朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

知恵のある、悟りのある偉大な国民に

2015-08-31 05:59:49 | 聖書から

主はモーセに言われた。

「あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。」出エジプト記34:10



 多くの人々はイエスの教えを聞いて、驚いて言った。

この人が授かったこの知恵と、

その手で行われるこの奇跡はいったい何か。

この人は大工で、マリアの息子ではないか。」マルコ6:2~3



        (ローズンゲン日々の聖句8/31;月)



 天の神、主が、モーセと共におられて、モーセを通して大いなる業をなされ、モーセと共に、確かに、生ける神がおられることを民に見せられたのだそうですね。




 イエスとその家族を、イエスの幼い時から知っている郷里の人たちは、イエスの語るその言葉、その知恵、道徳性の高さ、イエスを通して現される、病気の者、弱い者、打ちひしがれている者に対する愛の御業を見て、驚き怪しんだのだそうですね。
 ヒューマニズムの思想の発達した現代ではなく、今から4000年ほど前のこと、

天の神、主は、エジプトを脱出したイスラエルの民に命じておられるのですね。

「7年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。...
その免除のしかたは次のとおりである。
貸し主はみな、その隣人に(となりびと)に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。
そうすれば、あなたがたのうちに貧しい者がなくなるであろう。あなたがたの神、主が相続地としてあなたがたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。

~~~
あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、殻らがあなたを支配することはない。
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの内ででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。
あなたは心に邪念をいだき、『第七年、免除の年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。
必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練をもってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。
貧しい者が国の内から絶えることはないであろうから、わたしはあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』(申命記15:1~11新改訳) 




 このような思想を持つ方が、私たちに代わり、私たちのそむきの罪を背負って十字架刑で処刑されて下さったイエスの死を通して私たちの内に「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して下さって、「私の神」となって下さり、この方によって御自身のの御思いを、これを承諾する者の心に書き付けて下さり(エゼキエル36:26)、この方と一つ思い、一つ心になって生きていかせて下さるのだそうです。
今日も。










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向き直って、帰って来て欲しいのだそうです。あの方。私たちに。

2015-08-30 07:14:55 | 聖書から
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。マタイ25:40
      (今週の聖句)

 わたしは慈しみ深く、

とこしえに怒り続ける者ではないと、主は言われる。
ただ、お前の犯した罪を認めよ。
お前は、お前の主なる神に背いた。エレミヤ3:12~13


 主は、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、
あなたがたのために忍耐しておられるのです。Ⅱペテロ3:9
     (ローズンゲン日々の聖句8/30;日)

 天の神、主は、一人の乙女が一人の男と愛を誓い合い、心のすべてを互い人明かし合い、思いを一つにし、心を一つにしながら一緒に住むように、ご自身と思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者になって欲しいと私たち人間に願っておられるのだそうです。
 私たち人間は、始祖アダムが、その天の神、主との一つになることよりも、自分が神の一人のようになり、自分の理性の判断を神様の理性よりも優れたものにしようとし、自分一人で善悪を裁定する者になって以来(創世記3:22)、その性質を受け継いでいます。
 そのような私たちを、天の神、主は、なお、ご自身と一つになる者にと、求め続けていて下さるのだそうです。

 南ユダ王国のヨシヤ王(紀元前640~609在位)のとき、天の神、主は、預言者エレミヤを通して言われたのだそうです。

「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。
彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行った。
わたしは、彼女がすべてこれらのことをしたあとで、わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。
また裏切る女、妹のユダもこれを見た。
