思いがあるようにし、
受け入れる者が【父である神】と思いを一つにして生きる、
新しく生きる道を開いてくださいました。
 
 
 私たちも、この百人隊長のように、
このイエスこそ神の御子であることを認め、神と和解し、
【聖である霊】と呼ばれる方をお迎えし、
神の御思いで生きる道へと進みたいものです。
 
私たち一人ひとりを「ベテル(神の宮)」としていただいて、
神が私を通してしようと思われることをしていく今日を生きて。
今日も。
 
      ~~~~~~~~~~~~~~
 
(聖書のことばへの疑問やご意見、
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また、婚活で広く出会いを求めたい
教会に行っていないけれど
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自分をののしる者の罪を背負い屠られる小羊として

2024-03-28 11:05:03 | 聖書から
正義は国を高める。
罪は民の恥となる。箴言14:34
 
イエスはそこを出て、
いつものようにオリーブ山に行かれると、
弟子たちも従った。
目的の場所に来ると、
イエスは弟子たちに、
「誘惑に陥らないように祈りなさい」
と言われた。ルカ22:39~40 
 
 説教/福音書:ヨハネ13:1~15、34~35
 使徒書:1コリント11:(17~22)23~26(27~29、33~34a)
 通読箇所:マルコ15:24~41 
    (ローズンゲン『日々の聖句』3/28;聖木曜日)
 
   ―――― α&ω  ――――
 
 イエスが十字架刑での死刑を受けられる前の晩の、
木曜日の夕食の席でのことを
使徒ヨハネは次のように記しています。
 
さて、過越しの祭りの前のこと、
イエスは、この世を去って父のみもとに行く、
ご自分の時が来たことを知っておられた。
そして、世にいるご自分のものたちを愛してきたイエスは、
彼らを最後まで愛された。
 
夕食の間のこと、
悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、
イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、
またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを
知っておられた。
 
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、
手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、
腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
 
こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、
ペテロはイエスに言った。
「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは彼に答えられた。
「わたしがしていることは、今は分からなくても、
後で分かるようになります。」
ペテロはイエスに言った。
「決して私の足を洗わないでください。」
イエスは答えられた。
「わたしがあなたを洗わなければ、
あなたはわたしと関係ないことになります。」
シモン・ペテロは言った。
「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。
全身がきよいのです。
あなたがたはきよいのですが、
皆がきよいわけではありません。」
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。
それで、皆がきよいわけではない」と言われたのである。
 
イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、
彼らに言われた。
「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。
そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
主であり、師であるこのわたしが、
あなたがたの足を洗ったのであれば、
あなたがたもまた、
互いに足を洗い合わなければなりません。
わたしがあなたがたにしたとおりに、
あなたがたもするようにと、
あなたがたに模範を示したのです。
  ~~~
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、
あなたがたがわたしの弟子であることを、
すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:1~15、34~35)
 
 
 そのあとイエスは弟子たちと一緒に
ゲツセマネの園へ行かれました。
「いつものように」とあるので、
イエスはよく、そこに行かれていて、
イスカリオテのユダもそのことをよく知っていたようです。
 
そして弟子たちに、
「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、
ご自分はさらに奥に進み、
これからご自身が受けようとしている十字架刑での死刑を、
できることなら過ぎ去らせてほしいと
父である神に祈られました。
 
「しかし、わたしが望むことではなく、
あなたがお望みになることが行われますように」と。
 
 
 そこへ、
ユダを先頭にやって来た人たちがイエスを捕らえ、
大祭司の家に連れて行きました。
そこでのサンヘドリン(最高法院)の裁判で
イエスを自分を神の子とし、神を冒涜した者として
死罪の判決を下しました。
 
当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、
相当の自治は与えられていましたが、
死刑を執行する権限は与えられていなかったため、
大祭司たちはイエスをローマ総督ピラトに引き渡し、
死刑を執行するよう要求しました。
 
ピラトはイエスに罪がないことを認め、
釈放しようとしますが、
群衆はイエスを十字架につけるようピラトに要求し続け、
暴動になりそうなのを見てピラトは
イエスに死刑判決を下し、兵士たちに引き渡しました。
 
兵士たちはイエスを、
ゴルゴダ(どくろの場所)に連れて行き、十字架につけた。
彼らがイエスを十字架につけたのは、午前9時であった。
イエスの罪状書には、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、
一人は右に、一人は左に、十字架につけた。
 
通りすがりの人たちは、
頭を振りながらイエスをののしって言った。
「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
 
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、
代わる代わるイエスをあざけって言った。
「他人は救ったが、自分は救えない。
キリスト、イスラエルの王に、
今、十字架から降りてもらおう。
それを見たら信じよう。」
また、一緒に十字架につけられていた者たちも
イエスをののしった。
 
さて、12時になった時、闇が全地をおおい、
午後3時まで続いた。
そして3時(神殿で過越しの小羊が屠られる時間)に、
イエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
訳すと「わが神、わが神、
どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。
 
そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。
「ほら、エリヤを呼んでいる。」
すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、
葦の棒に付け、
「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、
イエスに飲ませようとした。
しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
 
すると、神殿の(聖所と至聖所を隔てている)幕が
上から下まで真っ二つに裂けた。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、
イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。
「この方は本当に神の子であった。」
 
女たちも遠くから見ていたが、
その中には、マグダラのマリア、
小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。
イエスがガリラヤにおられたときに、
イエスに従って仕えていた人たちであった。
このほかにも、
イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちが
たくさんいた。(マルコ15:24~41)
 
 
 このようにして、旧約聖書で預言されていたとおりに、
【父である神】は、御子である方を木に掛けられ、
私たち、すべての人間の
創造の目的からの「的外れ」の責任を
イエスに背負わせて処刑し、
私たちの死刑が完了しているものとしてくださり、
【聖である霊】と呼ばれる方が私たちに来てくださる道を
開いてくださいました。
 
この方、【聖である霊】と呼ばれる方が、私たちの心に
【父である神】の御思い置き、書き記してくださって、
私たちのうちに【父である神】の
私たちそれぞれに関わる御思いがあるようにし、
私たちが【父である神】と思いを一つにして生き、
御思いのとおりに国に公義と愛をもたらすようにと。
今日も。
      ~~~~~~~~~~~~~~
 
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死ぬほどの、悲しみの道を行かれて

2024-03-22 10:43:56 | 聖書から
かつてあなたは地の基を据えられました。
天もあなたの手の業(わざ)です。詩篇102:26



天にあるものも地にあるものも、
見えるものも見えないものも、
万物は
御子において造られたからです。コロサイ書1:16



ヘブル書10:1、11~18
 マルコ14:32~42(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句3/22;金)



   ―――― α&ω ――――



 聖書を通しご自身を啓示している神、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)は、
地の基を据えられ、天、宇宙の星々を造られた方。



御子なる神は、「神のことば」として、
この天地、宇宙の創造に関わられた方なのですね。



「初めにことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神ととものおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、
この方によらずにできた物は一つもなかった」(ヨハネ1:1~3)
と書かれているとおりに、
天にあるもの、地にあるもの、万物は、
この方によって造られたのだそうですから。





 この、万物そして私たち人間を創造された方が、
私たちの贖(あがな)いの代価(身代金)として
自分のいのちを差し出すために、人間となって、
人間の世に来られたと聖書はいうのですね(マタイ20:28)。





 ヘブル書の記者はいま言す。
「律法には来るべき良きものの影はあっても、
その実物はありません。
ですから律法は、
年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって
神に近づく人々を、完全にすることはできません。



さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、
同じいけにえを繰り返し献げても、
それらは決して罪を除き去ることができませんが、
キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、
永遠に父なる神の右の座に着き、
あとは、敵が
ご自分の足台とされるのを待っておられるのです。



なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、
一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。



聖霊もまた、私たちに証ししておられます。
というのも、『これらの日の後に、
わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。

——主のことば—— 

わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、
彼らの思いにこれを書き記す』と言った後で、
『わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない』
と言われるからです。
罪と不法が赦されるところでは、
もう罪のきよめのささげ物はいりません。」(ヘブル10:1、11~18)





 イエスは、【父である神】の御思いに従い、
この、私たちの罪(神の創造の目的からの的外れ)の
罰金としてご自身のいのちを支払うために
十字架刑で処刑される道を進んでくださいました。



その様子をマルコは次のように記しています。

最後の晩餐(過越しの食事)をした後、
彼らはゲツセマネという場所に来た。
イエスは弟子たちに言われた。
「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。
イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
ここにいて、目を覚ましていなさい。」



それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、
できることなら、
この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。



そしてこう言われた。
「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。
どうか、この杯をわたしから取り去ってください。
しかし、わたしの望むことではなく、
あなたがお望みになることが行われますように。」



イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、
ペテロに言われた。
「シモン、眠っているのですか。
一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。
霊は燃えていても肉は弱いのです。」



イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
そして再び戻って来てご覧になると、
弟子たちは眠っていた。
まぶたがとても重くなっていたのである。
彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。



イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。
「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。
時が来ました。
見なさい。
人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。
さあ、行こう。
見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」(マルコ14:32~42)



 

 このように、
【神のことば】、【御子である神】と呼ばれる方が、
人間イエスとしてこの人間の歴史の中に来られ、
神が呪われた者となって十字架刑での処刑を受ける道を
歩んでくださいました。



私たちを、神が
「彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われるようにし、
【聖である霊】と呼ばれる方が私たちに来られて、
神の御思いを私たちの心に置き、書き記してくださって、
私たちのうちに【父である神】の御思いがあるようにし、
私たちが、〔生まれたときからの私〕という
自分から出て来た思いで動くのではなく、
この【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いで生きるようにするために。



それで私たちはこの新しい契約、
新しい生き方で進んでいくのですね。

今日も。



     ~~~~~~~~~~~~~~



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