背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行ったのをわたしは見た。
彼女は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通をした。
このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。
――主のみ告げ――

 背信の女イスラエルは、裏切る女、ユダよりも正しかった。
行って、次のことばを北のほうに向かって呼ばわって言え。
『背信の女イスラエルよ。帰れ。
――主のみ告げ――
わたしはあなたをしからない。
わたしは恵み深いから。
――主のみ告げ――
わたしは、いつまでも怒ってはいない。
ただ、あなたは自分の咎を知れ。
あなたは自分の神、主に背いて、
すべての茂った木の下で、
他国の男と勝手なまねをし、
わたしの声を聞き入れなかった。
――主のみ告げ――
背信の子らよ。帰れ。――主のみ告げ――
わたしが、あなたがたの夫になるからだ。

その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、
彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る』」(エレミヤ3:6~14、18新改訳)と。

 
 天の神、主は、私たちを一人も失いたくないのだそうですね。
皆が、心を御自分のほうに向き直って帰って来るよう、裁きのときを遅くして待っておられるのだそうです。
 ご自分の側で用意した、イエスの十字架刑での処刑を自分自身の処刑と受け取り、すべての罪の処分が終わった者としていただき、もう一人の救い主、「聖である霊」と呼ばれる方を心にお迎えして、弱い者、小さい者を心に留め、思いやる、ご自身の思いと一つになって生きていってほしいとおっしゃっておられるのだそうですね。
この新しい週。


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赦す神は不公平?

2015-08-29 07:08:49 | 聖書から
あなたの同胞は言っている。
「主の道は正しくない」と。
しかし正しくないのは彼らの道である。エゼキエル書33:17

 私たちを誘惑に遭わせないでください。マタイ6:13

      (ローズンゲン日々の聖句8/29;土)

 エゼキエルを通して天の神、主はおっしゃっておられるのですね。
「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ ―― 

わたしは決して悪者の死を喜ばない。

かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。
悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。
イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか』」と。

続けて言われます。
「人の子よ。あなたの民の者たちに言え。
正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことができない。
悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。

 正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることは出来ない。
わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても、もし彼が自分の正しさにより頼み、不正をするなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、彼は自分の行った不正によって死ななければならない。

 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義を行い、その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義を行った彼は必ず生きる」(エゼキエル33:11~16)と。

 けれども、私たちには「この主の態度は公正ではない」と思え、天の神、主に、文句を言うのですね。

 イエスが教えて下さった祈り、「主の祈り」と呼んでいるものの中に、「誘惑に遭わせないでください」とあります。
いろいろな誘惑が来ますが、このような神様の態度を、「正しくない。公正ではない」と判断し、思う、その心からお守りくださいということも含まれているということでしょうか。

 サタン(悪魔)は、天の神、主の前で、私たちを告訴して言うのだそうですね。
「あいつは、こんなこともやっています。あんなこともやりました。だから、私たちがあなたの裁きに遭うのだったら、あいつもいっしょに罪に定められるべきです。そうでないとあなたの正義が立たないではありませんか」と。

 そのとき、父である神と呼ばれる方は答えてくださるのでしょうね。
「このわたしの右の座に着いているわたしの独り子を見なさい。

その手と足に開いている釘の穴、その脇腹の槍で突き刺された穴を見なさい。

これらの者の罪の罰のために、この私の独り子が代わって十字架刑で処刑されました。

だから、今、これらの者の罰は残っていません。
 これらの者は、わたしが遣わした「聖である霊」と呼ばれる方を迎え入れ、

この方によってわたしの思いを受け取り、わたしと思いを一つにして歩んだ者たち、わたしと一つになっている者たちです。
サタンよ。おまえがわたしと一つになっている者たちを告訴していることは、わたしを告訴していることだ」(黙示録1:7、5:6)と。

 だから、サタンの誘惑に乗って、天の神、主を、不公平だと思う心も、自分はこんなことをしたから、こんな自分だからもうだめだと思う心も、主の前に差し出し、見ていただき、知っていただき受け取っていただきながら歩みたいですね。



 また、天の神、主は、預言者イザヤを通して言って下さっているのだそうです。
「わたしは、高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、
砕かれた人の心を生かすためである。

わたしはいつまでも争わず、いつまでも怒ってはいない。
わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。
彼のむさぼりの罪のために、わたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。

しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。
わたしはくちびるの実を創造した者。
平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。
わたしは彼をいやそう」(イザヤ57:15~19)と。

今日も。








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無理矢理にではなく、自由意思で、自分から進んで帰って来て欲しいのだそうです

2015-08-28 00:20:49 | 聖書から
わたしは彼らを地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も、
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。エレミヤ書31:8
...

 主人は僕に言った。
「通りや小道に出て行き無理にでも人々を連れて来て、
この家をいっぱいにしてくれ。」ルカ14:23

      (ローズンゲン日々の聖句8/28;金)

 神の民と呼ばれながら、一心に、天の神、主に心を寄せているのではなく、なお、自分の理性を最善とし、その判断に従って、自分に都合のいい神々を慕っていく民。天の神、主は、アッシリアを用い、バビロンを用いてこれを打ち、国々に散らされたのだそうです。

 けれども、主は言われます。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた。
乙女イスラエルよ。
わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。
再びあなたはタンバリンで身を飾り、
喜び歌う者たちの踊りの輪に出て行こう。

見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、
地の果てから彼らを集める(エレミヤ31:3~4、8)」と。

彼らは、大集団をなして帰って来るのだそうです。
元気な者、屈強な者ばかりではなく、
目の見えない人や歩けない人、身ごもっている人、臨月の人も。
あの方は、やさしく、慰めいたわりながら連れ帰って下さるのだそうです。

 そして、その神の民と呼ばれた人たちだけでなく、今まで、契約とは縁がなく、神なく、望みなく生きていた、招かれていなかったはずの人々、ふさわしくないと思われていた人々も、街道や垣根のところから連れて来られるのだそうです。
礼服は、主人のほうで用意して下さって。

 「聖である霊」と呼ばれる方が、求める者を上からすっぽり覆って下さり、「天の父」と呼ばれる方の、一人ひとりに関する御思いを受け入れる者の心に思わせて下さって、「天の父」と呼ばれる方と思いを一つにし、行動を一つにし、存在をひとつにする天の御国での生き方を身につけながら。
今日も。


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弱さの場を、言い表し、とりなし合い、祈り合うようにしていただけるのだそうですね。

2015-08-26 23:48:45 | 聖書から
弱者を虐げる者は造り主を嘲る。箴言14:31



 パウロの手紙:

私の身には、

あなたがたにとって試練ともなるような事があったのに、

さげすんだり、忌み嫌ったりせず、

かえって、私を神の使いであるかのように、

また、キリスト・イエスででもあるかのように、

受け入れてくれました。ガラテヤ書4:14



        (ローズンゲン日々の聖句8/27;木)



 人間を造り、人間の住まいとしてこの大宇宙を造られた方は、

弱い者、貧しい者を特に心に留めていて下さる方なのだそうですね。



 天の神、主との一つになる関係を嫌がり、善悪を知る者、自分一人の判断で善悪を決めていく者になった私たち人間は、神の一人のようになろうとして、自分を全知、全能、永遠の存在にしようとするのですね。

自分が一番すぐれた者にならなければ気が済まないので、自分よりも弱い者を見ると安心し、自分の優位を見せつけるために弱い者をしいたげ、いじめるのでしょうか。
 けれども、弱い者をしいたげることは、その方を造られた造り主をあざけることになるのだそうです。




 使徒パウロがガラテヤ地方に入ったとき、パウロは、何か、身に弱さをもっており、しかもそれは、人々からさげすまれたり、忌み嫌われたりするようなものだったようですね。それにもかかわらず、ガラテヤの人々は、パウロが伝えるイエス・キリストに関わる「喜ばしい知らせ」をよく聞いて受け入れ、パウロを神の使いか、キリスト・イエスででもあるかのように接してくれたのだそうです。




 弱さの中にいる人、苦しんでいる人、病気の人、罪を犯している人、いろいろな弱さがありますが、互いに言い表し、互いにとりなし合い、祈り合う思いを来させて下さるのだそうですね。私たちの心にも。聖である霊と呼ばれる方(ヤコブ5:13~16)。
今日も。














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